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「キングダム・オブ・ヘブン」
KINGDOM  OF HEAVEN
2005年・アメリカ
○監督:リドリー=スコット
オーランド=ブルーム(バリアン)シビラ(エヴァ=グリーン)ジェレミー=アイアンズ(ティベリウス)リーアム=ニーソン(ゴッドフリー)エドワード=ノートン(ボードワン4世)ハッサン=マスード(サラディン)ほか




 このところハリウッドが歴史大作を連打してくる。歴史を素材にした映画はそれこそ映画創生期からあったものだが、物量を動員した「歴史スペクタクル」そのものがやたらに作られた時期というのはそう多くはない。かつてTVの普及が始まった時期に劇場大画面の利点を生かそうと聖書ネタを中心に歴史大作が連打された時期があったが、現在の「連打」は「グラディエーター」あたりから始まったCG導入によるスペクタクル描写の成功という面が大きいだろう。まぁその「グラディエーター」からしてストーリー自体は往年の映画「ローマ帝国の滅亡」の焼き直しであるわけで、映画の題材なんてめぐりめぐって以前のネタの使いまわしに戻ってくるってことでもあるのだが。

 その「グラディエーター」の監督だったのが本作の監督のリドリー=スコット。そして本作で初主演を務めるオーランド=ブルームは、歴史大作風味のCGスペクタクルもあった「ロード・オブ・ザ・リング」、そしてやはり古典モノの復活である「トロイ」「パイレーツ・オブ・カリビアン」に立て続けに出ているわけで、この監督・主演の組み合わせで「十字軍」というのはナカナカに象徴的な企画であるなぁと初めて聞いた時は思ったものだ。

 それにしても題材はあの十字軍だ。今でも某国のラズベリー主演賞受賞の大統領がうっかり口にしてヒンシュクを買ったりしたこともあるが、デリケートな素材を選んだものだなぁとは思う。言うまでもなく十字軍とは中世ヨーロッパにおいてローマ教皇の指令で聖地エルサレムをイスラム教徒から奪い返す(奪い取る)べく何度と無く発せられた各国混成の軍団。宗教的熱狂がその原動力にあったことも否めないが、その実質は当時の文化的先進地域であり経済的にも豊かだったイスラム圏への侵略・殖民・掠奪活動であり、第四次十字軍みたいに同じキリスト教徒であるはずのビザンツ帝国のコンスタンティノープルに攻め込んだ例もあるなど、正直言って褒められたもんじゃなかったことは高校世界史レベルでも「常識」と言っていいだろう。
 十字軍を素材にした映画も過去に何本か製作されたことがあり、僕は未見だがこの「キングダム・オブ・ヘブン」に出てくるリチャード獅子心王とサラディンの対決などは何度か素材にされているようだ。十字軍時代当時においてもヨーロッパ人から尊敬されたサラディンはともかくとして、やはりイスラム教徒は悪役に描かれる西洋中心史観な作品が多かったことも否めないらしい。しかし20世紀も後半になってくると欧米でもこうした歴史観への反省は進み、よりあとの時代の植民地獲得や帝国主義ともども十字軍も否定的に見なされるようにはなってきた。

 最近ではドイツで製作されたTV用映画で、日本ではDVDのみでリリースされた「クルセイダーズ」という映画があった。この映画、僕はカットバージョンで見たのだが正直なところ駄作としか思えず…最近の十字軍観をきちんと反映して侵略者・略奪者として描き、イスラム教徒を先進的な文化として描くなど多くの配慮があり、その点については好感を持ちはしたが、「気を使いすぎた」面も否めず、それがドラマとしての面白さを大きく損なってしまっていると感じた。とにかく主人公達の行動が行き当たりバッタリにしか見えず、宗教間の和平を訴えたり同じキリスト教徒の侵略に抗議を示しながら、結局あっちについたりこっちについたりで攻防戦に参加しちゃってるところが理解不能だった。ラストもとってつけたような感じだったし…やっぱりヨーロッパ人としては「十字軍」は現在いろんな面で扱いにくく、それが脚本家の混乱を招いてしまったんじゃなかろうか。
 そういう前例もあったのでこの「キングダム・オブ・ヘブン」もどうなることか不安もあったのだ。今さら十字軍の正当化が出来るわけはないからその点の不安はなかったが、きちんと「映画」になるのかどうか危ぶまれるところはあった。

 さて実際の映画の内容だが…
 残念ながら、というべきか、この映画も先述の「クルセイダーズ」同様に話の展開に行き当たりバッタリとしか思えないところが多い。とくに前半でそれがはなはだしい。
 主人公バリアン(オーランド=ブルーム)はフランスの田舎で鍛冶屋をしている青年。最近子どもを亡くし、妻まで嘆きのあまり自殺してしまった。自殺した人間は来世で救われることはないとされ、遺体も損壊されてしまう。そこへ十字軍から帰って来た騎士ゴッドフリー(リーアム=ニーソン)がいきなり訪ねてきて、「私はお前の父親だ」と唐突に告げる。思わず「ダースベイダーかよ」とツッコミを入れてしまったが(ニーソンもジェダイの騎士役だっただけに)、一緒にパレスチナへ行こうという父親の誘いをバリアンはいったんは断る。ところが直後にバリアンは妻の遺体から十字架を奪った村の聖職者を怒りの余り殺害、結局父親のあとを追いかけ合流する。父親とその部下から剣術なんか習っているところへ、追っ手がやって来て大乱戦。なんとか勝利はするのだが多くの部下が戦死し、ゴッドフリーも致命傷を負ってしまう。この戦闘シーン、妙に気合が入っているのが展開からいうとかなり不自然だし、その割にあっけなく大物が死ぬことになっちゃうし…というかバリアン一人の勝手な行動であまたの人間が無駄死にしてる気がするんですが
 どうにか聖地へ渡る船が出るメッシーナの港町にたどりつくが、ここでゴッドフリーは死ぬ。ゴッドフリーは息子バリアンを騎士に任じ、主君であるエルサレム王国国王ボードワン4世と共にキリスト・イスラム両教徒が共存する「天の王国」(これが題名の由来)を実現してくれるよう言い残す。リーアム=ニーソンの出番はここでオシマイ。一応重要な役どころではあるだろうけど、あまりにあっけないのも確か。どうもこの前半はエピソードを大幅に削られてるんじゃないか、って気もする。

 いよいよ聖地に向けて海に乗り出すバリアン。ところが嵐にあって船は粉々となって難破。どういうわけかバリアンと馬一頭だけが助かる。上陸して砂漠の中を彷徨い、オアシスに来たところでイスラム教徒と遭遇、決闘して一人を倒しもう一人に道案内させてエルサレムへ入城、ウロウロしていたら父親の刀を持っていたことから父親の部下達に認められてボードワン4世(エドワード=ノートン)に謁見、父親の領地に入って井戸掘りに熱中…とまぁこの辺で前半のドラマが終わる。こうやって書くとえらく波乱万丈な展開なんだけど、映画はいたってフツーに描写してあれよあれよと言う間に展開して行っちゃう。一応その後への伏線も含まれているんだけど、嵐にあって難破する展開はまるっきり不要だったと思うのだが…?

 バリアンがやって来たエルサレム王国は第一回十字軍が征服した現地に建国したキリスト教国家なのだが、国王ボードワン4世はイスラムの英雄サラディン(ハッサン=マスード)と和平を結び、エルサレムではキリスト教徒もイスラム教徒も平等に扱われていた(実際どうだったかは知らないが、少なくとも映画ではそう描かれる)。ボードワンはイスラム教徒を迫害した罪でキリスト教徒を処刑するなど、積極的に両教徒融和に努める国王として描かれ、またハンセン氏病に冒されて常にマスクをつけているなど(これは史実だったらしい)、かなり理想的かつ個性的なキャラクターとして描かれる。美味しい役ではあるのだが、ほとんどマスクをつけているため(崩れた素顔が映るシーンもあるが)役者としてはやりにくい役だったろうなぁ。ドラマでもよく出てくる関ヶ原で戦死した大谷吉継に似た役どころだ。
 しかしそんなボードワンの姿勢に不満を抱き、イスラム教徒との開戦を望む連中も出てくる。この映画ではそうした役どころはテンプル騎士団が担当しており、彼らはイスラムの隊商を襲撃してサラディンたちを挑発、戦争に持ち込もうとする。押し寄せるサラディンらの大軍を停止させるべく少人数部隊で駆けつけるバリアン…なんだけど、結局ボードワン国王が大軍で駆けつけてきて責任者を処罰してサラディンと話をつけちゃうので(この辺はボードワン最高の見せ場で確かに美味しい役だと思える)、バリアンの奮戦がなんの役にたったんだかよくわからない。またまた無駄に人を死なせただけのムチャな行動にしか見えないのだが…

 さて映画と言えばやはり「ラブストーリー」が必要…というのがハリウッド映画の鉄則。娯楽系歴史映画ではむしろその傾向は顕著で、実在の歴史人物を勝手に組み合わせた恋愛模様を織り込むことがしばしば。本作ではボードワンの妹シビラ(エヴァ=グリーン)とバリアンが恋に落っこちてしまう。困ったことにどちらも実在人物で、まずありえない話なんだよなぁ(笑)。「ブレイブハート」のウィリアム・ウォレスとイザベル王妃とか(このケースは時空すら飛び越えていた)、「仮面の男」のダルタニャンとアンヌ王妃とかの例も思い出す。今挙げた2作は同じ脚本家によるものだけど、リドリー=スコット監督が前に手がけた「グラディエーター」だって架空人物の主人公マキシマスがコンモドゥス帝の姉ルッシラと恋人関係だったし、ハリウッド歴史映画的にはお構いなしというかお約束と言うか。ウィリアム・アダムズをモデルにしたドラマ「将軍」だって主人公が細川ガラシャをモデルにした女性(島田陽子が演じた)と恋に落ちたりするわけで。

 話が飛んだ。
 で、ボードワン4世は亡くなる直前にバリアンに妹と結婚して跡継ぎになってくれるよう頼んだりするのだがバリアンはこれを断る。それでボードワンが亡くなるとシビラの夫であるギー=ド=リュジニャン(マートン=ソーカス)が王位を得てイスラム側との全面戦争に出撃してしまう。しかしギー率いる騎士団はサラディン軍の前に全滅。勢いに乗ったサラディン軍は怒涛のようにエルサレムへ押し寄せてくる。ここでバリアンは指導者なきエルサレムに乗り込んで市民達を組織し、いきなり強力な指導力を発揮してサラディン軍に抵抗することになるのだが…
 映画を見終えたあとで知ったことだが、バリアンはれっきとした実在人物でサラディン軍の猛攻を一定限度まで防ぎ、最終的にサラディン側との話し合いでエルサレムのキリスト教徒たちを有償で解放させたのだそうだ。だから映画としてはその「一定限度までの抵抗戦」がクライマックス、バリアン最大の見せ場となるわけなんだけど…どうも見ていてスッキリしないのだ。この映画の中でのバリアンのここまでの行動を見ていると、なんでここで彼が指揮権発動してサラディンに激しく抵抗してるのか訳が分からない(そもそもつい先日までただの鍛冶屋だったはずなんだがどこで武芸・指揮能力を?)。テンプル騎士団の連中の行動にも批判的だったしそもそも命を狙われたりしていたんだから、ボードワンの側近ティベリアス(ジェレミー=アイアンズ…もったいない使われ方されてるなあ)がそうしたように、とっととエルサレムを捨てて去るかさっさと降伏開城するのが自然では。さらに言えばボードワンに言われたようにシビラと結婚して跡継ぎになっておけばよかったじゃないの(だって結局そうなるんだぜ)、などなど、激しいスペクタクル戦闘シーンを見ながら疑問符が頭の中に次々と浮かんでしまう。それで結局和平を結ぶわけだがそこに累々と横たわるあまたの死体を見ていると、またしても彼の勝手な行動により多くの人間が無駄に命を落としたと思えちゃう。それでいてラストはしっかり当人的にはハッピーエンド(?)なのが頭にくるというか(笑)。

 史実がどうの、ということではなくドラマつくりとして本作のシナリオはあまりに欠陥が多いのではないかという気がするんだよね。この映画、特に日本での宣伝は「オーリー(オーランド=ブルーム)が頑張ってます!」ってな売り文句を標榜してるわけなんだけど、ハッキリ言って感情移入できんぞ、この主人公には。「クルセイダーズ」同様、行き当たりバッタリな行動で多くの人に迷惑をかけているだけのように思えてしまう。
 この映画の製作者たちが昨今の情勢もかんがみて、十字軍と言う戦いを描きつつ宗教間の和解・共存ができる「天の王国」の実現は可能だ!というテーマが言いたいのであろうことはわかる。そのテーマ自体も素晴らしいとは思う。だが肝心のストーリーがダメじゃいかんでしょう。

 ところで歴史スペクタクル映画として見ると、戦闘シーンの迫力(CG使いすぎで誇張がすぎる嫌いもあるが、大軍描写はかなり出来がいい)と、実際にイスラム圏の俳優さん(シリアの人だそうだ)によって演じられたサラディン像、そして最後に特別出演風に出てくるイギリス国王リチャード獅子心王(イアン=グレン)が見所かな。(2005/6/1)

 


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