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「戦場にかける橋」
The Bridge on The River Kwai
1957年・イギリス/アメリカ
○監督:デビッド=リーン○脚本:カール=フォアマン/マイケル=ウィルソン○原作:ピエール=ブール○音楽:マルコム=アーノルド○製作:サム=スピーゲル
ウィリアム=ホールデン(シアーズ)アレック=ギネス(ニコルソン)早川雪洲(斉藤)ジャック=ホーキンス(ウォーデン)ジェームズ=ドナルド(クリプトン)ほか


 

  日本人の多くには「サル、ゴリラ、チンパンジー♪」の行進曲で知られる映画である(笑)。僕の子供の時もそうだったが、小学校の運動会では定番で流れる行進曲だった。掃除の時間のBGMにも使われていた気がする。この楽しげな行進曲が、実は戦争映画、それも日本軍が関わる重いテーマの映画に使われたものだったということを大人になって知ってから驚いたものだ。

 時は第二次世界大戦のさなか、ところはタイ、ビルマ(ミャンマー)の国境付近のジャングルの奥地、日本軍がここに捕虜収容所を設けて、捕虜たちを泰緬鉄道(タイ-ビルマを結ぶ鉄道)の工事に駆り出している。とくに映画に出てくる収容所ではその鉄道工事の難関、クワイ河への架橋に苦労を強いられていた。英米軍の捕虜たちも過酷な労働を強いられ、線路の周囲にはにわか作りの墓標が立ち並んでいる――
 こんな状況から始まるこの映画、一応史実は踏まえている。泰緬鉄道工事に英米軍捕虜たちが駆り出され(劇中でも言ってるように捕虜に労働を強いること自体は禁じられてはいない)、あまりの過酷な労働のためにひどい所では「枕木一本につき一人が死ぬ」という状況であったという。原作小説の作者ピエール=ブールはフランス人だが、大戦中にイギリス軍に参加して捕虜となり、日本軍の捕虜収容所に入れられた体験を持っており、それが小説のベースにもなっている。映画の舞台はほとんど捕虜収容所なので、この映画は戦争映画というより「捕虜収容所もの」というジャンルに分類すべきだろう。さらにここには「大脱走」に代表される脱走もの、「戦場のメリークリスマス」に代表される人間関係・文化衝突ものとがあるが、明らかにこれは後者だ。

 欧米では「捕虜」というのは前線に出て戦った英雄であり、名誉ある扱いをしなけれならないという考えが根強いらしい。だが、日本では自国の兵士にすら「生きて虜囚の辱めを受けず」とかやっていたぐらいだから、敵軍の捕虜についてはなおさら扱いが悪かった(欧米にどう見られるかを気にしていた第一次大戦まではまだマシだったが)。この感覚の差のために太平洋戦争では「捕虜虐待」とみなされる事例が多くなり、戦争犯罪として多くの日本軍人が処罰されたほか、元捕虜たちはのちのちまで日本軍を強く憎み、戦後かなり経っても捕虜問題は欧米で「日本軍の蛮行」の例として何かととりあげられる。その中には食糧がなかったのでゴボウを食べさせたのが「虐待」ととられた、なんて感覚の差からくる行き違いもあったようだし、さらに言えばそれまで見下していたアジア人に「文明人」である欧米人が支配されたことを「屈辱感」もあったはずだ。
 ピエール=ブールもまさにその屈辱感を覚えた一人であり、その体験が、彼の書いた小説でこちらも映画化され有名になった「猿の惑星」のモチーフとなっている、という裏話も知られている。つまり欧米人から見れば日本人なんて「猿」に他ならなかったわけ。それにこき使われるもんだから「サル、ゴリラ、チンパンジー♪」と口笛を吹きたくもなると(笑)。

 ま、それは冗談として、この「戦場にかける橋」という映画自体は文化・人種の衝突を扱いつつ、その共感と交流をも描き、最後にそれをすべてぶち壊しにしてしまう戦争への批判もこめて、戦争映画史上の名作となっている。この映画のおかげで「クワイ河鉄橋」は世界中から観光客が押し寄せる名所になっているそうだし(ただし実際のモデルではなく、観光地化するために河の名前も「クワイ河」にしちゃった「ニセモノ」。映画のロケ地はスリランカである)、泰緬鉄道のことを映画で知った人が圧倒的に多い。そのことで元捕虜たちは複雑な心境であるらしいけど…ただこの映画には出てこない点として、実際には英米軍捕虜以外にその何倍ものアジア人労務者が駆り出されてもっと多くの犠牲が出ている、ということは付け加えておきたい。

 
 えーと、映画本体の話の前に背景事情の話が長くなってしまったが…
 この映画、主人公にあたるトップタイトルには、収容所を脱走して再び潜入するはめになるアメリカ兵を演じたウィリアム=ホールデンがクレジットされている。その次がそのホールデンを案内役にして橋の爆破作戦を指揮するジャック=ホーキンス。三番目にイギリス軍捕虜のリーダー、ニコルソン大佐役のアレック=ギネスとなるのだが、ストーリー的には明らかに主役はギネスだ。そしてクレジット上の扱いは軽めだがストーリー的には準主役といっていい位置につけてるのが、日本人最初の国際スター、早川雪洲。ギネスと雪舟の対立と交流とがこの映画のメインになってるのだが、クレジットの位置は俳優の格というか、ハリウッドスターが出てるから、ということなんだろう。
 早川雪洲というと、僕もこの映画でしか見たことがないのだが、若き日の無声映画時代にはバリバリのハリウッドスターだった。東洋人の悪役をやらされてたことでも知られるが、美形スターとして女性にも大人気で、全盛期にはあのチャップリンと同レベルのギャラだったと伝えられる。二枚目主役なのだが日本人のため白人女性の相手をすると身長の釣り合いがとれず、踏み台に立たせて身長差をごまかして撮影したために、そうした「かさ上げ」の撮影法を「セッシューする」と呼ぶようになったという映画史的裏話も有名だ。ただ1920年代後半になるとトーキー映画一色となり、発音に難のある雪洲はハリウッドの第一線からは退いて、戦後は日本に戻ってもっぱら日本映画に出ていた。そして久々に出たハリウッド大作がこの「戦場にかける橋」で、結果的に彼の代表作とされることになる。なんでも出演オファーが来たときはシナリオを読んで「女優が一人もいないじゃないか、これじゃ当たらない」と出演を断ろうとしたという逸話もあるそうで。

 ジャングルの奥地の捕虜収容所に連れてこられた英軍兵士たちは泰緬鉄道の橋建設に駆り出されるのだが、斉藤大佐が将校クラスにも労働させようとしたことに「ジュネーブ条約違反だ」とニコルソンが反発、機関銃で狙われたまま炎天下に起立を続けたり、「オーブン」とまで呼ばれる蒸し焼きにされそうな懲罰房入りなど、それこそ「捕虜虐待」としてあとで戦犯追及されそうな場面が続く。
 それにしてもこれは日本人の感覚なんだろうか、「兵士たちに労働を課してもいいけど将校クラスはダメ」というのにはやはり納得しがたいものを感じてしまう。しかもそれを将校自身が口にするんだから「お前がさぼりたいだけじゃないのか」と思えてしまう。もちろんジュネーブ条約にそうした規定があるのだが、同じ捕虜なのになんで差をつけるんだ、とは感じるところ。「人間の条件」のシベリア抑留でもそんなことを思ったっけ。

 ニコルソンと斎藤の「対決」は一応ニコルソンに軍配が上がることになるが、ニコルソンの方も譲って結局橋建設に協力、将校も労働にかり出すことになるからある意味おあいこ。それどころかむしろニコルソンの方が橋の建設に積極的になってしまう。
 橋が完成してから夕日を浴びつつ、その動機をニコルソン自身が斎藤に語るシーンがいい。「軍に何十年もいて、自分は何をしたのだろう」と捕虜になってみて顧みたニコルソンは、日本軍への協力とかいったことは置いといて、「橋」という形あるもの、人の役に立つものを後世に残そうとするのだ。立場もシチュエーションも異なるが、「生きる」の主人公が公園を作ろうとするのにも似ている。
 しかし、それが「味方」の手によってものの見事にブチ壊されるラストが豪快にして悲惨。原作では映画のような派手な爆破ラストではないそうで、あくまで映画的効果を狙ったオリジナルのラストなのだが、それが見事にハマってこの映画を名作たらしめ、「クワイ河」といえば小説ではなく映画のイメージで語られることにもなってしまったわけだ(そういえば「猿の惑星」も映画オリジナルのラストが強烈すぎて原作が忘れられてる)

 うーん、どうもこの映画の話になると、どうしてもアレック=ギネスと早川雪洲の話ばかりになって、「主役」のはずのホールデンに触れにくい…というか、彼だけ設定的に浮いちゃってるんだよな。
 そうそう、「戦場にかける橋2・クワイ河よりの帰還」という、「作っちゃいけなかった続編」の代表作が存在するんだっけ(未見)。仲代達矢が出てるそうなんだが、こちらはそれこそ存在自体が忘れ去られている。(2012/2/8)



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