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「華氏451」
Fahrenheit 451
1966年・イギリス
○監督:フランソワ=トリュフォー○脚本:ジャン=ルイ=リシャール/フランソワ=トリュフォー○撮影:ニコラス=ローグ○音楽:ベルナール=エルマン○原作:レイ=ブラッドベリ
オスカー=ヴェルナー(モンターグ)、ジュリー=クリスティ(リンダ/クラリス)、シリル=キューサック(隊長)、アントン=ディフリング(ファビアン)、ビー=ダッフェル(老婦人)ほか




 SF小説界で「巨匠」と呼ばれる作家のうち、最後の一人となっていたレイ=ブラッドベリがつい先日91歳で亡くなった。オバマ大統領まで追悼コメントを出したほどの「国民作家」でもあったわけだが、僕はとうとう御本人が亡くなるまでその著作を読んだことがなかった。「SF三大巨匠」と呼ばれたアシモフ、クラーク、ハインラインはいろいろと手をつけていたのだけど、ブラッドベリはついつい…そんなわけで亡くなった直後から代表作「火星年代記」を読み始めている。

 ブラッドベリのもう一つの代表作とされるのがこの映画の原作となった「華氏451度」だ。日本では「摂氏」の温度を使ってるのでピンと来にくいが、アメリカでは「華氏(ファーレンハイト)」の温度が使われていて、華氏451度は摂氏233度にあたり、紙が自然発火する温度を指す。「ものを考えること」が統制され、その元凶となる「本」が禁じられて発見され次第焼かれてしまう未来社会をこの温度で現した名タイトルで、マイケル=ムーアが911テロ後のアメリカ社会を批判的に描いたドキュメンタリー映画のタイトルを「華氏911」としたのもこの有名な小説の内容にひっかけたもの。もっとも「華氏911」が公開されて議論を呼んだ当時、ブラッドベリ自身は「私の小説とその映画は無関係だ」と批判的なコメントを出していた記憶がある。

 さて僕は原作小説の方は読んでないので、あくまで映画を見ただけで話をする。こういう原作つきの映画って、昔の角川映画のキャッチみたいに「見てから読むか、読んでから見るか」と迷うのだけど。
 さして遠くない未来。主人公のモンターグ(演:オスカー=ヴェルナー)「消防士(ファイヤーマン)」である。彼らの仕事は火事を消すことではなく、禁じられている「本」の存在を知ると消防車で現場へ駆けつけ、「本」を摘発してそれをその場に山と積んで火炎放射器で焼き払うこと。「昔の消防士は火を消してたんだってね」というやりとりは、英語の「fireman」でないとピンとこないところ(一種のシャレなんだよね)。どういう政治体制の国家なのかは映画では分からないが(たぶん原作でも書いていないんじゃないか)、とにかく物を深く考えることが禁じられ、そのために本そのものが禁じられている。どうやら文字を読む能力自体はなくしていないらしいが(モンターグも本を読める)、チラッと出てくる学校教育の様子からすると最終的にはそれもなくす方向みたい。映画冒頭のスタッフ・キャスト紹介も文字表示ではなく音声での読み上げになっていて、その背景には住宅の屋根にあるテレビ用アンテナが映されるのも、「文字が禁じられる社会」を象徴したものだ。

 この映画はもちろん原作について「政治的に言論統制された未来社会」を描いたとよく聞いていたのだが、この映画冒頭からして「どうも違うんじゃないか」という気はした。最近になってブラッドベリ自身が「これは国家による検閲ではなくTVによる文化破壊を描いたもの」と発言していたことを知って腑に落ちた。映画のオープニングのTVアンテナ群はあきらかにその意図を汲んだものであり、映画の途中で出てくる「双方向TVドラマ」の描写の空々しさもその印象を強く打ち出している。本をこよなく愛するブラッドベリとしてはTVの普及は「文化破壊」そのものに見えたのだろうなぁ、と。発表が1953年であることも念頭に置いた方がいいだろう。
 映画は1966年公開だが、さすがに今見るとこのテレビの描写はあまりにも古臭く、「はぁ?」と思ってしまうところ。「大画面の薄型双方向テレビ」と書けばかなり正確な未来予測だったとも思うのだけど、この映画に出てくる「視聴者参加の双方向ドラマ」の描写にはもうちょっとどうにかなんらんかったか、と。フェイク映像の報道により事実を隠ぺいするあたりなんかはよく出来てたとは思うけど。リメイクの噂もあるので今ならもっとリアリティある描き方になりそうだ。
 また、今になってしまうと「本」という形態そのものが変化してしまった。昔ながらの「書籍」の形をしている必要はなく、文字情報はありとあらゆる形で世の中に氾濫している。それはともすればTVなど映像メディアより影響力をもって、「よく考えることをしない」厄介な存在になってきてるところもある。だからこの映画を21世紀の今見てしまうと、作り手たちのTV=悪、本=善のような単純な描き方にはかなり疑問も感じてしまう。

 ただ、ブラッドベリの他の小説もそうだがたぶんにSFというより「寓話」であり、そういうツッコミ自体が的外れ、という意見も出そうだ。TVに限らず、情報が氾濫することでかえって物をよく考えずに単純化してしまう問題は現実にあるし、物を深く考えることをしないほうが悩みもなくてハッピーになれる、という指摘はあらゆる方面で現実に突きつけられてる問題だ。また僕はこの映画でむしろ怖いと思ったのは、強力な政治権力による言論統制ではなく、一般大衆が「本を読むこと=考えること」を警戒して、すすんで弾圧に協力してしまうところ。こっちの方にむしろ多大なリアリティがあり、本当のファシズムとはヒトラーだのムッソリーニだの個人がやることでは決してないんだと良く理解できる。ま、映画はキャラクターも限られるせいもあってその辺がやや説得力を欠いていたけど。

 あと映画では本来本を焼く側だったモンターグがどうして本に興味を持ち、最終的に弾圧される側にまわってしまうのかがイマイチよく分からない。モノレールでみかけた妻に似てるけどもっと魅力的にみえる女性(演:ジュリー=クリスティの二役がお見事)が本好きだったから、という単なる浮気心の話に見えなくもない(笑)。
 このモンターグの仕事の場面をはじめ、やたらと本が燃やされるシーンが出てくるのだが、これ、本物の本を焼いちゃってるよねぇ?全部が本物でもないんだろうけど、アップで燃やされてるのは本物っぽい。僕も本好きなので、このシーンを見ていると「ああ、もったいない…」と泣くほど悲しくなってしまう。もちろんそう思わせるのが作り手の意図なんだけど、そのためにどれだけの本が焼かれてしまったことやら。その意味では「焚書映画」には違いない(笑)。

 原作もそうなのかもしれないが、未来社会とはいえ舞台となっているのは中世のたたずまいさえ感じさせる落ち着いたイギリスの田舎町。さすがに一部近代的な建物も出てくるけど、「隠れ図書館」になっていた家はかなりレトロぶり。学校も消防署もずいぶんアナログな印象だったし、作品の意図からするともっと無機質な未来描写にしてもよかった気がするのだが、全体的にノスタルジックな、「懐かしの風景」が広がってしまった映画でもある。
 ところで実は重要な大道具になっている、あのモノレールが何なのか、気になってしょうがない。映画のためにわざわざ作ったにしては延々と遠くまで延びてるし、実際に運行しているものにしては周囲が田舎くさい上に駅じゃなくて直接地面に階段下ろして乗降する仕掛けになってるし…。この映画中、SF仕掛けなのはこのモノレールぐらいなのでよけいに気になる。
 あ、いやいや、もう一つ、唐突に出てくるSF描写がある。終盤、逃亡したモンターグを追跡する警察官(?)たちが飛行装置らしきものを腰につけて空を飛ぶシーンがある。ここだけ合成特撮が見られるのだが、ここまでの展開からするとなんでわざわざ、と思わなくもない。


 以下、ラストのネタばれこみ。
 最後にモンターグは森の中に逃亡し、そこでは弾圧を受けた本愛好者たちが自然に囲まれて暮らしている。本を持ってると弾圧されるってんでモノとしての本は放棄、絶対に奪い取られる心配のない頭の中に本を記憶してしまっている。一人ひとりが一冊の本を担当して丸暗記し、その本のタイトルで呼ばれている。もちろん寿命はあるので、次の世代にその丸暗記した内容を伝えていくのだ。いろんな「本人間」が出てくるのが微笑ましく(日本語がチラッと聞こえるのだが、何の本?)、その中にブラッドベリの「火星年代記」もいる、という楽屋オチも楽しい。そうか、人類はかつて全て口伝えにしていたのを文字を発明したことでその手間を省いて文明を進展させたのだが、今度は文字を捨てて口伝えに戻るわけか、などと文明史的考察をしてしまうラストシーンで、文字が発明された当時も「これでは人間は物を深く考えなくなってしまう!」と騒いだ人がいたんだろうなぁ、なんてことまで考えてしまった。
 
 ついでながら、「火星年代記」を読み終えたところ、その中の一編に「華氏451度」とリンクするものがあった。地球で本が禁じられ、ある本愛好家が弾圧を逃れて火星に移住したら、そこにも弾圧の手が及んで…というお話。その話では本の弾圧はまず漫画から始まり、次第に対象を拡大していって気が付いたら全部禁じられていた、となっていて、何やらどっかの都の条例のことを連想してしまった。
 映画「華氏451」の中では新聞から文字が消えて、一面に漫画が載ってるカットがある。こちらについては漫画をバカにしとらんか、と思ったけど。(2012/7/11)




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