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「さよならジュピター」

1984年・イオ/東宝
○製作・原作・脚本・総監督:小松左京○監督:橋本幸治○撮影:原一民○特撮監督:川北紘一○音楽:羽田健一郎
三浦友和(本田英二)、ディアンヌ=ダンジェリー(マリア)、マーク=パンソナ(カルロス)、小野みゆき(アニタ)、レイチェル=ヒューゲット(ミリセント)、ポール大河 (ピーター)、岡本真澄(マンスール)、平田昭彦(井上博士)、森繁久弥(地球連邦大統領)ほか




 2011年7月26日に日本SF界のパイオニアにして巨匠・小松左京がこの世を去った。こう書いておいて恥ずかしながら、僕は小松左京作品をろくに読んだことがない。古本屋で偶然見かけた「エスパイ」が我が家の本棚にあるが、ろくに内容を覚えていない(エッチな話だなぁという記憶はある(笑))。あとは高校の図書館でこの「さよならジュピター」の小説版が置いてあったのでちらちら目を通してみた、という程度だ。このたびの訃報を受けて近所の図書館が小松作品コーナーを置いてくれたので、未読だったいくつかの作品をこの夏休みに読むことができたが。
 その一方で小松左京原作の映画はいくつか見ている。「日本沈没」は新旧両方見てるし、「復活の日」もGYAOで見た。そしてこの「さよならジュピター」もだいぶ前にレンタルビデオでVHSを借りて見たことがある。「エスパイ」と「首都消失」はまだ見てないが。

 小松左京の訃報を聞いて、とりあえず僕なりの追悼企画として選んだのが、この「さよならジュピター」のDVD鑑賞だった。もっといいチョイスがあるだろ、との声も出そうだが、正直なところ「日本沈没」も「復活の日」も映画としては辛い点をつけざるをえないところで…「さよならジュピター」はいろいろと批判されることも多い映画ではあるが、小松左京自身が映画製作に自ら中心となってタッチし、日本製のハードSF大作を作りあげようと意欲的に臨んだ、その志を買いたいというわけで。
 なお、今回鑑賞に使った所有のDVDは廉価盤ではあるが、小松左京・橋本幸治・川北紘一が参加したオーディオコメンタリーがついており、どうせ映画の内容は知ってるんだからと、それを聞きつつの鑑賞となった。また原作小説を読んだ上でのレビューでもある。

 有名な話だが、本作はもともと「スター・ウォーズ」公開によるSFブームを当て込んだ東宝が、便乗SF映画を作ろうと小松左京に原作提供をもちかけたのがキッカケだ。小松左京はそんな便乗企画ではなく「2001年宇宙の旅」にも匹敵するような本格SF映画を作ろうと主張し、東宝とその契約を結んだ(東宝の「SW」便乗企画は「惑星大戦争」として実現)。そして小松左京が日本SF界の重鎮たちを集めて映画の企画を練り、「太陽系にブラックホールが接近、これを木星を爆破して回避する」という大筋が決定する。そしてその原案をもとに小松左京自らが脚本執筆にあたり、その初期脚本をもとにして小松自身によるノヴェライズも行われる(このため小説版を「原作」とするのは正しくない。この点、「2001年」と同様だったりする)
 小松自身は「総監督」として全体を統括する役割で、映画にするための監督には当初「日本沈没」でヒットを出していた森谷司郎が予定されていたという。しかし製作直前に森谷監督が急逝。その助監督を務めていた橋本幸治が監督に立てられ、これが彼の「第一回監督作品」になることになった。むろん彼一人の責任とは言えないが、結果的にこの監督人選も失敗の原因だったのではないかと思えるところもある。なにせこの橋本監督の次回作が1984年版「ゴジラ」で、それでもう監督業に見切りをつけてプロデューサーに回ったという人なので。
 おまけに1983年にもなってくると、さしものSFブームも下火の気配が見え、東宝としてもリスクを負いにくくなってきた。このため予算も当初の予定よりだいぶ減らされ(3分の1になったという話も)、小松左京自身が個人会社「イオ」を創設して私財を投げ打ってはいるものの、最初に考えていたスケールのままでの映画化は困難になってしまう。初期のシナリオを基にしたという小説版を読むと映画化に当たってどれだけ要素が削られてしまったか良く分かる。

 それでも公開当時、日本で製作された「本格SF大作」ということで期待自体は高く、話題になっていた、という記憶が特にSFファンというわけでもなかった僕にもある。良く覚えているのだが、この映画について詳しく解説する男性週刊誌(週刊宝石だったような)のグラビア記事があり、僕の父が「これは面白そうだぞ」と僕に全文読みあげさせたことがあったものだ。それだけ注目したのになんで我が家では見に行かなかったのかというと、その記事中に「無重力状態でのラブシーン」のことが書かれていて、それが母親の警戒心を誘ってしまったためである(笑)。まぁ、直接的ではないけど、かなり「大人」なシーンだったことは確かだな(その週刊誌だったと思うんだけど、「百恵サンに遠慮してお手手つないでるだけ」と書かれてたような)
 その記事、映画の宣伝を兼ねてるんだろうに映画の結末まで全部出ていて、クライマックスの木星爆破のCG、ラストの墓参りまで写真付きでばっちり解説されており、おかげで僕は映画を見てないくせにストーリーは全部知ってしまったのである。実際にビデオでこの映画を見たのはそれから十数年は後だったと思うけど、なんだか懐かしい気分になったものである。

 さて、ではようやく映画本編の話に入ろう。
 映画の冒頭は、火星を地球化するために北極の氷を爆破して溶かすという、なかなかスペクタクルなシーンから始まる。するとその溶けた氷の下から「ナスカの地上絵」そっくりな模様が発見される。これはどうやら太古の昔に太陽系にやってきた宇宙人のメッセージらしい?ということになり、そのメッセージが指し示しているらしい木星へと舞台は移る。折しも木星では「木星太陽化計画」が進行中で、主人公・本田英二(三浦友和)はその現場主任というわけである。
 このあと木星太陽化阻止を図る「ジュピター教団」のテロ、そしてそれに加わっていたマリア(ディアンヌ=ダンジェリー)とのラブシーン、太陽系の外側の異変を調査に行ったスペースアロー号の出発と遭難(この場面が日本特撮史上の名優・平田昭彦のラストカットとなった)、と話はそれなりにテンポよく進んで行く。これは原作小説でもほぼ同様のテンポで、初期シナリオがそのまま使われたのだろうと推測できる(細かいところで「成田山の御守り」も小説に出てくる)
 だが宇宙考古学者のミリセント(レイチェル=ヒューゲット)が火星の「地上絵」から木星への探査に赴き、木星太陽化を一時中断した英二と共に「ジュピターゴースト」なる巨大宇宙船を目撃する展開は映画独自のテンポ。この映画を見て多くの人が感じると思うのだが、冒頭から提示される「太古太陽系に来た異星人」の話、そして彼らが残した「ジュピターゴースト」が、メインとなるブラックホールの話とどう結びついているのか、かなりチグハグな印象を受けてしまう。僕も映画を最初に見終えた時「で、地上絵とかジュピターゴーストってなんだったんだ?」と思ったものだ。この辺、小説版ではもう少し丁寧な処理をしているのでそれほど変には感じないのだが…。
 なお、DVDのオーディオコメンタリーによると、小松左京自身にはこの「ジュピターゴースト」を使った続編の企画があり、あれこれ裏設定が考えられていたようだ。
 
 この映画でどうしてもヘンだ、と思ってしまうのが、「ジュピター教団」の描写だろう。環境団体(それもイルカを崇める)・宗教団体がテロを起こすというアイデア自体は、その後の歴史を知るとむしろ先見性があったと言える。だが彼らが普段やってることはといえば南国の浜辺でゴロゴロしているだけ(笑)。教祖様もイルカと戯れ、歌を作ってるだけで、とくに凶暴な思想を持ち合わせている様子もない。これは70年代のアメリカのヒッピーをイメージの源泉にしているためだと思われるが、こんな団体の一部に過激派がいて、人類が滅びるかどうかの瀬戸際だというのに木星を守るためにテロをおこしてしまうというのが、どうしても納得しがたい。テロするのにも資金とか組織が必要なわけでさ。
 その過激グループのリーダー・アニタ(小野みゆき)も何を考えているのか理解しがたい。過激な行動に走るのは思慕している教祖ピーター(ポール大河)の気を引きたいからしいのだけど、ピーターとアニタのやりとりがゼロ、しかもピーター自身は「日本沈没」の誰かみたいに「何もせん方がええ」的なことを言ってるので、アニタがあそこまで暴走できる理由が不明なのだ。ヒロインのマリアもこの過激グループに入っていて英二との間に葛藤が起こるのだけど、映画の中では二人がとくに衝突する場面もなく、クライマックスの銃撃戦のやりとりも何やってんだか、とツッコミを入れてしまうようなものだ。
 映画でも良く見るとにおわされているのだが、小説版ではこの宗教団体だけでなく政界の一部にも協力者がいて、もう少し説得力のある説明がなされている。このあたりも映画の規模が縮んだために生じた説明不足なのだろう。

 地球の美しい自然や野生動物のカットが唐突に入るところは、虚空の宇宙空間といい対比になっているとは思うのだが、そこにユーミンや杉田二郎の歌が急にかぶってくるのが違和感バリバリ。この時期の邦画にはこうした映画主題歌がつきもので、うまくいくと相乗効果で映画も曲もヒットすることになるのだが、この映画の場合は明らかに相乗的に逆効果。別にどこかの横やりが入ったわけではなく小松総監督自身の意向であったというのだけど…。
 そしてこれと並んで唐突過ぎて目が点になってしまうのが、「サメによるイルカ・ジュピター襲撃」のシーンだ。いきなりその場面に転換する上に音楽が妙に浮ついてるので思わず笑ってしまうほど。教団員でもない三浦友和がいきなりサメ退治に海に飛び込んで行くのだが、このサメ退治シーン、異様に力が入っている。宇宙以外のシーンでは一番の見せ場、と思っちゃったらしいのだが、これ、明らかに「ジョーズ」のマネだろう。一応このシーンは小説版にもあるので映画で無理やり入れたわけではなく、サメ=ブラックホールという暗喩もかけられているのだろうけど、結局ジュピターが死んでしまってピーターが唐突に追悼の歌を歌い出す場面は悪い意味でこの映画を象徴する場面として語り草になってしまっている。

 映画の後半、ブラックホールの接近が明らかになり、木星太陽化計画は木星爆破計画に変更となる。しかしジュピター教団過激派はそれを阻止しようと基地に乗り込んでくる。タイムリミットが迫る中での英二たちと過激派の銃撃戦、英二とマリアの行き違いと葛藤、仕掛けられた爆弾処理、そして結局英二の脱出は間に合わず、死を覚悟で木星爆破に乗りだす――とこう並べて書くと面白くなりそうなのだが、こまったことにこの映画、終わりに行くほど面白くないのである。そもそも教団過激派がなぜそこまでしなきゃいけないのか説得力がないし、銃撃戦の展開も「なんだそりゃ」とツッコミまくること請け合い。爆弾処理もここでなんでそんなつまらん伏線を張るんだ、と言いたくなる展開になってるし、英二の「自己犠牲」には「ああ、日本人、好きですねぇ、こういうの」とついついボヤいてしまう。もうほっといても死ぬ展開なのにわざわざ、というかわざとらしく瀕死の重傷を負ってしまうあたりもなんというか…この終盤展開をもう少しスッキリやれば、ちっとは後味がよかったんじゃなかろうか。
 ラストの「墓参り」もよく考えるとヘン。英二はともかくマリアの存在自体良く知らなかったはずの人たちがなんで一緒にちゃんと墓を作ってあげてるのか。そもそもなんでその小惑星の上に作るのか(軌道が変わるからもうこれないとか言ってるし…)、「もうこれ以上愛する人を失いたくない」というセリフは小説版にもあるんだけど、映画だとえらく唐突で期待されるほど感動もなく…とどめに場違いとしか思えないユーミンの歌が流れるエンディング。

 タレント事務所所属の外国人や、横田米軍基地からかき集めたという多種多様な人種がそろい、あちこちの言語が交わされるスケール感は確かにある。小松自身がオーディオコメンタリーで「日本人の白人コンプレックスかもしれないが」と断りつつ指摘していたが、木星爆破を見守るオペレーションセンターに外国人がズラリと並ぶと、演技のことはさておいて「それっぽい」雰囲気が出るのは事実。外国語になったり吹き替えになったりするのは自動翻訳機のため、というアイデアも悪くはない(なんでも三浦友和が出したアイデアだという)。ただそうした素人も含めた外国人総動員はかえって全体に安っぽい印象を与えてしまってる感もある。やっぱり一時計画されたように、ハリウッドとの合作ぐらいやらないと実現不能な企画なのだろうか。

 とまぁ、僕でもこういろいろと悪評を書いてしまう本作だが、見せ場である特撮シーンそのものの出来はそれまでの日本特撮映画の状況から言えば革新的なものであるし、メカ描写を得意とする川北紘一特技監督の腕も冴えて、冒頭の「TOKYO3」や「スペースアロー」、木星基地の各種メカなど見応えのあるカットは多い。そりゃまぁ「スターウォーズ」あたりと比較してしまうとどうしても…ということはあるが、宇宙ドンパチものではない、ハードSFな宇宙メカ描写自体が映画に出ることが珍しく、僕は初めてビデオで見た時に大いに堪能してしまった。日本特撮だって怪獣ばかりじゃなくて結構やるじゃないか、と。これを見る以前に劇場で見て感心したのが「ゴジラVSキングギドラ」のメカ描写で、これも川北特技監督であることを思い合わせると、僕のメカ趣味と相性がいいようだ(ミニチュア好き、ってこともあるかも)。日本のSF映画で「宇宙」をこれほどしっかり描いたものは結局これ以後一作も出ていない気すらする。
 なお本作で描かれた「木星を太陽化」というアイデアは、小松左京が目標とした「2001年」の続編で「さよならジュピター」と同年に公開された「2010年」でも描かれており(ただしこちらは地球外生命が太陽化する)、アイデアに関しては遅れを取っていなかったことが分かる。

 DVDのパッケージに「小松左京が描いた壮大な夢」というキャッチフレーズが書かれていたが、確かに夢は壮大で志も高かった。だがそれを思い通りに実現する環境と人材が日本になかったことが悲劇だったかなぁ、とも思うのだった。(2011/9/21)



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