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「レディ・プレイヤー1」
Ready Player One

2018年・アメリカ
○監督:スティーブン=スピルバーグ〇脚本:アーネスト=クライン/ジャック=ペン○撮影:ヤヌス=カミンスキー○音楽:アラン=シルベストリ〇原作:アーネスト=クライン○製作:スティーヴン=スピルバーグ/ドナルド=デ・ライン/ダン=ファラー/クリスティ=マコスコ=クリーガー
タイ=シェリダン(ウェイド/パーシヴァル)、オリヴィア=クック(サマンサ/アルテミス)、リナ=ウェイス(ヘレン/エイチ)、フィリップ=チャオ(ゾウ/ショウ)、森崎ウィン(トシロウ/ダイトウ)、ベン=メンデルスゾーン(ノーラン・ソレント)、T=J=ミラー(アイロック)、マーク=ライランス(ハリデー)ほか




 今年はわずか2カ月の間にスピルバーグ監督映画を二本も劇場で鑑賞することになってしまった。これの前が「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」というバリバリの社会派作品で、この「レディ・プレイヤー1」は仮想現実ゲーム世界を舞台にしたSF娯楽大作。もともとスピルバーグという監督はこの両路線を並行でやって来ているわけだが、この「レディ〜」は「1941」とか「フック」とかいった「おもちゃ箱ひっくり返し」映画の系譜と、「未知との遭遇」「ジュラシック・パーク」のようにその時点での最新技術を素材にしたSF映画の系譜とが合流したような作品だ。

 この映画で脚本も担当しているアーネスト=クラインの原作小説については映画公開まで全く知らなかったが、そもそもこの小説自体スピルバーグ映画のあれやこれやをかなり話の中にネタとして組み込んでいたという。その映画化をスピルバーグ自身がやってしまう、というんだから原作者も狂喜したろうが、スピルバーグという人もいつまで経っても「御大」化しないフットワークの軽さを感じさせる。考えてみればもういい年のはずなんだが、いくつになっても映画界の最先端にいたい、という気持ちが強いんだろうな。そういうところ、手塚治虫にも通じるような。

 原作小説は未読なのだけど、作者が重度の1980年代オタクで、作中にありとあらゆる80年代サブカルチャーを散りばめまくった。最近の海外クリエイターによくいる気がする日本のアニメ・特撮・ゲーム等のマニアでもあり、映画には登場しなかったが原作では「東映版スパイダーマンの巨大ロボット・レオパルドン」まで登場していたという一事だけでも並大抵のオタクでないことがうかがい知れる(笑)。
 スピルバーグ映画からは「E.T.」「インディ・ジョーンズ」などのネタが作中に入っていたそうだが、さすがにスピルバーグはそれら自作の要素はほとんど映画からカットしてしまった。ただスピルバーグがプロデューサーとして関わった「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のタイムマシン「デロリアン」だけは原作・脚色のクラインが強く主張して映画に残ることになったんだとか。
 それ以外にもこれでもか、これでもかといろんなサブカルネタが散りばめられた原作を映画化するにあたって大変だったのは当然権利者との交渉。原作が出版されたのが2011年で、それから数年間それらの権利交渉だけでつぶれてしまったらしい。スピルバーグ自身が監督したのは当人が乗り気だったのはもちろんだろうけど、彼が監督するってことで権利交渉が進めやすい、という理由もあった気がする。それでも原作で重要な意味を持つ作品でいくつか交渉不成立のものもあり、結果的に映画と原作はだいぶ違うものになったようだ。


 さてこの映画の作中年代2045年の近未来。21世紀半ばということだけど、映画にいきなり映るのは現在でもよくあるスラム街の集合住宅で、ひとむかし前のSFによくある未来的デザインの建物は全くと言っていいほど見えてこない。作中に出てくる技術も現在のものとそう変わらない、あるいは現在あるものを発展させた形なので、見る側(特に現代っ子)は状況にすんなり溶け込める。裏返すと、現在のネットやVRの状況って、2、30年前まではSFの世界だったということなんだよな。

 このパッとしない、薄汚れた貧民街の住人達は「オアシス」と名付けられた巨大なVRゲームに没頭、というか現実逃避をしている。この「オアシス」は巨大なバーチャル世界を作っていて、その中で自分の分身「アバター」となって生活、冒険、その他いろいろ、食事と排泄以外はなんでもできるんだったっけ、まぁとにかく「なんでもあり」な世界なわけだ。
 この物語の主人公ウェイドはこの「オアシス」に入り浸って、「パーシヴァル」というアバターで活動していて、映画もCGで描かれた「オアシス」世界でのパーシヴァルと、現実世界でのウェイドが交互に描かれ、半分くらいCGアニメ映画を見てるような気分だ。ゲーム世界のCGキャラをリアルの俳優の動きを取り込んで作ったりはしてないだろうしなぁ。誰かさんも言っていた実写のアニメの境界が実際になくなりつつあるのかもなぁ、という思いもさせられた。

 物語の基本線は、この「オアシス」の開発者ですでに故人であるハリデーが、「オアシスの中に“イースターエッグ”が隠してある。それを見つけた者には多額の遺産とオアシスの全権を譲る」と遺言していて、敵味方の登場人物たちがそれを追い求める、というもの。要は宝探し、お宝争奪戦という古典的な構造をバーチャルゲーム世界という今風のギミックでやってみた、という、分かりやすいといえば分かりやすい話だ。
 そして同時にその「イースターエッグ」を探し求めることは開発者ハリデーの人生の秘密を解いていく作業でもあり、劇中のセリフでそれを「バラのつぼみ」とハッキリ言ってるように、古典傑作映画「市民ケーン」の人生謎解き構造にもなっている(「バラのつぼみ」が「市民ケーン」ネタであることを少なくとも字幕では明示してなかったような)
 古典的構造といえば、「オアシス」の利権を握ろうとする巨大企業に対し、少数精鋭(?)な一市民たちが立ち向かう、というのもそうだ。相手が政治権力や国家、あるいは陰謀組織といったものではなく、普通にありそうな「大企業」というところは今風ではあるけど、その支配の横暴に対して一市民というか一ゲーマーたちが立ち上がって「革命」を起こしていく、という話でもあるんだな。

 見ていてどうしても連想したのが「マトリックス」。あれはゲーム世界ではなく全人類がバーチャル空間の「夢」を見せられてるって状況なんだけど、いろいろと似た点はある。特に終盤に「革命」の図式になっていって、「現実(リアル)」と「仮想(バーチャル)」の両面で攻防が進むところもよく似ている。「マトリックス」の方はもともと哲学的テーマを抱えていたせいか終盤にいくにつれ宗教性まで帯びてしまい、SFとしては論理破綻した状態になっちゃったんだけど、「レディ〜」の主人公は革命の英雄になりつつも宗教的ヒーローにはならず、話もキチンと足がついた状態で終わる、というところかな。その「革命戦争」自体も、一部にリアルで殺人が起こったりはするものの、基本的にはバーチャル空間での「人が死なない戦争」になってるところが、とっつきやすくもあり、安心して見ていられるところでもあるけど、小さくまとまっちゃってる結果にもなってるな。

 クライマックスの決戦で、街中の一般市民がみんなでVRゴーグルつけた姿で空中に向けて「戦闘」よろしく体を激しく動かしてるところ、なんだか中国の街中の太極拳大会みたいなシュールさがあって面白いんだけど、あれって「ポケモンGO」が流行ってたころの風景だと誰かが言ってるのをネット上で見た。原作は「ポケモンGO」以前に書かれてるはずだが、映画のあの光景は確かに「ポケモンGO」の影響はあるだろうなぁ。

 この終盤の大決戦で、日本人の登場人物が「俺はガンダムでいく!」とわざわざ日本語で言ってくれて、ゲーム空間でガンダムに変身、敵方のメカゴジラと対決する!という、オタク層とくに日本人大喜びな場面がある。このメカゴジラは21世紀に製作された「機竜」シリーズのデザインだが、BGMがしっかり伊福部昭作曲のゴジラテーマになっていて、なかなか芸が細かい。スピルバーグ自身ゴジラファンだものな。それとガンダムになる「ダイトウ」さんはアバターに三船敏郎らしきサムライキャラを使っていて、これは原作にはなくスピルバーグ自身が三船と縁がある(映画「1941」で出演している)ことからオマージュとして入れたものらしい。このほかにも「アルテミス」が「AKIRA」の金田バイクに乗っているとか、背景に「カウボーイビバップ」のメカが映っているとか、原作者の趣味なのか日本オタクネタが満載で、一度見ただけでは、また解説つきでなければ、その全てをチェックできるとは思えないほど。念のため書くと日本関連ネタだけでなく「アイアンジャイアント」ほかアメリカのオタクネタもずいぶん含まれていて、その濃さには感心するやら呆れるやら。

 日本がらみで惜しかったのが原作ではクライマックスに置かれていた「ウルトラマン」の登場が見送られたこと。スピルバーグ監督自身がこの件について来日時に発言していて、「円谷プロは乗り気だったのだが版権問題が複雑で」と事情を説明していた。これは例のタイのプロダクションがウルトラマンの権利を持つと主張していたことが絡んでいたと思われる。その後、この問題は円谷プロ側の勝利で一応の幕引きになったはずで、スピルバーグも来日時に「続編を作るならウルトラマンが出る可能性はある」と明言していた。

 映画化にあたって版権がとれず扱われなかったものに「ブレードランナー」がある。原作ではハリデーにとって「思い出の一本」となる映画で謎解き上重要な意味を持ってるらしいのだが、同時期に「ブレードランナー2049」が製作されていたため完全にアウトになってとか。そのため代わりの「思い出の一本」にされたのがスタンリー=キューブリック監督のホラー映画「シャイニング」だ。スピルバーグがかつて「A.I.」をキューブリックから託されるなど交友があったことからの選択とのことだが、製作年代が近いから、というのもあっただろう。「ブレードランナー」の最初の公開版では風光明媚な景色の空撮でエンディングになるが、あれは少しでも明るいラストにするために「シャイニング」の没フィルムから拝借してきたというのは知る人ぞ知るで。
 「レディ〜」の中で主人公たちは映画「シャイニング」の世界に入ってゆき、あの「双子少女」「ドア開けたら血の洪水」などなど有名な場面を目の当たりにすることになり、ホラーは苦手ながらキューブリック監督作ということで鑑賞済みだった僕はこの部分、結構ウケてしまった。映画の中で映画に入っていくという、不思議な体験でもあり、この映画のVR空間を一番わかりやすく見せてくれた場面だとも思う。そうそう、何の映画か分からない時点で「原作者が気に入らなかった」というヒントがあるところは、知ってる人にはニヤニヤしてしまうところ。原作者はあのスティーブン=キングなのだが、映画「シャイニング」について解釈が根本的に違うことからキングは激怒し、のちにわざわざTVドラマ版を作ってまで映画版を否定しようとした。結局のところキューブリックの映画には及ばなかった、というのが通説だけど。

 以下、ややネタバレになるけど、終盤の展開はだいたい誰でも予想がつくよね。
 人が死なない大決戦の末に最後の謎解きをして「イースターエッグ」を手に入れる主人公。その「ゲームクリア」を敵方の人たちまで共感を抱いて感激してしまうあたりも楽しいし、クリア後に出てくる「ハリデー」の少年時代の初期型ビデオゲームとか、実は〇〇が××、というサプライズなど終盤もなんだかんだで盛りだくさん。僕もこの「ハリデー」の世代にひっかかることになるんだけど、いろいろ感慨を感じるところもあった。
 その後約束通り主人公は「オアシス」の経営権を手に入れ、ハッピーエンドとなるのだが、そこで「ゲームは一日一時間」みたいな、ちょいとお説教くさい話になるところは賛否両論だろう。きっちり大団円になってるので続編が作れないんじゃないの、というエンディングでもあるし。

 そうそう、最後に音楽について。スピルバーグ映画の音楽といえばジョン=ウィリアムズだけど、本作では担当していない。なんでも同じスピルバーグ映画の「ペンタゴンペーパーズ」があまりに近かったのでそちらに力を集中させるため、とのこと、代わりに音楽担当になったのがアラン=シルベストリで、この人の代表作といえば「バック・トゥ・ザ・フューチャー」。作中にデロリアンも出てくるし、ちょうどいいといえばちょうどよかったのだった。(2018/7/5)




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