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投稿時間:2016/06/17(Fri) 23:34
投稿者名:Ken
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タイトル:Re: 遅ればせながら大作ありがとうございました。
これでもアジモフの原作を非常に圧縮しています。
文章量でいえば十分の一程度ではないでしょうか。

バイブル・ガイドはアイザック・アジモフ畢生の大作にちがいありません。

なぜ日本で出版しませんかねえ。

投稿時間:2016/06/16(Thu) 14:18
投稿者名:徹夜城(第一発言者)
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タイトル:遅ればせながら大作ありがとうございました。
しばらくこちらを放置してしまっておりましたが…いつしかアシモフの聖書ばなしの解説、完成されていたんですね。

いや〜〜〜これはそれこそ一冊分くらいの内容の濃さがありますね。アシモフ関連というだけでなく歴史読み物としても興味深いものがありました。

投稿時間:2016/05/08(Sun) 23:17
投稿者名:Ken
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タイトル:終りに〜アジモフ作品の中のバイブル
 外国の文学作品を読む難しさの一つに、その国の文化背景を知っていないと理解できない文章に遭遇することがあるのは、多くの人が経験されているでしょう。日本人が外国の作品を読むときも、外国人が日本の作品を読むときにも、そのような例を挙げればきりがありません。例えば、日本の小説の中に「敵に塩を送る」という表現が登場すると、一般的な日本人ならそれがどんな状況を表現しているのか直ちに理解しますが、日本の文化背景を知らない人が読めば何のことか分かりません。それどころか日本の習慣を中途半端に覚えている人は、まるで的外れの誤解をするかもしれないのです。例えば日本には「清めの塩」という習慣があるので、誰かに塩を送るという行為は、特にその誰かが「敵」である場合には、「お前は穢れた存在だから、この塩で清める」という侮辱の意味を込めていると思われる可能性もあります。「敵に塩を送る」という成句を理解するには、今から五百年ほど前にあった(史実かどうかは知りませんが)、日本史の中の特定のエピソードを知っていなければならないのです。

 日本人が外国の文学を読むときも同じ難しさに遭遇します。最も広範に親しまれている英米の文学作品も例外ではなく、とりわけバイブルは多様なところで引用されるので、多くの英米文学を読むための必須知識になっています。なかでも頻繁にバイブルを引用する作家の一人がアジモフではないでしょうか。

 例えば『鋼鉄都市』の第4章で、イライジャ・ベイリが、列王記に登場するイゼベル(ジェゼベル)王妃を語る箇所がそうです。王妃がヤハウェ神の祭司たちと抗争した話や、他人の果樹園を奪うために所有者を謀殺した話が語られます。また、同じ『鋼鉄都市』の第14章では、ヨハネの福音書に書かれたイエスの事跡が語られます。あるとき、不倫の罪を犯した女性が公開処刑をされることになりました。当時の処刑法は、衆で囲んで石をぶつけることでしたが、石を手に女に迫った人々にイエスが告げたといいます。「諸君の中で、罪を犯したことがない者が、最初に石を投げるがよい」と。すると、誰一人、手にした石を投げることができなかったという話です。(なお、イライジャ・ベイリは、この話は正義よりも慈悲が優先することを教えるのだ、とダニールに語りますが、すこし違うでしょう。すべての人は罪人であり、他人の罪を裁く資格などない、と教えるのが福音書の真意であると思います。)

 実をいうと、これらはアジモフ作品の中で、最も分かり易いかたちでバイブルが引用された例なのです。なぜなら、バイブルの物語自体が作品中で説明されているからで、バイブルを読んだことがない人でも、理解に困ることはまずないからです。

 いつもそういう親切な解説つきでバイブルが引用されるとは限りません。例えば『最後の質問』の末尾の一節は、こうです。

  「光あれ」と言われた
  そして光が生じた

 ここで引用元の説明はありません。それでもこれなどは一般的な教養をもつ読者なら、バイブルのどの部分を引いているのか、すぐに分かることでしょう。

 それに比べると、『永遠の終り』の第13章に登場する「サムソンの一撃」は、より理解が難しいといえます。ノイエスを奪われたと信じたハーランが決死の反撃を決意する場面でこの表現が登場しますが、「サムソンの一撃」自体の説明はありません。これは士師記の16章に登場する古代イスラエルの士師サムソンが、ペリシテ人に捕らえられ、両目を潰され奴隷にされていたのを、あるときペリシテ人が集まった建物の柱を壊して建物を崩落させ、多くの敵を殺したが、サムソン自身も建物の下敷きで死んだ、という話を引いているのです。それを知れば『永遠の終り』のハーランがタイムマシンの事故を故意に起こし、彼自身が命を落としてでも、エターニティを消滅させようとする行為との共通点が分かるでしょう。

 それでも、サムソンの一撃などは、バイブルの物語でも比較的知られた話といえます。これが『ファウンデーションと地球』の第8章で、ペロラトが古代の神話の一節と紹介する「イバラとアザミも与えよう」という文章などは、大半の日本人は知らないのではないでしょうか。私自身も何のことか分からず、バイブルを検索してみて、創世記の3章18節の文章と知った次第です。

 やはり『鋼鉄都市』に書かれた「顔を塗ったジェゼベル」などは、ある意味さらに厄介で、なぜジェシーがこの表現を気にしたのか、バイブルを読んでもまだ分からないかもしれません。列王記に書かれているのは、謀叛を起こした将軍が王妃を殺すために来たとき、王妃は化粧をしていた、という事実だけです。このことはしかしアジモフが『バイブル・ガイド』で説明したように、王妃がいかに最低の女であったかを示す逸話として、悪意の解釈をされるようになりました。そんな伝統を知っていないと、ジェシーの反応は理解できないのです。

 アジモフ作品には、バイブルの文章自体を引用してなくても、バイブルの世界を反映していると思わせる記述もあります。例えば『ファウンデーションへの序曲』に登場するマイコゲンの人々を思い出してください。彼らが徹底した脱毛処理を行い、それをしていない外部の「部族民」を激しく忌避するのは、それだけを読んでも面白いでしょうが、古代のユダヤ人が律法によって髭を剃ることを禁じられ、髭を剃っているエジプト人やローマ人を憎み軽蔑していた事実を知れば、アジモフの意図がよりよく理解できるでしょう。ユダヤ人とマイコゲン人の行為は正反対ですが、異民族の習慣に呑み込まれてしまうことを恐れ、自分たちの伝統に固執する点では同じなのです。

 私は思うのですが、アジモフが1960年代の後半に『バイブル・ガイド』を発表した動機の一つに、アメリカにおいてすら、人々がバイブルの知識を失いつつあり、アジモフ作品が次第に読みにくいものになっていた背景があるのではないでしょうか。あくまでも動機の中のひとつですが。

投稿時間:2016/05/08(Sun) 23:14
投稿者名:Ken
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タイトル:ヨハネの黙示録
『ヨハネの黙示録』

 ドミティアヌス帝の時代にキリスト教徒の手で書かれ、バイブルの正典となった黙示文学が本書である。新約聖書の最後の一書で、イザヤ書やダニエル書のように一部ではなく、全体が黙示文学となっている唯一の書でもある。黙示文学といえば、著者名に過去の著名人の名を借りることが多いのだが、本書の著者は自ら名乗っている。

ヨハネの黙示録1章1節:神がイエス・キリストに与えた啓示で、まもなく起こることをイエスの下僕たちに示すため、天使がイエスの下僕ヨハネに伝えた

 だが、どのヨハネなのか。第四福音書の著者で、十二使徒の一人ヨハネと考えられることが多く、カトリック版のバイブルでは「使徒聖ヨハネの黙示録」という題名がついている。だが、本書と第四福音書では、文体、用語、なにより思想が大きく異なる。それに本書の著者は自分のことを「イエスに愛された弟子」と言っていない。ヨハネはヨハネでも別人なのであろう。

 この黙示録もまた、勝ち誇る悪の勢力に迫害される信徒たちに、信仰が報われる日は近いという。

ヨハネの黙示録1章3節:この予言を読むものは幸いである、その日は近いのだから

 著者は旧約聖書から、大量に表現を借用している。

ヨハネの黙示録1章7節:見よ、その人は雲に包まれて現れ、全ての目がその人を見るだろう。その人を刺した者たちもだ。地上の親族までもが、その人のために泣き叫ぶだろう
ヨハネの黙示録1章8節:私はアルファでオメガ、始まりと終りであると主は言われた。過去と現在と未来なのだ、と

 これらは、ダニエル書、ゼカリヤ書、イザヤ書の黙示部分に元になった文章がある。

ダニエル書7章13節:見よ、人間の息子が天の雲と現れ、
ゼカリヤ書12章10節:彼らは自分たちが刺した私を見上げて嘆くだろう
イザヤ書44章6節:主はいわれる、私は最初であり、最後なのだ、と

 ヨハネは、この神の啓示を七つの教会へ伝えるべく指示を受けたと語る。

ヨハネの黙示録1章10節:私は、背後で大きな声を聞いた
ヨハネの黙示録1章11節:君の見たことを書にしてアジアの七教会へ伝えよ、と。すなわち、エフェソ、スミルナ、ペルガモス、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの教会へ

 このうちエフェソ、ティアティラ、ラオディキアは、使徒言行録やパウロの手紙に登場するが、あとの四つがバイブルに登場するのは、この黙示録だけである。

 実際の教会は七つよりも多かったはずだが、ヨハネの黙示録には、七という数がいたるところで現れる。あたかもマジックナンバーであるかのようだ。これはこのときに始まったことではなく、天地創造が六日で行われ、安息日を加えて、一週間が七日になっていることから分かるように、創世記もその元になったバビロニア神話も、七をマジックナンバーと考えている。天空を移動する七つの天体(太陽、月、火星、水星、木星、金星、土星)があることに由来するのは疑いない。

 七教会のそれぞれに天使が伝えるメッセージが黙示録で語られる。現代人が読んでも意味不明なものが多いが、当時の人々には容易に理解できるものであった。まず、最も重要なエフェソ教会だが、

ヨハネの黙示録2章4節:それでも、君たちには問題もある、当初の愛を喪失している

 このように言われるところをみると、エフェソ教会は以前ほどの熱心さを失っていたのだろう。ただしヨハネが非難する宗派をエフェソ教会も非難することでは、賞賛されている。

ヨハネの黙示録2章6節:私が憎むニコライ主義者の行いを君たちも憎んでいる

 ニコライ主義者がどういう教義を唱えたのかは記されてないが、どうやら初期キリスト教の特徴である、あらゆるものを分け合う思想を極端に拡大解釈し、夫や妻まで分け合う、つまりどんな相手とでも自由に性的関係を持ってよいという主張を行っていたらしい。そのことは、ペルガモス教会への言葉から察せられる。

ヨハネの黙示録2章14節:その地には、バラムの教えに従い、イスラエルの子等を妨害せよとバラクに教えた者たちがいた
ヨハネの黙示録2章15節:彼らは私が憎むニコライ主義者の教えに従うのだ

 民数記の呪術師バラムは、モアブ王バラクの依頼でイスラエルを呪うつもりが、意に反して祝福を与えることになったので、今度は女たちを利用してイスラエル人を堕落させる提案をしたことになっている。

民数記25章1節:イスラエルはシティムに滞在し、民はモアブの娘たちと背徳の行為を始めた

 サルディス教会も警告を受けるが、何名かは立派な者もいると言われる。

ヨハネの黙示録3章5節:その者の名を生命の書から消すことはしない

 本来、生命の書とは生きている人間のリストのことで、ここから名を消されるのは、単に死ぬことを意味した。これがバビロン捕囚以後の時代になると、死後神の国へ行ける者のリストに変質する。

 フィラデルフィア教会は、信仰の強さを讃えられる。

ヨハネの黙示録3章8節:諸君には力がある、我が言葉に従い、我が名に背かず

 この町のその後の歴史は、そのとおりになった。千年後にトルコ帝国が小アジアを征服しイスラム化してゆく過程で、一三九〇年に陥落するまでキリスト教の砦だったのがこの町なのである。一六八二年に開拓者ウィリアム・ペンがアメリカのデラウェア河畔に建設した町の名にも採用された。ペンは黙示録のこの一節を知っていたのだ。

 対照的に激しく非難されるのがラオディキア教会である。ヨハネの考えに賛成も反対もせず、責任逃れの態度に終始したことが許せなかったのだ。ヨハネは、信頼できない味方よりは、正直率直な敵の方がよほどましと考えたようである。

ヨハネの黙示録3章15節:君らがしたことは承知している。君らは冷たくも熱くもない。むしろどちらかの方がよい
ヨハネの黙示録3章16節:君らは優柔不断で、冷たくも熱くもないから、私は君らを吐き出すだろう

 「無関心」を意味する英語の「Laodicean」の由来はここにある。

 ここからは天国の描写へと記述が移る。ダニエル書、エゼキエル書、イザヤ書から多くの題材を採用し、七つの封印を施された預言書と、その封印を解く救世主が登場する。

ヨハネの黙示録5章6節:見よ、長老たちの中に、かつて惨殺された子羊が現れ、
ヨハネの黙示録5章7節:その子羊は近づいて、玉座の人の右手よりその書を受け取り、

 子羊の正体が何者であるかは、説明の必要もない時代だった。

ペトロの手紙一1章18節:諸君の罪は消える
ペトロの手紙一1章19節:一点の汚れもない子羊の姿をとるキリストの高貴な血のおかげで

 預言書の七つの封印は一つずつ解かれてゆくが、最初の四つは、封印が解かれるごとに騎馬が現れる。

ヨハネの黙示録6章1節:子羊が封印の一つを開くと、
ヨハネの黙示録6章2節:見よ、白馬にまたがる人は弓を持ち、冠をいだき征服に赴いた
ヨハネの黙示録6章3節:二つ目の封印を開くと、
ヨハネの黙示録6章4節:赤馬にまたがる人には、地上の平和を奪う力が備わり、
ヨハネの黙示録6章5節:三つ目の封印を開くと、見よ、黒馬にまたがる人は、一対の天秤をもち、
ヨハネの黙示録6章6節:声がして麦一はかりが一ペニーといい、
ヨハネの黙示録6章7節:四つ目の封印を開くと、
ヨハネの黙示録6章8節:見よ、無色の馬が現れ、またがる人の名は「死」である

 それぞれの騎馬は、救世主の到来前に地上世界を(とりわけローマ帝国を)襲う災厄を表す。白馬の騎士は戦争を表す。特に、弓は、ユリウス・カエサルの時代から一貫して東方の脅威だったパルティアの象徴といえる。赤馬も戦争であるが、とりわけ悲惨な流血を伴う内乱と叛乱を意味するのだろう。黒馬は、一はかりの麦に一ペニーという法外な高値をつけることから、明らかに飢饉を意味する。無色の馬と騎士は「死」というが、最初の三つの原因による死と区別されているので、考えうるのは疫病である。世界の終りの前兆である戦争、謀叛、飢饉、疫病という四つの災厄を、その後の歴史の中で探し求める人々は、近代まで現れ続けた。二十世紀になると、黙示録のこの箇所は、ほかならぬ一九一四年から一九二〇年までの世界を予言したものだという解釈まで現れた。戦争は第一次大戦、謀叛はロシア革命、飢饉は大戦後にロシアとドイツを襲った大凶作、そして疫病は一九一八年に世界規模で流行し、大戦以上に人名を奪ったインフルエンザというわけだ。

 五つ目の封印が解かれると、審判の日を待つ殉教者たちの魂が現れ、六つ目の封印が解かれると、世界の終りが始まる。いよいよクライマックスで、七つ目の封印が解かれ、世界が終わり最後の審判がなされるはずなのだが、ヨハネの黙示録は、ここからこのクライマックスを何度も先へ延ばす。まず、六つ目の封印が解かれた後で、

ヨハネの黙示録7章1節:私は四人の天使を見た
ヨハネの黙示録7章3節:彼らは言う、神の下僕たちの額に印をつけるまで、地上を傷つけるな

 救済されるべき人々は、いわば神の所有物の印を付けられるのだが、その人数まで指定される。

ヨハネの黙示録7章4節:印を付けられる人の数を聞いた、イスラエルの全部族から十四万四千人だ、と

 人類の総数と比べて救済される数が少なすぎるようだが、数値自体には意味がない。七と同じく十二も聖なるマジックナンバーで、十二を二度かけて、最大の数を表す言葉の「千」をかけると百四十四千、つまり十四万四千になる。なお、千の上の「ミリオン(百万)」という言葉が現れるのは、中世のイタリアである。結局「イスラエルの全部族から十四万四千人」とは「すべての正しい者、非常に多くの者」と言っているのと同じなのである。正しい者はもれなく救われるのだ。

 彼らの苦しみが洗い流される様が語られるのが、有名な一節である。

ヨハネの黙示録7章4節:彼らは大いなる試練から出てきて、その衣は子羊の血で洗われて白くなる

 いよいよ七つ目の封印が解かれるが、まだクライマックスは訪れない。七人の天使が順にラッパを鳴らし、その都度災厄が訪れる。とくに五人目の天使がラッパを鳴らすと、地獄の口が開く。

ヨハネの黙示録9章2節:すると穴から煙が昇り、
ヨハネの黙示録9章3節:煙の中からイナゴの大群が現れて地を覆い、
ヨハネの黙示録9章7節:イナゴは戦いに赴く馬のようであり、顔は人の顔のようである

 人面馬身の怪物は、当時の最大の恐怖だったパルティアの騎馬軍団のイメージだろう。退却に際しても、一斉に矢を放ち、敵に打撃を与える様が象徴的に描かれている。

ヨハネの黙示録9章10節:サソリのような尾をもち、とげで刺す

 六人の天使がラッパを鳴らし、次こそ世界が終わるかと思われたが、最後の七人目の前にまたも事態の進行はわき道へそれる。世界を悪の勢力が支配するのである。ドミティアヌス帝による迫害を述べる著者の意図は明らかだが、セレウコス帝国の迫害を描いたダニエル書の表現を借用している。

ヨハネの黙示録11章2節:神殿のない宮廷は異邦人のものとなり、聖都は四十二箇月のあいだ、彼らに踏みにじられる

 四十二ヶ月は三年半だから、アンティオコス四世が神殿を穢した時期と一致するが、もちろん黙示録が書かれた時代にはセレウコス朝は消滅して久しく、この神殿は、すでに破壊されていたエルサレム神殿ではなくキリスト教会で、迫害者もセレウコス帝国ではなくローマ帝国にほかならない。

 ついに七番目のラッパは鳴らされた。だがまだクライマックスは訪れず、今度は善と悪の戦いが描かれる。

ヨハネの黙示録12章1節:天に奇跡が起こり、太陽の衣、月の靴、十二の星の冠を身につけた婦人が現れ、

 その女性は救世主を出産する。

ヨハネの黙示録12章5節:彼女は男の子を産み、その子は鉄の杖で諸国を支配する

 だが、その子には敵がまちかまえていた。

ヨハネの黙示録12章3節:天にもう一つの奇跡があり、見よ、冠を着けた七つの頭と十本の角をもつ赤竜が現れ

 竜はつまりサタンで、赤子を呑み込もうとするが、救世主にも味方がいた。

ヨハネの黙示録12章7節:天で戦があり、ミカエルの天使軍と竜が戦った
ヨハネの黙示録12章8節:竜は敗れた
ヨハネの黙示録12章9節:巨大な竜は地に落ち、悪魔王またサタンと呼ばれた老いた蛇と、彼の天使たちもともに落ちた

 だが、地に落ちた竜はしぶとく戦い続け、地上の正しい者たちを苦しめる。

ヨハネの黙示録12章17節:竜はその婦人に怒り、彼女の子とその一党に戦いをしかけた。神の戒めを守り、イエス・キリストに忠実な人々である

 だから教会の受難は終わらない、と黙示録の著者は言うのである。

ヨハネの黙示録13章1節:私は見た、七つの頭と十本の角をもつ獣が海から現れ、頭上には神を冒涜する者の名があり、
ヨハネの黙示録13章2節:竜がその獣に力を与えた
ヨハネの黙示録13章3節:すると一つの頭が傷ついて死ぬが、その傷は治り、

 海から現れた獣とは地中海からやってきたローマ、七つの頭の一つが死んだとはネロ帝で、その傷が治ったのは、ローマ帝国がネロの後も続いたことを示す。ドミティアヌスが登場するまでは、迫害者とはネロ帝のことだった。

 神を冒涜するとは、皇帝を神として崇めることをいう。しかし、皇帝崇拝は、ローマほどの多様な言語、習慣、宗教をもつ国家を維持するにはどうしても必要で、近代国家が国旗への忠誠を国民に要求するのと変わらない。

 ここで、黙示録の著者は悪を体現する個人に言及するが、その名を言えば謀叛人になるので、暗号的な言い方をしている。

ヨハネの黙示録13章18節:賢人を連れてきて、獣に付いた数を見せよ、この数は人を表し、六百六十六である

 これを理解するには当時のヘブライ語の知識が必要なのだが、その前に、特定の文字はある数を表すことを思い出す必要がある。ローマ数字なら、Iは1、Vは5、Xは10、Lは50、Cは100、Dは500、Mは1000を表すから、例えばDill McDixという人物の名は合計2212になる。同様に、獣に付いた数666も特定の人物を表すと推測され、誰のことであるのか検討がなされてきたが、ネロ帝だろうという意見が最も多い。Nero Caesarをギリシャ風に書くとNeron Caesarで、これをヘブライ文字で表し、各文字の数を合計すると666になるのである。ローマ風にNero Caesarと書くとヘブライ語で50を意味するnが一つ抜け落ち616になる。実はヨハネの黙示録の古い原稿の中には、666ではなく616と書いているものもある。

 もっとも黙示録が書かれた時代には、ネロは四半世紀前に死んだ皇帝で、むしろドミティアヌス帝こそが言及されるはずである。おそらくは、当時のキリスト教徒だけに通じるドミティアヌスの呼び方があり、それが666だったのではなかろうか。

 その獣が支配する都に、神の印を付けた十四万四千人の正しき者が戦いを挑み、見事勝利する。

ヨハネの黙示録14章8節:バビロンは落ちる、落ちる、かの大都は

 もちろん大都バビロンとはローマのことだ。獣が敗北すると、善と悪の最終決戦の舞台が整う。

ヨハネの黙示録16章16節:その獣は、ヘブライ語でハルマゲドンと呼ぶ場所へ全軍を集め

 ハル・マゲドンはメギド山を意味する。前六〇八年、ユダ王国のヨシヤ王とエジプトのファラオ・ネコが戦いを交えた地である。

列王記二23章29節:エジプトの王ファラオ・ネコはアッシリア王と戦うために進み、ヨシヤ王は彼に挑んだが、メギド山で戦死した

 偉大な改革者ヨシヤ王はメギド山で敗れ、悪が勝利した。同じ地で、今度は善が勝つはずなのである。

 最後の時を前にして、天使が一つの光景を示す。

ヨハネの黙示録17章1節:来たれ、水の上に座す悪しき女を君に見せよう
ヨハネの黙示録17章3節:彼はそういって私を荒れ野へ連れ去り、私は緋色の獣に座す女を見た、その獣は神を冒涜する者の名に満ち、七つの頭と十本の角をもつ
ヨハネの黙示録17章4節:女は紫と緋を着込み、黄金と宝石と真珠を身に付け
ヨハネの黙示録17章5節:彼女の額には「偉大なるバビロン」という名が書かれていた

 ここまできて、獣の七つの頭の意味がついに解説され「バビロン」の正体に一切の疑問を残さなくなる。

ヨハネの黙示録17章9節:七つの頭は七つの山、そこに女が座す
ヨハネの黙示録17章10節:七人の王がおり、五人は歿し、一人は存し、もう一人はこれから来て、ごく短い間存する
ヨハネの黙示録17章11節:そして死に去った獣、八番目ではあるが、

 ユリウス・カエサルを初代とすればネロは六代目の皇帝で、彼の治世を表現するなら、五人の王は歿して、六人目が現存することになる。七人目のガルバ帝は、たしかに短期間君臨した後、反乱者に殺されている。これでは迫害者がドミティアヌスであるという事実と合わないようだが、ネロ帝の時代に書かれた文章を、黙示録の著者がそのまま転写したのではないか。

 そのバビロン(ローマ)もついに滅び、救世主の時代が訪れる。ただし、それさえも永遠に続くものではない。

ヨハネの黙示録20章1節:そして、私は天使が降臨するのを見た
ヨハネの黙示録20章2節:天使は竜を、そして悪魔王でありサタンである老いた蛇を捕らえ、千年の間、拘束した
ヨハネの黙示録20章3節:そして、その後、一旦解きはなち

 解き放たれた悪魔は、もう一度征伐され、ついに審判の日が来る。

ヨハネの黙示録20章12節:そして死者たちが、小なる者も大なる者も、神の前に立ち、裁きを受けるのを見た

 そして、不完全だった古い世界の代わりに、完璧な新しい世界が創造される。

ヨハネの黙示録21章1節:そして私は新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は消え去ったのだから
ヨハネの黙示録21章2節:この私ヨハネは、聖都、新しいエルサレムが、神から降るのを見た

 新しいエルサレムの偉大な様を言葉を尽くして語った後、その日がもうそこまで来ていることを、天使に語らせる。

ヨハネの黙示録22章6節:これらの予言は真実である、主なる神は天使を遣わし、まもなく来たるものを示されたのだ
ヨハネの黙示録22章7節:見よ、私はすぐにも来たる

 この神の約束を述べて、新約聖書は完結する。以後二千年、その約束はまだ実現しないが。

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これにて、アジモフのバイブルガイドの紹介を終了します。

投稿時間:2016/03/27(Sun) 22:47
投稿者名:Ken
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タイトル:エズラ記二
『エズラ記二』

 黙示文学は紀元七〇年のエルサレム神殿破壊後も作られ続けた。むしろ、ユダヤ人にとって状況が絶望的になるほど、世を正す救世主の出現が待ち望まれたのだ。神殿破壊から一世代を経た頃に書かれたユダヤ教の黙示録の一つは、バイブルの複数の異本の中に座を占めることになった。この書もまた、著者は遠い昔の著名人に設定され、実際に書かれた時代より五世紀半前に活動したエズラということになっている。ユダヤ教の外典だが、キリスト教の記述も混ざっている。

 構成的には、最初と最後の各二章はキリスト教徒による加筆でギリシャ語で書かれ、それ以外の部分はアラム語の原文をギリシャ語に翻訳したものである。もっともアラム語もギリシャ語も原文は失われ、ラテン語訳のみが現存し、カトリック教会はこれを正典に含めている。

※日本聖書協会のサイト(http://www.bible.or.jp)では、この書を『エズラ記(ラテン語)』と名付けている※

 最初の二章は割礼を否定し、ユダヤ人が態度を改めないと神に見捨てられ、別の民族が選ばれると警告している。本来の文章は第三章から始まる。

エズラ記二3章1節:町が破壊された三十年後、私はバビロンにおり、眠れぬ夜を過ごしていた
エズラ記二3章2節:なぜならシオンが荒廃し、その富はバビロンに移されたのだから

 ネブカドネザルがエルサレムと神殿を破壊してから三十年といえば前五五六年で、史実のエズラが活動した時期より一世紀も前になるが、ここではローマがエルサレムと神殿を破壊してから三十年と黙示的に言っているので、この書は紀元一〇〇年頃に書かれたことになる。なぜ異教徒のバビロン人(実はローマ人)ばかりが栄え、ユダヤ人は惨めさの中に置かれるのかという「エズラ」の問いかけに、神の回答がくる。

エズラ記二4章1節:ウリエルという名の天使が遣わされ、私に答えた

 ウリエルの名は旧約聖書には登場しないが、この一節のせいで、ミルトンは『失楽園』でウリエルを太陽を司る天使として描き、イスラム教ではウリエルはイスラエルの別名で、世界の終わりを告げるラッパを鳴らすのは彼であるという。(キリスト教ではガブリエルの役目になっている。)ウリエルは「エズラ」に、神の計画は人間には理解不能なので、とにかく審判の日の後に理想の世界が訪れると言う。そして、その前に起こる奇跡をウリエルは語る。

エズラ記二5章4節:太陽は夜また輝き、月は昼にみたび輝く
エズラ記二5章5節:木は血を流し、石は声を上げる
エズラ記二5章6節:ソドムの海から魚が獲れる

 ソドムの海は、古代都市ソドムが沈んだ、一切の生き物がいない死海のことだ。そこに魚が現れるというのである。これを皮切りに、ウリエルは数々の奇跡を語ってゆく。そして最後に現れる神のしるしがある。

エズラ記二7章28節:我が息子イエスが現れ、生ある者は皆、四百年の喜びの時をもつ
エズラ記二7章29節:その後、わが子キリストと、すべての生ある者は死ぬ

 キリスト(救世主)を「イエス」と呼ぶことから、この部分がキリスト教徒の加筆であることが分かる。救世主の王国は世界の終りの後ではなく、その直前に来ることになっている。

 ウリエルが「エズラ」に見せる光景の中に、ダニエル書で有名になったものがある。

エズラ記二11章1節:私は夢を見た、海中より鷲が現れ、それは十二の翼と三つの頭をもち、

 この鷲はダニエルが見た四匹目の獣だと、ウリエルはいう。

エズラ記二12章11節:君が見た鷲は、君の兄弟のダニエルが見た王国なのだ
エズラ記二12章12節:ダニエルには説明がなされなかったので、今、君に告げる

 ダニエル書の四つ目の王国は、このように語られている。

ダニエル書7章7節:四番目の獣を見よ、恐ろしく、比類なく強く、鉄の歯と十本の角をもち、

 ダニエル書の著者はアンティオコス四世の時代に生きたから、獣はセレウコス朝で、十本の角は、その時点までの十代の王を表す。だが、第二エズラ記の時代には、獣は当然ローマ帝国であって、十二の翼は、その時点までの十二代の皇帝にほかならない。

エズラ記二12章14節:同じく十二人の王が順に現れ、
エズラ記二12章15節:二人目が最も長い時間を持つ
エズラ記二12章16節:十二の翼はそのことを示す

 ユリウス・カエサルを初代の皇帝と考えると、十二代は、ユリウス、アウグストゥス、ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロ、ガルバ、オト、ウィテリウス、ウェスパシアヌス、ティトゥス、ドミティアヌスで、四十一年君臨した二代目のアウグストゥスは、たしかに他の十一人よりも治世が長かった。

エズラ記二11章29節:三つのうち最も大きな中央の頭が目覚め、
エズラ記二11章31節:見よ、王位に就いたはずの、翼の下の二つの羽毛を喰らい、
エズラ記二11章32節:そしてこの頭は地上のすべてを支配する

 三つの頭はフラウィウス家の三帝で、大きな中央の頭がウェスパシアヌス、両側の小さな頭がティトゥスとドミティアヌスに該当する。第二エズラ記の著者にとっては、最も凶悪な皇帝たちで、ウェスパシアヌスとティトゥスは反乱を起こしたユダヤ人を討伐し、特にティトゥスは神殿を破壊させた当人である。三つ目の頭(ドミティアヌス帝)のとき、新たな獣が鷲を退治するという。

エズラ記二11章37節:吼える獅子が森から現れ、鷲に言った
エズラ記二11章39節:お前は四頭の獣の生き残りではないか、と
エズラ記二12章3節:そして鷲の肉体は焼き尽くされた

 そしてウリエルは獅子の正体を明かす。

エズラ記二12章31節:君が見た、鷲を責める獅子は、
エズラ記二12章32節:油を注がれた王であり、

 言い換えれば、救世主が現れてローマを倒すといっている。だが、史実のローマは倒れるどころか、ドミティアヌス帝のあと、最も繁栄した「五賢帝」時代を迎えるのだ。だが、第二エズラ記のような文書に扇動されたユダヤ人は、各地で反乱を繰り返しては鎮圧され、そのつど根絶やしにされ、とうとう帝国各地で細々と生きるだけの存在になってしまった。

 また、救世主が異教徒を倒した後の光景を、このように描いた記述もある。

エズラ記二13章12節:その後、その人は平和を好む人々を呼び寄せた
エズラ記二13章40節:彼らはアッシリア王に連れ去られた十部族で、

 イスラエル王国が滅んでから八百年を経ていたが、まだ彼らの子孫がどこかで強国を築き、ユダヤの兄弟を助けに来るという夢を見ていたのだ。

 最後の二章は、キリスト教徒が三世紀に加筆したもので、外典まで含めたバイブル全篇で最も遅く書かれたものである。神がエジプトについて語っている。

エズラ記二14章10節:見よ、我が民は根こそぎ殺されている、彼らをエジプトで災厄の中には置かぬ
エズラ記二14章11節:私はエジプトを討ち滅ぼすであろう

 我が民はキリスト教徒、エジプトはローマのことだ。ただし、現実のエジプトで起こったことが、題材になっているかもしれない。神の民が殺されつくす記述は、何度も反乱したユダヤ人が、エジプトだけでなくヨーロッパ以外のすべての地で根絶やしにされた事実を背景にしているかもしれない。また、二一五年にカラカラ帝がアレクサンドリアの博物館への援助を打ち切ったことが、エジプトを襲う災厄と見なされた可能性もある。さらに二六〇年を過ぎた頃、飢饉と疫病がアレクサンドリアを襲い、大量の死者が出ている。

 何よりも、三世紀になるとローマ自体が衰退の道を辿っていた。東方ではサーサーン朝帝国が強大になり、ローマは敗退を続け、ついにはローマ皇帝ウァレリアヌスまでが捕虜になった。いよいよ悪が倒れ、救世主が現れる兆候に見えても不思議ではない。

 だが、ローマはまだ倒れなかった。そこから有能な皇帝が続いてサーサーン朝を撃退し、二八四年に即位したディオクレティアヌス帝の下で、元の姿を取り戻した。そして三〇六年に即位したコンスタンティヌス帝の治世で、ついにキリスト教の国になるのである。

投稿時間:2016/02/28(Sun) 21:59
投稿者名:Ken
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タイトル:書簡集(続き)
『テサロニケの信徒への手紙二』

 テサロニケへの最初の手紙は現地の反発を呼んだらしい。なにしろキリストが再臨する兆候などどこにも見えず、迫害者は栄えるばかりだったのだ。パウロは直ちに二通目の手紙を送り、その日がくれば、いま勝ち誇る者たちはみな罰されると論じた。

テサロニケの信徒への手紙二1章7節:主イエスは天上より、強い天使たちを連れて現れる
テサロニケの信徒への手紙二1章8節:神を信じない者、主イエス・キリストの福音に背く者は、火に焼かれる

 ただし、その日が来るまでは、悪は栄え、それこそがキリストが再臨する証しなのだという。

テサロニケの信徒への手紙二2章3節:その前に災厄が襲い、罪びとの正体が現れるまでは、その日はこない
テサロニケの信徒への手紙二2章4節:その罪びとは神に背き、自分こそが至高の存在といい、

 要するに、正義が実現する前提として、誰が罪人なのかを明らかにする必要がある、という説明である。特にこの一節はダニエル書がセレウコス朝のアンティオコス四世について語る表現とよく似ている。

ダニエル書11章36節:そして王は意のままに振る舞い、自分こそが神々より偉大といい、

 つまり、マカバイ登場前にはアンティオコス王の暗黒時代があったのだから、キリスト再臨前にも暗黒時代がある、と示唆している。それに、バビロニアやペルシャの神話をルーツとするユダヤの神話には、世界の始まりと終わりに同じことが起こるという考えがあった。怪獣ティアマトやレヴィアタンが殺されて天地が生じたのだから、この世が終わり、新たな世界が創られる前には、古い世界の敵が克服されねばならない。エゼキエルはマゴグの国のゴグが斃されて理想の王国ができるというし、イエス登場前のユダヤの伝説は悪魔ベリアルを語った。ベリアルはアンティオコス四世だけでなく、ポンペイウスやヘロデ大王もモデルになっているだろう。

 イエス自身も、世の終わりの前に数々の災厄が襲い、その中には偽者の救世主もいると語っている。

マタイによる福音書24章24節:偽りのキリストが現れ、

 ヨハネの手紙一では、そのような偽りのキリストを反キリストと呼ぶ。

ヨハネの手紙一2章18節:反キリストが来ると聞いたことがあろうが、今この時でさえ多くの反キリストがいるのだ

 パウロ自身は、反キリストとは特定の個人を指すような言い方をする。テサロニケへの手紙が書かれた時代を考えると、十年前に自分を神として崇めることを要求し、神殿に像まで作らせようとしたカリグラ帝が念頭にあったかもしれない。

 だがカリグラは命令が実行される前に暗殺されたし、なによりも彼の死後、世界は終わらなかった。その後の歴史でも、ネロ帝、ドミティアヌス帝、デキウス帝、ディオクレティアヌス帝などが現れると、今度こそ反キリストに違いないと言われた。中世になると、他宗派のキリスト教徒が反キリストだと互いに言い合い、宗教改革が起こると、カトリックはプロテスタントを、プロテスタントはローマ教皇を反キリストと呼び合った。

 しかし、いくら待っても、どれだけ凶悪な人物が出現しても、キリストの再臨は起こらず、やがて反キリストが口にされることはなくなっていった。レーニンもヒトラーも、もはや反キリストとは呼ばれなかったのである。



『テモテへの手紙一』

 テサロニケ宛に続く三つの手紙は、「牧師」宛てに、教会の運営について助言を与えるために書かれている。宗教指導者を牧師と呼ぶのは、人間を羊に例えることからきている。その最初の手紙の宛先はパウロの愛弟子である。

テモテへの手紙一1章1節:イエス・キリストの使徒パウロより
テモテへの手紙一1章2節:我が信仰の息子テモテへ

 ところが、この手紙は書かれた時期が謎である。

テモテへの手紙一1章3節:私がマケドニアへ行くとき、君はエフェソに留まるように望んだ
テモテへの手紙一3章14節:近日に君の所へ行けることを望みつつ、これを書いている

 だが、使徒言行録のどこにも、この記述が当てはまる時期はない。この手紙の著者が真にパウロなら、考えうるのは、使徒言行録に記された時代よりも後で書かれたことだろう。使徒言行録は、ネロ帝がローマのキリスト教徒を弾圧した紀元六四年で終わっているが、テモテへの手紙一を信じるなら、パウロは弾圧の原因となった大火の前にローマを立ち去ったことになる。ローマに残っていれば、ライオンのえさにされるか、火焙りになったろう。それなら弟子のテモテと二人でエフェソへ行き、テモテはエフェソに留まったと考えられる。バイブルには記述がないが、テモテはエフェソの初代司教となり、やがて、ネロ帝よりもはるかに本格的な弾圧を行ったドミティアヌス帝の時代に殉教したという話が伝わっている。

 もっとも「牧師宛」の手紙は、パウロのものとは文体や用語が異なり、後世人が使徒パウロの名を借りただけで、そもそもパウロの著作ではないという意見もある。



『テモテへの手紙二』

 明らかに、テモテへの手紙一の続きである。いくつかの町を訪れた後、著者は自分の死が近いことを語っている。

テモテへの手紙二4章6節:召されるための準備はできた、旅立ちの時は近い
テモテへの手紙二4章7節:私はよく戦い、使命を終え、信仰を保った、

 この手紙も、パウロの著作と信じるなら、ローマを逃れた彼は再び捕らえられ、今度こそ殉教したのだろう。つまりテモテへの手紙二は、パウロが最後に書いたものということになる。



『テトスへの手紙』

テトスへの手紙1章1節:神の下僕にしてイエス・キリストの使徒であるパウロより、
テトスへの手紙1章4節:信仰を同じくする我が息子テトスへ、
テトスへの手紙1章5節:この目的のため君をクレタに残した。君は正しくない状況を直さなければならない

 パウロはローマへ向かう途上でクレタ島に寄っているから、その地に弟子のテトスを残したのだろう。手紙の中で、パウロは、クレタ人について警告し、異端への警戒を怠るなと言う。

テトスへの手紙1章12節:彼ら自身の預言者さえも、クレタ人は常に嘘をつく悪辣な獣で、満足することのない大食いだ、と言っている

 パウロがいう「預言者」とは、前七世紀のエピメニデスのことだと解釈されている。洞窟で五十七年も眠り続け、目覚めた時は魔術師になっており、百五十歳もしくは三百歳の寿命を保ったという伝承の中の人物である。



『フィレモンへの手紙』

 フィレモンはコロサイの人である。

フィレモンへの手紙1章1節:イエス・キリストの囚われ人パウロ、及びテモテより、フィレモンへ
フィレモンへの手紙1章2節:そして我らが愛すべきアフィア、アルキポス、そして君の家の中の教会へ

 自分の家の中で教会の集まりを持つということは、フィレモンはコロサイのキリスト教徒の指導的立場にいたのに違いない。アフィアは彼の妻、アルキポスは息子であろう。アルキポスの名はコロサイの信徒への手紙に登場する。

コロサイの信徒への手紙4章17節:アルキポスに伝えよ、受託した主の使命を思い、それを果たすように、と

 ということは、コロサイの信徒の実質の指導者は、息子のアルキポスということも考えられる。フィレモンへの手紙はコロサイ教会への手紙と同時期に書かれたのだろう。実際、コロサイ教会への手紙をティキコスが託された時、もう一人の人物の名が挙げられている。

コロサイの信徒への手紙4章8節:私はティキコスを送ったが、
コロサイの信徒への手紙4章9節:我が忠実で愛すべき兄弟にして、諸君の一人であるオネシモスも一緒に付けた

 このオネシモスはフィレモンの奴隷だったが、主人の財産を盗んで逃亡したのを、ローマでパウロと出会い、入信した人物である。パウロは、オネシモスをフィレモンのもとへ送り返し、ただし罰すべき逃亡奴隷ではなく、信仰の仲間として扱うように求めている。しかも、フィレモンが被った損失を償うことまで申し出ている。

フィレモンへの手紙1章15節:君は彼を受け入れねばならない
フィレモンへの手紙1章16節:それも奴隷ではなく、兄弟として、
フィレモンへの手紙1章18節:もしも彼が迷惑をかけ、君に借りがあるなら私に言いたまえ
フィレモンへの手紙1章19節:私が支払おうではないか

 キリストの教えはすべての人間のためにあると訴える、パウロの有名な言葉がある。

ガラテヤの信徒への手紙3章28節:ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もなく、イエス・キリストの中では皆ひとつの存在なのだ

 とはいえ、パウロが奴隷制度そのものを否定したわけではない。

エフェソの信徒への手紙6章5節:奴隷は、肉の世界の主人に、キリストに仕えるように、恐れと真心をもって仕えねばならない

 当時は奴隷なしの社会など考えられなかった。現代社会が奴隷を必要としないのは、機械のおかげにほかならない。パウロはただ、フィレモンにオネシモスを寛容に扱ってくれと頼んだだけである。



『ヘブライ人への手紙』

 この手紙の著者が誰かは書かれていないが、これまでのパウロの手紙と比べると異なる点がいくつもある。まず全体の構成がしっかりしており、原文のギリシャ語の質も高く、口頭の説教を文書化したようにみえる。

ヘブライ人への手紙6章9節:だが愛すべき人々よ、このように話しつつも、諸君のより良きこと、救済とともに来たるものを、我らは理解している

 この手紙はまた、冒頭の書き出しも、著者と宛名を記するパウロの体裁とは異なる。

ヘブライ人への手紙1章1節:神はかつて我らの父祖に、時を選び、多様な形で、預言者をして語らせた
ヘブライ人への手紙1章2節:今や、神の子によって、我らに語ったのだ

 神学面の思想も、パウロのものとは異なり、むしろフィロンのような、アレクサンドリアの哲学に精通した、教養あるユダヤ人を思わせる。後世、マルティン・ルターは、パウロの助手のアポロが著者ではないかと考察した。

使徒言行録18章24節:アレクサンドリアの出身で、弁が立ち、かつ経典に精通した、アポロという名のユダヤ人が、

 たしかに、アポロならこの手紙の著者の条件に当てはまる。

 なぜ、ヘブライ人への手紙と呼ばれるのか。そもそも、ここでいうヘブライ人とはユダヤ教徒のことなのか、それともユダヤ系のキリスト教徒のことなのか?

ヘブライ人への手紙13章24節:イタリアの人々が敬意を込めて挨拶をしている

 と書かれていることからして、手紙の著者はイタリアの外に、受取人はイタリアにいるように思われる。最もありそうなことは、著者はアレクサンドリアの住人で、受取人はローマに住むユダヤ系のキリスト教徒であろう。書かれた時期についても、状況から推測するしかないが、

ヘブライ人への手紙10章28節:モーセの律法を侮る者が容赦のない死に方をしたことには、複数の証人がある
ヘブライ人への手紙10章29節:では神の子を踏み付けにした者がどれほどの罰に値するかを考えてみよ

 というくだりは、ネロ帝による弾圧の時代に書かれたのかもしれない。あるいは、わざわざヘブライ人を対象に書かれたのは、エルサレムの神殿が破壊された紀元七〇年以後、キリスト教内部における異邦人の優勢が顕著になり、ユダヤ系の信徒たちが元のユダヤ教へ回帰し始めたため、彼らを繋ぎ止めるためだったかもしれない。そのために、イエスが旧約聖書の創世記で語られる祭司長のことだと言う。

ヘブライ人への手紙6章20節:イエスはメルキゼデクに連なる祭司長となった

 メルキデゼクは、アブラハムの勝利を祝いに来た王であり、聖職者でもあった。



『ヤコブの手紙』

 ヘブライ人への手紙に続く七通の手紙の著者はパウロではないし、特定の教会へ宛てたものでもない。宛先はいわばすべてのキリスト教徒である。最初に来る手紙の著者はヤコブという人物だという。

ヤコブの手紙1章1節:神と主イエス・キリストの下僕ヤコブより、各地に散居する十二部族へ

 このヤコブは、イエスの弟で、エルサレム教会の指導者だったヤコブのことだという考えが、一般に支持されている。ユダヤ人の史家ヨセフスの記述では、紀元六二年、エルサレムの祭司長アンナス二世が、ローマの総督フェストゥスが後任者に交替する間隙をついて、ヤコブを処刑したことになっている。ユダヤ人がローマへの反乱に立ち上がるのはわずか四年後で、すでに民族主義者たちの感情は沸騰寸前だったのであろう。彼らはローマに抵抗しようとしないキリスト教徒を裏切者とみなし、アンナスは彼らを抑えきれなかったと思われる。

 六二年に死んだヤコブが著者なら、この手紙が書かれたのはそれより前になる。それどころか、キリスト教徒を「十二部族」つまりユダヤ人と呼び、異邦人への割礼免除問題がどこにも言及されていないので、書かれたのは、異邦人の入信が大問題になる紀元四八年のエルサレム会議より前、つまりパウロのどの手紙よりも前ではないかと思われる。

 一方で、手紙のギリシャ語の質は高く、ヤコブのような、ガリラヤの庶民出身の人物の筆にはみえないのも事実。手紙の内容は、人々に、正しい行いについて教えるものである。



『ペトロの手紙一』

 続く二通の手紙は、使徒ペトロによるものだという。

ペトロの手紙一1章1節:イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、コパドキア、アジア、ビテュニアの人々へ、

 もっとも書かれている内容はパウロの思想に近いし、そもそもガリラヤ人のペトロがギリシャ語に堪能だったとは思えない。あるいは、翻訳者の助けを得たのかもしれない。それを窺わせる記述がある。

ペトロの手紙一5章12節:忠実な兄弟シルバノスの手を借りて、この手紙を書いた

 シルバノスといえば、テサロニケへの手紙に登場するパウロの弟子で、パウロの二度目の旅に同行した使徒言行録のシラスと同一人物ではないか。新約聖書を通して描かれるペトロは意志の弱い人物で、もし彼がパウロの弟子の助けを借りて手紙を書いたなら、手紙自体がパウロの思想に引きずられた可能性は、大いにある。

 もっとも、手紙が書かれたのはペトロやパウロの死後かなりの年月を経た後で、権威を持たせるためにペトロの名を借りたのかもしれない。手紙の末尾にこのような記述がある。

ペトロの手紙一5章13節:バビロンの教会が、挨拶を送る

 もちろんバビロンは消滅して久しいが、現在の迫害者を過去の迫害者の名で表すのは、バイブルで何度も利用された方法で、バビロンとはローマに他ならない。ペトロがローマへ行った記述はバイブルのどこにもないが、後世には事実として認められ、彼こそが初代のローマ教皇ということになった。

 しかし使徒の時代のキリスト教を最も迫害したのはユダヤ教徒であって、パウロの例に見られるように、ローマはむしろ保護者であることが多かった。六四年にネロ帝の迫害はあったが、ローマ市だけのことで、帝国全体ではない。そのユダヤ教徒は、やがてローマへの反乱の結果、壊滅状態となり、キリスト教を迫害するどころではなくなった。ローマが真にキリスト教の迫害者となるのは、八一年から九六年まで在位したドミティアヌス帝の時代である。この時はじめて、手紙の冒頭に挙げられた諸地域のキリスト教徒は、帝国による迫害を経験することになる。

ペトロの手紙一4章12節:愛すべき者たちよ、諸君を襲う炎の試練を、異常事態と思うな

 その後二世紀にわたって、ローマこそが迫害者すなわち「バビロン」となったのだ。そうなると、この手紙が書かれたのはペトロよりも一世代か、それ以上あとのことになる。



『ペトロの手紙二』

 次の手紙もペトロが書いたことになっている。

ペトロの手紙二1章1節:イエス・キリストの下僕にして使徒のシモン・ペトロより、同じ尊い信仰をを得た人々へ、

 しかし、ペトロの手紙一やヤコブの手紙と同様、その文体や内容から、これもまた後世の著作と考えられている。とくにそれをはっきりと示唆するのは、この部分だろう。

ペトロの手紙二3章15節:我らの主が長く苦難に会われたことが救済であり、我らの愛すべき兄弟のパウロも、
ペトロの手紙二3章16節:彼の書簡集で述べているだろう

 パウロの手紙がすでに書簡集としてまとめられていたなら、パウロ自身の時代から年月を経た時代でなければならない。また、この手紙の中には、キリスト教徒の中には、待てど暮らせどキリストの再臨が起こらないことに、不信の念を抱く者が現れていることを窺わせる記述もある。

ペトロの手紙二3章8節:主の一日は千年であり、千年は一日である
ペトロの手紙二3章9節:主が約束を守るに怠惰なのではない

 このような言い方で信徒たちを説得せねばならないとすれば、やはり使徒たちの時代よりも後世に書かれたことが、分かるだろう。



『ヨハネの手紙一』

 ここからの三つの手紙は著者の名が入っていない。ただ、文体も内容も第四福音書と酷似しており、同じ作者であるのは確実と思われる。イエスを「言葉」と呼ぶことまで共通している。

ヨハネの手紙一1章1節:始まりから存在したもの、命の言葉、

 それゆえ第四福音書の著者がゼベダイの子ヨハネとされているので、この三つの手紙もヨハネの手紙と呼ばれる。紀元一〇〇年頃エフェソで書かれたことが推測されるのも、第四福音書と同じである。三つの内で最初の手紙が最も長く、反キリストに気をつけること、兄弟愛を持つことを訴える内容になっている。



『ヨハネの手紙二』

 二つ目と三つ目のヨハネの手紙では、著者は自分のことを「長老」と呼んでいる。

ヨハネの手紙二1章1節:長老より、選ばれた婦人とその子供たちへ

 婦人というのは、特定の女性を指すのかもしれないが、あるいは教会のことかもしれない。

※カトリックでは、イエスと教会を、夫と妻の関係に例える※



『ヨハネの手紙三』

 三つ目のヨハネの手紙も同様の書き出しになっている。

ヨハネの手紙三1章1節:長老より、愛すべきガイウスへ

 ガイウスは、他宗派との争いでヨハネを支持した味方であったようだ。

ヨハネの手紙三1章9節:教会へ手紙を出したが、地位を望むディオトレフェスが、我らを拒んだ
ヨハネの手紙三1章10節:私が訪れることがあれば、彼(ガイウス)の功績を忘れまい



『ユダの手紙』

 手紙の中で最後に収録されているのがユダの手紙である。冒頭で著者の名を挙げる。

ユダの手紙1章1節:イエス・キリストの下僕にして、ヤコブの兄弟のユダより、聖者たちへ、

 ヤコブとユダの兄弟といえば、イエス自身の兄弟として福音書に現れる。

マタイによる福音書13章55節:これは大工の息子ではないか、それに弟のヤコブとヨセフとシモンとユダではないか

 だが、この手紙の内容はペトロの二通目の手紙の第二章とそっくりで、やはりドミティアヌス帝の時代に書かれたと思われるので、たとえ著者の名がユダだとしても、兄弟云々は、権威付けのための加筆であろう。異端を攻撃する点もペトロの手紙二と共通するが、ユダは黙示文学を引用し、異端者をサタンと呼んでいる。

ユダの手紙1章9節:大天使ミカエルが悪魔と争ったとき、モーセの遺体に関する議論となった

 これはイエスと同じ時代にパレスチナのユダヤ人が著した、モーセの死と埋葬と昇天の伝説に基づいている。人間の魂が死後に裁かれるとき、悪魔は生前の罪を告発する。モーセはエジプト人監督を殺したから、天国へ入る資格はないと、悪魔は主張した。

出エジプト記2章11節:モーセが成長した時、エジプト人がヘブライ人を打っているのを見た
出エジプト記2章12節:モーセは周囲を見て、誰もいないことを確認すると、エジプト人を殺して砂に隠した

 この伝説が広く信じられていたとなると、手紙が書かれたのはやはりイエスの時代よりもずっとあとであろう。

投稿時間:2016/02/28(Sun) 21:58
投稿者名:Ken
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『ローマの信徒への手紙』

 使徒言行録の次に収録されているのが、各地の教会や個人へ宛てた合計二十一通の手紙で、うち十四通はパウロが書いたとされる。書かれた順番ではなく、長い手紙から順に並べられており、最も長いローマの信徒への手紙が最初に来る。パウロの見解が最も詳しく述べられ、かつ帝都の信者へ向けた手紙であることも、最初に置かれた理由だろう。執筆時期は明記されていないが、

ローマの信徒への手紙15章25節:今、私は聖者たちを手伝うために、エルサレムへ向かう
ローマの信徒への手紙15章26節:なぜならマケドニアとアカイアの人々は、エルサレムの貧しい聖者たちを助けることを喜んでいるので

 というくだりは、使徒言行録に記載のある、三度目の旅からの帰途、マケドニアとギリシャの豊かな教会からエルサレムの貧しい教会への援助を届けたことと一致するので、この手紙は五八年に書かれたと思われる。冒頭で、手紙の著者と宛て先が明示される。

ローマの信徒への手紙1章1節:イエス・キリストに仕え、使徒と呼ばれるパウロより、
ローマの信徒への手紙1章7節:聖者と呼ばれる、ローマのすべての人へ

 まだパウロ自身はローマを訪れていないが、ユダヤ人は帝国各地に居住し、エルサレムへ巡礼するから、キリスト教の教義を覚えて帰った者もいたろうし、ローマ在住者の中から信徒が生じたのだろう。パウロがローマへ到着するのは、この手紙から五年後である。

 パウロは手紙の中で、この時期の最重要問題を論じている。異邦人がキリスト教に入信するとき、割礼を含めて律法が定める儀式に従わねばならないのか。

 律法に対するパウロの姿勢は、かつての神殿に対するエレミヤの姿勢と同じであった。割礼をすれば十分と考えるのも、逆に割礼をやらねばそれだけで駄目と思うのも、誤解であるという。

ローマの信徒への手紙2章25節:法を守る者には割礼は役立つが、法を破る者には割礼は意味がない
ローマの信徒への手紙2章26節:よって、もし割礼をしない者が正しい法を守るなら、割礼の有無にこだわる必要はない
ローマの信徒への手紙2章29節:その者は内なるユダヤ人で、心の中で割礼を行っているのだ

 そして、キリストの教えに従うなら、最も大切なのは倫理であるという。

ローマの信徒への手紙6章15節:我らが法ではなく、神の慈悲の下にいるから、罪を犯してよいことになろうか、そんなことは神は禁じている

 パウロは、ユダヤ人が異邦人の信徒に寛容であるべきと説くことが多いのだが、彼自身がユダヤ人であることは、常に意識していたようだ。

ローマの信徒への手紙11章1節:では言おう、神は自分の民を見捨てたか? それは神の意思ではない。私はイスラエル人、アブラハムの裔、ベニヤミン族

 とくにローマでは異邦人の信徒の方が優勢だったので、むしろ異邦人信徒がユダヤ人信徒に寛容であってほしいと、パウロは訴えている。

ローマの信徒への手紙14章13節:お互いに相手を裁かぬようにしよう
ローマの信徒への手紙14章14節:本質的に穢れた存在などはなく、ただ穢れていると思っているだけなのだから

※ローマの信徒への手紙についてのアジモフの記述は、このようにユダヤ人と異邦人の宥和を訴える箇所と、あとは手紙に登場する個人名についての考察からなる。意外なのは、神学的教義に関する記述がなにもないことだ。この手紙こそ、パウロの教義が最も明確に述べられていると、多くの研究者が指摘するのに。

 そもそも「キリストの教え」として、現在世界中の教会で語られる思想は、真にイエスが唱えたことなのか、それともパウロが唱えたことなのか、議論が費やされてきた。神の意思に従って正しい人生を送ることを求めるのは、両者に共通する。異なるのは、イエスは人間の努力でそれが可能とするのに、パウロは人間の独力で罪を克服するのは不可能ということだ。

ローマの信徒への手紙7章18節:良いことはせず、やってはいけない悪いことは、やってしまう

 そのような人間は、捨て置けば全員が地獄へ落ちるからこそ、キリスト(救世主)が必要なので、神の子は、当然人間が受けるべき罰を、人間の身代わりに受けてくれたと教会は教えてきた。その最大の論拠がローマの信徒への手紙なのに、アジモフは何も言わない。

 もちろん、アジモフは無神論者だから、このような思想にはまったく同意できないであろう。しかし、それならパウロの教義を紹介した上で批判を加えればよいので、これほど人類史に巨大な影響を与えた教義の説明を忘れるのは、アジモフ先生の手抜かりと言わざるをえない。※



『コリントの信徒への手紙一』

 コリントの信徒への手紙は二通が収録されており、一通目の長さはほとんどローマの信徒への手紙に匹敵する。コリント教会は、五一年、パウロが二度目の伝道旅行の途上で創設した。三度目の旅のとき、パウロは五五年から五七年までエフェソに滞在し、その間にこの手紙を書いたのは、次の一節から明らかだ。

コリントの信徒への手紙一16章8節:私はペンテコステまではエフェソに留まるつもりだ

 書き出しで、送り主の名が記されている。

コリントの信徒への手紙一1章1節:使徒と呼ばれたパウロ、我が兄弟のソステネス、

 このソステネスは、使徒言行録で、集団暴行を受けたことが記録されている人物だ。

使徒言行録18章17節:ギリシャ人たちは、シナゴーグの長のソステネスを捕らえ、裁きの場の前で、殴りつけた

 ここで「ギリシャ人」というのは、明らかに誤訳で、ここはユダヤ人でなければ意味が通らない。この時、ユダヤ人たちはアカイア総督のガリオの手でパウロを断罪させようとしたが、ガリオは、パウロのことはユダヤ人の問題だからと、関わりを拒否した。憤慨したユダヤ人たちは、彼らの指導者ソステネスがキリスト信者に断固とした姿勢で臨まないからこういうことになるのだと言いがかりをつけ、彼を集団リンチにかけた。バイブルに記述はないが、このソステネスは、やがてキリスト教に改宗してパウロの伝道仲間になったという。コリントの信徒へ送る書状の送り主が、パウロとソステネスの連名になっていても、不思議はない。

 手紙の文面からすると、どうやらこの頃、コリントの教会では内部対立があったらしい。

コリントの信徒への手紙一1章12節:諸君のそれぞれが、自分はパウロ派とか、自分はアポロ派とか、ペトロ派だ、キリスト派だと言っている

 キリスト派とは、伝えられるイエスの言葉だけに固執し、使徒をまったく認めない者をいう。それ以外は、それぞれ支持する使徒の教えを重んじる者だが、この場合とくにユダヤの伝統に重きを置く保守派がペトロを、その反対がパウロを支持したのだろう。アポロは洗礼者ヨハネの教えを奉じていたが、エフェソへ来てからキリスト教に改宗した人物だ。やがて彼はギリシャへ行き、アカイアやコリントで伝道活動をした。現存するどの文章からも、アポロとパウロの主張がどう違っていたのか分からない。支持者同士の派閥争いだったのかもしれない。パウロ自身は終始アポロを賞賛しているのだ。

コリントの信徒への手紙一3章6節:私が種を蒔き、アポロが水をやった

 パウロが男女関係について語った部分がある。基本的には、あまり肯定的には捉えていないが、正式な婚姻関係を結ぶことは、無制限の欲望に駆られることを制御できるので、それ自体は罪ではないという。ただ、多くのキリスト教徒と同じく、パウロもまた救世主の再臨と世界の終末は近いと信じていたから、急いで結婚しても意味がない、という立場だった。

コリントの信徒への手紙一7章29節:だが言おう、兄弟たちよ、時間はあまりない、
コリントの信徒への手紙一7章31節:この世のことは過ぎ去ってしまうのだ

 この世はじきに終わるが、キリストは再臨し、死者は甦って永遠の命を得る。だからこそ、今を正しく生きねばならない。わずかな時間の人生だけがすべてなら、でたらめでも楽しければよいではないか。このようなキリスト教の根本思想が、はっきりとした言葉で語られている。

コリントの信徒への手紙一15章32節:エフェソの獣のような者たちと戦ってきたが、もし死者が復活しないのなら、それに何の意味があるか、どうせ遠からず死ぬのだから、食べて飲んでおればよいではないか



『コリントの信徒への手紙二』

 コリントへの最初の手紙が送られた時、パウロは手紙を届ける一行に愛弟子を同行させたようである。

コリントの信徒への手紙一4章17節:この目的で、わが愛する息子テモテウスを派遣する。彼は、私がどこの教会でも教える私の道を忘れないための助けとなるだろう

 パウロがテモテをコリントへ送ったことは、使徒言行録に記載がある。

使徒言行録19章22節:パウロはテモテウスとエラストスの両名をマケドニアへ派遣したが、彼自身は、季節が変わるまでアジアで過ごした

 また、パウロ自身もやがてコリントを訪れる意思を表明している。

コリントの信徒への手紙一16章5節:私も、マケドニアを通過する時、諸君の所へ立ち寄るつもりだ
コリントの信徒への手紙一16章6節:あるいは、一冬を過ごすかもしれない

 これも使徒言行録に記述がある。銀職人の暴動のあと、

使徒言行録20章1節:パウロは、マケドニアへ向けて出発した
使徒言行録20章2節:そしてこれらの地域を通過した時、ギリシャへ入った
使徒言行録20章3節:そして三か月滞在した

 三か月滞在したなら、パウロの二度目のコリント訪問時のはずである。

 コリントへの二度目の手紙が書かれたのは、五七年にパウロがコリントへ向かう途上だったのは明らかで、二通ともローマへの手紙よりも前に書かれたことになる。コリントへの旅については、

コリントの信徒への手紙二13章1節:諸君を訪問するのはこれが三度目だが

 三度目ということは、使徒言行録に記載された二度のコリント訪問の間に、もう一度訪れたことになる。おそらくテモテの活動は成功とはいえず、コリントのキリスト教徒は、パウロ以外の使徒たちから影響を受けていたのだろう。それでパウロが自ら乗り込んだが、やはりうまくはゆかなかったとみえる。

コリントの信徒への手紙二2章4節:心に激しい悲しみと苦悩をもち、涙ながらに手紙を書いた

 涙ながらに書いたのが、コリントの信徒への手紙二の、最後の四章であろう。

 結果的には、パウロの怒りの書簡をコリントへ運んだテトスが朗報をもたらした。コリント教会はパウロの主張に従うことになったようなのである。テトスが戻ってそのことをパウロに伝えた。

コリントの信徒への手紙二7章6節:神は私を安らかにさせるため、テトスを戻らせた
コリントの信徒への手紙二7章7節:戻らせただけではなく、彼が諸君と安らかな仲になったときいて、私の心も安らいだ
コリントの信徒への手紙二7章9節:諸君が悔いていることを、私は喜ぶ

 コリント教会が「悔いている」とは、パウロを怒らせた者たちが処罰を受けたことを意味するのだろう。コリント教会との間に恨みを残さないためにパウロが書いたのが、コリントの信徒への手紙二の、初めの九章と思われる。その後、パウロがコリントを訪れたのは、周知のとおりである。



『ガラテヤの信徒への手紙』

ガラテヤの信徒への手紙1章1節:使徒パウロから、
ガラテヤの信徒への手紙1章2節:ガラテヤの教会へ

 まず注意を要するのは、ガラテヤとは正確にはどの地を意味するかだろう。本来のガラテヤとは、その名の由来であるゴール人がパウロより三世紀前に定住した、小アジア北部の地域である。そしてパウロより一世紀前にローマが小アジア全土を征服して、その全体を「ガラテヤ州」とした。使徒言行録にパウロが訪れた町の名としてデルベやルステラが記載されているが、これは小アジア南部の都市なので、パウロがいうのは広い意味のガラテヤで、帝国のガラテヤ州のことだろう。

ガラテヤの信徒への手紙4章13節:私が一回目の時に、病をおして福音を説いたことは、覚えておられよう

 「一回目」というからには、この手紙を書いた時点で、すくなくとも二回目があったのだろう。パウロは最初の伝道旅行で、往路と復路の二度ガラテヤを訪れているから、この書簡は最初の旅の後、四七年以降に書かれたと思われる。また、

ガラテヤの信徒への手紙2章11節:ペトロがアンティオキアへ来たとき、私は彼と対決し、

 このペトロとの「対決」は、異邦人の入信に割礼を課すべきかをめぐる論争だが、この問題に裁定を下した四八年のエルサレム会議への言及がないので、この手紙が書かれたのはその前、おそらく四七年だろう。だとすれば、現存するパウロの手紙の中で、というより新約聖書の文書の中で、最も早く書かれたことになる。

 異邦人の割礼をめぐって各地の教会が紛糾していた時期であり、ガラテヤ教会には強硬な保守派が多かったことは、パウロが二度目の伝道旅行のとき、この地で弟子になったテモテに、割礼を施すように勧めたことからも見てとれる。

 もっとも、こういう記述もある。

ガラテヤの信徒への手紙2章9節:ヤコブ、ペトロ、ヨハネは、私とバルナバに承諾を与え、我らは異教徒を、彼らは割礼をした者を担当することになり、

 これだと、割礼なしに異邦人を入信させることに、エルサレムの保守派が既に同意しているようにとれるので、エルサレム会議の後に書かれたことが考えられる。パウロのいう二度のガラテヤ訪問が、彼の二度の伝道旅行を意味しているなら、ガラテヤへの手紙が書かれたのは、五一年頃まで時期が降る。それでもエルサレム会議への言及がないのは、ペトロたちガリラヤ人使徒の承諾つまり彼らの権威に頼っているようにみえるのを避けるためかもしれない。なにしろパウロは、彼は他人の意思に従って行動しているのではないと、誇り高く語っているのだから。

ガラテヤの信徒への手紙1章1節:人ではなく、イエス・キリストと父なる神から命を受けた使徒パウロ、
ガラテヤの信徒への手紙1章12節:私の教義は他人から教わったものではなく、イエス・キリストの啓示によるものだから



『エフェソの信徒への手紙』

 最初の四つの手紙(ローマ、コリント一、コリント二、ガラテヤ)をパウロが書いたのは疑問の余地がないが、五つ目のエフェソの信徒への手紙の著者については議論がある。もっとも、冒頭ではパウロの手紙だと言ってはいる。

エフェソの信徒への手紙1章1節:イエス・キリストの使徒パウロから、エフェソの聖者たちへ、

 しかしながら、手紙全体の用語や文体から、別人の作ではないかと疑われている。例えば、特定の個人へ宛てた挨拶がないのも、他の手紙と異なる。手紙を届けたのは、ティキコスという人物だという。

エフェソの信徒への手紙6章21節:愛すべき弟、主の忠実な下僕のティキコスが、諸君に伝える



『フィリピの信徒への手紙』

 この手紙は、ローマから送られたらしい。

フィリピの信徒への手紙4章22節:聖者たち全員が挨拶を送る、とりわけ帝室に仕える者たちが、

 帝室に仕える者たちがキリスト教に改宗した宮廷奴隷だとすれば、この手紙が書かれたのは、パウロがローマに到着した六二年より後。ただしネロ帝がキリスト教徒を迫害した六四年以降は、宮廷に信者がいたはずがないので、この間の期間であろう。

 手紙は、このように書き出している。

フィリピの信徒への手紙1章1節:パウロとテモテより、司教および助祭と共にいる、フィリピのすべての聖者たちへ、

 フィリピはマケドニアの町で、パウロがヨーロッパで最初の教会を建てた地でもある。その教会には、司教と助祭がいたらしいが、はたして後世のカトリック教会におけるような絶大な権威をもつ聖職者が、この時代の教会にすでにいたのだろうか。そうではなく、使徒たちの仕事を手伝う長老とその助手という程度の意味だったのだろう。長老といっても老人とは限らない。平均寿命が三十五歳くらいの時代には、四十を越えれば長老と見なされたはずである。

 フィリピの信者たちはパウロに援助をしていたようだ。

フィリピの信徒への手紙4章18節:諸君が送ってくれた物資を、エパフロディトスから受け取った


『コロサイの信徒への手紙』

コロサイの信徒への手紙1章1節:パウロと、テモテから、
コロサイの信徒への手紙1章2節:コロサイの聖者たちへ、

 コロサイの名は使徒言行録に登場せず、パウロが訪れたことがない町と思われる。エフェソより二百キロほど東に位置し、ペルシャ帝国時代は商業都市として栄えたが、アレクサンダーの征服後は衰退した。コロサイ教会を設立したのは、パウロの仲間だった。

コロサイの信徒への手紙1章7節:我らの愛すべき仲間、キリストの忠実な下僕、エパフラスのことを覚えておられよう

 パウロが手紙を送ったのは、コロサイでグノーシス主義が影響を増していると知らされたからだった。コロサイの信徒の中には、天使には非常に多くの階層があり、イエスなどは下級の天使に違いないと考える者がいたようだ。パウロは雄弁に駁し、イエスを超えるものなどありえないと論じたてた。

コロサイの信徒への手紙1章15節:イエスは、目に見えない神が姿をえたもの
コロサイの信徒への手紙1章16節:万物を創ったのはイエスである、天のものも、地のものも、見えるものも、見えないものも、朝廷も、王国も、公国も、藩国も、すべてはイエスが、イエスのために造られたのだ

 朝廷、王国、公国、藩国とは、天使の階層に付けられた名称である。

※原文では、thrones、dominions、principalities、powersと、政治単位として上位のものから下位のものへと順に並べ、階層を表現しているので、上記のように日本語化した。日本聖書協会のサイトでは、王座、主権、支配、権威となっているが、どうであろう。これでは、階層の意味がうまく伝わらないのではないだろうか※

 パウロは、このような天使の階層を想像することを戒めた。

コロサイの信徒への手紙2章18節:天使を拝したり、見たこともないものに踏み込んだり、しょせんは肉体の中の精神に想像させたり、そういうことをしないように、

 もっとも後世のキリスト教は、パウロが否定した天使の階層を大量に教義に取り入れてしまった。想像された階層の名称には、セラフィム、ケルビム、大天使、天使といった旧約聖書に記載があるものと、朝廷や公国のようにグノーシス主義に由来するものがある。

 パウロは、彼と一緒にいる仲間の名も挙げている。

コロサイの信徒への手紙4章10節:我が囚われの仲間アリスタルコスも挨拶を送る、バルナバの甥マルコスも、

 マルコスはヨハネ・マルコのことだろうから、どうやらパウロと仲直りしていたようだ。アリスタルコスはパウロがエフェソで銀職人の暴動に襲われたとき、彼と一緒にいた仲間である。そのあとも、マケドニア、ギリシャ、アジアそしてエルサレムまで、パウロに同行し、やがてローマへ旅立つ時も一緒だった。

 同じく、パウロと一緒にいたのがルカとデマスである。

コロサイの信徒への手紙4章14節:愛すべき医者のルカとデマスも、

 だが、デマスは殉教の危険を伴う伝道活動に耐えられなかったらしい。のちの書簡で、パウロを見捨てたことが語られているのである。

テモテへの手紙二4章10節:デマスは今のこの世を愛するあまり、私を捨て、テサロニケへ去ってしまった



『テサロニケの信徒への手紙一』

 パウロとシラスは、二度目の旅の途上でテサロニケを訪れたが、現地のユダヤ人社会から異端者として叩き出された。それでも異邦人のための教会はできており、パウロの手紙が送られた。

テサロニケの信徒への手紙一1章1節:パウロ、シルバヌス、テモテウスからテサロニケの教会へ

 手紙が書かれたのは、パウロがアテネを去り、コリントに滞在していた時期なので、五〇年頃と思われる。ガラテヤの信徒への手紙が四七年に書かれたという説には賛否があり、このテサロニケへの最初の手紙が、現存する最古のパウロの著作と考える研究者も多い。

 パウロはテサロニケの信徒の信仰心を讃えているが、大半が異邦人の教会は、元々ファリサイ派のユダヤ教徒が考え出した、復活と最後の審判の教義には不案内だった。そこでパウロは、印象に残る表現で説明をしている。

テサロニケの信徒への手紙一4章16節:大天使の声と神のラッパとともに、主その人が声を上げて天より降り、キリストを奉じる死者がまず甦る
テサロニケの信徒への手紙一4章17節:そして我ら生きる者は、雲の中で彼らと一緒になり、空で主とまみえる

 「我ら生きる者」が復活したイエスとまみえるといっているのは、パウロが自分が生きている間にそれが起こると信じていたことにほかならない。それでも時期の明言はできないと、慎重な態度をとることも忘れない。

テサロニケの信徒への手紙一5章1節:その時期については、兄弟らよ、私が書き記す必要はない
テサロニケの信徒への手紙一5章2節:なぜなら、諸君も知るとおり、主の日は夜盗のようにしのび来るのだから

投稿時間:2016/01/31(Sun) 22:21
投稿者名:Ken
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タイトル:使徒言行録 (続き)
 成長したアンティオキア教会は、エルサレム教会をしのぐ実力を持ち始めていた。前述の飢饉にユダヤ本土が襲われたとき、アンティオキアは援助をするまでになっていたのだ。

使徒言行録11章29節:アンティオキアの弟子たちは、各自が自分にできることで、ユダヤの兄弟たちを助ける決心をし、
使徒言行録11章30節:それを実行した。援助を届けたのはバルナバとサウルだった

 二人がアンティオキアへ戻るときヨハネ・マルコも同行した。そしてアンティオキア教会を本拠にして、いよいよ本格的な伝道活動が始まった。布教に赴くのはバルナバとサウル、助手として従うのがヨハネ・マルコである。

使徒言行録13章4節:彼ら(バルナバとサウル)はセレウキアへ行き、そこからキプロスへ航海した
使徒言行録13章5節:サラミスではユダヤ人のシナゴーグで神の言葉を説き、

 サラミスはキプロス島の中心都市だが、一行はこの後、島を横断してパフォスの町へ行った。そこはローマの駐屯地で、ローマの地方総督セルギウス・パウルスが滞在していた。パウルスはユダヤ教に関心があったが、それは彼に仕えるユダヤ人の影響だったらしい。

使徒言行録13章6節:バルナバとサウルの二人は、その地で魔術を使う偽の預言者で、ユダヤ人のバルイエスとまみえた

 パウルスは新しい教義を説く二人に関心を持ったが、バルイエスは彼らを異端者とみて排除しようとした。両者は総督の前で対決した。

使徒言行録13章8節:魔術師は二人と対峙し、総督を正しい教えから遠ざけようとした

 この次の一節で、人類史上最も有名な伝道者の名が登場する。

使徒言行録13章9節:このときサウルまたの名をパウロは、バルイエスをしっかと見据えた

 この時代、ユダヤ人でもギリシャ・ローマ風の名を持つのは普通の習慣になっていた。使徒の中でもアンデレやフィリポスがそうだし、ヨハネ・マルコのようにヘブライ(ヨハネ)とローマ(マルコ)の名をあわせ持つ人物もいた。サウルもまたパウロというローマ名を持っていたが、使徒言行録は、これまでこの人物を一貫してユダヤ名のサウルで呼んできた。それがこの時を境に、以後はすべてローマ名のパウロで呼ぶようになる。なぜここで彼の呼称が変わったのか、使徒言行録は語らない。だが、このとき彼は初めて異邦人を入信させ、それに反対したのがユダヤ人バルイエスだった。しかもパウルス総督は、ユダヤ教に惹かれていても、割礼をはじめとするモーセの律法は、彼には全く不合理なものに見えたに違いない。もしも、キリストへの信仰があればモーセの律法は入信の条件としないとなれば、彼を改宗させるのははるかに容易だろう。総督がどういう条件で改宗したのかは記述がないが、その後の歴史を見れば、サウルは割礼なしで彼を入信させたのは間違いない。サウルからパウロへの転換はそのことを、つまりキリスト教がユダヤ教から一歩遠ざかって、異邦人のための宗教への道を歩み始めたことを象徴しているのではなかろうか。あるいはパウロという、この時が初登場の名も、パウルス総督を改宗させたことを記念して付けたのかもしれない。さらには、名前を変えることで、かつてキリスト教を迫害したサウルとしての過去と、ここで完全に決別したとも考えられる。ここまでのサウルは常にバルナバの助手として描かれていたのが、彼が伝道者たちの中で占める地位すらも変わったように見えるのである。

使徒言行録13章13節:さて、パウロの一行がパフォスを発した時

 この一節の書き方が象徴的である。これまではずっと「バルナバとサウル」という書き方だった。バルナバが疑いなく上位者で、かつてサウルがエルサレム教会で受け入れられるのにも、バルナバの支持を必要とした。その地位が逆転した理由も使徒言行録には記述がないが、想像するのはさして難しくはない。パウルス総督の入信についてバルイエスと対決したとき、モーセの律法厳守を省略しようというサウルの主張に、バルナバは恐れをなして、しり込みをしたに違いない。だが総督を改宗させたのはサウルのやり方だったし、これ以後の布教活動もそれを踏襲する。ここからの使徒言行録は、全くパウロの物語になるのである。

 同時にそのことは、ユダヤ伝統派とパウロの間に路線の対立を生じ、次第に深刻になったことを意味する。例えば、ヨハネ・マルコはこのとき一行を離れ、エルサレムへ戻っている。もし彼が本当にマルコの福音書の著者なら、その内容からして彼はユダヤの伝統主義者だったはずで、パウロのやり方にはついてゆけなかったであろう。実際に、パウロが説く教えを異邦人は受け入れるのに、ユダヤ人は反発するケースがますます多くなってゆく。例えばピシディア地方のシナゴーグで伝道した時も、パウロたちが成功するかにみえたとき、現地のユダヤ人指導者の妨害が入り、結局イエスは救世主とは認められなかった。情熱家のパウロは、同時に短気でもあったようだ。

使徒言行録13章46節:パウロとバルナバは言い放った、必要があったから神の言葉を諸君に伝えたが、諸君がそれを拒むなら永遠の命に値しないのだから、これからは異邦人を相手にする

 とはいえ、パウロはユダヤ人を見捨てたわけではなく、彼が伝道の旅で新しい町へ到着すると、どこでもまずユダヤ人たちに接触している。ただ、ユダヤ人が彼の教えを受容しなければ、対象を異邦人に変えているのだ。パウロは第二イザヤが伝える神の言葉を挙げて、異邦人への布教の正しさを主張した。

イザヤ書49章6節:君を異邦人の光としよう、私のために、君が世界の果てまで救済できるように

 だが一行が旅を続けるにしたがい、ユダヤ人による迫害はますます激しくなった。ルステラの町では、病人を治療したところ、市民はバルナバとパウロを、人間の姿をとったゼウス神とヘルメス神に違いないと拝しにきた。すると今度はユダヤ人が集まってきて、二人が神を冒涜する者であると扇動し、一転して二人は集団暴行を受けた。半死半生になりながらも、二人はルステラを脱出し、次の目的地へ向かった。

 やがてアンティオキアへ戻ったパウロたちは布教活動の報告を行った。モーセの律法の完全厳守を求めずに異邦人を改宗させる彼の手法は、アンティオキア教会で支持されたようである。

使徒言行録14章27節:パウロとバルナバは教会の衆を集め、神が彼らにやらせたこと、それが信仰の扉を異邦人に開いたことを説明した

 だがこの報せがエルサレム教会に伝わると、ヤコブを筆頭とする保守派の反発を買った。

使徒言行録15章1節:ユダヤから来た者たちが言った、モーセの方法で割礼をしない者に、救済はありえない、と

 この時エルサレムから来た告発者の中にはペトロもいたようだ。後にパウロがこの時のことを語っている。

ガラテヤの信徒への手紙2章11節:だが、ペトロがアンティオキアへ来た時、彼は誤ったことを行い、私は彼に立ち向かった

 パウロは、ペトロもかつて異邦人コルネリウスと会食したくせに、ヤコブたちに迫られて立場を後退させたと相手をなじった。議論は沸騰し、誕生したばかりのキリスト教会は、分裂の危機に直面した。

 ついに、この問題を論ずるため、紀元四八年のエルサレム会議が開かれた。会議では、ヤコブが律法の厳守を、パウロがその対極を主張し、ペトロとバルナバがなんとか妥協点を見つけようと腐心したようである。使徒言行録は会議の推移を記録している。

使徒言行録15章5節:そのときイエスを信じるファリサイ派の者たちが立って言った、割礼は必要である、モーセの律法を守らせなければならない

 だがペトロが立ち上がって、彼自身がコルネリウスを割礼なしで入信させたことを述べた。

使徒言行録15章7節:諸君も知ってのとおり、昔、神は、異邦人が私の口から福音を聞き、信仰を得るように、我らの内から選んだ

 これは律法厳守派には打撃を与えたろう。パウロも彼のやり方はペトロの前例を踏襲しているのだと主張し、ついにヤコブを屈服させた。ヤコブは異邦人を入信させる上で、どうしても譲れない四つの点を挙げるに留まった。

使徒言行録15章20節:穢れた偶像、姦淫、絞め殺した獣、血、これらは避けねばならない

 それでも、割礼も複雑な食物の戒律も免除されることになった。マカバイ時代のユダヤ人は、これらの戒律を破るよりも死を選んだことを思えば、パウロの完全勝利といえる。アンティオキアへ戻るパウロたちには新しい仲間のシラスが加わっていた。このシラスもパウロと同じローマ市民だったと思われる。

 アンティオキアのパウロとバルナバは二度目の伝道の旅を計画するが、バルナバがヨハネ・マルコを加えることを主張し、パウロが反対したことで、ついにこの両者が決裂した。

使徒言行録15章39節:二人の争いはあまりにも激しく、別々に旅立つことになった

 パウロにすれば、モーセの律法に固執するマルコはもちろん、マルコを切ることができないバルナバとも、行動をともにできないと思ったのだろう。

使徒言行録15章39節:バルナバはマルコとキプロスへ航海した
使徒言行録15章40節:パウロはシラスを選び、
使徒言行録15章41節:シリアからキリキアを通って、

 パウロとシラスはルステラまで来て、新しい同志を得た。

使徒言行録16章1節:そこにテモテという名の弟子がいた。母はユダヤ人、父はギリシャ人で、

 ただ、ギリシャ人の子テモテは割礼をしていなかった。ユダヤ人たちはパウロがテモテを伴うことを認める代わりに、彼に割礼を施すことを要求し、パウロもここでは保守派の要求に従った。

 この二度目の旅は、前回の旅で教会を設置した地域に連なる小アジアの地方を回るはずだった。ところがパウロはそれらに目もくれず、まっしぐらに西方を目指した。理由については、

使徒言行録16章6節:聖霊がアジアでの布教を許さなかった

 などと書かれているが、真相は、エルサレム会議で異邦人への布教を公認されたパウロが、異邦人の本拠ともいえるヨーロッパの地を目指したのではなかろうか。もしそうなら、彼はアンティオキア教会にすら真の意図を隠して出立したことになり、あるいはこれこそ彼とバルナバの道が別れた真相かもしれない。結局バルナバは大胆すぎるパウロの行動についてゆけなかった。彼はその結果歴史から姿を消し、キリスト教の命運はパウロが一身に背負うことになる。

 パウロがヨーロッパに入ったのは紀元五〇年頃であろう。

使徒言行録16章11節:トロアスを離れ、我らはまっすぐサモトラキへ、そして翌日はネアポリスへ来た
使徒言行録16章12節:さらにはフィリピまで、

 つまりエーゲ海を横断してネアポリス港で上陸し、マケドニアへ入ったことになる。フィリピはマケドニアの大都市で、かつてカエサルが暗殺された後、暗殺者ブルートゥスとカシウスの連合軍がアントニウスとオクタウィアヌスの連合軍と前四二年に戦った戦場だった。パウロたちはここでいつものユダヤ人ではなく、異邦人から迫害を受けた。迫害者には、ユダヤ教徒とキリスト教徒の区別がつかず、一行がユダヤ教を広めに来たと思ったのだ。

使徒言行録16章20節:このユダヤ人たちは、
使徒言行録16章21節:我らローマ人が学ぶことも行うことも法に反する習慣を教えにきた

 パウロとシラスは鞭打たれて投獄されたが、折からの地震で脱出し、さらには彼らがローマ市民と判明したので自由の身になった。パウロの布教活動において、彼のローマ市民権は何度も彼を守ったが、このときもそうだったのだ。そして一行は、テサロニケ、ベレヤを経て、ギリシャ史上の最も偉大な町に入った。

使徒言行録17章15節:彼らはパウロを案内してアテネへ連れて行った

 この時代のアテネはもちろんローマの支配を受けていたが、いわば大学の町として、学府で学びに来たギリシャ人やローマ人が多くいた。過去から製造されてきた神殿や偉大な美術品も多かったが、パウロにとっては、戦慄すべき偶像崇拝のしるしに過ぎなかった。またアテネには哲学者が多くいて、奇妙な思想を持つ新来者のことを聞き、面会を求めてきた。

使徒言行録17章18節:すると、エピクロス派とストア派の哲学者たちが、パウロと遭遇した

 この二つの学派は、どちらも当時のアテネでは大きな存在だった。エピクロスは前三四一年にサモス島で生まれた人物だが、人間を含む宇宙の万物は「原子」の動きにのみ影響されるので、神の意思が介在する余地はないという、大胆な無神論を提唱した。そのような宇宙にあっては、人間が知覚できるのは快楽と苦痛だけなのだから、快楽を最大に、苦痛を最小にすることを追求すればよい、という思想である。エピクロス当人にとっては、真の快楽とは学問をしたり友情を育む心の動きであって、過度の肉体的快楽ではなかったのだが、人間の通弊として、肉体的快楽だけが人生の喜びだと短絡する者がはるかに多く、結局、エピクロス派は享楽主義者の代名詞になってしまった。

 もう一方のストア派は、エピクロスと同じ頃にキプロスで生まれたゼノが創始者である。アテネに作られたゼノの学校には、ギリシャ語で彩色柱廊を意味するストア・ポイキレがあったのが、学派の名称となった。基本的には多神教の立場をとるが、圧倒的な力をもつ最高神がいると考える点で、一神教への途上にあるようにもみえる。ストア派も苦痛を最小にすることを目指すが、その方法はエピクロス派のような享楽ではなく、苦楽を超越し、ただ倫理的に正しいことを追求する精神を養うことだった。パウロよりも一世紀後に現れたマルクス・アウレリウス皇帝などはこれの信奉者で、異教徒にも関わらず、まるでキリスト教の聖者のような人格を持っていた。

 そのアテネの哲学者たちを相手に、パウロは議論をすることになった。

使徒言行録17章19節:彼らはパウロをアレオパゴスへ案内して言った、新しい教義について聞かせてもらえようか、と

 ここでパウロが倫理の話だけをしておれば問題はなかったろうが、彼の教義の根幹というべきイエス・キリストの復活を語ると、アテネ人の失笑を買った。ただ、その中でも信者になる者はいた。

使徒言行録17章32節:死者が復活した話を聞くと、ある者は侮辱した
使徒言行録17章34節:だが一部の者はパウロに従い信仰を得た、その中にはアレオパゴスのディオニシオスがいて、

 このディオニシオスは後に数々の伝説の題材になった。アテネの初代司教になったという話もあるし、ガリアの地で殉教し、フランスの守護聖人サン・ドニになったという話もある。すべてフィクションではあるが。

 アテネの次に訪れたコリントでは、パウロは一年半も滞在した。彼を告発する機会を窺っていた現地のユダヤ人は、新任の総督が到着した時を捉えた。

使徒言行録18章12節:ガリオがアカイアの副知事だったとき、ユダヤ人たちはパウロを裁きの場へ連れて行った

 だがガリオ総督はユダヤ人内部の争いには無関心で、パウロに何の手出しもしなかった。ここからパウロたちは東へ向かって旅立ち、エフェソ、カエサリアを経てエルサレムへ、その後アンティオキアへ戻り、二度目の伝道の旅を終えた。

 パウロが三度目の伝道の旅に出たのは五四年だった。まず小アジアのエフェソへ行き、五七年頃まで留まった。この時期になってもなお、洗礼者ヨハネを奉じる人々がいたらしい。

使徒言行録18章24節:アレクサンドリアの生まれで、弁の立つアポロというユダヤ人がエフェソへ来た
使徒言行録18章25節:彼はヨハネの洗礼しかしらなかった

 パウロはこのような人々にキリストの教えを説いていった。彼の努力は報われ、エフェソはエルサレム、アンティオキアに次ぐ、キリスト教の第三の根拠地となるのである。使徒ヨハネもこの地で第四福音書を書いたし、イエスの母マリア、マグダラのマリア、使徒アンデレとフィリポスもこの地へ移ったという。

 だが、教会の発展に伴って、予想外の摩擦も起こった。

使徒言行録19章24節:デメトリオスという銀職人は、ディアナ神の銀の祭壇を作り、職人たちに多くの利益をもたらしていた
使徒言行録19章25節:その職人たちと、同じような仕事をする作業者を集め、

 ディアナとはギリシャ神話の豊穣の女神で、バビロンのアシュタルテなどと同様の位置を占める。エフェソはこの女神の祭祀の場として知られていたが、旧約聖書がアシュタルテを邪神と見なしていることを思えば、パウロたちのディアナへの反応も容易に想像がつく。祭祀のおかげで利益を得ていたデメトリオスが怒りを発し、仲間を語らってパウロたちを襲おうとしたが、エフェソの当局が押さえ込んで、事なきを得た。そのことに安心したのか、パウロはギリシャの諸教会を数ヶ月かけて巡回し、その後、小アジアのミレトスに滞在した。そこからエフェソの長老たちに送った書簡の一節が記載されている。

使徒言行録20章35節:主イエスの言葉を思い出されよ。主は言われた、与えられるより与える者が、神に祝福される、と

 非常に有名な「イエスの言葉」であるが、実は福音書のどこにも記載がない。

 その後、パウロはエルサレムを訪れた。彼の布教方法が承認された前回のエルサレム会議から、早くも十年が経過していた。

 ここでパウロはヤコブたちから、割礼も律法の厳守も免除して異邦人を入信させるパウロの布教への不満と怒りが、いよいよ大きくなっていることを聞いた。

使徒言行録21章20節:見られよ、兄弟、信仰を持つどれだけ多くのユダヤ人が、律法を激しく守ろうとしていることか
使徒言行録21章21節:彼らは、君が異邦人に混じって住むユダヤ人に、モーセを忘れよと教えていることを、聞いているのだ

 実際には、パウロは異邦人には律法厳守を課さないだけで、ユダヤ人には律法を守らせていた。それでもヤコブたちは、信徒の中に律法を守る者と守らない者があり、守らない側が異邦人を取り込んで果てしなく勢力を拡大すれば、最後には守る側が圧倒されてしまい、キリスト教はまったく異邦人の宗教になってしまうという懸念をもっていた。(その後の歴史はまさしくそうなったのだが。)それにヤコブたちは、ユダヤ教徒にも時間をかけてイエスが救世主だと納得させ、やがては彼らと宥和することを願っていた。それなのに、パウロのせいで、キリスト教が反ユダヤ思想であるかのように思われたら、その望みは雲散霧消し、エルサレムのキリスト教徒はまたも迫害を受けるに違いない。ヤコブはパウロに神殿で清めの儀式を行い、パウロ個人は律法を守っていることを人々に見せることを求め、パウロも従った。ところがパウロが神殿に入ると、彼を知っている者に発見され、大声で叫ばれてしまった。

使徒言行録21章28節:イスラエルの民よ、手を貸せ、この男だ、あらゆる場所で我らに、律法に、この神殿に反対しているのは

 パウロはあやうく殺されるところだったが、騒ぎを聞いたローマの守備隊が駆けつけたので救われた。パウロはローマの隊長には彼がローマ市民であると告げ、ユダヤの祭司たちには、自分は救世主の復活を信じるファリサイ派であると主張して、難を逃れた。たしかに、ファリサイ派はイエスを救世主と認めないだけで、救世主の復活自体は重要な教義であり、救世主を否定するサドカイ派こそが敵だと、この時期でもまだ信じていたのだ。

 しかし、エルサレムの人々のパウロへの怒りは治まらない。ローマの隊長は、彼をカエサリアへ送り、フェリクス総督の裁きを受けさせるように取り計らった。フェリクスは当時は珍しい、解放奴隷から高官に昇った人物で、しかも妻はユダヤ人だった。

使徒言行録24章24節:フェリクスはユダヤ人の妻ドルシラを伴って現れ、パウロを呼び出し、キリストへの信仰について話を聞いた

 だがフェリクスはパウロがキリスト教の倫理面を語りだすと、関心を失ったらしい。ただ、エルサレムの社会不安が悪化するのを恐れて、パウロを拘留するにとどめた。二年が過ぎると、フェリクスはローマ皇帝の宮廷で政治的な後ろ盾を失い、総督の地位を解任されてしまう。新総督として赴任したのがポルキウス・フェストゥスで、パウロの裁判をあらためてエルサレムで行うことを考えた。だが、パウロは、エルサレムで裁判を行えば、ユダヤ人が強硬に彼の処刑を要求し、三十二年前のピラトと同じく、フェストゥスも抗しきれなくなることを恐れ、ローマ市民の自分には皇帝に直訴する権利があると主張した。そうなるとフェストゥスもどうすることもできず、ついにパウロをローマへ行かせることになった。これがパウロにとっては四度目の伝道の旅となり、彼は再びアジアへ戻ることはなかった。パウロを乗せた船は、何度も嵐に襲われながら、クレタ島、マルタ島、シチリア島を経由してイタリア半島に達し、六二年、ついにパウロはローマに到着した。

 パウロの皇帝への直訴がどうなったのかは記述がない。二年後の六四年に、

使徒言行録28章31節:誰に妨げられることもなく、自信をもって神の王国を説いていた

 と、彼がローマの地で布教活動をしていることを記して、使徒言行録は終わっている。実は、この年こそネロ皇帝によるキリスト教徒弾圧の年で、いわばそれが起こる直前の、パウロの伝道活動が最も成果を上げた時点を選んで、著者のルカは筆を置いたのではなかろうか。パウロの死は三年後の六七年と伝わる。イエスが十字架にかかってから三十八年、パウロがキリスト教に転じてから三十三年が経っていた。パウロが登場したとき、キリスト教はエルサレムに残ったわずかな弟子たちが奉じる、いつ消滅してもおかしくない弱小宗派だった。それが今や、キプロス、小アジア、マケドニア、ギリシャの各地に力強く布教を行う教会がたち、その信徒は帝都ローマにまでいた。それを実現したのは、タルサスのサウルとして生まれ、聖パウロとして生涯を終わった、驚嘆すべき一人の人物だったのである。

投稿時間:2016/01/31(Sun) 22:20
投稿者名:Ken
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タイトル:使徒言行録
『使徒言行録』

 イエスは死んだ。それに続く時代のキリスト教史を語るのが使徒言行録である。初期のキリスト教の発展には二つの大きな特徴がある。一つは教勢の拡大で、エルサレムを出発点としながら、ついにその影響はローマにまで及んだ。もう一つは、キリスト教が、ユダヤ教の一宗派から、異邦人のための普遍的な教えに変質したことだ。その物語の最大の主人公が使徒パウロなのである。もっともパウロの活躍を描くのは、おもに使徒言行録の後半で、前半はいろいろな弟子たちについて書いている。その文体や用語から、第三福音書と同じルカの著作と考えられ、書かれたのも同じ八〇年頃だろう。

 使徒言行録の冒頭では、復活したイエスがまだ弟子たちに指示を与えている。だが、やがてイエスは昇天し、いよいよ今後のことは弟子たちの肩にかかることになった。まずイスカリオテのユダに代わる十二人目の弟子マティアを籤で選んだのが、彼らの初仕事となった。

 次に、過越しの祭の安息日から五十日目と決められているペンテコステの祭が近づいていた。ユダヤ教の祭だが、弟子たちはまだ全員ユダヤ教徒だから、当然これを祭らねばならない。なおイエスは昇天して去る前に、弟子たちにこんな予言を残していった。

使徒言行録1章5節:多くの日数を経ないうちに、諸君は聖霊に清められる

 そのとおりのことが、ペンテコステ祭では起こったという。

使徒言行録2章4節:使徒たちは皆、聖霊に満たされ、その霊の力で、異国語を話し始めた

 霊の力で話すとは、宗教儀式の中で神懸り状態になったときに言葉を発することで、士師や王の時代の預言者はみなこうだった。十九世紀のアメリカにすらシェイカーと呼ばれた人々がいたほどである。だが、この場合の奇跡は「霊の力」で発した異国語を、その場の全員が理解したことだろう。

使徒言行録2章5節:そこには世界万国から来た信仰心の篤いエルサレムのユダヤ人がいた
使徒言行録2章9節:パルティア、メデス、エラム、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、
使徒言行録2章10節:フリギア、パンフィリア、エジプト、リビアのキュレネ地方、そしてローマからの訪問者、
使徒言行録2章11節:クレタ、アラビア、

 アジアというのは小アジアのことだから、ここに列挙された諸地名は、東のパルティアから西のローマまでを網羅したものだ。これほど広汎な地域から集まった人々が、使徒が発する言葉を理解したのなら、聖霊の奇跡かもしれない。だが、この時代にはユダヤより西の諸国ではエジプトやローマにいたるまですべてギリシャ語が通用したし、ユダヤ自体と東のパルティアではアラム語が交易の共通言語だった。使徒たちが発した言葉にギリシャ語とアラム語が入っていれば、列挙された諸国の人々が理解できる言葉が、必ずあったはずなのである。

 それでも目撃した人々の中には、奇跡と信じて、キリスト教に入信する者が多数いた。

 この時期のキリスト教がどうにか生き残れたのは、ユダヤ教の内部抗争が一因だったといえる。貴族階級を代表し親ローマのサドカイ派は、反ローマ運動に繋がりかねないこの新興宗派を最も危険視したが、ファリサイ派は常にサドカイ派と対立関係にあった。実のところ、イエスを救世主と認めるかの一点を除けば、初期のキリスト教とファリサイ派の教義は重なる部分が多く、ファリサイ派の人々は、イエス信仰などは無知な誤解でいずれ消え去るのだから、サドカイ派こそがユダヤ教の敵だと信じていた。サドカイ派に反対して使徒たちを弁護したのも、ファリサイ派の一人だった。

使徒言行録5章34節:そのときファリサイの一人で、律法学者として名高い、ガマリエルという人物が立ち上がり、

 ガマリエルは、キリスト信者が正しいにせよ、誤っているにせよ、神が彼らを裁くのだから、放っておけばよいと主張し、他の宗教指導者たちを説得したので、使徒たちは活動を続けることができた。

 むしろ初期の教会を危険にさらしたのは、二つの派閥の内部対立といってよい。一派はユダヤ本土とガリラヤのユダヤ人で、アラム語を話し、伝統を大切にする人々である。もう一派はそれ以外の地に住む人々で、言語も生活習慣もギリシャ風になっている。どちらもユダヤ人なのだが、使徒言行録は彼らをヘブライ人、ギリシャ人と呼び分けている。ヘブライ人はギリシャ人を異邦人に影響された不純な存在と見なし、ギリシャ人はヘブライ人を広い世界を知らない田舎者と思っていた。

使徒言行録6章1節:その頃、弟子の数は増えたが、日々の配給で彼らの寡婦がヘブライ人に無視されている、という苦情がギリシャ人から出た。

 十二使徒の全員がヘブライ人だったので、あるいはこの苦情には根拠があったのかもしれない。だが、ここでヘブライ人の使徒たちは優れた決定をした。ギリシャ人側から七人の代表を選んで、教団の運営に参画させたのだ。

使徒言行録6章5節:その報せはすべての者を喜ばせ、ステファノ、フィリポス、プロコロス、ニカノル、ティモン、パルメナス、ニコラスが選ばれた

 ギリシャ人の筆頭がステファノで、彼は仲間のギリシャ人の間にキリスト教を広める活動を始めた。ところが、抵抗に直面した。

使徒言行録6章9節:すると、自由人、キュレネ、アレクサンドリア、キリキアのシナゴーグでステファノに反論した者たちがいた。

 自由人とは解放された奴隷のことだ。審問の場へ呼び出されたステファノは、イエスを真の救世主と信じる自分が反対されるのは、モーセが反対者に直面したのと同じであると弁じるが、神を冒涜した罪に問われ、ただちに処刑された。紀元三一年、イエス処刑の二年後だが、キリスト教の最初の殉教者がギリシャ人だったことは、すでに起こりつつあった重要な変化を示すといえよう。

 ステファノが処刑された後、同じギリシャ人のフィリポスが布教活動をした。

使徒言行録8章5節:フィリポスはサマリアの町へ行き、キリストの話を伝えた

 この頃には、キリスト教徒の間で、サマリア人への偏見はなくなっており、むしろユダヤの伝統勢力から排斥される者同士の連帯感すら見られた。フィリポスがサマリアで信者を獲得すると、十二使徒のペトロとヨハネが直ちに赴いて入信の儀式を行ったが、そのことにためらいはまったくみられない。サマリア人のキリスト教徒はユダヤ人のキリスト教徒と対等な立場を得、これもキリスト教が勢力を拡大する重要な一歩となった。サマリアで成功したフィリポスは、次にガザへ行き、その地で遠い異国から来た人物と遭遇した。

使徒言行録8章27節:エチオピアの女王カンダケに仕え、女王の財宝を管理する宦官の一人が、礼拝のためエルサレムへ向かっていた

 前七世紀にはエジプトを征服したこともあるエチオピアには、長い間にユダヤ人が流入し、この宦官もその一人だったろう。のちのイスラム教徒がメッカへ巡礼するように、彼もエルサレムへの途上にいたのだ。このユダヤ人の宦官はイザヤ書を読んでいたのを、フィリポスは救世主イエスを理解するためのイザヤ書の正しい読み方を指導し、彼をキリスト信者にしてから帰郷させた。この時はフィリポスが自分だけで入信の儀式を行い、ペトロもヨハネも関与していない。これも、キリスト教の布教がエルサレムのヘブライ人の手を離れ、ギリシャ人が主体になってゆく過程を表すエピソードであろう。

 だが、ステファノやフィリポスとは桁違いに巨大な影響を与えたギリシャ人が、このとき舞台に登場した。しかも登場した時は、イエスの信徒たちにとって容赦のない迫害者だったのだ。その名をサウルという。

 ベニヤミン族に生まれたサウルは、後に彼自身が書いているように、強烈なユダヤ民族主義者だった。

フィリピの信徒への手紙3章5節:八日目に割礼を施したイスラエル人、ベニヤミン族、ヘブライの中のヘブライ

 彼は、ベニヤミン族の英雄サウル王の名をつけられたのだ。ただ、自分をヘブライの中のヘブライという彼は、キリキアのタルサス市の出身で、当時の分類ではギリシャ人だった。もっと重要なことは、彼がローマの市民権をもっていたことである。彼は生涯に何度も迫害を受けるが、ローマ市民権のおかげで迫害を逃れたことも多くあった。また、ユダヤ人の彼がローマの市民権を持っていたのは、彼の生家が市民権を買えるほど豊かだったことを示す。そのおかげでサウルはエルサレムへ留学し、ギリシャ語だけでなく、アラム語にも通じることができた。

 彼はまた、自分はファリサイ派だという。若い頃は、イエスが救世主という教えを、到底許すことができなかった。ステファノの殉教につながる告発を行った中にキリキアのユダヤ人もいるが、キリキアはサウルの故郷だから、彼も熱心な告発者の一人だったろう。ステファノが群衆に処刑されたその場にサウルがいたことも明記されている。

使徒言行録7章58節:告発者たちは、サウルという名の若者の足元に、脱いだ上衣を置いた
使徒言行録8章1節:そしてサウルはステファノの死に同意を与えた

 ユダヤの伝統的な処刑法は、衆で囲んで相手が死ぬまで石をぶつけることである。告発者たちは石を投げやすいように上衣を脱いだのだ。実はこれが使徒言行録へのサウルの初登場なのである。サウルにとって、ステファノの処刑は、キリスト教徒迫害の手始めにすぎなかった。

使徒言行録8章3節:サウルは教会を襲い、各家に押し入って男女を連行し、投獄した

 サウル自身も、彼がキリスト教を迫害したことを、後に語っている。

ガラテヤの信徒への手紙1章13節:私が神の教会に計り知れない害を与え、滅ぼしたことを聞かれたことがあるだろう

 ところが、サウルはキリスト教徒を捕らえるために赴いたダマスカスで、異常な体験をする。

使徒言行録9章3節:サウルがダマスカスの近くまで来た時、天からの光が彼を包んだ
使徒言行録9章4節:彼は地に倒れ、声を聞いた。サウルよ、サウルよ、なぜ私を害するか、と
使徒言行録9章5節:サウルは言った、どなたですか、と。主は答えた、お前が害しているイエスだ、と

 実は、サウルはのちに自身のことをこのように語っている。

コリントの信徒への手紙一2章3節:私もまた弱く、恐れ、そして震えることが多い

 この「震えることが多い」とは、実際に発作が起こったことを意味し、彼にはてんかんの持病があったと解釈されることがある。あるいはこのときのダマスカスでも幻覚を見たのかもしれない。このときサウルは失明し、三日後にキリスト教徒が彼に触れると視力を回復したという。

 これでサウルはキリスト教に改宗し、それまでの最も熱心な迫害者が、最も熱心な伝道者となった。その時期は書かれていないが、紀元三二年から三六年の間と考えられている。サウルは直ちにダマスカスでキリスト教の布教を始め、それまでの彼を知っていた人々を仰天させた。

使徒言行録9章23節:その後かなりの日数を経て、ユダヤ人たちは彼を殺そうと相談した

 後にサウルが書いていることから判断すると、彼はこのときダマスカスに三年滞在したようだ。その間に布教のやり方を考えたのだろう。だが、彼を背教者と見なすユダヤ人だけでなく、この地方を統治していたアレタス王もサウルを捕らえようとしたので、彼は奇策を用いて脱出せざるをえなかった。

コリントの信徒への手紙二11章32節:ダマスカスではアレタス王の総督が守備隊を配して、私を逮捕しようとした
コリントの信徒への手紙二11章33節:そこで私は窓から籠に乗って城壁伝いに降り、彼の手を逃れた

 エルサレムへ戻ったサウルはキリスト教会に加わろうとしたが、彼の過去を知る人々から当然ながら警戒された。幸い彼の参加を支持してくれた人物がいた。

使徒言行録9章27節:だがバルナバがサウルを使徒達の下へ連れて行き、サウルが主と会ったことを保証した

 バルナバもギリシャ人で、キリキアから近いキプロスの出身だから、サウルへの親近感があったのだろう。参加直後の彼自身については、サウルが後に語っている。

ガラテヤの信徒への手紙1章18節:私はエルサレムへ行ってペトロと会い、十五日間いっしょにいた
ガラテヤの信徒への手紙1章19節:他の使徒では、主の弟のヤコブだけと会っていた

 ペトロは十二使徒の筆頭だが、イエスの弟のヤコブも、この頃には指導的な役割に就いていたらしい。サウルがこの二人と会っていたということは、この二人からイエスの教えを学んだということだろう。だが、エルサレムでもサウルはユダヤ教徒から裏切者として狙われ、逃げ出さねばならなかった。その後の数年を彼は故郷のタルサスで過ごした。

 この頃、ペトロもまた伝道の旅をしていたが、あるとき彼はローマ軍の駐屯地カエサリアを訪れた。

使徒言行録10章1節:カエサリアにコルネリウスという百人隊長がいた
使徒言行録10章2節:信心深く、神を畏れる彼は、多くの喜捨を行い、いつも祈っていた

 コルネリウスはペトロが町を訪れていると聞いて招待したが、ペトロは躊躇した。

使徒言行録10章28節:ユダヤ人が異国人と接するのは、律法に反するので

 接するといっても、この場合は食事を共にすることを意味する。異教徒と会食をすれば、食物に関する戒律を破ることになるので、本来なら許されない。ペトロはユダヤの律法と、ローマの士官をキリスト信者にできる機会の板ばさみで苦しんだであろうが、ついに食物の戒律を廃止する決定をした。それだけではない。

使徒言行録10章48節:ペトロは主の名において彼に洗礼を与えた

 これは画期的なことだった。これまでキリスト教への入信者は、すべてモーセの律法に従う者だった。マタイの福音書では、イエス自身が明言している。

マタイによる福音書5章17節:私が律法を壊しにきたと思ってはならない、私は破壊ではなく、完成させるためにきたのだ

 ところが、今やペトロは割礼もしていない者と会食したのみか、彼をユダヤ教徒にする前にキリスト教徒にしたのだから、いわばモーセの律法を無視したことになる。もちろん保守派からは非難を受けた。

使徒言行録11章2節:ペトロがエルサレムへ来ると、割礼をした人々は彼を非難した
使徒言行録11章3節:君は、割礼をしない者たちのところへ行き、食事をともにした、と

 使徒言行録では、結局ペトロの説明を保守派が受け入れたことになっているが、事実は異なるであろう。むしろ後にパウロの書簡が、ペトロの弱気をなじっていることからして、ペトロの方がヤコブたち保守派に屈したと思われる。

ガラテヤの信徒への手紙2章12節:ヤコブからの使いが来る前は、ペトロは異邦人と会食したのに、使いが来るとペトロは割礼した者たちを恐れ、引き下がった

 事実、ペトロはこれ以後だれ一人改宗させていない。それでもコルネリウスの入信が無効にされることはなかった。やはりこれも歴史の転換点の一つになったのは、間違いない。

 ユダヤ本土を離れた場所では、布教ははるかに容易だった。

使徒言行録11章19節:諸国へ散った者たちは、フェニキア、キプロス、アンティオキアへ行き、ユダヤ人相手に伝道をした
使徒言行録11章20節:そしてキプロスとキュレネの者たちがアンティオキアへ来ると、ギリシャ人に道を説いた
使徒言行録11章21節:そして多くの信者を得た

 ここでの「ギリシャ人」は直前の「ユダヤ人」との対比だから、これまでに出たギリシャ語を話すユダヤ人ではなく、本物のギリシャ人かギリシャ化したシリア人と思われる。つまりここでも、ユダヤ教の段階を省略して、直ちにキリスト教徒になっている。異邦人の本格的な入信が起こったのはこの時のアンティオキアだろう。キリスト教徒という呼称自体もこの地で発生した。

使徒言行録11章26節:アンティオキアの弟子たちが、最初にクリスチャンと呼ばれた

 この呼び名は当初は蔑称だったのが、やがて信者たちはそう呼ばれることを誇るようになったのは、後世のクエーカー教徒などと事情が共通する。キリスト教の発展に重要な役割を果たすことになるのは、地方都市エルサレムではなく、ローマとアレクサンドリアに次ぐ帝国第三の都市アンティオキアの教会だった。一方でエルサレム教会は、アンティオキア教会が、ユダヤの律法に正しく準拠して布教を行っているのか疑い始めていた。遠隔地のキリスト教が正統から外れた道を行くのを防ぐため、エルサレムはバルナバを指導者として派遣することにした。重大な責務を負うことになったバルナバは、強い意志と情熱をもつかつての仲間を思い出し、協力者とした。

使徒言行録11章25節:バルナバはサウルを探すためタルサスへ赴いた
使徒言行録11章26節:そして彼を見つけると、アンティオキアへ連れて行った

 その時期は、

使徒言行録11章27節:その頃、
使徒言行録11章28節:クラウディウス皇帝の治世で、世界を覆う飢饉があった

 もちろん世界を覆う飢饉などなかったが、バイブルの著者にとって「世界」はユダヤのことだから、これは史家ヨセフスがいう、四六年から四八年にかけてこの地方を襲った飢饉のことではないか。だが時代に言及した記述はもう一つある。

使徒言行録12章1節:同じ頃、ヘロデ王は教会に弾圧の手を伸ばし
使徒言行録12章2節:ヨハネの兄ヤコブを剣で殺した

 このヘロデはヘロデ・アグリッパ王のことで、ユダヤ主流派の支持を得るためにキリスト教を弾圧した。ヤコブは(ユダを除き)十二使徒の中で最初に死んだことになる。ヘロデ・アグリッパはペトロも投獄させたが、彼は脱出して友人宅へ逃れた。

使徒言行録12章12節:彼はマルコと呼ばれたヨハネの母、マリアの家へ来た

 バイブルに記述はないが、このヨハネ・マルコがマルコの福音書の著者とされている。

 ヘロデ・アグリッパ王は人間関係の調整に優れ、ユダヤの伝統主義者及びローマの双方と、非常に良好な関係を維持していた。この王が長命しておれば安定した王朝を築き、ユダヤ人の反乱も起こらず、キリスト教は歴史から消えていたかもしれない。だが紀元四四年に不慮の事故で王が急死したことが運命を変えた。ユダヤ人はいよいよ激しくローマを憎み、ついに六六年の反乱を起こした。その結果ユダヤ教は殲滅され、代わってキリスト教が勢力をのばし、やがてローマ帝国そのものを、ひいては西洋世界を支配するにいたる。ともあれ、彼が王位に就いていたのは四一年から四四年までで、サウルたちがアンティオキアへ行ったのはこの時期とも考えられる。やはり、バイブルは年代については大まかな記述しかしていないということだろう。

投稿時間:2015/12/20(Sun) 23:14
投稿者名:Ken
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タイトル:ヨハネによる福音書
『ヨハネによる福音書』

 第四の福音書が描写するイエスは前の三書とはあまりにも異なり、バイブルの記述がすべて真実と主張する人々は、その違いを説明するのに苦労をしてきた。マルコ、マタイ、ルカの三書はまとめて共観福音書と呼ばれるが、いずれもイエスがエルサレムに滞在したのは最後の一週間ほどだという。ところが第四書では、イエスはエルサレムに三年ほど留まったように書かれている。イエスの説法も、例え話を多用する三書と比べて、はるかに本職の祭司や神学者を思わせるような議論の仕方になる。おそらく第四書が書かれた時代には、キリスト教の中に教義上の対立が生じており、著者は自分の考えをイエスの口を借りて言わせたのではなかろうか。書かれたのは、ローマによるエルサレムの破壊から一世代を経た一〇〇年頃らしい。すでにキリスト教はユダヤ教から完全に分離しており、キリスト教の将来は異邦人が担うことも明らかだった。ルカと比べてすら、第四の福音書のイエスはユダヤ性が希薄であり、何よりもユダヤ人の扱いが非好意的である。

 第四書を書いたのは誰であろうか。それを考える上で、最後の晩餐の場面が手がかりになるようだ。イエスが弟子たちを前にして、彼らの一人が裏切ると予告するのは、四つの福音書に共通しているが、弟子たちの反応は異なる。マルコは全員が質問したという。

マルコによる福音書14章19節:彼らは悲しみ、各自がイエスに尋ねた、それは私ですか、と

 ルカは、弟子たちが自分たちで議論したという。

ルカによる福音書22章23節:彼らは互いに尋ねだした、誰がそんなことをするのか、と

 マタイはユダ本人だけがイエスに尋ねたという。

マタイによる福音書26章25節:裏切者のユダが答えて言った、師よ、それは私ですか、と

 ところが第四書のイエスは極端に神格化されているため、弟子といえども簡単には質問を向けることができないのである。そこで、イエスから特に愛された一人が、皆を代表して尋ねることになった。

ヨハネによる福音書13章23節:この時イエスの傍らには、イエスから愛された一人の弟子がいた
ヨハネによる福音書13章24節:シモン・ペトロは彼に合図して、イエスが誰のことを言っているのか、尋ねるように促した

 他の三書には弟子の誰かが特に愛されたという記述はないが、第四書ではこの弟子がイエスの磔に立ち合い、復活したイエスを使徒の中で最初に認識する。なによりも、この福音書の最後に来る記述が重要だろう。

ヨハネによる福音書21章20節:ペトロは振り返って、晩餐のとき師の傍らにいた、イエスが愛した弟子を見た
ヨハネによる福音書21章24節:この文書を書いたのは、その弟子である

 たしかにこれだけでは、その愛された弟子が第四書を書いた証明にはならない。後世の著者が過去の大人物の名をかたって著作を行うのは、バイブルにいくつも例がある。そもそも著者自身が、自分はイエスから特別に愛されていたなどと、繰り返し述べるのは奇妙ではないか。ただし、もしこの書が、複数の教義が競合した時代に書かれたなら、著者は自分の考えに最大限の権威を持たせようとしたろうし、彼がイエスから愛されたとなれば、絶大な効果をもつだろう。

 ではその愛された弟子とは誰であろうか。最後の晩餐の席にいたのだから、十二使徒の一人には違いない。福音書を読むと、十二使徒の中にも、特別にイエスと親しい三名がいたことが分かる。ペトロと、ゼベダイの二人の息子ヤコブとヨハネである。この三人は、いわゆる「主イエスの変容」に立ち会ったことがマタイに記されている。

マタイによる福音書17章1節:イエスはペトロ、ヤコブ、その弟のヨハネだけを連れて、高い山へ登った
マタイによる福音書17章2節:そして彼らの眼前で変容した

 また、イエスがゲッセマネで祈った時も、その場にいたのはこの三人だった。イエスから特に愛された弟子がいるなら、この三名の誰かと考えるのが自然だろう。そのなかで、まずペトロが除外できる。なぜなら裏切者の正体を尋ねよと、愛された弟子を促したのは彼だからだ。残るは二人の兄弟だが、イエスは、特別に愛したこの弟子に、彼の再臨に立ち会うことを命じている。

ヨハネによる福音書21章23節:この弟子は死なないという言葉が異国の兄弟たちに伝わった。だが、イエスは彼が不死だと言ったのではない。自分が戻るまで彼が待っていることは、ペトロには関係がない、と言ったのだ

 重要なのは、初期のキリスト教徒は、イエスの再臨は遠い未来のこととは考えなかったことだ。一人の人間の生存中に起こるはずだったのである。だが、もしも第四書が書かれた時、愛された弟子が死んでいたなら、上の予言は外れたことになる。第四書が一〇〇年頃書かれたなら、その時この弟子は存命だったはずである。そうなるとヤコブではない。彼はイエスの磔からそれほどの年数が経たないうちに、殉教の死を遂げているからである。

使徒言行録12章1節:その頃、ヘロデ王が教会へ魔手を伸ばした
使徒言行録12章2節:そしてヨハネの兄ヤコブを剣で殺した

 西暦一〇〇年頃に第四福音書が書かれたなら、イエスの死から七十年ほどを経ている。著者がイエスの生前を知る十二使徒の一人なら非常な長命だが、それでもあり得ない数字ではない。結局、第四の福音書は、ヨハネによる福音書、と呼ばれるにいたるのである。

 マルコの福音書はイエスが洗礼を受け、聖霊が宿った時から始まる。マタイとルカはイエスの生誕から書き起こす。これがヨハネになると、イエスの神性がはるかに顕著で、イエスがどういう存在かを神学的に解き明かすため、言葉(ロゴス)の讃歌から始めている。

ヨハネによる福音書1章1節:初めに言葉があり、言葉と神は一体だった

 言葉(ロゴス)を神の意味で用いるのは、旧約聖書にも例がないし、新約聖書でもヨハネの記述だけの特徴である。だが、ロゴスはギリシャ哲学では重要な位置を占める。

 ユダ王国が最後の時を迎えていた頃、この世を理解するための、全く新しい思想が小アジアの地に現れた。その先駆者はタレスで、幾何学を学問として興し、電気と磁気の現象を研究し、バビロニアの天文学をギリシャ世界に紹介し、万物の根源物質は水であると主張した人物として伝わっている。だが、タレスと彼の学派の最大の功績は、この世の森羅万象は、神や悪魔の恣意的な決定ではなく、人間にも理解可能な言葉で表せる法に従う、という考え方を始めた点にある。思想としての科学の誕生と言ってよかろう。彼らは神を否定したわけではないが、造物主の神といえども、その法には従うのである。タレスの思想を継承したのが前五〇〇年頃活動したヘラクレイトスで、世界を創った合理的な理論をロゴスと呼称した。ロゴス(logos)は知識の体系でもあり、例えば、生物(bio)の知識体系をバイオロジー(biology)、大地(geo)の知識体系をジオロジー(geology)というように、現代の科学用語にまで影響を与えている。

 このロゴスがギリシャ哲学で中心的な位置を占め、万物をロゴスが支配するという考えが確立すると、やがて、ロゴスは、抽象概念を越えたものとして、それ自体が意志を持つ神として理解されるに至るのである。そしてギリシャ文化の影響がユダヤ人に及ぶと、智恵はそれ自体が人格を有する霊的存在という思想になる。例えば箴言には、智恵そのものが意志をもって一人称で語る箇所がある。

箴言8章22節:主は始まりの時、仕事にかかる前に、私を所有し、
箴言8章23節:私は太古の始まりの時に作られ、大地とともにあった

 コヘレトの言葉にも同様の表現がある。

コヘレトの言葉24章9節:神が私(智恵)を世界の初めに創られた、私が失敗することはない

 イエスと同時代に、アレクサンドリアにフィロンというユダヤ人がいた。ギリシャ思想に精通しており、ユダヤ思想をギリシャ的に表現するのが非常に巧みだった。彼は、ロゴスとはヤハウェ神の論理と創造の力が表れたものと考え、比喩的な意味で「神の姿」や「神の子」と呼んだ。ヨハネはこの考えに立ち、彼の福音書は冒頭にロゴスへの讃歌を載せている。

※考えてみれば、『最後の質問』に登場する超次元コンピュータは、智恵と論理が極大化した存在が宇宙創造の神になる、というプロットではないか。※

 なお、ロゴスと神の関係については、ヨハネのものとは異なる見解もあった。例えば一部の学者たちは、人格をもつ智恵である神は、人智をもっては到底理解しがたく、何よりも純粋に霊的な存在で、物質世界とは一切の関わりをもたないと考えた。彼らはそのような存在を「グノーシス」と呼んだが、もし真の神グノーシスが物質世界と関わりを持たないのなら、この世界を創ったのは何者かが問題になる。ここでグノーシス主義者はタレスと異なる立場をとり、世界を創ったのは偽の神で、この世はタレスが考えたような正しい合理的な法ではなく、邪悪な原理が支配すると考えた。ギリシャの思想家プラトンは造物主をデミウルゴスと呼び、人間のために働く超人的な奉仕者であるとしたが、グノーシス主義者にとってのデミウルゴスは、悪意をもって邪悪な世界を創った存在である。ただし、人間性の本質はグノーシスに近いもので、邪悪なデミウルゴスによって物質世界に閉じ込められているので、救済とは物質世界を克服してグノーシスに近づくことである。よって、グノーシス思想に拠れば、救世主イエスは、グノーシスが本来なら関わりえない物質世界と関わるため、幻の肉体をもって現れたものということになる。初期のキリスト教徒にはこのような立場をとる人々がいた。彼らにとって、この世を創ったヤハウェは邪神、キリストはグノーシスなのである。

 ヨハネの福音書は、グノーシス主義とは反対の立場をとる。旧約聖書の神とロゴスは一体であり、創造主である。

ヨハネによる福音書1章2節:初めに、言葉は神とともにあった
ヨハネによる福音書1章3節:神がすべてを創った、神なくして何ものも生じえなかった

 イエス自身も幻の肉体ではなく、ロゴスが物質となって現れたものである。

ヨハネによる福音書1章14節:そして言葉は肉となり、我らの間に居住した

 ロゴスへの讃歌は、一方で、洗礼者ヨハネをロゴスと誤解してはいけないともいう。

ヨハネによる福音書1章6節:神に遣わされたヨハネという男がいた
ヨハネによる福音書1章7節:彼の使命は光の存在を見届けることだった
ヨハネによる福音書1章8節:彼自身は、その光ではない

 その少し後では、洗礼者ヨハネ自身が、自分が救世主ということを否定する。

ヨハネによる福音書1章19節:ユダヤ人は祭司とレビの者をエルサレムからヨハネの下へ遣わして、君は何者かと尋ねさせた
ヨハネによる福音書1章20節:するとヨハネは告白した、自分はキリストではない、と

 この福音書がこういうことを述べていることから、西暦一〇〇年頃になっても、洗礼者ヨハネこそが救世主だと信じる人々がまだ勢力を保っていたことが分かる。前の三つの福音書が洗礼者ヨハネをエリヤの再来と持ち上げたのは、まだ弱体だったキリスト教が伝統的なユダヤ教と争うための味方を必要としたからだが、ヨハネの福音書が書かれた時代になると、そのような味方は必要がなくなっていたらしい。

ヨハネによる福音書1章21節:彼らはヨハネに尋ねた、君はエリヤか。彼は答えた、そうではない。ではあの預言者なのか。彼は否と言った
ヨハネによる福音書1章23節:彼は言った、私は荒野で叫ぶ声、主のために道を作る

 「あの預言者」とは、申命記でモーセが伝えた神の言葉が予言する者である。

申命記18章18節:同胞の中から預言者を作り、汝(モーセ)にしたように、私の言葉を語らせる

 洗礼者ヨハネがイエスを見る目も、第四書は前三書とは異なる。マルコとルカが記述するヨハネは、洗礼のために現れたイエスを見ても何の反応も示さない。マタイは、イエスの方が偉大だということを、一節だけ語らせている。

マタイによる福音書3章14節:ヨハネはイエスを遮って言った、私の方が君から洗礼を受けねばならないのに、君が私のところへ来るのか?

 だが、マタイもルカも、その後ヨハネが、イエスが救世主なのかを確かめるために弟子を派遣したと書いている。だが、第四書のヨハネにはそんな必要はなかった。自分の目で奇跡を目撃したからである。

ヨハネによる福音書1章29節:翌日ヨハネはイエスを見て言った、世界の罪を取り除く神の羊を見るがよい
ヨハネによる福音書1章30節:私が言ったのは彼のことだ、私よりも神に愛でられた者が私の後に来る
ヨハネによる福音書1章32節:そしてヨハネは証言した、聖霊が鳩のように天から降り、彼の上にとまるのを見た
ヨハネによる福音書1章34節:私は見て証言した、彼は神の子である、と

 前三書も聖霊がイエスに降ったことを語るが、それを見たのはイエス本人だけとなっている。前三書では、イエスが救世主ということは、彼の弟子たちすらも徐々に理解していったのであり、イエス自身も、最後の段階で祭司長カイアファの前でそれを認めるまで、公言を避けている。一方、第四書では、ヨハネだけでなく誰もがイエスを直ちに救世主と認識するし、イエス自身も、救世主に言及したサマリア人の女性に答えている。

ヨハネによる福音書4章26節:今、君に話している私がそうだ。

 このように自他共にイエスを救世主と認める事例が、エルサレムを含む各地で三年も続くのである。だが、史実としての当時の状況からすれば、そんなことをして無事でいられるはずがない。これは神学的記述であって、歴史的記述ではないのだ。なお、洗礼者ヨハネがイエスを神の羊と呼んでいるのは、救世主に関する考え方がすでに変化していることを示している。救世主といえば、ダビデのように異教徒を征伐する英雄王と長く考えられてきたが、ここでは世界の身代わりになって贖罪を行うものとされている。

 イエスが弟子を得る過程も異なる。前三書ではガリラヤの地で、イエスが声をかけて弟子を集めているが、第四書のイエスは威厳に満ちた存在で、弟子たちは自分から集まってくる。例えば、洗礼者ヨハネからイエスが神の羊だと聞いた二人の弟子は、直ちにヨハネを去ってイエスに従うのである。

ヨハネによる福音書1章40節:ヨハネの言を聞いてイエスに従った二人の内の一人はシモン・ペトロの弟アンデレ

 前三書のどこにも、十二使徒の誰かがヨハネの弟子だったという記述はないが、ヨハネよりもイエスが偉大であることを示す第四書の目的を考えれば、これほど好都合な話はないだろう。そのアンデレは兄のペトロに語っている。

ヨハネによる福音書1章41節:アンデレは兄のシモンを見て言った、救世主を見つけた、と

 これでは、ペトロが自発的にイエスが救世主であることを発見し、それがイエスのエルサレム行きと処刑に繋がったという、重要な話を否定してしまう。だが、イエスを徹底して神格化する第四書では、当初は誰も彼が救世主だとは分からなかった、という話は認められないのだ。

 もう一つ、第四書ならではの特徴がある。

ヨハネによる福音書1章45節:フィリポスはナタナエルを見て言った、その人を見つけた、ナザレのイエスで、ヨセフの子だ

 第四書は、イエスがベツレヘムで生まれたとも、ダビデの子孫であるとも言わない。この点はマルコの福音書も同じだが、マルコと異なるのは、救世主ならベツレヘムに現れるはずというユダヤの伝統自体は語られているのである。

ヨハネによる福音書1章46節:ナタナエルは問い返した、ナザレなどからすばらしいものが現れるのか?
ヨハネによる福音書7章42節:経典によれば、キリストはダビデの子孫で、ダビデと同じベツレヘムに生まれるはずではないか?

 このような記述は第四書に多くある。にも関わらずイエスをナザレの人としか言わないとすれば、著者はユダヤの伝統を承知しながら、もはやそれに賛同していないからではないのか。

 最も重要なことは、誰がイエスの対立者だったかである。前三書では、ファリサイ派やサドカイ派の者たちがイエスの教えを危険視し、彼を陥れて処刑させたことになっている。ところがヨハネの福音書の読者は大半が異邦人で、そのようなユダヤ内部の派閥の知識もないし、関心もない。イエスの敵は単に「ユダヤ人」と呼ばれているのだ。だから、イエスを尋問したのも、サドカイ派ではなく「ユダヤ人」である。

ヨハネによる福音書2章18節:するとユダヤ人たちはイエスに言った、君がそんなことをするというどんな証を示せるのか?

 それどころか、イエスの弟子たちまでも、敵を「ユダヤ人」と呼んでいる。例えば、エルサレムへ行こうとするイエスに、行けば危険だと注意する場面がそうだ。まるで弟子たち自身はユダヤ人ではないかのようだ。

ヨハネによる福音書11章8節:弟子たちは言った、師よ、近頃ユダヤ人たちは、あなたを処刑しようとしているが、それでも行かれますか?

 あるいはまた、イエスが子供の病を治したとき、子供の両親はそのことを口外しなかった。なぜなら、

ヨハネによる福音書9章22節:ユダヤ人を恐れたからである

 もちろん子供の両親もユダヤ人なのだが。

 第四書(ヨハネの福音書)における、このようなユダヤ人の描写は、後世のキリスト教徒に絶大な影響を与えた。キリストを殺したのはユダヤ人で、ペトロからパウロにいたる初期の使徒たちはユダヤ人ではなかったと、信じられるにいたるのである。

 イエスがエルサレムの神殿で金融業者を叩き出した話だが、ユダヤ人(サドカイ派ではなく)が、イエスに本当に神の意思でやったのかと尋ね、イエスは答えている。

ヨハネによる福音書2章19節:神殿を破壊しても、三日で再建できる

 前三書のイエスはこんな発言はしていない。というより、マルコもマタイも、イエスを陥れるために、祭司たちが事実を捏造して、イエスが言ってもいないことを言ったと証言したのだと述べている。

マルコによる福音書14章57節:その時立ち上がって偽証をした者がいた
マルコによる福音書14章58節:手が築いた神殿を破壊し、手を用いずに三日で再建してみせると、彼が言うのを聞いた、と

 第四書を書いたヨハネにすれば、神殿を三日で再建するとは、イエスが死の三日後に復活することを、暗に予言したというのである。

 イエスのサマリア人への態度も重要である。マルコもマタイも、サマリア人へのユダヤ人一般の敵意をイエスが共有していることを語る。ルカは良いサマリア人を語ったが、これも、本来サマリア人がユダヤ人の敵という前提があってこそ意味を持つ話である。それがヨハネの福音書になると、イエスはユダヤ人とサマリア人をまったく区別することなく扱っている。イエスはユダヤ人ではなく、全人類の救世主とされているし、そうでなければ福音書を読む異邦人にとって意味をなさない。そしてイエスに言葉をかけられたサマリア人も、ユダヤ人と変わるところがなく、直ちにイエスを自分たちの救世主として受け入れたと書かれている。

 おそらく最も明確に、イエスを真に奉じるのが異邦人と言っているのが、次の部分であろう。

ヨハネによる福音書1章11節:彼は同胞の所へ来たが、同胞は彼を拒絶した
ヨハネによる福音書1章12節:それでも多くが彼を受け入れ、彼はその人々に神の子となる力を与えた。彼の名を信ずる者たちにも

 イエスの同胞のユダヤ人はイエスを拒絶したが、多くの異邦人がイエスを受け入れて神の子になった、というわけだ。

 イエスが捕らわれた夜について、ヨハネの福音書には、最後の晩餐も、ゲッセマネの祈りも記載がない。むしろそれとは矛盾するようなことをイエスに言わせている。

ヨハネによる福音書12章27節:我の心が乱れる今、何を言うべきか、父よ、今の私を救い給え、だが、これこそ私が今ここにいる理由なのだ

 これが、逮捕、処刑されるイエスの言動にそのまま反映されている。彼の死は、神による計画に従って起こったことなのである。

 イエスとピラトのやり取りは、どうなっているだろうか。君はユダヤの王なのかと尋ねるピラトに、

ヨハネによる福音書18章34節:イエスは答えて言った、これは君自身の考えか、それとも他者が私について言ったことか?
ヨハネによる福音書18章35節:ピラトは答えた、私はユダヤ人ではない、君の国民と祭司長たちが、君を連れてきたのだ、君は何をしたのだ?

 つまりピラトはイエスのことを何も知らず、ユダヤの宗教指導者たちに言われたとおりに動いている。イエスを処刑した罪は、完全にユダヤ人が負うことになる。そのことを一層明確にしたのが次の箇所である。なんとかイエスを助けたいピラトは言った。

ヨハネによる福音書19章10節:なぜ話さない? 私には、君を十字架にかけることも、釈放することもできるのを知らないのか?
ヨハネによる福音書19章11節:イエスは答えた、君が私に何をできるのも天から許されていればこそだ、よって私を連れてきた者の罪は、もっと大きい

 ユダヤの律法も、救世主の予言も、イエスの教えも知らないピラトには罪はない。罪があるのは、これらをすべて知っていながら、イエスを捕らえた者なのだ。それでもピラトは処刑をためらった。ところがユダヤ人はピラトを脅迫までしたと、ヨハネの福音書はいう。

ヨハネによる福音書19章12節:ユダヤ人たちは叫んだ、この男を釈放したら皇帝への反逆ですぞ、彼は皇帝に逆らって王を名乗るのだから

 何が何でもイエスを殺したいユダヤ人は、ついに自らの伝統を覆すような発言までする。

ヨハネによる福音書19章15節:ピラトは彼らに尋ねた、君たちの王を処刑してもよいのか。祭司長は答えた、我らの王はカエサルだけである

 イエスは処刑された。洗礼者ヨハネが初めてイエスを見たとき言ったように、彼は神の羊として犠牲の祭壇に登り、世界の罪をあがなったのである。