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「助太刀屋助六」

2001年・日活/フジテレビ
○監督・脚本:岡本喜八○撮影:加藤雄大○美術:西岡善信○音楽:山下洋輔
真田広之(助六)鈴木京香(お仙)村田雄浩(太郎)仲代達矢(片倉梅太郎)小林桂樹(棺桶屋)岸部一徳(榊原織部)鶴見辰吾(脇屋新九郎)風間トオル(妻木涌之助)岸田今日子(おとめ)本田博太郎(助太刀浪人)ほか




  この映画は公開時にしっかり劇場で鑑賞したのだが、先日NHK衛星で急遽放映されたのを機に久々に再鑑賞した。急遽放映の理由はもちろん岡本喜八監督の逝去による追悼企画。哀しいことだが岡本監督の死を機に岡本作品の多くがこれから続々ソフト化されるのだろう。それにしても民放各局は追悼放映を何もやらなかったなぁ。「大誘拐」なんかちょうどいいのに、と思ったのだが権利関係がいろいろと面倒だったのかもしれない。
 結果的に岡本監督の遺作となってしまったこの映画、改めて見ると不思議と「遺作らしさ」がつきまとっている。別に当人もそのつもりはなかったろうし、実際亡くなる直前までクランクイン寸前までいっていた次回作も待機していたのだが…実は僕も劇場で見た際に「これが最後の一本のつもりなのか?」という印象を受けたのだ。なぜかといえばこの映画の冒頭に、岡本映画出演組がカメオ状態で次々と登場してくるからなのだ。

 アヴァンタイトルは主人公「助六」が仇討ちの「助太刀屋」になる過程とその仕事ぶりが、短い場面を重ねて行く形で描かれているのだが、仇討ちする側、あるいは仇討ちされる側の役で前作「EASTMEETS WEAT」に出た竹中直人、「大誘拐」に出た嶋田久作「吶喊」伊佐山ひろ子といった面々が登場し、そして最後にきわめつけ、天本英世佐藤允の「岡本映画の顔」同士が“夢の対決”をしてしまうのだ。
 御存知のとおり天本さんといえばその異様な外観でよく知られ、中でも「仮面ライダー」の「死神博士」役であまりにも有名だが、岡本喜八監督自身も街角で子供たちにその「死神博士」と勘違いされたという逸話があるほど天本さんにソックリで、天本さんは岡本監督の「分身」のように多くの岡本作品に出演している。岡本作品ではこの「助太刀屋助六」での1シーン出演が最後となり、2003年3月に亡くなっている。そしてその一本が岡本監督自身の最後の作品となってしまったのだから、まさに「分身」以外の何者でもなくなってしまったのだ。
 一方の佐藤允はなんといっても「独立愚連隊」が岡本監督ともども出世作となった異色俳優。なぜか戦争映画の兵隊さん役が多いお方だが、最近はさすがにあまり見かけなくなっていた。この人が久々に岡本映画に登場した…と思ったらそれが最後の岡本映画になっちゃったわけで、なにやら天本さんが岡本監督の「お迎え」、佐藤さんが「お見送り」をやってるように見えてしまう。
 劇場パンフレットを見返してみたらこのアヴァンタイトルには他にも岡本組のスタッフがカメオ出演しているそうで、なんとなく「これが最後かも」という気分があったのではないか…このたび亡くなって初めて公表されたことだが、岡本監督は前作「EAST MEETSWEST」撮影中に事故にあい軽い言語障害になったりしていたそうだし。このアヴァンタイトル部分の演出を実は主演の真田広之が自ら絵コンテも描いて担当していたというのは劇場パンフレットにも書いてあったが、それも実は監督の健康状態と関係があったということなのかも。

 この「助太刀屋助六」の企画誕生自体はかなり古い。劇場パンフレットにある監督インタビューに詳しい話があるが、「日本のいちばん長い日」「肉弾」という「岡本戦争映画」の二大巨頭を製作した直後、岡本監督の父が亡くなり、その父への追悼の意味も込めてシナリオが執筆された。だが面白いことに岡本監督は映像にする前にこの物語をなんと自ら漫画にして「漫画読本」に発表している。この漫画は劇場公開時のパンフレットにもオマケとしてついていて僕も読んだのだが、岡本監督が漫画家としても高い才能があったということに恐れ入った(実際岡本監督の影響を受けたという漫画家・アニメ作家が少なくないので相通ずるところが多いのかも)。この漫画版「助太刀屋」は「原作・生田大作」とクレジットされているがこれは岡本監督の筆名(似たイタズラとしては市川崑監督の「金田一シリーズ」などの小説・脚本家「久里子亭」がアガサ・クリスティにひっかけた市川監督自身の筆名、というのもある)
 この漫画版「助太刀屋助六」は今回映画になったものとストーリーはほとんど同じ(ラストだけ異なる。後述)。しかもこの漫画とシナリオをもとに岡本監督の演出でTVドラマ化(1時間枠)もされている。その時はジュリー藤尾(助六)と加藤大介(梅太郎)という組み合わせだったというから面白い。この時期のことだからビデオなんかは残ってなさそうだが、ぜひ映画版と比較して見る機会を持ちたいものだ。

 さて映画のストーリーだが、少々子供っぽい、「粋なヤクザ」を気取る若者・助六(真田広之)が主人公。ひょんなことから他人の仇討ちを「助太刀」してしまったことからやみつきになり、以後それを稼業とする「助太刀屋」を営んで(?)いる。そんな彼が故郷上州の宿場町に帰って来たところからドラマが動き出す。
 幼い時に死んだ母親の墓参りをしたらそこに一輪の花が手向けられていて「他に身内はいないはずなのに」と首をかしげる助六。宿場では幼なじみでケンカ友達だった太郎(村田雄浩…まさにバッチリの配役)が番太を務めていて、これから仇討ちが始まると助六に告げる。「助太刀屋」の血が騒いだ助六だったが、討たれる仇の片倉梅太郎(仲代達矢)に会ってみるとどうも様子がおかしい。実は梅太郎は助六の実の父親で、梅太郎はそれを助六に告げぬまま不正役人・榊原織部(岸部一徳)たちに討たれてしまう。あとから気付いた助六は「仇討ち」ではなく死んだ梅太郎に「助太刀」を頼まれた…ということにして不正役人たちに挑んでいく、といった展開だ。
 これに太郎の妹で織部の相手をさせられそうになるお仙(鈴木京香)とやり手婆のおとめ(岸田今日子)、助六の過去を知る棺桶屋(小林桂樹)が絡んでくる。先述のように基本ストーリーは最初に発表された漫画のまんまだが、お仙とおとめの部分は完全に映画オリジナルの追加部分。そのせいかこの部分、どうしても浮いてしまっている観が否めないのだが…

 「原作」の漫画もひょうひょうとした主人公が大活躍するチャンバラアクション。日本におけるアクションスターといえば、やはりこの人、真田広之。岡本監督の前作「EASTMEETS WEAST」だってこの人が主役でなければ成立しえない話だった。本作でも主人公・助六は冒頭から走りに走り、飛んだり跳ねたりと忙しい(例の佐藤允vs天本英世の場面でひょいと後ろ向きにジャンプして橋の欄干に飛び乗るのってさりげなく凄いんだけど)。ただ映画全体を見渡すと助六がいちばん暴れてるのがアヴァンタイトルの部分だったような気がしちゃうのは残念。あと「本人は二枚目のつもり」という原作漫画の設定からすると真田さんは二枚目すぎるという嫌いもあった。
 こういうひょうきんキャラだけにジャッキー・チェンみたいなアクロバットな場面を多く入れて欲しかった。あとやっぱり真田さん、さすがに二十代の若者には見えなくなってるんですが…この映画の前が「陰陽師」の道尊で、この映画の後が「たそがれ清兵衛」。話題の時代劇三連発のハードスケジュールで真田さん、ちょっとお疲れだったのでは、とか思っちゃうんだけど。

 ところで原作というか映画企画自体はかなり早く練られていた本作、見ていてどうしても気になるのが岡本監督の兄貴分的存在である黒澤明監督の「用心棒」との相似点だ。上州の宿場町という舞台設定、話のアクセントになっている棺桶屋、八州廻りの登場など気になりだすと結構気になる。そもそも「助太刀」じたい「用心棒」的存在だし。あっちはブラックな味付けのハードボイルド、こちらはもっと軽いノリのひょうきんアクションといった違いはあるが…調べてみると「用心棒」の方が「助六」より先に製作されており、意識はしていたのではないかと。ただ、まだ見ていないのだが岡本監督の作品「暗黒街の対決」が「用心棒」より1年先に作られていながらストーリーの骨子が似ていた、ということもあるようで、両監督の間で互いに意識しあっていたということかもしれない。

 この「助太刀屋助六」、狙いとしては軽いノリの爽快アクション時代劇、といったところなんだと思う。だが見終わって爽快だったかというと…僕自身劇場で見たときの感想は「つまらなくはないけど、正直物足りない」というところだった。いくつかの場面で面白いと思わせるところはあるんだけど、それがつながった時にもう一つチグハグというか。最大の悪役の岸部一徳も「ワル度」が表面的で他愛がなさすぎるし、ヒロインである鈴木京香の役どころも「原作」に追加された要素のせいか助六・太郎とのカラミが中途半端で、悪役に狙われる(?)サスペンス性も乏しい。
 こちらとしては久々の岡本作品、しかも時代劇(前作も一応時代劇だろうけど、狙いはあくまで「西部劇」)ということで期待も高かったぶん、やはりお年か、と割り引いて楽しませてもらうという感覚になってしまった。あとから言語関係など体調がよくなかったと聞くと、その映画にかける執念には脱帽するほかないのだけれど。





 以下、ネタバレ警報。




 「原作」となった漫画だとラストは唐突な悲劇で終わっている。仇討ちを全て果たした助六がいきなり銃撃されて死んでしまい、母親と父親の墓に一緒に葬られて、太郎が涙ながらに報告書を書くという結末だったのだ。軽いノリの割に意外な結末だが、TVドラマ版でも同様の終わり方だったそうだ。それはそれで印象には強烈に残っただろうが…
 映画版において、岡本監督はこのラストをハッピーエンドに書き換えた。銃撃はされるもののそれは助六のトリックで、めでたくヒロインと一緒に夕日に向かって走り去って行ってしまう。それでも今後はこのヒロインの尻にしかれて大変な人生を歩まねばならないのではないか…(笑)と皮肉を匂わせてはいるんだけど。この改変については監督本人がパンフレットのインタビューで答えているが、やはり悲劇のオチにしたくはなかった、という気分は分かる気がする。黒澤明の晩年の作品にも見えてくることだが、晩年の優しげな達観というんだろうか、そんなものを感じもする。
 ラスト、沈む夕日に向かって走り去って行く助六のシルエットに、やっぱり「岡本喜八」自身の自画像を、ファンとしては重ねてしまう。実質的に「遺言」だったんじゃないかなぁ…と実際に亡くなってしまってから見返すと冒頭からラストまでそう見えてしまう。ともあれ、長い間ご苦労様でした、合掌。(2005/3/18)



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