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「切腹」

1962年・松竹
○監督:小林正樹○脚本:橋本忍○原作:滝口康彦○撮影:宮島義勇○音楽:武満徹
仲代達矢(津雲半四郎)、石浜朗(千々岩求女)、岩下志麻(美保)、三國連太郎(斎藤勘解由)、丹波哲郎(沢潟彦九郎)ほか


 

  先ごろ例によってNHKBSシネマで放送していたので久々に鑑賞した。これがまだ二度目の鑑賞となる映画だが、久々ながら細部をよく覚えていて、じっくりとその作りの巧さを味わうことができた。うまくまとまった傑作の一本だと改めて思う。最近「一命」のタイトルで3D映画としてリメイク(といっても原作が同じというだけで厳密にはリメイク映画ではないとのこと)されたがそっちは未見。
 この映画との出会いについては個人的にちょっとした思い出がある。僕がある短編時代劇マンガ(戦国時代を舞台に僕の地元の伝説をアレンジした怪異譚だった)を描いたとき、大学の恩師がそれを読んだ感想として「『切腹』を連想するなぁ」と一言いったのである。そのタイトルだけは映画本で知っていたが未見で、そう言われたことで興味をもってレンタルで借りて来て初めて鑑賞した。時代設定もストーリーも、はたまたジャンルもまるっきり違うのだが、「連想する」と言われたことについては言葉で説明するのが難しいがなんとなく分かったような気もした。そんなわけで、この映画については個人的にヘンな思い入れもあるのである。

 脚本は橋本忍。黒澤映画の名作の多くに参加、とくに「羅生門」「七人の侍」のシナリオでは橋本忍の力によるところが大きかったとされる。他にも数々の名作を手がけていて日本映画史上屈指の名脚本家であることは動かせないところで、その中でも傑作の呼び声が高いのがこの「切腹」だ。監督の小林正樹も名手だが、この映画についてはとかく脚本構成の巧みさが語り草になっている。
 ストーリー自体はオリジナルではなく、原作となった滝口康彦作の短編小説がある。それを長編映画としていかに脚色するかが脚本家の腕のみせどころで、伝え聞くところによると橋本忍が書いておいた脚本を企画探しをしていた小林監督が一読、即座に松竹幹部にかけあって映画化を決めてしまったという。もはやそんな伝説まである名シナリオで、この映画を劇場で見た北大路欣也が「橋本忍」の名前を頭に刻みつけた、という話をのちに橋本脚本の「八甲田山」に出演した時に明かしている。

 この映画、見た人は分かるのだが、ストーリーを人に説明しにくい。なぜかというと映画の中で回想シーンがやたらと挟まり、ぼんやり見てると今見てるシーンはどの時点の話なのか分からなくなってしまうほどだから。「入れ子構造」と表現する人もいたほどで(ただ回想の中でさらに回想するということはなかったはず)、時間があっちへ行ったりこっちへ来たりしてなかなか複雑なのだ。じゃあ分かりにくい映画なのかというとそうでもない。ちゃんと見ていれば今どの時点で何が語られているのかはきちんと分かる。そしてこの複雑な構造の中で初めは判明していなかった謎がじわじわと明らかになってゆき、最後にそれらのパズルが見事に完成してクライマックスへなだれこむ。その「パズル解き」の快感が見事なシナリオで、これこそ映像ならではのストーリーテリングとなっているのだ。

 映画は一人の老いた浪人・津雲半四郎仲代達矢。まだ若かったはずだけど)が「切腹をするのでお庭を借りたい」と江戸の井伊家の屋敷にやってくるところから始まる。三国連太郎演じる家老は「またか」とぼやく。このところ「切腹をしたい」と大名屋敷に押しかけ、屋敷側が迷惑がって金を払って帰らせるのにつけこんで「たかり」をする浪人どもが横行していたのだ。井伊家ではつい先日もそんな浪人に押しかけられたが、本当に腹を切らせて見せしめにしていた(なお、これは江戸初期に井伊家が本当にやった逸話である)。しかもその浪人・千々岩求女石浜朗は本物の刀を売り払って「竹光」しかもっていなかったため、強引にその竹光で切腹させられるという悲惨な死に方をしたのだった。
 家老はその話を津雲に聞かせて帰らせようとするが、津雲は「本当に切腹する」と言い張る(「これでござるか…」と腹を切る真似を繰り返すところがイイ)。そこでやむなく正式に庭先に切腹の場を設け、さあ切腹という段になって、津雲は介錯をする藩士を指名する(実際、切腹の介錯は相当の腕前の人でないと無理)。ところがその藩士はなぜか今日は病で欠席。やむなく二人目の藩士を指名するが、なぜかこれも欠席。ここで家老は津雲が何やらたくらみがあって来たことを察知する。そして津雲は「実は千々岩求女はいささか存じよりの者であってな…」と語り出すのだ。

 あとは未見の方も考慮してカット。この序盤だけでも回想と現実の交互描写が巧みに使われている。このあと時間を大きくさかのぼった回想から千々岩求女がなぜ井伊家に「切腹たかり」をしに行ったのかという背景が語られてゆく。先述のようにこの井伊家の逸話には元ネタとなった史実があるのだが、そこで本当に切腹させられてしまった浪人にも何か事情があったのでは?という発想が原作小説のアイデアの源となっている。映画はその経過を時間を複雑に入れ替えた構成で語ることでその悲劇をより効果的に描いている。
 後半になると仲代達矢の浪人の復讐劇で、意外にもチャンバラアクションも豊富(当時のポスターの宣伝文句をみるとその点も大きな売りにされていた)。仲代達矢と丹波哲郎の決闘場面はこの映画のテーマにひっかけたのか竹光ならぬ真剣が使われたとの話もある。このアクション部分も回想とのカットバックで語られて序盤の謎が解かれてゆくところが見事で、クライマックスは集団大チャンバラ。もちろんテーマ的に活劇というわけではないが、重い話の中で最後にそれがぶちまけられるような「快感」があるのも確か。

 武士と言っても平和な江戸時代になれば官僚化、サラリーマン化を余儀なくされ、勤め先がなくなって浪人となった武士たちは生活苦にあえいだ。そんな浪人生活の中でも得られたささやかな幸福をブチ壊された怨念が炸裂する展開に現代人が共感を覚えてしまうわけだ。
 この映画は浪人側がメインではあるがよく見れば同時に組織内で生きざるをえない藩士側の悲惨な運命にも触れていて、こちらの立場を中心に据えたのが同じ原作・脚本・監督による「上意討ち 拝領妻始末」(1967)。こちらもキネ旬ベストワンになったり歌舞伎化されたりと評価が高いが、個人的にはやはり「切腹」を推す。映画ってこういう「語り」ができるんだと何度見ても新鮮に驚かされる一作だからだ。(2012/4/26)




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