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「半次郎」

2010年・「半次郎」製作委員会
○企画:榎木孝明○監督:五十嵐匠○脚本:丸内敏治・西田直子○撮影:阪本善尚○音楽:吉俣良
榎木孝明(中村半次郎)AKIRA(永山弥一郎)白石美帆(さと)田中正次(西郷吉之助)津田寛治(別府晋介)坂上忍(村田新八)北村有起哉(大久保一蔵)雛形あきこ(藤)竜雷太(村田屋伊兵衛)ほか


 

  僕が榎木孝明という俳優を初めて意識したのはNHK大型時代劇「真田太平記」が最初(その前に朝の連ドラ初の男性主役をやってるが当時は見てない)。作中ハチャメチャな行動をとりまくるトラブルメーカー・樋口角兵衛役をこの榎木さんが演っていたのだ。子ども心にこのトラブルメーカー役は結構面白く見えたものだが、大人になってから原作も読み、DVDでドラマを再鑑賞すると榎木さんはちとミスキャストだったかもしれないな、と思うようになった。榎木孝明という俳優はその整った面立ちからも、どちらかといえばおっとりした、知性的な役柄が似合っているように思えたからだ。真田がとれたほうの「太平記」(大河ドラマ)でお公家さんの役を演じているが、こっちのほうが明らかにハマっている。
 話を戻すと、「真田太平記」の次にこの人が出てるのを見た映画が「天と地と」。当初渡辺謙主演で撮影されていたが病気降板となり、代役として榎木孝明が起用されたのだ。このとき映画のパンフレットで「“ぼっけもん”の気持ちで臨んだ」と語っていて、これで僕は「ぼっけもん」という鹿児島弁を知った。鹿児島弁で「いい意味での単純バカ」を意味するそうだが。

 さて本作「半次郎」はその榎木孝明氏自身が企画・主演して映画化にこぎつけた一本。主人公は中村半次郎。幕末には「人斬り半次郎」として知られ、明治には桐野利秋と改名して軍人となり、西郷隆盛に従って下野、西南戦争では中心的役割を果たして西郷ともども散っていった人物だ。幕末を扱った映画やドラマで登場することも多く、僕が見たものでは三隅研次監督の遺作「狼よ落日を斬れ」(1974)の緒形拳、大河ドラマ「翔ぶが如く」(1990)での杉本哲太が印象に残っている。
 脇役として登場する例は多い中村半次郎だが、映画の主人公にするのはこれが初めてだろう(小説なら何作かある)。榎木孝明が半次郎にどうしてそこまで惚れこんだのかは分からないが、まだ映画の主役にされていない幕末有名人に目を付けた、というところはあったかもしれない。

 中村半次郎=桐野利秋が人気を得るところがあるとすれば、ひたすら西郷に忠実に従って西南戦争に殉じた、という「悲劇の忠義者」というイメージにあるだろう。ただ僕は司馬遼太郎の小説「翔ぶが如く」の影響もあって、乗り気でない西郷を強引に挙兵に引っ張り出し、甘い観測で戦略的失敗を重ねて西郷にも不信感を抱かれ、敗色濃厚になってくるとひたすら「敗者の美学」に走っていくという、西南戦争の実質的指導者でありながらかなり困った人、というイメージを抱かされてしまっている(深読みすると司馬は戦時中の軍人たちのイメージを重ねているのかもしれない)。いろいろ調べていくとそう単純バカな人でもなかったらしいのだが、一本の映画の主役とするには難しいキャラクターであるとは思う。
 映画にするのならいっそ徹底的にワルっぽく、ダーティに描くと面白いかも、と思ったのだが、主演にして企画者があの上品な榎木さんなので「それはなさそう」とハナからわかった。実際に映画を見てもそれは予想通りで、かなり「行儀のいい剣客」の半次郎になってしまった感じだ。

 映画はクライマックスとなる西南戦争の戦場から始まり(生涯を2〜3時間でまとめねばならない映画では定番のやり方)、そこから回想に入って下級武士である若き日の半次郎(若づくりな榎木さんであるが、やはり二十代は無理があるような…)が西郷吉之助(隆盛)に出会うくだりが描かれる。初対面でいきなり「義のために死ぬにはどげんしたらよかとですか」などと哲学的難題を問う半次郎クン(笑)。当時の若い武士、とくに薩摩武士が自分の命を軽んじる傾向があったのは確かなんだろうけど、初対面でこの質問はないんじゃないか。最終的に西郷と一緒に死ぬから作られたセリフだろうと察せられるけど、この映画、全体的にこういった最初から決まっていたような「運命的」やりとりが目につく。映画は作りごとであり芝居であり作為が入るのは当然なんだけど、それに「芝居くささ」を感じてしまうのは困りもの。

 その後、京都に上った半次郎は剣の腕で名を知られ、自分が斬った男の遺髪を長州藩邸に届けたり、煙管屋の娘・さとと恋に落ちた(恋人との写真が残っているというのは実話らしい)、AKIRA演じる永山弥一郎と友情を結んだりといったエピソードが羅列されてゆく。このあたり、定番と言えば定番なんだが、永山の唐突な登場といい「羅列」という印象がどうしても強い。この「京都編」の最後に鳥羽伏見の戦いが描かれるのだが、新撰組らしき武士を斬り伏せる程度で「予算の事情」がしのばれる戦闘シーンになっていた。

 そして映画後半は「明治編」。面倒なところは一気に飛ばして(征韓論もまともにやると面倒くさいからな)西郷の下野に行ってしまう。陸軍少将・桐野利秋となった半次郎は政治状況に嫌気がさして酒と女に溺れ(色っぽい愛人役を雛形あきこが演じていて、出番は短いながら妙に印象に残る)、かつての真摯な輝きを失ってしまい、訪ねて来た元恋人・さとにも叱られる始末。そんなところへ西郷下野の事態となり、半次郎は西郷と共に鹿児島へ帰る。
 その後は西南戦争の展開になっていくのだが、この映画での半次郎は思いのほか消極派。また戦争が始まっても指導的立場にはなく、なんだか一兵卒レベルのようにすら描かれる。村田新八や篠原国幹ら西郷の部下たちもここで急に登場し何の説明もないまま重要人物化してしまう。西南戦争全体の展開も(予算の都合だろうが)2、3の戦闘だけでアッサリと処理しちゃうため、何が何だか分からないうちに永山弥一郎の死、そして城山での西郷の死が描かれてゆく。

 そして最後には当然半次郎も戦死する。「死にどころ」を得たということなのか、不完全燃焼の東京生活に比べればずっとマシ、という感じで死んで行くんだけど、どうしても単なる無駄死にという気が…この映画を作るのに尽力し、主演した榎木さんのコメントを見ると目的もなくぶらぶら生きてる現代人に比べて半次郎は…みたいなことをテーマにしたいらしいのだが、映画を見た感想としては彼もまた目的もはっきりせずフラフラと思いつきで行動していたように見えちゃうんだよな。どうも昔の人のやったことはみんな「大事業」に見えてしまうという歴史観を持つ人は多いのだが、僕に言わせるとどの時代でもみんな先行きが見えず、混迷の中で悩みながら流れに流されている、というのが実態なのだ。
 半次郎が戦死した時、その体からフランスものの香水の香りが漂っていた、という映画のラストは史実。その史実からさかのぼってその香水と恋人「さと」とつながりが創作されている(この手の「さかのぼり創作」は同監督の「長州ファイブ」でも見られる)。ま、それはそれで上手い締め方だとはおもうのだが、そこに「さと」本人が駆けつけてきちゃうってのはマズイでしょ。戦場の真っただ中に唐突に飛び込んで来られちゃ、作り手は感動のラストのつもりなんだろうけど、僕は思い切りシラケてしまった。

 作り手の意気込みの割に(意気込んだからこそ?)空振りしている、というのがこの映画の印象。なまじ半次郎を動乱の時代に目的意識をもってしっかり生きた人間、みたいに描こうとしたことで実態とのギャップがでちゃった、というところもあると思う。正直なところ半次郎が主人公である必然性を感じないほどだ。
 最後に、重要人物の一人である西郷隆盛を演じたのは全くの素人の会社社長さんとのこと。一般公募のオーディションで、外見が良く似ているということで採用になったみたい。深読みすると西郷役を任せられる大物俳優を呼ぶ予算が…ということなのかもしれないけど、この社長さん、確かに雰囲気はよく出ていて、幸い西郷は無口でほとんどセリフがないこともあり、違和感はほとんど感じなかった。(2011/9/25)




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