映画のトップページに戻る

「ゴジラVSキングギドラ」

1991年・東宝映画
○監督・脚本:大森一樹○特技監督:川北紘一○音楽:伊福部昭○製作:田中友幸
中川安奈(エミー・カノー)、豊原功輔(寺沢健一郎)、小高恵美(三枝未希)、チャック=ウィルソン(ウイルソン)、佐々木勝彦(真崎洋典)、西岡徳馬(藤尾猛彦)、小林昭二(土橋竜三)、土屋嘉男(新堂靖明)ほか




 本作が、僕が初めて見た怪獣映画だ。それもだいぶ大人になってからのこと。もともと特撮映画、SF映画には興味はあるもののあまり見てはいなかった。「ウルトラマン」シリーズなんかで怪獣にはなじみのある世代ではあったのだが、怪獣映画についてはとんと見たことがなかった。だいたい子供のころはちょうどゴジラ映画がストップしていた時期でもある。1984年に復活版「ゴジラ」が製作され、その後「VSビオランテ」を知人がベタ褒めしていたこともあって、ちょっと興味をもったものの結局見には行かなかった。
 何を見に行った時か忘れたのだが、劇場に他の映画を見に行った時にこの「VSキングギドラ」の予告編を見た。キングギドラの名前ぐらいは知っている、という程度の僕なのでゴジラとキングギドラがまた戦う怪獣プロレス映画を作るのか、と半分バカにしつつ見ていたら、タイムトラベルだの、太平洋戦争に恐竜出現だの、未来人の陰謀だの、UFOを思わせる数々の未来メカにロボット、さらには「メカキングギドラ」まで登場して、当時まだできたばかりの新宿の新都庁をバックに派手な光線バトルを繰り広げる、といった一連のシーンを目にして、「おいおい、なんだか面白そうじゃないか」と思っちゃったのである。で、生まれて初めて劇場に足を運んで怪獣映画を見ることになり、さらにはその一作でドはまりしてしまってゴジラ映画を次々と見ることになってしまったわけだ。その意味では僕にとって「運命の一本」である。

 ストーリーは前作「VSビオランテ」から続いている(承知の方も多いだろうが、新「ゴジラ」以降の平成ゴジラシリーズはストーリーにつながりがある)。ビオランテに敗れてゴジラが日本海に消えて数年後、日本にUFO出現が相次ぐ。富士の裾野に着陸したUFOに乗っていたのは、なんと23世紀からタイムトラベルしてきた未来人だった。ウィルソン(演:チャック=ウィルソン)やエミー・カノー(演:中川安奈)ら未来人たちは将来日本がゴジラにより破壊されることを日本政府に告げ、ゴジラをその発生以前の段階で抹殺してしまおうと提案する。一方、科学(オカルト系?)ライターの寺沢(演:豊原功輔。「ビオランテ」に続く出演で、端役から実質主役への大抜擢)は太平洋戦争中に日本兵がゴジラによく似た恐竜を目撃していた事実を知り、その恐竜が水爆実験によりゴジラに変身したのだという仮説を立てていた。未来人は寺沢やゴジラと縁のあるエスパー少女・三枝未希(演:小高恵美)を連れて太平洋戦争中の南方の島・ラゴス島へタイムトラベルし、島にいた恐竜をベーリング海へテレポーテーションさせゴジラを歴史から「抹殺」してしまう。
 ところが、未来人が島に連れて行ったペット動物「ドラット」が代わりに水爆実験の放射能を浴びて「キングギドラ」に変身、未来人に操られて1990年代の日本各地を攻撃する。実は未来人たちの真の狙いは将来世界を支配する経済大国となる日本をそれ以前の段階で衰退させ、歴史を変えることにあったのだ。キングギドラに対抗できるのはゴジラだけ、しかしそのゴジラは抹殺されてしまった。ではベーリング海に沈む恐竜を放射能でゴジラにしてしまえばいい、とかつて戦場でゴジラに救われ、戦後日本を復興させた大企業グループの総帥・新堂(演:土屋嘉男)は自らがもつ原子力潜水艦をベーリング海へ派遣する。しかしゴジラはいつのまにか「復活」していた…

 うーん、こうあらすじを書いていてもなんだか混乱してくるな(笑)。やたら錯綜する込み入ったストーリーなんだけど、見ているうちはそれほど矛盾も感じず、次々と変転する状況を面白がって見てしまうのだから、映画のシナリオとしてはなかなか秀逸なのだと思う。
 タイムトラベルものにはどうしても矛盾がつきまとうものだが、この映画ではとくにその矛盾が目につく。ハッキリ言ってし、ツッコミどころ満載である。ゴジラを恐竜の段階で抹殺するのはいいとして、なぜわざわざ現代人を連れてゆくのか、テレポーテーションなんかさせずに殺しちゃえばあとの苦労はないじゃないか、そもそもゴジラなんかかまわずに最初からキングギドラを発生させればいいじゃないか、ゴジラが「もともといなかった」歴史に生きる人がなぜかゴジラはもちろんキングギドラのことまで最初から知っているのはなぜなんだ、過去の歴史を変えたら未来人たちの存在そのものが危うくならないか、タイムトラベルのくせにラストでギリギリに遅れて登場するのはなぜ?…などなどなどなど、ツッコミだすとキリもないほど「穴」の多いストーリーだ。

 だがなぜかそれでも面白く見てしまえる(もちろんどうしても気になって面白くない、という方もいるだろうが)。冒頭のUFO連発が実は未来人というオープニングの衝撃から始まり、ゴジラを歴史から抹殺するというアイデア、太平洋戦争に恐竜乱入という前代未聞のシーン、キングギドラの出現に人間の方がゴジラ復活を企て、ゴジラがキングギドラを倒すと今度はゴジラを倒さなきゃいけないってんでキングギドラを改造してリターンマッチ、というホントによく考えたもんだと思う目まぐるしい展開で、「えー、そうなるの?」と驚くうちにあれよあれよとジェットコースターのように勢いに乗せられてしまうのである。こういう目まぐるしさはシリーズ中でも他に例がない。そもそも巨大怪獣の設定自体がオオウソなので、開き直って面白そうな展開をブチ込んじゃった感じだが、それが決して失敗していないのは稀有な例だと思う。
 いろんな要素をやたらに詰め込むという点ではかつて1960年代に絶頂期だった東宝特撮映画の伝統を汲んだものと言える。キングギドラの再登場ということもあって、「三大怪獣地上最大の決戦」「怪獣大戦争」に似ているという指摘もある(特に陰謀がらみのストーリーで後者)。脚本を書き、監督もしている大森一樹自身も言ってるが、SFトリックものや超兵器もの、さらには戦争映画まで(ほんのちょっとだがミニチュア戦艦も映る)、かつての東宝特撮のジャンルを全て詰め込んだ内容にもなっている。
 それに加えて、タイムトラベルを持ちこんだのは「バック・トゥ・ザ・フューチャー」からのいただきだし、アンドロイド「M11」はあからさまに「ターミネーター」(そういやタイムトラベルものでもあった)だし「トータルリコール」も入ってる感じ。こうしたハリウッド製SFヒット作からの「引用」の挨拶として、「スピルバーグ少佐」(演:有名になる前のダニエル=カール!)なんてのが出てくる。こういうシャレは日本映画には珍しいと思うのだが、ゴジラ好きと聞くスピルバーグ当人がどう思ったか興味のあるところ。

 怪獣映画の脚本作りで難しいのは、人間ドラマ部分をどうするかという点。とくにゴジラと他の怪獣が戦うバトルものでは人間たちはどうしても傍観者になってしまうため、自然にドラマを組みこませるのがかなり難しい。作品ごとにいろんなアプローチをしているがどうしても「本筋」にはなりにくいのだが、この「VSキングギドラ」はメインを未来人の陰謀という設定にしたことで怪獣同士のバトルと人間同士のバトルが同時進行する展開になっている。しかもしまいには一方の怪獣を人間が操縦してゴジラと戦うことになり、こういうシチュエーションは怪獣映画史上でも初めての試みだった。怪獣を操縦してのこととはいえ人間がゴジラと直接対決しちゃったのだ。このあと「VSメカゴジラ」「VSスペースゴジラ」など同様の場面があるけど、やはり最初にやったモン勝ち。
 当時まだできたばかりの東京都庁を破壊しながらの二大怪獣の大バトルは巨大なミニチュアセットにカメラワークの巧みさ、ビル内からの合成カット(時任三郎が特別出演!)もあって何度見ても見飽きない大迫力。川北紘一特技監督の得意とする「メカ描写」と「光線の応酬」が最も効果的に決まった名場面だと思う。今から見れば初期的なものだが、CGとの合成カットも当時は結構新鮮だったし、割と自然に溶け込んでいる。

 そしてその大バトルの直前、恐竜だったころに因縁のある新堂とゴジラが「対面」する場面も異例の名場面。もともと言葉をかわせるはずもない両者だが、ビルの窓越しに同じ高さで見つめ合い、万感の思いを交わし合う。意図が通じてるのかどうか、ゴジラが目を閉じ、物思いにふけるような演技を見せるのも見逃せない。放射能で怪獣にしたり戦わせたり排除したりする人間の勝手ぶりに対する怒りをぶつけるかのようにビルごと吹っ飛ばしてしまうわけだが…ともあれ、僕が「土屋嘉男」という俳優の名前を意識したのは本作が最初で、以後東宝特撮や黒澤映画の名作の数々で「あ、この人だったか!」と思い知らされることになる。
 土屋嘉男も東宝特撮の顔の「復活」だったわけだが、音楽に伊福部昭が本作でかなり久々にゴジラシリーズに復帰しているのも注目点(前作「ビオランテ」でゴジラテーマのみ使われた)。僕はこの映画で「怪獣映画初体験」をしちゃったため、「伊福部節」もこの映画で初めて聞くことになった。劇中要所要所であのゴジラテーマ(チャララ、チャララ、チャラチャラチャララララ…♪)が鳴り響き、エンドクレジットでも実にカッコよく流れるものですっかり感動してしまい、このあと一作目「ゴジラ」を見たらオープニングから同じ曲が流れて「えっ、こんな大昔から同じ曲なのか!」とのけぞった覚えがある(笑)。今にして思うとこの「VSキングギドラ」で怪獣映画初体験をし、そのままのめり込んでしまった大きな要素に伊福部節の存在があったような気もする。

 さて本作は「未来の日本が経済大国として世界を支配している」という設定が出てくる。1991年製作の映画であり、まだ日本は「バブル景気」にわいていた(崩壊の直前だったけど)。後年大森監督自身が「このまま行くと日本はどうなるのか」という危機感があったと明かしていて、新堂の企業が原潜を持っているという設定も当初は日本政府が実は核兵器をひそかに持っていたというもっとアブない設定だったのだそうだ。その後の歴史の展開を知る鑑賞者はこの映画の設定に今一つリアリティを感じないかもしれない。「その後」といえば、劇中に「ソビエト」が23世紀にもあるというセリフがあるが、この映画が公開された直後の1991年12月25日にソビエト連邦は解体されてしまっている。製作中に反ゴルバチョフの三日天下クーデターは起きていたが、まさかソビエトそのものがなくなるとは思わなかった、と監督が語っている。怪獣映画もまたその時代の証言者であるわけだ。
 時代、といえば、未来人のセリフで「20世紀には地球のどこへ行っても核がある。愚かな時代だ。救いようのない原始人どもだ」というのがある。23世紀の未来では核エネルギーは廃棄されたらしく、悪役まわりの未来人たちから現代人への痛烈な皮肉となっている。原発事故がまた起きちゃった今日、またいっそうの重みがある。

 タイムパラドックスのいい加減さ、キングギドラの新解釈などで批判する向きも多く、かなり賛否が分かれる一本であることは承知しているが、僕にとってはこの「VSキングギドラ」がやっぱりシリーズベストだ。「ファーストコンタクト」のインパクトということもあるんだろうけど、日本にもこんなセンスのSF映画が作れるのか、などとまだ日本特撮映画史を全然知らない僕は劇場で感心したものだ。この一本がきっかけでその後東宝特撮映画を見まくることになってその方面もいくらか詳しくなったのだけど、今でもその評価は変えていない。今や渋い脇役として豊原功輔さんがあっちゃこっちゃで出演しているのを見るとついつい嬉しくなっちゃうのもこの映画が好きだからでもあるのだ。(2012/6/16)




映画のトップページに戻る