映画のトップページに戻る

「アイ,ロボット」
I,ROBOT
2004年・アメリカ
○監督:アレックス=プロヤス○脚本:ジェフ=ヴィンター&アキヴァ=ゴールズマン
ウィル=スミス(デル=スプーナー)ブリジッド=モイナハン(スーザン=カルヴィン博士)アラン=テュディック(サニー)ジェームズ=クロムウェル(アラフレッド=ラニング博士)ブルース=グリーンウッド(ロバートソン)ほか


 

 「原作」ならぬ「原案(Suggested by)」という扱いで「アイザック=アシモフの著書」が挙げられている。アイザック=アシモフ(Isacc Asimov。「アジモフ」という読みが本来正しいが日本では「アシモフ」で定着している)とは知る人ぞ知るSF小説史上の巨人で、とくに1940年代から50年代にかけて「ファウンデーション・シリーズ(銀河帝国興亡史)」のような壮大な未来史や、自身の発明になる「ロボット三原則」を駆使したロボット小説群によってSF史上に重大な足跡を残した。一時SFから遠ざかって科学読み物を大量に執筆したが80年代から本格的に小説執筆を再開し、「ファウンデーション」と「ロボット小説」を融合させるというライフワークに着手し、その途上で1992年にこの世を去っている。最近では「トリビアの泉」のオープニングでトリビアマニアでもあったアシモフが紹介されたため彼の名と顔を覚えた日本人も多いだろう。アシモフについては本サイト内に専門コーナーがあるので詳しくはそっちを参照のこと(笑)。
 そのアシモフの代表作の一つに「I,ROBOT」がある。これは彼の初期のロボット小説を編集して、「ロボット発達史」の形でまとめたもので邦題は「わたしはロボット」(創元社)、「われはロボット」(早川)、「アイ、ロボット」(角川)などいろいろつけられている。今度のこの映画はタイトルこそ同じだがあくまでエッセンスのみを借用したもので「原作」と銘打つわけにはいかない、ほとんどオリジナルの内容となっている。

 SF史上に名高いアシモフだが原作が映画化されたケースは少なく、名作「ミクロの決死圏」のノヴェライズを担当したとか(のちに映画化を想定した続編も執筆したが映画化に至らず)「スター・トレック」の映画版第一作にアドバイザーとしてクレジットされているといった程度が生前の映画との縁だ。もちろん人気作家だからその原作の映画化権が買い取られてはいたが、ロボットとか大河未来史といった映像化に不向きな内容が多いこともあって(面白くないわけでは決してない。読んでみると不向きな点がわかる)企画が実現にいたったことはほとんどない。その死後しばらくたってからポツポツと映画化企画が実現に向かってきて、最近ではクリス=コロンバス監督、ロビン=ウィリアムズ主演のロボットもの「バイセンテニアルマン(邦題:アンドリューNDR114)」が製作されている。これは思った以上に原作に忠実な映像化(さすがに原作は短編なのでいろいろと追加要素があったが)だと感じたが、いかんせんロビン=ウィリアムズにロボットコスプレをさせるのは無理があった(笑)。
 そして今度の「アイ、ロボット」につながるわけだが、企画発表時点で原作小説の映像化ではなく題名とエッセンスだけ拝借した、あくまでウィル=スミス主演のアクションSF映画であることは明らかだった。年季の入ったアシモフファンとしては期待半分、不安半分で公開を待っていたわけだが…少なくとも「アンドリュー」の時よりは当たると踏んで宣伝も派手でしたね。

 舞台は2035年のシカゴ。ロボットは人間にとって日常的にそばにいて人間を手助けしてくれる、空気のように当たり前の存在となっており、ロボット企業「USロボティックス社」はさらに優秀な新型家庭用ロボット「NS-5」の一斉発売を準備していた。ロボット達は「三原則」によって人間に絶対に危害を加えないはずなのだが、なぜか主人公のスプーナー刑事(ウィル=スミス)はロボットに不信感を抱き、ロボットの行動を犯罪と勘違いして騒ぎを起こしたりしている。そんな中、「USロボ」社の研究員でスプーナーも旧知のアルフレッド=ラニング博士(J=クロムウェル)がUSロボ社の本社ビルで謎の墜落死を遂げる。捜査にあたったスプーナーはラニング博士の部屋にいたNS-5型ロボット「サニー」が「三原則」に反して殺人を行ったのではないかと疑い、やはりUSロボ社のロボット心理学者であるスーザン=カルヴィン博士(ブリジッド=モイナハン)の協力を得て謎解きを進めていく…

 とまぁ、ストーリーの概要を書けばこんな感じ。改めて書くが、このストーリー自体はまったくの映画脚本オリジナルのもの。ただし「USロボット社」やラニング博士、カルヴィン博士は実際にアシモフのロボット小説にレギュラーで登場するファンにはおなじみの存在だ。設定こそかなり違うがこの名前が出てくるだけでもアシモフファンとしては楽しめる。もちろんラニング博士が謎の死を遂げたりなんかしないし、ロボ心理学者のカルヴィン博士もこの映画みたいなクールビューティーではなく明らかに「不美人」の設定なんだけどね(小説をお読みいただくと分かるがこの点はしつこいほどに繰り返し書かれている)。ただカルヴィン博士の人間よりロボットに愛情を感じるキャラクターは生かされていたし、僕がひそかに危惧していた主人公とのラブシーンなんかは展開しなかったので、原作のファンでもあるらしい監督や脚本家の誠意にホッとしたところではある。
 他にも「われはロボット」以外のアシモフ作品の影があちこちに散りばめられている。ロボットに不信感をもつ刑事スプーナーのキャラクターはSFミステリーの傑作「鋼鉄都市」の主人公イライジャ=ベイリを髣髴とさせるし、ロボット「サニー」のキャラもどこか同じ「鋼鉄都市」に登場したロボットの相棒ダニール=オリヴォーを連想させる。そもそもロボットがからんだ密室殺人が起こるという設定自体が「鋼鉄都市」とその続編シリーズからの拝借としか思えない。ちょっとしたドンデン返しの要素が何箇所かに仕掛けてあるのもドンデン返しが大好きだったアシモフ作品へのオマージュかもしれない。

 と、この辺まではスタッフ自身もアシモフファンゆえの原作への敬意だったと思うのだが、肝心の「三原則」の扱いについてはやっぱり「ハズしてしまった」としか思えない。ここらへんが娯楽映画の娯楽映画たるところで、物語の後半ではロボット達が人間に逆らって「大反乱」を起こしてしまうスペクタクル・アクションが展開されるのだが、アシモフ世界ではこんなことまずありえない。一応映画の方もロボット達が反乱しつつ殺人はしていない様子だし、実は黒幕がいるとか言い訳めいた設定はあるのだが、やっぱりSFとしての三原則の「お約束」は映画を面白くするために適当に扱われてしまった…とアシモフファンとしては残念に思う。


 以下、重大なネタばれ注意報発令。




 この話、結局のオチはロボットが人間の敵なのではなく、そのロボットたちをコントロールしてしまったUSロボット社のコンピュータ(模造人格らしきものも持ってる?)が人間の隷属化あるいは抹殺(少数にしてコントロール)を図ったということになる。なんでそんなことをしたかといえば、コンピュータは人類の過去の歴史をふまえて「人間は放置しておくとろくなことをしない」と判断、「人類の未来のため」に人間を少数化して管理しちゃおうという結論に達したわけだ。この手のアイデアは以前NHKが唐突に作ったSFドラマでも使っていて特に新鮮味はないのだが、いくつかの映画評でこの点を妙に高く評価する意見があったのは僕には気になった。どうも「コンピュータ不信」の方々にはこの手の設定は嬉しいものらしいし(笑)。

 アシモフにちょっと詳しいと思われる映画評ではアシモフが後期の小説中でロボット三原則に追加した「第零原則」の要素が入っている、と書かれていた。「第零原則」とはロボット三原則の第一条「ロボットは人間に危害を加えてはならない」よりも優先する、「ロボットは“人類”に危害を加えてはならない」というもの。つまり一個人の人間よりも人類全体の利益を優先させるという、受け取りようによっては全体主義的とも言える条項だ。これは実際に小説を読んでいただいたほうが理解できるのだが、ロボットが単なる人間のサポート役ではなく人類全体の庇護者にならなければならない展開が出てきてロボット自身がこの「第零原則」を追加することになる。アシモフ自身もこのアイデアの扱いに苦労していた節もあるんだけど、そう単純に人類管理とか抹殺とかにいけるものではないので取り扱いには御注意を。

 ところでこの映画、ラストだけは、アクション映画のそれとしては意外にSFチックに不思議な余韻を残す謎な終わり方になっている。「サニー」が見たイメージそのままのラストカットは、その後の人類とロボットの共存関係を暗示するものらしい…が、あえて解答は示していないのだろう。印象的ないいラストだとは思うのだが、それまでの映画の展開からすると浮いちゃっているような気もする。「この映画のあと小説『われはロボット』に続いて行くのだ」みたいな発言を監督がしていた覚えがあるが…

 

映画のトップページに戻る