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「マルクス・エンゲルス」
Der junge Karl Marx/Le jeune Karl Marx


2017年・ドイツ/フランス/ベルギー
○監督:ラウル=ペック○脚本:パスカル=ボニツェール/ラウル=ペック○撮影:コーリャ=ブラント○美術:ブノワ=バルー○音楽:ヨルク=タイル○製作:ニコラ=ブラン/レミ=グレルティ/ラウル=ペック/ロベール=ゲディギャン
アウグスト=ディール(カール・マルウス)、ステファン=コナルスケ(フリードリヒ・エンゲルス)、ベッキー=クリープス(イェニー)、ハンナ=スティール(メアリー・バーンズ)、マリー=レイツェンバッハ(レンヒェン)、オリヴィエ=グルメ(プルードン)、イヴァン=フラネク(バクーニン)、ハンス=ウーベ=バウアー(ルーゲ)、アレクサンダー=シェーア(ヴァイトリング)ほか




  久々に神保町・岩波ホールでの映画鑑賞。これの前は「ワレサ 連帯の男」だったかな?歴史映画探求道やってると、こういうところでしかやってない映画が結構多いんだよな。
 映画の原題は「若き日のカール・マルクス」といったところなのだが、日本語題は「マルクス・エンゲルス」と、何だか大月書店の全集の名前みたいになっていた。やっぱり客層がかつて「マルエン全集」を読んでたような方々が多いと想定したのかな、などと勘繰ってしまったのだが、映画を実際に見てみると原題での予想よりはずっとエンゲルスも「もう一人の主役」扱いになっていて、実は日本語題の方が内容に正確と思えた。それはそれとして、僕が見に行った時の客層はやはり学生運動まっさかり頃の闘士世代の人ばかりという印象だった。

 この映画、2017年に公開されたのだが、日本では2018年5月の公開となり、ちょうどいい具合に「マルクス生誕200周年記念映画」ということになった。映画界は洋の東西「〇〇周年記念企画」というのが多いが、1年のずれがあるもののたぶん製作動機はマルクス生誕200周年なのだと思う(以前フランスの「ルパン」100周年映画もそうだったが記念年の一年前くらいに公開するものなのかも)

 そんなわけで1818年生まれのカール=マルクスがまだ20代後半であった1840年代を描くのがこの映画だ。マルクスというとあのドッサリ真っ白なヒゲをたくわえたサンタみたいなおじいさんの肖像写真が良く知られているが、彼にだって当然若き日はあった。マルクスは「科学的共産主義思想」の生みの親として歴史にその名を残すことになるのだけど、この映画に出てくるマルクスはまだ世間的には無名の、何カ国もまたいだ亡命生活、それも赤貧状態を繰り返す20代の若者にすぎない。相棒となるエンゲルスもまたしかりで(こっちは貧乏ではないけど)、この映画はこの若者二人と、それぞれの相方の女性たちを含めた「青春ドラマ」になっている。
 まぁそういうふうに作るのが正解だったかな。マルクスとエンゲルスの伝記映画ということになると、どうしても政治性を帯びざるを得ないし、彼らの思想が後世に与えた多大な影響、それも21世紀となった今日では否定的な扱いを受けやすいそれを考えると、今さら彼らを単純に英雄化した映画も作りにくい。今日まで見渡さなくても、マルクス・エンゲルス当人たちが生きている間にもその後半生はいろいろとドロドロしていて、そのまんまドラマにするのはキツイと思う。この映画はそうしたドロドロしたことになる以前に絞り、一応「理想に燃える爽やか青春群像」としてまとめていて、うまいことまとめたと思う。マルクスの一代記とか、その思想のルーツの映像化を求めたいクチには物足りないだろうけど。

 映画は冒頭、森の中で木の枝を拾い集めていた貧民たちが、 幽鬼のごとく現れた騎馬警官らに襲われる印象的なシーンから始まる。何かの象徴なのかな?と思ってしまったが、マルクスに詳しい人ならすぐピンとくるのだろう。これは南ドイツライン州で実際に起こった事件で、それまで森の中に落ちている木の枝を拾うのは自由だったのに、その枝すらも地主の所有物ということになって貧民たちの「盗み」を警官たちが取り締まっている、という状況なのだ。この事件を地元新聞で批判した若きマルクスは逮捕され(その記事のためってわけでもないようだが)、妻のイェニーと共にフランス・パリへと亡命することになる。

 このマルクスの妻イェニーは貴族の令嬢で、たいへん良いお育ちなのだがマルクスと恋に落ちただけでなくその思想にも共鳴して貧しい亡命生活も共にする。「経済学者」でもあるマルクスが赤貧生活続きで後には子供たちまで死なせてしまうことになったというのは僕も知識としては知ってたが、この映画ではそのころまでは描かれず、二人の間に赤ん坊が一人いるだけだ。生活は苦しいがマルクス夫妻は新婚旅行にでも来ているかのようにラブラブイチャイチャ状態、なんとベッドシーンまで披露してくれる(笑)。
 そんな赤貧のはずなのに「子守」の若い女性が雇われている(給金が二か月も滞っているけど)のが不思議に見える。あとで調べて知ったが、これは実在した女性で愛称を「レンヒェン」といい、イェニーの実家からつけられた「お手伝いさん」なのだ。まぁイェニーは貴族のお嬢様だし、こういう人も必要だったんだろう。映画中では単に金で雇った家政婦という感じだったけど、実はこのレンヒエン、のちに私生児を産み落とす。その父親はほかならぬマルクスであった、というのが有力な説で(エンゲルスという説もあるみたい)、映画中ではそこまでは描かれないものの、知っておくと面白さは増すはず。

 一方の主役であるエンゲルスは、ドイツ人ながらイギリスのマンチェスターにまで工場を構える工場経営者の御曹司。しかし「労働者から搾取する資本家」を絵にかいたような父親に反発し、労働者側へ心を寄せようとする。
 この映画では父の工場をクビになった女性メアリー=バーンズが気になってその後を追って貧民街へと入り、その実態を取材しながらメアリーとの関係を深めてゆく。これもあとから調べたのだが、このメアリーというのも実在の女性で、結婚こそしなかったもののエンゲルスとは生涯「事実婚」の関係にあった特別な女性だ。エンゲルスの父の工場で働いていたというのも史実らしいのだが、この映画のような出会いであったかどうかは…エンゲルスって実はかなりの女たらしで、関係した女性の数はそれこそ数えきれないほどで、その中でよくステディな関係を続けたものだと思うばかり。映画ではその辺まったく触れないでエンゲルスはウブな純情青年にしかみえないのだが、映画の終わりの方でメアリーが「エンゲルスの子は妹が生むかも」と口にするあたりにチラッと二人の特殊な関係がにおわされている。さすがにメアリーの死後のことだが、エンゲルスはその妹と正式に結婚しているのだ。

 このエンゲルスとマルクスがパリで運命的な出会いをする。それ以前に一度ドイツで顔を合わせてはいて初対面ではなかったのだが、このパリでの再会が二人にとってまさに運命的、歴史的にも重要な出会いとなる。お互いの論文について称え合い意気投合した二人は深酒をしてマルクスの下宿に泊まり込む。朝目を覚ましたイェニーが、ソファに知らない男が寝ているのを見てビックリするが、さすがはこちらもいいところの御曹司、エンゲルスは紳士らしく身支度を整えて朝食を丁寧にいただいて立ち去ってゆく。マルクスの方は二日酔い(笑)で寝込んでいて、イェニーが「カールを酒に誘うのはほどほどにして」と言ってしまうほど。イェニーとしては夫が自分以外の「イチャイチャ仲良し」を見つけたことで心穏やかでない感じもあり、なんとなく三角関係っぽくもなる。

 マルクスといえば大変な悪筆で、エンゲルスとイェニーがその「解読」をしていた、というのは有名な話で、この映画でもちょこっとではあるがその様子が描かれていた。マルクスが郵便局に雇ってもらおうとするがあまりの字の下手さに不採用になるという場面もある(笑)。
 マルクスとエンゲルスの二人は街中で一緒に秘密警察をまいたり、難しい政治哲学議論に華を咲かせる。負けじと(?)イェニーもそこに加わって、ドイツの批判者たちの「批判的批判」に対して「批判的批判を批判する」という冗談みたいな論文タイトルを彼女が思いつくことになっている。僕は知らなかったが、「批判的批判を批判する」は実在するもので、周囲の客席からはささやかながら笑いも起きていた。

 映画としてはあまり難しい話はしたくないところだが、マルクスとエンゲルスが主人公では全部避けるわけにもいかない。当時の彼らの周辺にいた社会主義、無政府主義の思想家たちも劇中に登場する。特に面白かったのが、プルードン、バクーニンといった、僕も高校の世界史教科書で名前を覚えた運動家たちが登場する場面で、プルードンの演説を聞きに来たマルクスが茶々を入れると、振り返ったバクーニンが「あいつ、カール・マルクスだぜ」とつぶやくところなんか、歴史映画好きとしてはたまらない。まだマルクスが若くて知る人ぞ知るの段階なら、「あいつ、マルクスだぜ」というセリフも出るだろう。このバクーニンがまたこのあと波乱な生涯を送ることになるわけで、その辺も知ってるとこのさるげないシーンもいっそう楽しい。

 ドイツからの要請を受けてフランス当局はマルクス一家を国外追放、マルクスはベルギーへ、さらにイギリスへと向かう。そしてこのイギリスにいた1848年に、「ヨーロッパに一つの妖怪が現れた。共産主義という名の妖怪が」で始まり、「万国の労働者、団結せよ!」で終わる歴史的文書「共産党宣言」がマルクスとエンゲルスの手により生み出されることとなる。この終盤、難しい議論をしてる場面が続いて僕は意識を失いかけたが(笑)、史学科の一年生の時に読まされたなじみの文章が流れてきたおかげで目が覚めた。
 映画はこの「共産党宣言」の文章づくりがクライマックスとなり、その完成をもってエンディングとなる。その後、マルクスやエンゲルスの掲げた「科学的共産主義(社会主義)」の思想が後世どれほどの影響を世界に与えたか、をさまざまな記録映像で見せながら(予想はしたがゲバラも映っていた)エンドロールとなる。
 先述のように、このあとのマルクスとエンゲルスは家庭的にも運動的にも苦闘の連続、ドロドロ問題続きで、ここらで止めておくのが「青春映画」としては正解だろう。ただ、そのぶん当時の時代背景などがあまり語られない(全くないわけではないが)ため、マルクスやエンゲルスたち若者が何にそんなに熱心になってるのか、映画からは今一つ実感をもって伝わってこなかったきらいはある。セリフのやりとりの中でその辺説明してるつもりなんだろうけど、難しい議論セリフになってしまうため頭に入りにくく…あとでパンフレット買えばシナリオ抄録があるんじゃないかと期待したのだが(過去の岩波ホール上映作ではそういう例が多かった)、残念ながら本作のパンフにそれはなし。

 監督はラウル=ペック。どっかで聞いた名前だな、と思ったら、コンゴの悲劇の政治家を主人公とした「ルムンバの叫び」を作ったハイチの映画監督だった。当サイトの「歴史映像名画座」のアフリカ史にこの映画を入れていたので覚えがあったのだ。
 パンフレットに載る同監督のインタビューによると、「西側」つまり非社会主義圏でマルクスの伝記映画がつくられたのは初めてとのこと。つまり過去に社会主義国で作られたことがあるということで、おそらくマルクスを神格化した内容になっちゃったのではないかと。本作はマルクスたちに共感もしつつ一定の距離もおいて温かく見守っているという感じかな。。(2018/6/24)




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