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「炎の人ゴッホ」
Lust for Life


1956年・アメリカ
○監督:ヴィンセント=ミネリ○脚本:ノーマン=コーウィン○撮影:ラッセル=ハーラン/フレディ=ヤング○音楽:ミクトス=ローザ〇原作:アーヴィング=ストーン○製作:ジョン=ハウスマン
カーク=ダグラス(ゴッホ)、ジェームズ=ドナルド(テオ)、パメラ=ブラウン(クリスティン)、ジャネット=スターク(ケイ)、エヴェレット=スロー(ガシェ医師)、アンソニー=クイン(ゴーギャン)ほか




  タイトルで明白なように、有名画家フィンセント=ファン=ゴッホの伝記映画。邦題はごらんの通りだが、原題は「Lust forlife」で、「生への渇望」という意味。自殺しちゃったゴッホに対してこの題名はどうなんだろ、とも思うが原作小説を読んでみればそのへんの意味が分かるのかもしれない。

 主役ゴッホを演じたのは、この1950年代に各種映画で大活躍だったカーク=ダグラス。調べてみたら当時40歳で、ゴッホ自殺時の37歳に近いと言えば近い。メイクのおかげもあるんだろうが、その風貌もゴッホ当人にソックリになり、その激しいキャラを熱演して本人になりきっている。まさに俳優として乗りに乗っていたカーク=ダグラス、恐れ入ったことに2018年現在も100歳を超えてご存命である。

 ゴッホといえば後期印象派の代表的画家で、現在では最も名を知られた画家といってよく、その絵が途方もない高額で取引されることがニュースになるほど。しかし彼自身が生きている間はそこまで高評価されることはなく(最晩年にはいくらか評価はあったらしい)、貧乏な暮らしのまま、おまけに自身の耳を切り落とすといった奇行も起こし、最後はピストル自殺してしまうという、かなり悲惨な最期を遂げてしまっている。その激しいキャラクターは、描いた作品の方にも強烈な色彩と描画で反映されていて、「ゴッホ」というとその絵と作者とがセットになって語られやすい画家だ。画家を主人公とした伝記映画なんてそれほどあるとは思えないが、このゴッホは本作を含めて最近まで何本も作られているのもその表れだろう。

 映画は、意外にもプロテスタント教会の伝道師採用試験の場面から始まる。僕は知らなかったが、ゴッホは実は牧師の息子で、聖職者の道に進むことを望んでいた時期があるのだった。しかしこの映画冒頭の採用試験でゴッホはものの見事に落選してしまう。それでも彼の熱意が買われて、他の伝道師が行くのをいやがる、炭鉱の貧民街に仮伝道師として派遣されることとなる。この炭鉱町で労働者たちの過酷な生活を知ったゴッホは聖職者ぶることよりも彼らと厳しい生活を共にする道を選ぶという、彼なりにまじめな行動に出るのだが、これは教会の反発を招き(実際には地域の信者にも愛想をつかされたらしい)伝道師の道は絶たれてしまうことになる。

 聖職者の道をあきらめたゴッホに、その生活の支援をし続けることになる画商の弟のテオが、画家への転身を進める。作中で親戚の画家に絵を見せると感心される場面もあったから絵の才能はもともと持っていたのだろう。
 しかしゴッホは行く先々でトラブルを巻き起こしてしまう。まず従姉妹の未亡人ケイに激しい恋をし、拒絶されるとほとんどストーカーと化して手を火につっこむなど早くも奇行を見せ始める。続いて酒場で出会った子連れの娼婦と気が合って同棲をはじめ、ようやく精神的に落ち着くかとおもったら結局はケンカの末に分かれてしまう。気分を変えて妹の住む村に移ると、その毛皮をまとってうろつく変人ぶりから人々の噂を呼んでしまい、パリへと拠点を移すことになる。
 パリといえば芸術の都。ゴッホがパリに入ったころはちょうど「印象派」の台頭期で、マネ、モネ、セザンヌ、ルノアールなどが活躍中で、その大胆な色使いと筆使いにゴッホは衝撃を受ける。もっとも劇中でも「こんなのは芸術の破壊だ!」と騒ぐ保守的な批評家が多かったのも事実で、印象派(そもそもこの呼称ももともとは批判派の悪口に由来)もそう広く受け入れられていたわけでもない。余談ながら、これより少しあとの時代を舞台にする「怪盗ルパン」はよく絵画作品を盗んでいるが印象派の作品が出てきたことはない。まだ価値を呼んでなかったのだろうな。

 印象派の画家たちに刺激されて創作に打ち込むゴッホの前に、一見似たタイプの野生派に見える新進画家ゴーギャン(演;アンソニー=クイン)が現れる。アンソニー=クインもカーク=ダグラス同様大活躍の時期で(年齢も1歳差)、「野生的な男」の役と言えば彼だった。本作のゴーギャン役もハマっていて、アカデミー助演男優賞を受賞している。
 ゴッホとゴーギャンは意気投合し、南仏のアルルで共同生活をすることになる。先にアルル入りしたゴッホは、あとから(しぶしぶ?)やってきたゴーギャンのために、寝室にあの「ひまわり」の絵をいくつも描いて飾り(あとであれが大変な金額になるわけだよなぁ)、もう待ち続けた恋人を迎えるかのようにウキウキと大歓迎の準備をするシーンが印象的だ。すぐにも絵画論を戦わせようとするゴッホに対し、ゴーギャンは「俺はきれい好きなんだ」と散らかった部屋に呆れ、なおかつゴッホの作る料理にも呆れかえる。ゴッホにも言われてしまうがゴーギャンも妻子を放り出すなどかなりの性格破綻なゲージツ家なのだが、その彼でさえゴッホには参ってしまう。愛情余って憎さ百倍、二人は何度かの衝突の末に「別居」となり、ゴッホは自身の耳を切り落とすという奇行を起こして、以後精神的な発作を繰り返すようになってしまう。
 このゴーギャンとのくだりもほぼ史実どおりなのだが、この映画のように立て続けで見ると、ゴッホには気の毒だが、この人、人を好きたい、好かれたいと思って、かえって相手を辟易させてしまうというパターンを繰り返していて、正直関わり合いになると厄介なひとだなあと思うばかりだ。

 事件後、精神病院での療養を経てパリのテオの家にやってくるゴッホ。さすがに自分がゆく先々で人を不幸にしてるとの自覚はあって、弟夫妻に対してはおとなしくしてる。テオは画商として商売しつつ、なんとか兄の絵を売り込もうとガンバッてるが周囲からは冷ややかに言われるだけ。おかげでテオの家の中はゴッホの絵ばかりたくさん壁に飾られてる状態で…これがあと100年もしたら全部でとんでもない金額になっちゃうわけだけど。それでもこの映画のセリフであるようにこの時期一部で評価が出て来てポツポツと売れるようにはなっていたようだ。

 ゴッホはパリを離れ、オーヴェールのガシェ医師のもとで絵をかきつつ療養する。「ガシェ医師の肖像」そのまんまのメイクの役者さんが出てくるのも見どころ。そしてこの地でゴッホは麦畑にカラスが飛ぶ場面を描いているうちに発作を起こし、ピストル自殺をはかることになる。このシーンが有名になり、「烏のいる麦畑」がゴッホ自殺直前の作品、絶筆と思われるようになってしまったが、実際にはそんなことはない。ただこの絵が死を予感させるような不安感を漂わせているのは事実。

 この絵で思い出すのが、黒澤明監督の「夢」の一篇だ。美術館でゴッホの絵を見ているうちにその絵の中に入ってしまった主人公が、片耳を切り落とした直後のゴッホに出会う話で、映画監督のマーティン=スコセッシがゴッホを演じて話題になった。当時スコセッシ演じるゴッホがいきなり英語で話すのは残念だなぁと思ったものだが、カーク=ダグラスもそうだったんだよな。そして「夢」のゴッホも死に向かって生き急ぐかのように絵を描き、ラストに出てくるのがやはり「烏のいる麦畑」で、そこでゴッホの死が暗示される。これも「炎の人ゴッホ」の影響なんだろうか。

 もっとも、黒澤明が当時「過去に画家を描いた映画はあるが、画家の本質に迫れた映画はない(少ない?)」という発言をしていて、どうもこれが「炎の人ゴッホ」を指してるように思えるところがあった。黒澤明自身がもともと画家を志してゴッホを思わせる筆致であることから一定の説得力はあって、実際僕もこの「炎の人」を見ていて、カーク=ダグラス演じる主人公に「画家」を感じるところが少なかった。映画中でダグラスが実際に絵をかいてる場面も少ないし、映画全体がゴッホの「行く先々でトラブルメーカー」ぶりに焦点を当ててしまったため、なぜ彼がああした絵をかくことになったのか、というところまでは(映画で表現はしにくかろうが)描けなかったように思う。

 映画のラスト、兄の死に立ち会ったテオは「かわいそうに」とつぶやく。ゴッホもまたこれでようやく苦しみから解放されるという感じで死んでゆく。そんな恵まれない人生だったゴッホがあんな作品やこんな作品を…とその絵画群を映し出して映画は終わるのだが、正直なところ「困ったチャン一代記」以上の感想は抱かなかったな。「天才」というのはそういうものかもしれないが、死後に高く認められるようになるその作品がいかに生み出されたかについては映画は語ってくれない。大きな創作もなく丁寧なつくりの伝記映画だとは思うんだけど。(2018/7/8)




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