PCエンジン

ジャンル:ハードウェア
媒体:本体
発売元:NECホームエレクトロニクス
発売:1987年10月30日
価格:24800円
商品番号:PI-TG001


本体+パッド◆ハドソンとNECが生み出した名機
 
 単に「PCエンジン」といった場合、広い意味を持ってしまうことになるのだが、ここでは一番最初に発売された初代PCエンジン、いわゆる「白PC」について語ることにしたい。商品名「PCエンジン」といえばこの初代のみを指すからだ。もっともこれについて語ることはPCエンジン界そのものの歴史を語ることになってしまうが。

 「PCエンジン」というゲーム機の歴史はどこから語り始められるべきか。発売こそ1987年10月30日だが、その開発の歴史は少なくとも2年はさかのぼれる。「PCエンジン用の最初のチップが開発が始まったのは確か1985年頃」とハドソンの広報社員だった高橋利幸(そう、あの「高橋名人」である)が「ゲームサイド」誌2007年5号のインタビューで証言している。当時の家庭用ゲーム機業界は任天堂のファミコンが爆発的人気により市場をほぼ完全に独占しており、ハドソンもまたそのファミコン最初のサードパーティーとして数多くのゲームを供給していたわけだが、同時にハドソンはファミコンを凌駕するべく新ゲーム機の開発にとりかかっていたわけだ。
 ハドソンというと老舗ゲームソフトメーカーというイメージがまずあるが、その歴史をみると「ファミリーベーシック」のような初心者向け開発言語、シャープのパソコン「X1」や「X68000」のオペレーションシステム、そしてHuCARDの前身となるROMカード「Beeカード」など、ゲームソフト以外でも高い技術力を示す商品を開発している。そんなハドソンだからこそ、ファミコンの大成功を横目に自らゲーム機開発に乗り出すことが出来たのだろう。
 基本的にソフト開発者であるハドソンの開発陣は「プログラマーにとって、もっとゲームが作りやすいハードができないか」という発想から設計を進めていったという。こうしたプログラマーの意見がCPUの性能やスプライト・発色数の決定に多大に影響したとかで、それが後年「PCエンジンは開発者にとって使いやすかった」と言われる原因となっているようだ。

 ハドソンが設計、セイコーエプソンにより製造された家庭用ゲーム機向けチップセットは「HuC62システム」と呼ばれる。「Hu」はもちろんハドソンの最初の2文字、「C62」は鉄道ファンである創業者が社名の由来とした蒸気機関車C62(動軸の形式が「ハドソン式」)からとったものだ。CPUはファミコンと同じく6502互換8ビットCPUをカスタマイズした「HuC6280」(7.16MHz。PSG音源機能含む)、描画の中心となるビデオ・ディスプレイ・コントローラー「HuC6270」、そこから信号を受け取って映像として出力するビデオ・カラー・エンコーダー「HuC6260」…等々から構成される構成される「HuC62システム」が正式に発表されたのは1987年7月のことだった。

初代発売時の箱 一方のNECホームエレクトロニクスもハドソンとは別に「家庭向けアミューズメント機器」を模索していた。後に「国民機」となるPC-9800シリーズを発売開始していたころで、NEC-HEはその前段階のパソコンPC-8801を家庭用ホビー向けとして展開していたが(NEC-HEは主に家庭向け商品を担当していた)、そろそろそれに代わる家庭向けのもの、とくにCD-ROMドライブを備えたものを、と構想していたのだ。そんな折にハドソン&エプソンが高性能の家庭用ゲーム機向けチップセットを開発中で、それを乗せるハードを求めているとの情報を聞きつけ、双方の思惑が一致したところで「PCエンジン」の開発が決定することになる。

 したがって「PCエンジン」はゲーム機としての性能・中核部分はハドソンの設計、それを実際に商品化し「コア構想」に見られるような多様なハード展開(それはゲーム機のみならず多様な利用ができる家庭用コンピュータという位置づけだった)を行ったのがNEC-HE、という「両親」によって生み出されたわけだ。この両親の間に生まれたことが、PCエンジンというゲーム機を良くも悪くも他のゲーム機にはない大きな特徴をもたらすことになる。


◆小さいけれど力持ち!?

 PCエンジン本体の特徴は、まず「小さい」こと。15×15cmほどのほぼ正方形、ファミコンより高性能のはずなのに大きさはずっとコンパクトなのだ。その代わりズッシリと重く、「中身が詰まっている」実感はあるのだが(笑)。デカければいいってもんではないが、それにしても小さく、色もそっけなく白一色で実に単調、これでファミコンを越える性能があるのかいな?と思う人が多かったのも無理はない。
 コンパクトになった理由は二つある。まず設計段階から将来的にCD-ROMシステムとの接続が構想されていたこと。CD-ROMシステムだけでなく通信や印刷など多様な用途に使える「コア構想」もあり、本体は可能な限りコンパクトにすることが求められていた。また日本の家屋事情では小さいほうが喜ばれるという現実も多少は考慮したかもしれない。逆にこれをアメリカで「TurboGrafx 16」として売ることになった際には「アメリカでは大きくないと売れない」というんで意味もなく大きいボディに変更された経緯がある。
 そして、ゲームソフトにHuCARDという小型・薄型の媒体を採用したこと。これ自体がボディ小型化のための選択だったとも思えるが、持ち運びと収納のしやすさ(もしかするとこの時点で「GT」のような携帯用マシンも構想されていたかもしれない)、オモチャっぽさの強いファミコンカセットとの差別化、そしてCD-ROMソフト供給を見越したパッケージなど、「新マシン」をアピールするのに好都合な媒体と判断されたものと思う。

初代のセット内容 この小さいボディに小さいソフト媒体、外見的にはイマイチさえないPCエンジンだが、その能力はファミコンをはるかにしのいでいた。CPUはファミコンと同じく6502互換8ビットCPUながら実速度は4倍はあったという。グラフィック能力のスペックはBG1面に16×16のスプライトを最大64個同時表示でき、最大512色の同時発色が可能で、当時のファミコンからすれば格段に美しい絵と多数のキャラ、あるいは大きなキャラを同時に表示できた。これらの描画能力は当時のファミコンでは不可能だったアーケードの業務用ゲーム、とくに当時隆盛していたシューティングゲームを移植したいというハドソンの開発スタッフの意見が反映されたものらしい。
 こうしたゲーム機としてのハードスペックは間もなく登場するメガドライブやスーパーファミコンといった16ビットマシンに一見負けることになるのだが、PCエンジンは設計上処理がかなり高速であるうえに、他のマシンのプログラミングにおける「あれをやるとこれができない」といった制約がほとんどなく、多様な機能の同時処理が可能でプログラマーにとってはかなり扱いやすく、後発の16ビット機に十分対抗できたという(PCエンジンの名物ゲームプログラマでありレビュアーでもあった岩崎啓眞氏がそういうことを繰り返し書いている)。実際、1987年に出たゲーム機で1992〜1993年ごろ隆盛したアーケードの格闘ゲームがほぼ忠実に移植可能(とくにHuCARDの「ストIIダッシュ」は初代機でも遊べるので比較しやすい)だったというのはこのマシンの設計がいかに先進的であったかを証明している。
 また他機種では同じマシンでもいくつかの微妙な差異のグループがあって調整に手間取るのだが、PCエンジンではそういうこともほとんどなかったとのことだ。

 ハドソンでPCエンジンに深く関わった開発者の一人・三上哲氏のインタビューが雑誌「ドリマガ」の特集「PCエンジンの伝説」(2003年10月10・24日合併号掲載)に載っているのだが、そこでもPCエンジンのハード設計思想のユニークさが言及され、三上氏が「PCエンジンはハードをアピールする設計ではなく、すべてソフト側からの意見から完成したハードでしたからね」と語っている。当時のハドソンの社風としてそういったソフトの作り手主体でハード開発を進められる自由さ、あるいはチャレンジャーな空気があったことは確かなようだ。CD-ROM2開発も当時はほとんど無謀な話だったといっていいようだし。
 さらに、ハードのみでなくソフト開発環境もハドソンのプログラマーたちの手によって開発されていた。これがまたゲームクリエイター自身の手になるものだけに高速かつ優秀で非常に使いやすいものだったという。とくにグラフィックツールは秀逸で、当時ゲームのグラフィックデザイナーの間では「これを持たない者はモグリ」とすら言われたと岩崎啓眞氏が語っている。
 総じてPCエンジンというゲーム機は、「ゲームの作り手」自身により彼らが作りたいものを作れるように、また作りやすく設計され、構築されたという性格が強い。そして作り手主体で設計が進んだため、良くも悪くも先進的かつ冒険的な試みの数々が可能になっているとも言える。それはソフト方面にも現れて、なんというか、「何でもアリ」な世界を作り上げる結果にもなっている。


◆初代PCエンジン身体検査

本体前方 では初代PCエンジン、いわゆる「白PC」の全身をくまなく観察してみよう。
 前方から見ると本体中央にカードスロットがあり、ここにHuCARDを差し込んで電源スイッチをスライドさせるとカードをガチッと固定する仕掛けになっている。カードの抜き差しがしやすいように手前に凹みも作られている。これらの仕組みはこれ以後のPCエンジンハード全てに共通して設けられている。

  本体手前部分にはゲームパッド接続端子が一つだけ。これが先行するゲーム機と異なる大きな特徴で、たとえばファミコンは最初から2つのコントローラーを本体にくっつけて2人対戦プレイを遊べるようになっていたが、PCエンジンでは付属のゲームパッドは1つだけ、しかも着脱可能な状態になっている。一見「一人遊び専用かよ?」と思わせるが、実はこれ、最初から最大5人の多人数プレイを可能にするマルチタップの接続を想定した設計なのだ。5人用マルチタップは本体と同時発売になっており、PCエンジンは最初から目に見える形で「新しい遊び方」を提案していたことになる。その遊び方のブレイク自体は「ボンバーマン」(’90)まで待たなくてはならなかったが…。
本体左側面 PCエンジンのパッド接続端子の構造は、やはりNEC、パソコンの接続端子のそれによく似ている。そこにオモチャっぽくない「コンピュータ」っぽさを感じさせたのだが、簡単に抜けやすいという欠点もあった。アクション系のゲームで興奮してパッドを引っ張ったりすると割とあっさり抜けてしまう。また、特にDUO以降に顕著だと感じたのだが、長期間使用して抜き差しを繰り返していると本体内のハンダ付けされてる部分が壊れてパッド信号を正確に認識できなくなることも多かった。これを僕はDUOシリーズや「メモリーベース128」、マルチタップのいずれでも経験しており、PCエンジン設計上の最大の問題点だったと思っている。やはりゲーム機のパッド接続部分は丈夫につくってもらいたいものだ。後継機のPC−FXではその反省が現れてはいるんだけど…。

本体右側面 左側面にはACアダプタと接続して電源を得る端子がある。この部分はCD-ROM2システムと合体すると使えなくなるが、その場合CD-ROM2システム側から電源を得る仕組みになっている。
 反対側の右側面にはRF出力端子、およびゲームの画像信号を1chか2chかに切り替えるスイッチがある。この時期はAV入力端子のないTVがまだまだ多く、ファミコンなどのTVゲーム機はTVのアンテナ線と接続して、チャンネルの空いている1chか2chにゲーム画像を映すのが一般的だった。PCエンジンもそれに習った形だが、家電屋であるNEC-HEはAV出力も可能にするべくオプションとして「AVブースター」を間もなく発売している。

後部コネクタ さて本体後部を見てみよう。ここにはオレンジ色のカバーがとりつけられていて、これを外すと大きな接続コネクタが姿を現す。これぞPCエンジン最大の特徴で、ここにさまざまなオプション機器を接続して多様な利用を可能にするという「コア構想」に基づいている。「AVブースター」のような映像出力、「天の声2」「バックアップブースター」のような記録装置、その後のPCエンジンの主力となる「CD-ROM2システム」、発売こそされたものの大失敗になった「プリントブースター」、試験運用までされたが結局発売されなかった「通信ブースター」などがこのコネクタに接続される設計になっていた。
 この後部コネクタはその後「コアグラフィックス」「スーパーグラフィックス」「コアグラフィックスII」「LT」といった本体機種に設置され続けたが、記録装置とCD-ROM2システムぐらいしか利用されることがなく、「コア構想」自体がポシャってしまったため、CD-ROMドライブと一体化した「DUO」以降はバッサリと削除された。なお、「DUO」以前にも廉価版PCエンジンである「シャトル」や携帯型PCエンジンである「GT」でもこのコネクタは削除されている。
 なお、この後部コネクタからは実はRGB信号も出るようになっていて、電波新聞社からこれを利用してパソコン用ディスプレイに映すコネクタの発売も予定されていたが、結局商品化されなかったとか。僕はこれを最近になって知ったのだが、そういえばNEC-HEがPCエンジンを内蔵したパソコン用RGBモニターを発売したこともあるし、その方面も考慮した設計になっていたようだ。

 全体のデザインは、上から見るとほぼ正方形の単調な直方体。しかも色はほとんど白一色と、実にシンプルだ(電源スイッチだけ緑)。上部中央にある「PC Engine」の赤いロゴもいたって目立たず、先行するファミコンに比べて地味なのは間違いない。その代わりコンピュータメーカーであるNECによる、パソコンライクな無駄のないコンパクトな設計は「新時代の高級マシン」を感じさせるところもあった。そういえばPCエンジンの後継機であるPC-FXもパソコン周辺機器風味の白一色のタワー型になっていたっけ。ただこの白一色のカラーリングは汚れが目立つのも事実で…。


◆息の長い歴史の始まり

 1987年10月30日に発売開始となったPCエンジン、同時発売ソフトは「ビックリマンワールド」「上海」の2本だった。かたやアーケードのアクション「モンスターワールド」を当時大人気のビックリマンに置き換えた改変移植、かたややはりアーケードからの移植ながら渋すぎる麻雀パズルという組み合わせ。どっちにしてもかなり地味なラインナップだ。翌月に当時としては驚きのデカキャラアクション「THE功夫」とか人気番組とのタイアップ「カトちゃんケンちゃん」などが出てそれなりに目を引くようにはなってくる。それでもやはりブレイクは翌年3月の「R−TYPE・I」の発売がきっかけということになるだろう。その後のゲーム機戦争史からすればずいぶんのんびりしたペースでやってたもんだと思う。
 その後ハドソンとナムコ、そしてNEC子会社であるNECアベニューを中心として、当時のファミコンでは不可能だったアーケードゲームの移植がPCエンジン最大の売りとなっていく。1988年から発売開始したCD-ROM2システムも89年末あたりからブレイクしてその後のPCエンジンの方向を決定的にしていった。

 初代PCエンジンが発売されてから2年後、1989年12月に後継機「PCエンジン コアグラフィックス」および上位機種「PCエンジン SUPERGRAFX」が発売され、初代の「白PC」は役目を終えた。もっとも「コアグラ」は基本性能では「白PC」と変わりなく(AV出力になってるだけ)、「スパグラ」はソフトが出ぬままあえなく消滅していったので、「白PC」は現役のまま使用できた。その後1991年にはさらなるマイナーチェンジの「PCエンジン コアグラフィックスII」、CD-ROM2システムの上位機「SUPER CD-ROM2」および「DUO」が登場するが、システムカードさえ変更すれば「白PC」および旧CD-ROM2システムでも最新のゲームを遊ぶことが出来た。その後の「アーケードカード」でも旧システム向けのが出ていたから、なんだかんだで末期までのほぼ10年間「白PC」を使用し続けたファンも少なくなかったのではないかと思われる。こうした息の長さも初代PCエンジンの設計思想の先進性の証明と言えるだろう。

 ところでこの「白PC」、はたして何台ぐらい売れたのだろうか。
 正確なデータはないのだが、恐らく国内で累計300万台前後だったのではないかと推測する。雑誌「ファミコン通信」の販売台数データを調べると、後継機種「コアグラ」「コアグラII」を含むHuCARDのみの本体販売台数が1992年9月までの時点で372万台、末期に当たる1994年年末には392万台とあるのがその根拠だ。一番台数がさばけたのはスーパーファミコンが登場する前の1989年〜1990年前半あたりなのではと思われる。
 結局ファミコンに対抗はしつつもその牙城は崩せず、後発のメガドライブには国内ではなんとか勝ったものの(それでも後半はほとんど押され気味)国外では完敗し、スーパーファミコンが登場するとシェアはそちらに大きく奪われた。「DUO」の投入などSCD路線でなんとか生き残ることになるわけだが、そうなると今度はアニメ系・美少女系の軟弱マシン的な扱われ方が多くなり(他機種に比べある程度そうだったことは認めるが)、マイナーイメージは増加する一方だった。その影響だと思うのだが、こんにち「懐かしのTVゲーム」をふりかえる書籍や各種メディアで「PCエンジン」が取り上げられるケースはそのシェアと実働期間の長さに比べると不当なほど少ない。中途半端にメジャーでマニアックなのが取り扱いを難しくしてるような気もする。

 しかし多人数同時プレイ、CD-ROMメディアの導入、据え置き型と携帯型の互換性、セーブデータの外部保存、後継機でもソフト動作が可能…などなど、PCエンジンが「世界初」で実現し、その後のゲーム機に残した遺産は意外に多い。さんざん悪口言われたギャルゲーの数々だって、その後の「萌え」ブームのルーツの一つと思えばかなり時代を先取りしていたともいえるのだ(笑)。まぁ世の中「成功」したものしか評価されない傾向があるので無視されがちなのも無理はないのだが、もうちょっと評価されてもいいんじゃないだろうか。
 この文章を書いてる間に、PCエンジン本体発売開始からちょうど20年の記念日が何事もなく過ぎていた。恥ずかしながら筆者もすっかり失念していて掲示板で言われて「ああ、そういえば」と気づいたのだが、ちょうどサイト開設10周年とかぶっていたこともあり、「因縁」を感じるところもあった。
 この2007年、任天堂の最新ゲーム機「Wii」の「バーチャルコンソール」でPCエンジンの名作の多くが配信され、遊べるようになっている。おかげさまで僕のサイトにもその方面からの訪問者が増えている。20年の時を経て、「PCエンジン」にまた日が当たるようになるといいなぁ、と思う今日このごろである。(2007年11月 記)
 

迷い込んだ方はこちらから