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「メトロポリス」

1927年・ドイツ
○監督:フリッツ=ラング○原作・脚本・製作:テア=フォン=ハルボウ○撮影:カール=フロイント/ギュンター=リッタウ○特殊技術:オイゲン=シュフタン○美術:オットー=フンテ/エリック=ケテルフート/カール=フォルブレヒト
ブリギッテ=ヘルム(マリア)グスタフ=フレーリッヒ(フレーダー)アルフレッド=アベル(フレーダーセン)ルドルフ=クライン=ロッゲ(ロートヴァング)ほか




1927年公開。この文章を書いている2011年から見れば実に84年も前の作品だ。公開当時に劇場で見たという人はほとんど生きていないんじゃなかろうか(現時点での世界最高齢の方で当時20歳前後)。映画の中の時代設定となる2026年(製作段階の100年後)のほうがグッと近くなってきてしまっている。
 1927年というと、昭和2年。日本では昭和恐慌が始まった時期だ。世界恐慌はその2年後の1929年に発生することになるのだが、まだこの時点ではとくにアメリカは「資本主義の永遠の繁栄」を信じてバブルに踊っていた。それをふまえてこの映画を見ると、地上世界で繁栄する摩天楼は当時のアメリカをSFチックにしたものであり(実際ラング監督はニューヨークの摩天楼をイメージして製作している)、実はその奥深くでは破綻の芽がじわじわと吹き始めていることを予見していたようにもみえる。
 そういう社会背景的なことは置いといて、1927年という段階でこれだけの「SF大作」が作れたことに80年後の自分が見ても驚かされる。もちろん1927年当時のSFなので、今から見ればいろいろツッコみたくなる描写も見受けられるが、映画全体にちりばめられたイメージやデザインは今見ても新鮮だし、実際その後のSF映画に与えた影響も多大だ。有名なところでこの映画に出てくる人造人間のデザインが「スターウォーズ」C-3POにダイレクトに引き継がれている、というのがある。手塚治虫が「メトロポリス」というそのまんまのタイトルの漫画を描き(人造人間が出てくる点も共通)、のちにアニメ映画化されているというのも有名。

 この映画、なにせ古い上にオリジナル版は3時間半もの長さになっていたため、アメリカをはじめ世界公開の際に2時間程度に縮められ、さらに世界中でいろいろ編集されたバージョンで公開されてしまい、オリジナル全編が散逸するという目にあっている。その後フィルムを集めて再編集したバージョンがいくつか存在し、中には90分にまとめて現代風音楽をつけ一部カラー化したなんてものまであるという。現在存在するもので最長の時間になっているのは16mmフィルムで残っていたものをくっつけた150分バージョンだそうで、僕がNHKのBSで鑑賞したものはおよそ2時間弱のバージョンだった。
 なにせ3時間以上あったものを2時間弱にしちゃうんだから、とくに中盤でかなり話が飛び飛びになる。フィルムのない部分については字幕でストーリーを説明して補足(こういうの、黒澤明の「姿三四郎」でもあったな)してるのでなんとか話の流れは分かるが、少々勢いに乗れないところがあるのも確か。まぁ、もともと字幕でストーリーを説明する無声映画ではあるし、幸いにして終盤はほとんど残っているのでその圧巻のクライマックスは十分に楽しめる。
 
 映画のオープニング、いきなりタイトルの「METROPOLIS」のロゴデザインが「未来的」。そして「頭脳と手を結びつけるのは心でなくてはならない」という格言が提示され、これが映画全編を貫くテーマとなっている。こうした説教臭さはグリフィス「国民の創生」「イントレランス」デミル「十誡」(無声映画版)にも通じ、当時の大作映画のお約束だったのかもしれない。
 時代は2026年。地上ではネオンきらめく摩天楼がそびえて、その谷間を車や列車、飛行機(複葉機!)が抜けてゆく。きらびやかなその都市の地下深くでは、都市全体にエネルギーを供給するための大規模な機械群があり、そこでは地味な作業服を身に付け過酷な長時間労働を強いられている労働者たちの群れがいた。映画の冒頭、その労働者たちがうつむいたまま行進し、交代してエレベーターに乗り込んで行くシーンからしてグイグイと引き込まれる。地上世界の描写はミニチュア撮影だと思うが、その未来都市デザインはやはり今見ても新鮮で、その後の「未来都市」イメージに決定的な影響を与えているのがよく分かる。手塚治虫自身はこの映画自体は後年になって見たが少年時代に雑誌でその写真を見ていたようで、手塚初期作品の未来都市イメージはまさに「メトロポリス」から来ていると思える。

 地下では貧しい労働者たちが酷使される一方、経営にたずさわる知識階級で機械文明の恩恵を最大限に受ける地上の都市の人々は豊かで幸福な生活を送っている。この「天国と地獄」みたいな格差描写がこの映画のキモで、利益優先・効率優先の資本主義が行き着く先の極度の不平等社会を強烈に描いている。そこに作り手の社会主義的なスタンスを感じ取るのは容易だが、最後まで見ていくとそう単純に社会主義的な階級闘争を描こうとしたわけでもないのが分かる。当時はソビエト連邦もできたばかりで世界の知識人に少なからず社会主義への期待があったから、監督のラングもその傾向が出たものかもしれない。ただ、この映画の原作・脚本を担当したラングの妻ハルボウは後にナチス賛同者になってしまうのだそうで(ナチスも社会主義の一種といえばそうだし、ヒトラーもこの映画を好んでいたそうだが)

 いきなり重苦しくなるテーマをぶつけてくるこの映画だが、同時に非常に通俗的映画でもある。ストーリーのメインは結局のところ「ボーイ・ミーツ・ガール」。メトロポリスの支配者の息子で、何不自由なく楽しくのんきに暮らしていたフレーダー(グスタフ=フレーリッヒ。メイクがこの時代の「優男」の典型)が、偶然貧民の子供たちを連れて地上にやってきた地下社会の美少女マリア(ブリギッテ=ヘルム)に文字通り一目惚れしちゃったところからドラマが動き出す。マリアを追いかけて地下世界に入ったフレーダーは、地下の労働者たちの過酷な実態を目撃、おまけに派手な事故現場まで目撃して、この社会の矛盾に気づかされることになる。
 この地下の機械群の描写、今となってはレトロとしか言いようがないが、目に見えてその過酷さが分かるデザインが素晴らしい。スチームパンクを思わせる、全部蒸気で動いてるんじゃないかという巨大なメカ群、いちいち人手で動かさないといけないギミックの数々。とくにフレーダーも体験する、電灯の点滅に合わせて両手で時計の針状のものをテキパキと動かさねばいけないメカは、それが何のための機械なのかは分からないが、「過酷な労働」という奴を実に分かりやすく説明してくれる(チャップリンの「モダン・タイムス」に影響を与えたかもしれない)。あんな人間の必死な手作業だけで都市全体のエネルギー供給がなされているというのもずいぶん危なっかしい話だが。

 フレーダーが一目惚れした美少女マリアは、地下世界の労働者たちを集めて「頭脳と手を心で結ぶ」と支配層との和解と平和を説き、労働者達から聖母のように崇められていた。ようやくフレーダーはマリアと出会え、相思相愛となるのだが、フレーダーの父でこのメトロポリスの支配者であるフレーダーセン(アルフレッド=アベル)はマリアの存在を知り、彼女を使って不満をもつ労働者たちをコントロールしようと考える。
 ここで登場するのがマッドサイエンティストのロードヴァング(ルドルフ=クライン=ロッゲ)。彼はかつてフレーダーセンと女性ヘルをめぐって争って敗れた過去があり、その女性はフレーダーを生んですでにこの世の人ではない。ロードヴァングはヘルを復活させようと女性型の人造人間を製造していた。これこそがこの映画の象徴的存在にしてC-3POのルーツ。最初に登場する場面では形こそ女性型だが全身は光り輝く金属で動きもぎこちない。この人造人間にマリアの姿を「移植」して偽マリアを作ることになるのだが、それ以前のロボットそのものの姿の部分もマリア役のブリギッテ=ヘルムが演じているというから驚き。
 ロードヴァングはマリアを誘拐し、マリアの姿かたちを人造人間に「移植」する。この場面がまた素晴らしい。ベッドに拘束され寝かされたマリアの全身に電光が走り、怪しげな機械(何に使うんだろうと思うような化学系のフラスコや沸騰する液体も映る)が作動して、椅子に座っていた人造人間の周囲に光の輪が出来て上下し、次第に人造人間がマリアに変身してゆく。光の描写はアニメの要領で合成したと思うのだけど、今見てもなかなかの特撮。見ていて連想したのが「鉄腕アトム」TVアニメ1作目のアトム誕生のシーンなのだが、これがこの映画の影響下にあるのかどうかは未確認。

 光り輝く人造人間が偽マリアになると、マリアはガクッと首を倒す。観客には死んだのか、と思わせる演出だが単に気絶してるだけ。代わりに偽マリアが動き出すのだが、当然演じているのは同じ人。しかし偽マリアは外見こそ同じ(そりゃそうだ)ながら、まるで別人。本物のマリアが清純そのものの美少女で愛と平和を説くのに対し、偽マリアはその妖艶さで人々をたぶらかし、争いを起こさせ、扇動する。これを同じ女優さんが演じてるんだから凄い。偽物の方が不自然に片目をウインクしてニヤッと笑う表情も戦慄ものだ。
 フレーダーセンは偽マリアを使って労働者たちの不満をおさえこむつもりだったが、発明者のロードヴァングのほうはこれを機会にかつての恋敵とその息子を破滅させてやれとたくらみ、偽マリアを使って労働者たちに暴動を扇動させる。その一方で上流階級の子弟たちをその美貌でたぶらかし、現実を忘れて遊び呆けさせてメトロポリス全体を上と下から破壊してしまおうとするのだ。この上流階級の子弟たちが遊び呆ける歓楽街が「YOSHIWARA」、すなわち吉原であるのが日本人には驚き。日本の有名な歓楽街の名前をそのまま拝借しているわけだが(その描写自体は全然日本的ではない)、はるか東洋の歓楽街の名前を持ってくるのが当時としては「SF的」であったのかもしれない。そういえば「ブレードランナー」でも日本的なものが未来チックに使われていたっけ。そのルーツとも思える。

 偽マリアが父と一緒にいるのを見て大ショックのフレーダー。このショックの場面の効果がまた凄い。これもアニメを合成処理したものだと思うんだけど、書き文字による感情の表現、お星様が飛んだり奈落の底へ落っこちていくようなカットなどは後年の漫画の表現を思わせる。他にもこの映画では別々に撮った画面を一画面に合成してるシーンが多々あって素晴らしい効果を上げているんだけど、当時の合成がどう行われていたのかはよく知らない。ともかく当時としてはかなり斬新な表現だったんじゃなかろうか。
 フレーダーが様々に思い悩み、悪夢を見る場面では「ヨハネ黙示録」が味付けに使われている。SFに宗教ネタ、それも聖書の素材とくると、これは「エヴァンゲリオン」のルーツにも思えてくるなぁ。

 映画は終盤に向かうにつれ、複数のシチュエーションがカットバックで同時進行し、思い切り盛り上げて行く。偽マリアの扇動により労働者達は中央エネルギーセンターの機械を破壊(その連絡がTV電話で行われるのが細かい芸)、そのために地下都市では大洪水が発生し、町が水没してしまう(実写とミニチュア特撮を巧みに組み合わせた表現は白黒ならではのリアリティ)。本物のマリアはロードヴァングのもとから脱出し(この部分、フィルム紛失が多いようで分かりにくいが、ロードヴァングはマリアにかつての恋人を重ね合わせて関係を迫る)、フレーダーと落ち合って地下都市の労働者の子供たちを水没から救出する。暴動を起こした労働者達は子供たちが死んでしまったと思いこみ、元凶のマリアを求めて地上都市へとなだれこむ。一連のシーンは大群衆を動員して大規模なセットを背景にした大掛かりなもので、「イントレランス」や「十誡」など無声映画の大作を連想させる。無声映画だからこそ映像で勝負、という意識がその後の映画より強かったのかもしれない。

 偽マリアは怒り狂う労働者らに火あぶりにされ、笑いながら火に焼かれて人造人間の正体をさらけ出す。最後の最後、結局ラスボス(?)はロードヴァングということで、ロードヴァングがマリアを追いまわし、さらにフレーダーとロードヴァングが屋根の上で格闘戦となる。まぁとにかくあれもこれもと詰め込んだ贅沢なクライマックス。そして全ての騒動が終わり、「手」である労働者代表と「頭脳」である資本家代表のフレーダーセンが、「心」であるフレーダーを仲介にして握手・和解して、冒頭の格言が再び映されてめでたし、めでたしだ。
 その内容から社会主義(共産主義)的、反機械文明的とも言われるらしい本作品だが、最終的には労働者達は資本家と和解するし、機械を破壊することで文明が破滅してしまう危険も描かれているわけで、そう単純なものでもない。だが1980年代に編集されたバージョンではラストの「握手」シーンが削除され和解が描かれなかったといい、そのバージョンの作者の意図がうかがわれる。

 監督のフリッツ=ラングはこのあとアメリカに渡り、斬新な犯罪映画などを撮ってそこそこの業績を上げている。だが彼が「メトロポリス」の監督であることはハリウッドでは忘れ去られていたともいい、淀川長治が渡米してラングに会って「メトロポリス」の名を挙げたら本人もう大喜びだったそうで。
 SF映画の古典にして最高傑作の一本ともいわれる本作、フィルムのかなりの部分が失われているのが残念。しかしそれでも初見でかなり興奮させてもらったので、現時点最長の150分バージョンというのも見てみたいと思った。(2011/10/5)

 

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