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「日本沈没」

1973年・東宝
○監督:森谷司郎○脚本:橋本忍○特技監督:中野昭慶○原作:小松左京
藤岡弘(小野寺俊夫)、いしだあゆみ(阿部玲子)、小林桂樹(田所博士)、丹波哲郎(山本総理)、島田正吾(渡老人)、角ゆり子(花江)、滝田裕介(幸長助教授)、二谷英明(中田)、夏八木勲(結城)ほか




 秋葉原のDVD売り場をあさっているうちにフッと買う気になってしまった本作。以前にもレンタルビデオで見たことはあったのだが、特に思いいれがある映画というわけでもない。ただなんとなく「怪獣以外の東宝特撮で一本買うか」という気が起きて、気がついたら本作を手に取っていたということになる。第二候補はもちろん「さよならジュピター」だったりしたのだが(笑)。こっちも小松左京原作ですね、そういえば。
 一本の映画としての出来はともかく日本の特撮映画史上外せない作品であるのは間違いない。なんせ日本列島をまるごと、ホントに沈没させちゃったんですから(笑)。怪獣も宇宙人も一切登場せず、科学考証に一応裏づけされたハードSFであると同時にリアルな社会派シミュレーショ映画でもある。それでいて怪獣映画以上に豪快な都市破壊スペクタクルなど特撮シーンの見せ場がかなりの割合を占めている。特撮にかけた費用と気合はゴジラシリーズ以上に感じられる作品には違いない。

 小松左京の原作は未読なのだけど、とにかく発表当時大大ベストセラーになってしまい、その直後に東宝が驚くべきスピードで映画化、なんと原作発表の年の年末に公開するという強行軍をやってのけ、結果的にそれで大当たりの大ヒットとなったそうで。その辺の事情はDVDのオーディー・コメンタリー(小松左京・中野昭慶・橋本幸治各氏)で語られていて、なかなかに興味深かった。
 以前この映画を初めて鑑賞した時は特に感じなかったのだけど、今回改めてDVDでこの映画を鑑賞して強く感じたのが、この映画製作・公開時の「時代の空気」だった。なんで今回の鑑賞で初めて感じたのかといえば、やはりその間に得られた70年代初頭のさまざまな社会現象が知識として得られていたからだ。僕自身はこの世にあったのだけど当然そんな状況を理解できるはずもないお年頃でしたから(笑)、当時がどんな時代だったのかというのは割と最近になってからいろいろと知ったのだ。
 この映画に感じられる70年代初頭の時代の空気―それは、なんとなーく重く漂う「不安感」だ。60年代の高度経済成長にかげりがさし始め、水俣病に代表される公害病が社会問題となり、多くの日本人が成長の行き詰まりと将来への不安を感じ始めていた。ゴジラが「子供の味方化」していたこの時期に製作された「ゴジラ対へドラ」(1971)がシリーズ中特異な「暗さ」にあふれているのにもその空気が現れているし、なんといっても「日本沈没」発表と同じ年の1973年には五島勉の「ノストラダムスの大予言」がこれまた空前の大ベストセラーとなっちゃってるのである(こちらも東宝が翌1974年に映画化。スタッフ・キャストもかなりかぶってるが、いろいろと問題ありの映画のため現在も封印状態)。そしてこの年は第四次中東戦争による「石油危機」が起こって不安感に追い討ちをかけている。まぁ、とにかくそういう時代だったわけだ。それらを踏まえて本作を改めて鑑賞したら、そうした時代の不安感が濃厚に出た映画となっていることがよく分かる。

 冒頭、いわゆる「大陸移動説」が模型のアニメーションで示され、日本の全体像が映り、ドドーンという効果音と共に「日本沈没」の赤文字タイトル。ここからしておもーい不安感を煽り立ててくれる。そしてスタッフ、キャストの紹介と共に新幹線や通勤ラッシュ、ねぶたや竿灯などの各地の祭り、海水浴場や歩行者天国など「平和な日本の情景」が次々と映されていく。これらがこのあと失われていくことになるわけで、なかなか効果的なオープニングだ。今回はたと気がついたが、こうした「日本の情景」を映画中に織り込む手法は「八甲田山」「砂の器」など橋本忍脚本には目に付くような。とくに「八甲田山」のそれと感じが似ているような…と思っていたら、その「八甲田山」の撮影を担当した木村大作氏が、この「日本沈没」でこれら「日本の情景」シーンを撮っていたらしいんですね。さらに言えば「八甲田山」と「日本沈没」は監督もおんなじですけどね。

 未読の原作小説だがその本の厚さ(上下巻)だけは目撃したことがある。あれを2時間20分枠に収めてしまっているのだから、当然ストーリーはかなりのすっ飛ばし状態だ。映画のオープニングが終わると早速、田所博士(小林桂樹)と小野寺(藤岡弘)が初対面して海底に潜り、日本海溝の異変を目撃するわけだが、このあたりですでに1シーンか2シーンカットしたとしか思えない物語の省略がある。夏八木勲が演じている小野寺の同僚の結城なんて登場シーンを相当に切られてしまったのか、映画のあちこちにチラッとしか登場しないくせに重要人物扱いという妙な具合になっちゃっている(しばらく出てこず唐突に再登場した途端、小野寺に殴りかかるシーンには唖然とする)。さらに主役である小野寺とヒロインの玲子(いしだあゆみ)の出会いと恋に落ちるのもあまりにも唐突…というか急展開すぎちゃって(初対面の直後に海岸で水着で抱きあってると天城山が大爆発…)。これはカットのせいではなさそうだが(笑)。大阪の雑踏の中で唐突に再会するところとか、国外脱出を前にして富士山爆発で生き別れになるところとか、名脚本家・橋本忍にしてはえらくやっつけ仕事という印象がぬぐえない(笑)。
 総じて言えば主人公であるはずの小野寺周辺の話はどうでもいい気がする。この頃からやたらに濃い顔(笑)の藤岡弘は存在感は確かにあるんだけど、いち潜水艇操縦士が日本沈没という大変動の中でやれることなんざ限られてるわけで、劇中でもほとんど傍観者でしかない。このあたり、東宝特撮怪獣映画の人間ドラマ部分の主人公が伝統的に陥りがちなパターンに見事にハマっている、という気もする。

 この映画で「主役」の座にあるのは、まず「災厄の予言者」になってしまうマッドサイエンティスト風の田所博士、そして国そのものが「消失」するというまさに空前絶後の「国難」に当たる事になってしまった山本総理(丹波哲郎)だろう。特にこの映画では丹波哲郎の山本総理がいちばん観客の感情移入を招くのではなかろうか。ちょっとヒゲを生やしたあたりとか、この総理大臣、当時の田中角栄を意識している気がするのだが、どうなんでしょう。
 そしてこの作品の「影の主役」ともいうべき存在が、箱根に隠れ住む「渡」なる百歳の老人(島田正吾)。この老人、山本総理を総理の地位につけただけでなく、どうやら明治以来日本の政界の影にあって裏から日本を動かしてきた人物らしい。こうした設定キャラクターは山本薩夫監督の「不毛地帯」だったか「華麗なる一族」だったかにも言及のみながら登場していたし、他にも似たような設定の人物がフィクション中に出て来る例はすくなくない。当HPの「史劇的伝言板」でもこの件が話題になり、どうもこのオカルトチックな「都市伝説」の元ネタは昭和初期まで沼津にあって政界に影響力を持った元勲・西園寺公望らしいという話も出たっけ。
 それはともかくこの渡老人は田所博士の「直感とイマジネーション」による地殻変動説を受け入れ、私財を投じて極秘のうちに調査機関を設置、田所博士の調査に協力することになる。この時に田所博士が「大陸移動説を提唱したウェゲナーは学界に受け入れられず世間に笑い者にされて寂しく死んだ。だが現在その説を疑う者はない」という主旨のことを言うのだが、これ、ちょっと気になるんですよね。この大陸移動説の話は学者連中に相手にされないトンデモ説を唱える方々がしばしば引き合いに出す話なもので…一応この脚本でもチラッとは言ってるけど、大陸移動発生のメカニズムが説明できなかったために学界から認めてもらえなかったのであって、とくに相手にされなかったわけでもなく発表じたいは公の学術会議の場で行われたものだったと聞いている。

 ともあれ日本沈没がなんと「8ヵ月後」と判明し、日本政府は国民を海外に脱出させるべく大作戦を開始する事になる。しかしなんといっても1億人の人間が脱出するという大事業。移住される側も迷惑なことこの上ない話なのは当然で、劇中でも何百万人もの受け入れを求められたオーストラリア首相が渋るシーンなんかがある。最終的には日本政府の尽力と人道的見地からの国連や各国の支援があり3分の1ぐらいは海外に脱出して命を永らえることになるのだが…。この辺は国際政治シミュレーションものとしての面白さがある。
 小松左京の原作は実際にはこのあと、祖国を失った日本民族がどうなっていくのかを描くという構想があったらしい。結局それは書かれずじまいで映画も脱出の時点で終わっているのだが、皇室を脱出させる件について妙に詳しく描くあたりなど、「日本人とは何か」を描こうとしたんじゃなかろうかと思わせる場面はいくつかある。渡老人が僧侶や哲学者などに「日本民族の将来」についてまとめさせ、その中で「何もせんほうがええ」という意見も出てきたりするところも映画の見せ場の一つだ。

 見せ場、といえばそこは東宝特撮映画、今や死滅しかけているミニチュア都市破壊の特撮シーンがスペクタクルの見せ場となっている。とくに前半のクライマックスである東京大震災のシークエンスは「怪獣によるものではない都市破壊」として今見てもかなりの迫力。高速道路やビルの壊れ方なんかは専門家の監修も受けたというだけあって、その後の阪神大震災時の光景を予見していたところもある。ただ中野昭慶特技監督のお得意、というか「クセ」である、オーバーな爆発表現(建物に火が回ると確実にドカーンと爆発を起こし、しかもそれがドドドドドと連鎖していく)に失笑を覚えてしまう向きも少なくないだろう。
 だがこうした特撮カットと本編部分の被災者たちの惨状をうまく組み合わせることによって「震災」の凄まじさを表現することには結構成功していると思う。そうした惨状の描写にもこの時代特有の悲壮感、暗さがつきまとっているように感じるんだよね。崩壊したビルの窓ガラスの破片が顔に刺さって血まみれになったり、自動車が衝突・炎上して火だるまになったり、「火さえ出さなければ!」と言ってるうちに高波に飲み込まれてしまう人々の描写は、今見ると「リアル」というよりはホラー映画的見せ物感を覚えてしまう。

 特撮の見せ場は破壊シーンだけではない。僕なんかはむしろ冒頭の海底航行シーンのリアルさに魅せられてしまった。どういう風に撮ったものかはわからないが、いかにも海底を進んでいるという感じのミニチュア潜水艇と、日本海溝の底の「乱泥流」の描写は、実際にこんな風に見えるものかどうかは別として少なくとも映像的には実にリアルで美しい。

 やたらと飛び飛びのストーリー、ペシミスティックではあるけどどこか安っぽい見せ物的スペクタクルなど、ツッコミどころの多い映画ではあるが、原作も売れまくった当時の気分を反映して映画ファン以外の層も劇場に足を運ばせ、大ヒットだったのは事実らしい。僕自身もツッコミを入れつつ、なぜか繰り返し見たくなる不思議な魔力を持つ映画ではある。(2005/3/19)



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