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「たそがれ清兵衛」

2002年・松竹
○監督:山田洋次○山田洋次・朝間義隆〇撮影:長沼六男〇音楽:冨田勲
真田広之(井口清兵衛)宮沢りえ(朋江)田中泯(余吾善右衛門)大杉漣(甲田豊太郎)小林稔侍(久坂長兵衛)ほか




 山田洋次監督、といえば日本を代表する監督の一人と言い切っていい名匠であるが、僕個人はこの人の監督作をそれほど見ているわけではない。かの「寅さん」だって部分部分をTV放映で見ただけで最初から最後まで見たものは一本もないし、劇場まで足を運んで見たのも「学校」シリーズの一作目のみと「息子」。いわゆる「大船調」的な庶民の哀歓ドラマは僕の肌には合わないのかも知れず、また食わず嫌い的なところがあることも否定できない。しかしTV放映時にビデオに録って全編を見た「幸福の黄色いハンカチ」には不覚にもいたく感動し、「参りました」と降伏の白いハンカチを掲げた覚えがある。まぁとにかくこの人の映画はそのぐらいしか見ていない、というところだ。
 その山田洋次が初めて時代劇を撮った、ということで話題になったのがこの作品。原作が藤沢周平、というあたりはしっくりくるものを感じたが。もっとも藤沢周平の方も僕は一作も読んでないんだよな。ドラマ化されたものはTVで見ているんだけど。そういえばTVドラマ化は多い藤沢作品だが、映画化は今回が初めてだった。

 主演は真田広之。このところ日本映画界はこの人と役所広司がやたらに出まくっているという印象があるんだが(笑)、特に時代劇では真田広之は大モテで、昨年の「陰陽師」の悪役陰陽師、今年の「助太刀屋助六」のファンキーな「助太刀屋」の若者、そしてこの「たそがれ清兵衛」の貧乏侍と、立て続けに、それもそれぞれ全然違う役どころで出演している。もともとは最近のケイン・コスギみたいな感じのアクション俳優で出てきた人だが、僕も熱狂して見ていた大河ドラマ「太平記」で主役の足利尊氏という難役(だと思う。いろんな面で)をこなし、すっかりTV・映画でひっぱりだこのお方になってしまった。時代劇づいているといえば「写楽」でも主役だったっけな。
 これに加えてヒロインが宮沢りえ。こちらも「太平記」出演組で、真田尊氏と運命の悲恋を展開する女性を演じてアイドルから一皮むけた感があったものだ。この人、その後ホントにいろいろとあったが、近ごろじゃすっかり実力派女優という印象を強めてきている。
 「太平記」マニアとしてはこの二人が共演というだけで見に行くのは確定だった(笑)。それと、やはり「あの山田洋次が時代劇」という映画ファンなら誰もが持つであろう興味というのも大きかった。公開が近づくに連れ、山田監督自身がマスコミなどで盛んに「時代劇論」のようなものを発言していたことも関心を引いた。「これまでの時代劇に不満があった」として、徹底した時代考証、調査を行い、その時代の生活感をリアルに滲ませた時代劇を作るんだ、との意気込みは、どこか黒澤明が初めての時代劇「七人の侍」の製作準備段階を想起させるところもあった。結果的にああいう戦国時代の侍たちのアクション活劇となった「七人の侍」だが、当初は江戸時代の侍の一日をとことん忠実に再現する企画で、いろいろ調べているうちにそっちはあきらめて戦国時代の浪人の生活に考えが及びああいう形に発展することとなった経緯がある。この話を山田監督が意識していなかったはずはないだろう。

 とまぁ、いろいろと事前の話題が豊富だった本作、期待も、それと一抹の不安も胸に劇場へ見に行った。
 冒頭から、画面が暗い。主人公・清兵衛の妻が、長い闘病の末に死んだ場面から始まる。この時代の家の中の「夜の暗さ」をのっけから強調してくる。時代劇の夜の室内シーンでロウソク一本しかないはずなのに現代の蛍光灯をともしたように明るいシーンが平気で出てくる、という批判・指摘はよくされるところだが、撮影の技術的なことは良く分からないけど、こういう風に「暗い」ところを撮るのって実は大変な試行錯誤してるんじゃなかろうかと思わせる。暗いんだけれどもどこに誰がいて何をしているのかはちゃんと分かるのだ。この「室内の暗さ」は、この映画に一貫して出てくるところで、クライマックスの決闘シーンまで室内の暗がりの中で展開されている。
 妻を失った清兵衛はボケ気味の母と二人の娘の面倒をみるため、たそがれ時になると同僚らの付き合いも断ってまっすぐ帰宅し、畑仕事や内職に精を出している。このため「たそがれ清兵衛」というあだ名で上司・同僚からからかわれることになるのだが、本人は一向に気にせずマイペースで生きている。全編を通してこうした日常がたんたんと、しかし詳細につづられていくのだが、ここらへんを見る限りは「釣りバカ日誌」などで継続している現代サラリーマンものとさして変わらない(釣りしてるシーンでは「スーさん」が登場しやしないかとヒヤヒヤ)。特に小林稔侍の上司(メイクのせいでエンドクレジットが出るまで誰だかわかんなかった)を初めとする職場の人たちの言動は、現代の職場のそれとまるで変わらない。大半が平社員の現代人である観る側はこれらの描写ですんなりと清兵衛に感情移入していくことになる。

 現代と変わらない人間の生活の哀歓を描きつつ、「時代」もまた映画の背景にしっかりと影を落としている。時代は幕末の風雲まっただなかというところで、各種時代劇でもおなじみの京都で繰り広げられる暗殺の嵐などの情報が清兵衛の友人の口から語られたりするし、川には飢え死にした百姓の死体が流れてくる。平社員の清兵衛にも「家臣」である小者(?)がついているし(これが細かいところでいい味を出してる)、武士と町人、また武士内部での身分差、男女の関係の厳格さなど、今の時代との明確な違いもきっちりと描きこんでいる。現代のパロディとしての「ちょんまげサラリーマン時代劇」自体は飽きるほど作られてきたものであるが、本作はその線には決して乗ろうとはしない。
 それでいて、本作は幕末の風雲を描くものではない。あくまで話は庄内の「海坂藩」から一歩も出ることなく、また主人公の清兵衛も、決して無関心ではないのであるが、この国の激動に首を突っ込もうとは思っていない(京都の風雲の話に続いて聞かされる幼馴染の離縁の方に激しく反応してるもんな)。描き方にかなりの違いはあるけれども、こうした描写は幕末の風雲をよそにジャズに熱中する殿様を描いた「ジャズ大名」(筒井康隆原作・岡本喜八監督)と相通ずるところがあるな、と思って見ていた。「歴史」をやってて前から思ってるんだけど、実は歴史の激動期、ってときに大半の人間はそうやって生きてるんじゃなかったかと。本能寺の変があろうと関ヶ原の戦いがあろうと、ごく普通に日常を送ってる人たちが大半だった、ってのも歴史の真実だと思うんですよね。僕らだって後世から見ればとんでもない激動期に生きていたと言われてるだろうし。

 と、日常ばかりが展開してはドラマにはなりにくい。そこは時代劇、日常の中に唐突に命の駆け引きをする活劇が入り込んでくる。総じて観れば、この「たそがれ清兵衛」もごくふつうの娯楽チャンバラ時代劇しちゃっているところもあるのだ。
 山田洋次が時代劇、と聞いて、チャンバラに関しては正直なところあまり期待していなかった。が、そこは山田洋次、いままでにない殺陣を狙って、並々ならぬ意欲でチャレンジをしてくれた。このへんも「今までにない殺陣を」と挑んで「用心棒」などを作った黒澤明を髣髴とさせるところがある。
 ネタばれにならない程度に触れるなら、一つは木刀対真剣の決闘。もう一つはクライマックスとなる、剣の達人との密室内での死闘だ。いずれもリアル、リアルを狙って練り上げた殺陣で、さすがはアクション出身の真田広之、実にリアルにこれらを見せてくれる。木刀シーンの決着なんざ、「こうなるだろうな」という期待は決して裏切らないのだが、その勝負のつく瞬間は「おお!」と声を上げてしまうほどのリアルさだ。これは最後の決闘場面にも言えますな。
 藤沢周平の主人公に多いパターンだが、この清兵衛、地味な暮らしをしていても実は剣の達人。「あやつ、使い手であったのか…」と日ごろ馬鹿にしていた上司・同僚がビビる場面などは、ある意味お約束なんだけど、この映画に関して言えば「能ある鷹が爪を隠す」的なカタルシスはないんだよね。

 この「日記」は基本的にネタばれを書かないことを前提にしているのだが、以下、どうしても触れねばならぬ点で書いておきたいので未見の方は読まないように。





 宮沢りえの絡んだ大人のラブロマンスは、結末から言えば「幸福の黄色いハンカチ」だろう。清兵衛が帰宅してみたら洗濯物が干されていて一面に黄色いフンドシが…って今ふと思いついたこのネタ、いしいひさいちさんがすでに使ってましたな(^^;)。それにしても「太平記」ファンとしては「ああ、ついにお幸せに結ばれましたね」などと変な観点からつぶやいたりもしていたが(笑)。
 ただねぇ。「その後」が、そこまでナレーションをしていた年老いた次女が実際に登場して語られるわけだけど(明治末か、大正にはいっていそう)、正直なところその直前の幸せ感をかなり減殺してしまうところがあったと思う。かなり意図してやったことだとは思うのだが(この話は遠い話じゃなくてちゃんと現代につながっているのだよ、ということだと思うんだが)、一気に時代が飛ぶこともあって、今ひとつ現実味が感じられない。「そういう一見ついてない人生だけど、本人は充実してたんです」ということなのだが、僕にはどうしてもこのエピローグは余計なものに感じられてしまった。それまでリアリティある、いかにもありそうな世界を展開していただけに、ラストだけポンと飛んでしまった辺り、どうも僕にはしっくりこなかった。

 あと一つ、難というのではないのだが、僕自身には実際「難」だったこと。それは、ラストで死闘を演じる余吾善右衛門(田中泯…舞踏家で映画初出演だそうだが、確かに存在感ありあり)の登場のさせ方だ。最初の決闘のあと、腕を聞きつけてふらりと清兵衛の様子を見に来る。口には楊枝をくわえて登場、なんてところはいかにも娯楽時代劇の悪役登場を思わせるが、これがこれっきりで、最後の死闘までついに登場しない。そのため、清兵衛が「上意討ち」を命じられ、実際に死闘を繰り広げていた間も「ええと、これってあそこで出てきた人だよね」と理解半分で見ていたところがあるのだ。「そんなのはあんただけ」と言われそうなんだけど、実際そうだったんだから仕方がない。もう少し時々出てきてくれないと暗い場面も多いことだし、よくわかんない観客は多いと思う。
 もちろん、クライマックスまで余吾が出てくる必然性がないのは承知している。実のところ、見ず知らずの人間を人の命令で斬りにいく、という現代人からみれば異常なシチュエーションが面白いわけで、それならいっそのことクライマックスシーンまで一切登場させない方が良かった、とも僕には思えたのだ。中盤でフラリと伝統的悪役よろしく出てきちゃったのは、山田監督も「色気」を出してしまったかな、と感じたところ。
 でもやっぱり最後の死闘は凄かった。その直前の会話も含めて。娘の遺骨をポリポリ、なんてシーンはまさにゾクゾクもの。そしてカッコ良くはないがまさに命がけ、と分かる殺陣。それでも決着自体はスパッとカッコよく決まるのだが。

 この映画が時代劇のエポックメイキングな作品になるか、といえばそれほどでもない、と僕は思う。十分に水準以上の作品だし、いろんな意味で意欲的だ。数々の傑作を打ち出してきた、しかもほぼ一定して水準以上で駄作なしという、よく考えるととんでもない巨匠の山田洋次の、いかにも「らしい」時代劇という感想だ。西部劇でいえば「シェーン」みたいなもんだが(って、この人以前「シェーン」を和製化してたよな)、どうも僕にはやはり時代劇としてのカタルシスがないと…年くってから見ると、また違うかもしれないが。(2002/11/22)

    
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