映画のトップページに戻る

「火の鳥」

1978年・東宝・火の鳥プロダクション・東宝映画
○監督:市川崑○脚本:谷川俊太郎○撮影:長谷川清○音楽:深町純○美術:阿久根巌○特技監督:中野昭慶○原作・アニメ監修:手塚治虫○アニメーション演出:鈴木伸一○製作:市川喜一/村井邦彦
若山富三郎(猿田彦)、尾美としのり(ナギ)、高峰三枝子(ヒミコ)、江守徹(スサノオ)、大原麗子(ヒナク)、林隆三(グズリ)、由美かおる(ウズメ)、草刈正雄(天弓彦)、仲代達矢(ジンギ)ほか




  以前から「名匠・市川崑の伝説的不出来作」として耳にはしていた怪作である。あまりの不出来ぶりに市川崑自身が試写会で呆れたとか、手塚治虫に直接わびたとかいう伝説もある(もっともこの「わびた」件については手塚側の発言であって市川崑は否定してるらしい)。とにかく酷評され興行的にも失敗し、以後もソフト化は一切されない封印状態に。数年前にCSで放映されたことがあるらしいが、とにかく「幻の珍作」として名高く、一度は見てみたいもんだと思いつつその機会が得られなかった。ところがこのたび「歴史映像名画座」改修工事のためにあれこれネットをさまよっていたら偶然この映画を見る機会を得てしまったのだ。詳しいことは書けないが、僕にはまったく読めない文字による字幕が愛をこめてつけられていた、とだけ。

 原作は「火の鳥」の第一作、「黎明編」である。シリーズの冒頭を飾る作品で、邪馬台国と卑弥呼の時代が扱われ、そこへ大陸から騎馬民族がやって来て大和朝廷の築き(ひところ信奉者が多かった「騎馬民族説」ね)、「日本」が建国されるという内容。「火の鳥」はどの編もそれぞれに名作なのだが、この「黎明編」と「鳳凰編」はとくにストレートな「長編ストーリー漫画」となっていて、僕も初めて読み終えた時に「なんだか映画を一本見たような」感慨をもったのを覚えている。これはいい実写映画になりそうだ、と思いつく映画人は多かったろう。
 その実写映画化に挑んだのが、映像テクニシャンとして名高い市川崑である。もともとアニメーター出身ということもあり、細かいカット割とか時間を入れ変えた巧みな編集、絵画的な画面つくりなど、言われてみればストーリー漫画的な映画作りをする人である。以前から「火の鳥」実写化を熱望していたとの話もあり、いい組み合わせと思った人も多いだろう。特に1970年代の市川崑は「犬神家の一族」を初めとする「金田一耕助シリーズ」を大ヒットさせていたころで、まさにノリにノッていた(そういや「ブラックジャック」に「猫神家の一族」ってのがあったな)。この「火の鳥」にもオープニングの縦横自由自在のクレジット表示、分割画面、たたみかけるカット割りなど、「金田一シリーズ」そのまんまの演出が随所に見られる。
 その市川崑監督ということで、そろった出演者も豪華。若山富三郎高峰三枝子大原麗子草刈正雄仲代達矢大滝秀治…と、金田一シリーズ出演者も多い。有名原作、乗りに乗る名監督、豪華出演陣…と、これだけ好条件がそろえばヒットは確実に思えるが、見事にコケた。そりゃもちろん、とんでもないひどい作品でもヒットしちゃうことはあるし、素晴らしい作品でも不入りに泣くことはある。だがこの「火の鳥」は、監督も含めて関係者が「封印」してしまったほど、「なかったことにしたい」出来になってしまったのだ。これだから映画というものは分からない…かつ、面白い(笑)。


 それでも最初は面白そうなのだ。原作通りではなく最初に登場するのは天弓彦(演:草刈正雄)。火山地帯に姿を現した弓彦とスサノオ(演:江守徹)が顔を合わせ、彼らが狙う「火の鳥」がアニメ合成で早くも登場する。原作にはないシーンだが、導入部分としてはこういう改変はアリだろう。この映画ではスサノオのキャラが原作より重みを持たされているので、冒頭に出てくるのは効果的と言えば効果的。ところで草刈正雄はこれより先に作られた篠田正浩監督の映画「卑弥呼」でも似たようなキャラで登場していて、そちらでも似たような火山地帯シーンで登場するため、両者を見ていると非常に紛らわしい。
 その場面から、今度は騎馬民族がマツロ国を滅ぼす場面にいきなり飛ぶ。原作では後半にならないと登場しない彼らだが、映画ではさっさと登場させ、ヒロインの一人であるウズメがブスに変装するくだり(原作ではセリフだけで済まされていた)が描かれる。騎馬民族を率いるのは仲代達矢演じる「ジンギ」。原作では「ニニギ」と名乗りつつ、実態としては神武天皇というキャラだったが、映画化にあたっては差しさわりもあったのか二つの名前をミックスしたオリジナルの名前に。それでも仲代達矢の雰囲気はまさに原作そのまんまで、原作ファンは今後の展開に期待を抱いてしまう。

 そこからあとはクマソの村に移り、少年主人公のナギ(演:尾美としのり)も登場して原作そのまんまの展開になってゆく。ところがこの「原作そのまんま」というところがかえってこの映画を妙なものにしてゆくのだ。破傷風で重体となったヒナクをグズリが治すシーンで、村の医者(というより呪術師か)たちの「治療法」――お尻を火であぶり、オタマジャクシを飲ませる、というアレ、あれをそのまま実写で見せてしまうのだ。特にオタマジャクシのくだりはギャグととるべきなんだけど、それをそのまんまその通り実写で見せてしまうあたりで、なんかこの映画は「ヘン」なんじゃないかとの不安が頭をよぎるのだ。

 このあとクマソの村を猿田彦(演:若山富三郎)率いるヤマタイ国軍が襲撃し、ナギがヤマタイ国へと連れてゆかれる。そして狼たち相手に弓の特訓をさせられる場面になるわけだが――本物の狼たちに演技がつけられるわけもなく、この場面はTVドラマ「バンパイヤ」を思わせる「アニメ&実写合成」が使われている(アニメを担当したのはトキワ荘住人で「小池さん」のモデルとして知られる鈴木伸一氏)。目玉だったはずの「火の鳥」との合成は実はほとんど実現してなくてアニメと実写のカットバック編集でごまかされてるんだが、この狼との戦いの場面だけは妙に力の入った合成が実現していて、若山富三郎がアニメの狼を真っ二つに切り裂くカットなんかはそこそこ見ごたえがある。
 さて原作でもこの場面、手塚流のギャグがふんだんに盛り込まれていて、狼たちが「映画型」「カブキ型」「赤塚不二夫型」「グラン・プリ型」「ミュージカル型」「デモ型」など(角川版では「ファミコン型」に代えられていた)、次々とヘンなスタイルで襲いかかって来るのだが、映画でもそのノリを出そうとしたらしく、狼二匹がいきなり「UFOッ♪」と踊り出すカットがある。当時大流行だったピンク・レディーの物まねである(笑)。当時ならそこそこ受けたのかもしれないけど、正直なところ一応シリアスな場面だけにあっけにとられた人の方が多かったんじゃないかと思う。

 その特訓のあと寝込んでしまったナギを救おうと猿田彦が薬を調合して無理やりナギの口に押し込む場面はまさに原作そのまんま。その薬のコナが鼻に入って猿田彦が壮大なクシャミをし、それにナギが吹っ飛ばされて(明らかにワイヤーで引っ張られた不自然な飛び方をするんだよな)近所の家数軒をブチ抜いてしまい、近所の人から「猿田彦さん、深夜の騒音はやめてください!」と怒鳴られる。この展開をホントにそのまんま実写でやってしまうから驚いた。猿田彦といえば、原作の通り蜂の穴に入れられてデカ鼻になってしまうのだが、若山富三郎に作り物のデカ鼻を実際につけさせると違和感バリバリで、コントをやってるようにしか見えない。
 後半、ナギと猿田彦が初めて馬を目撃し、ナギがそれに乗ろうと悪戦苦闘する場面も凄い。原作では馬に吹っ飛ばされたナギが空中でUターンして執念で馬にまたがるという展開なのだが、実写ではここでなんとナギは鉄腕アトムに変身し、「空を越えて〜♪」のあのテーマ曲と共に飛んで戻って来るのである!そーいえば、脚本を担当しているのはそのアトム主題歌の歌詞をつけた谷川俊太郎なのだ!
 まさに手塚流ギャグの再現なんだけど、実写でやると物凄く浮いてしまい、見ている方は唖然とし、当惑するばかり。漫画だと普通に笑って流して読めるのだが、映画だとなかなかそうはいかない。つくづく映画と漫画の表現技法は似て非なるものなのだと思い知らされる(まぁ単にセンスの問題という気もしなくはないが)。シリアスな作品にもしばしばギャグを入れる手塚作品だが映像化にあたってはギャグはカットするのが通例で、「火の鳥」でも「ヤマト編」が原作の大半を占めるギャグを全てカットしてアニメ化されているのだが、この映画を見ているとやっぱりそれが映像作品としては正解なのだと納得した。

 漫画をそのまんまなぞったシーンがかえってシラケを呼んでしまっているのだが、映画オリジナルの部分もかなりヘン。高峰三枝子演じるヒミコの、老いへの恐怖から不老不死の火の鳥を求める切迫感は原作よりも描き込みが多いのだが、魏から授けられた金印が重大な意味を持たされている。ヒミコがもう先が長くないと見て側近の女官(これがイヨということらしい)がその金印をあずかろうとすると、激高したヒミコがその巨大な金印を女官にガーンと押しつけ、女官はおでこに「親魏倭王」のハンコを捺印された状態で死んでしまうのだ。マジメに象徴的な意味を持たせたシーンのつもりなんだろうけど、先述の「UFO」よりはよっぽど笑える場面になってしまったのが困りもの(笑)。市川監督、この金印の使い方がよっぽど気に入ったのか、ヤマタイ国滅亡の際にもヤマタイ国の重臣を演じている大滝秀治が錯乱状態でこの金印を自分の顔に押しまくるという、これまたギャグにしか見えない場面もある。

 このほかにもナギと一緒にヒミコ暗殺未遂に関わる友人が実は女の子だったりとか(「どろろ」じゃないんだから)、盲目になったスサノオが騎馬民族相手を道ずれに斬り死にする場面とか(原作の「座頭市?」のギャグを実際にやってしまった?)、映画オリジナルの部分がいくつかあるのだが、これがいずれも無意味に終わり、なんでそんな脚色をしたのか理解に苦しむ。
 肝心の火の鳥にしても、アニメと実写の合成が中途半端なだけでなく、天弓彦に射られたあとなどは合成が根本的に無理だったようで、全て安っぽい作り物で光すらしない。クライマックスのジンギ率いる騎馬軍団とヤマタイ国の攻防戦も、ほぼ原作どおりながら人馬の動員が明らかに少なく、実写のくせに漫画ほども迫力が出せてないのが痛すぎる。「草ボール」の中に入らされる兵士たちが「いやだ〜」とかわめいたりするところに原作にない味もあったりするのだが…

 ストーリーは確かに原作にほとんど忠実であり、漫画の場面場面も実写で再現はしているのだが、なぜこうもつまらない映画になってしまったんだろう?全体を見ての印象ではそれらシーンがてんでんバラバラで、映画として一本通してるものがないからじゃないかと思う。市川崑も好きな漫画の実写化ということで中途半端に原作に敬意、あるいは遠慮をしてしまったのか…作ってる方もいろいろ混乱状態だったのではなかろうか。名匠と呼ばれる映画監督がとんでもなくヘンな映画を作ってしまった例は少なくはないのだし。

 特撮スタッフとして参加している中野昭慶さんのインタビュー本を読んでいたら、「火の鳥」についても触れており、「これで市川監督と仕事をしていなかったら『竹取物語』はなかった」と言いつつも(あっちもかなり微妙な出来だと思いますが…)、本作の「スケール感の乏しさ」を指摘はしている。市川崑という監督は、狭くまとまった世界の話だと腕をふるえるが、「壮大なスケール」といったものは苦手なんだろう、といった趣旨の発言があり、市川作品を振り返ってみればなるほど納得するところもあった。それを言っちゃオシマイだが、そもそもこの監督には不向きな作品だった、ということなんだろう。(2013/8/15)




映画のトップページに戻る