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投稿日: 2015/01/25(Sun) 20:09
投稿者Ken
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タイトル列王記二

『列王記二』

 強力な王が亡くなると内外が動揺し、反乱の好機とみなす勢力が現れるのは避けられない。

列王記二1章1節:アハブの死後、モアブはイスラエルに反旗を翻した

 分裂後の南北両国には、領土を拡張する力はなかったが、その中ではオムリ王朝は強い政権で、モアブのような南方地方も服属させていた。それが終わったのである。アハブの子アハズヤが王位を継いだが、事故から病を発した彼は、討伐のための出征ができず、

列王記二1章2節:使者を送り出して、エクロンの神バアル・ゼブブのところに行き、この病気が治るか尋ねよ、と命じた

 バアル・ゼブブは「蝿の王」を意味する。新約聖書では「ベルゼブブ」の名で登場し、こちらの方がよく知られている。だがこんな奇妙な名の由来はなんだろう。一つの説は「バアル・ゼブブ」は正しくは「バアル・ゼブル」つまり「家(神殿)の王」だったが、バイブルの著者が異教の神を貶めるためハエに変えたことである。もう一つは、ハエの発生と疫病の因果関係は古代でも知られており、疫病を防ぐにはハエの神を祀って鎮めるのがよいと考えられたことである。事実アハズヤは健康回復を願って使者を送ったのだから、この可能性はある。ただし、エリヤが飛んできて王を激しくなじった。後にバアル・ゼブブは邪神の代表格のような存在になり、例えばイエスの治癒能力の話が伝えられた時、敵対するファリサイ派は、

マタイによる福音書12章24節:魔王ベルゼブブの力を借りねば、悪魔を祓えないはず

 と非難した。ミルトンは『失楽園』で、ベルゼブブをサタンに次ぐ悪魔界第二の存在としている。いずれにせよバアル・ゼブブへの祈りも空しく、アハズヤは在位二年で死に、弟のヨラムがオムリ朝の四代目として前八五二年に即位した。エリヤもその後すぐに歿し、エリシャがその遺志を継承した。だが、強力な王と女王を相手にヤハウェ信仰を守り、圧政と戦い続けたエリヤは、ただ死んだのではなく、彼は昇天したという伝説が生まれた。

列王記二2章11節:火の馬車と火の馬が現れ、エリヤは風に乗って天に上った

 そしていつの日か、神がこの世を正す時、エリヤは復活するという考えが生じた。預言者マラキもそれを言っているし(マラキ書4章5節)、福音書の時代になると、エリヤは既に復活しているとイエスが述べている。

マタイによる福音書17章12節:言っておくが、エリヤは既に来たのだ
マタイによる福音書17章13節:そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言ったのだと悟った

 モアブとの戦いでは、イスラエルとユダの連合軍がモアブを破ったのだが、たちまちその結果を覆す事態が起こった。

列王記二3章27節:モアブ王は長子を焼いて犠牲に捧げた。イスラエルへの激しい怒りが起こり、連合軍は王を捨てて国へ戻った

 この一節を理解するには、モアブがイスラエルやユダと同じ文化的・宗教的背景を持っていたことを知る必要がある。一八六九年、ドイツ人宣教師のクラインはモアブの遺跡で文章が彫られた石版を発見したが、内容は神の名が異なる以外はバイブルとそっくりだった。民がモアブの神ケモシュを怒らせるとモアブは異国に打ち負かされ、ケモシュが力を与えればモアブは勝てるという。では例えばケモシュの民モアブとヤハウェの民イスラエルが戦うとどうなるのか。その場合は、その戦場ではどちらの神が強いか、どちらの神がより真剣になるかで決まるのである。

 イスラエル・ユダ連合軍(ヤハウェ)とモアブ軍(ケモシュ)のこの戦いは、まさしくそれで決まったといえる。戦場はモアブの地であった。そしてモアブ王はわが子を捧げてケモシュへの帰依を示した。「イスラエルへの激しい怒り」という怒りの主体はケモシュなのである。それを知った「ヤハウェの民」は、到底勝てないと思い我先に退却したのだ。ヤハウェが全人類にとっての唯一神ではなく、ケモシュより上位の神ですらないことは、当時のイスラエル人には常識だった。もちろんそんなことは、後世の編者によってバイブルから削除されている。それでも列王記二3章27節のような文章が残ってしまうことがあるのだ。

 当時の人々がヤハウェ神をどのように見ていたかを示すもう一つの話がある。シリアにナアマンという武将がいた。

列王記二5章1節:シリア王の軍司令官ナアマンは、勇士であったが、らい病を患っていた

 このナアマンは、病を治すにはイスラエルの預言者エリシャに頼めばよいと聞き、エリシャのところへ行くと、ヨルダン川で身を清めるべしという指導を受けた。シリア人ナアマンは、なぜシリアの川ではいけないのかと当初は怒るが、とにかく言うとおりにしたら病が治った。これでナアマンはヤハウェを信仰するようになり、

列王記二5章17節:ナアマンは言った、らば二頭に負わせるほどの土を分けてほしい、今後は他の神には、焼いて捧げるものも、それ以外の犠牲も献上しないのだから

 なぜイスラエルの土が必要かといえば、ヤハウェがイスラエルの地でこそ力をもつ神だからである。そしてエリシャはこの考えを否定していない。しかもこの続きがある。ナアマンが言うには、

列王記二5章18節:主の許しが必要なことがある。私の王がリモン神殿で礼拝を行う時、私の手に寄りかかるのだが、私自身もリモン神殿で頭を下げる
列王記二5章19節:エリシャは言った、安心して行くがよい

 どうやらヤハウェの預言者エリシャも、シリアの地でシリアの神を祀るのは当然と考えたようである。

 ユダは依然イスラエルの属国だった。ヨシャファトは前八五一年に歿し、息子のヨラムがダビデ朝七代目の王になった。イスラエルとユダに同名の王が立ったわけだ。しかもユダのヨラムはアハブとイゼベルの娘のアタルヤを妃にしており、この夫婦がまた妻の両親とそっくりで、夫は妻の言いなりだった。前八四四年にユダのヨラムが歿し、息子のアハズヤがダビデ朝八代目の王として即位した。こうなるとややこし過ぎるのだが、新しいユダの王は、イスラエルのヨラムの兄の先代王と同じ名前だったのだ。若い王も母アタルヤの言いなりであった。しかし、ユダのアハズヤ王がイスラエルのヨラム王と祖母のイゼベルを訪れた時、災いが降りかかった。エリシャがイスラエルのイエフ将軍に連絡をつけ、預言者団が支持するから王となれと言ったのだ。イエフは王家が滞在するイズレエルを攻め、ユダのアハズヤ王、イスラエルのヨラム王、そしてイゼベル王妃を殺した。イゼベルの最期は次のように語られる。

列王記二9章30節:イエフがイズレエルに来たとき、イゼベルはそれを聞いて、顔を塗り、髪を結い、窓から見下ろしていた

 イゼベルは恐怖も絶望も見せず、女王の威厳を保つために、化粧を施したに違いない。しかし「顔を塗ったイゼベル」は、死の間際でも化粧をするふしだらな女として後の世に伝わった。イゼベルがそんな女性だったことを示す記述は、バイブルのどこにもないのに。オムリ朝は四十四年で終わり、前八四三年イエフがイスラエルの第四王朝を建てた。しかし彼もまた原理主義的な預言者団と折り合わず、混乱に付け込んだシリアに攻められて外ヨルダンを失い、イゼベルを殺したことでフェニキアの支持も失い、ユダではイゼベルの娘アタルヤが復讐の機会を狙っていた。窮地のイエフはアッシリアへの臣従を約束して、シリアを討つための援軍を求めた。イスラエルとシリアの連合軍がアッシリアを阻止してから十五年、今度はシリアと戦うためアッシリアについたわけだが、この事実はアッシリアの文献から分かるので、バイブルには記述がない。

 一方ユダではアタルヤが王家の男子を次々に殺していた。

列王記二11章2節:しかしヨラム王の娘でアハズヤの妹のヨシェバが、アハズヤの子ヨアシュを抱き、殺されようとしている王子たちの中からひそかに連れ出し、人々はヨアシュをアタルヤからかくまい、彼は殺されずに済んだ
列王記二11章3節:彼は六年間神殿に隠され、アタルヤが国を支配した

 しかしユダのアハズヤはアタルヤの息子だから、ヨアシュは祖母に殺されるのを逃れたことになる。むしろ彼はイゼベルの娘アタルヤの宗教観から隔離されたのではないか。前八三七年、ヨシェバの夫で祭司長のヨヤダが子供の存在を公表し、軍の支持を得てアタルヤを殺し、ヨアシュはダビデ朝九代目の王となった。しかし彼はアハブとイゼベルの曾孫で、以後の諸王はダビデだけでなくイゼベルの血も受けてゆくのである。そのヨアシュもまた天寿を全うできなかった。シリア軍がユダにまで攻め込んでエルサレムを包囲し、ヨアシュは貢ぎ物を贈って平和を購ったのだが、それが却って軍と祭司たちを怒らせ、子供の時に逃れた暗殺の、今度こそ犠牲になったからである。

 イスラエルでは前八一六年にイエフが歿してヨアハズが即位し、前八〇〇年にヨアハズが歿してヨアシュが即位した。(また南北両国の王が同名になったわけだ。)そしてこの頃エリシャが歿している。彼の後継者にふさわしい人物は現れず、イスラエル王国が四分の三世紀後に滅ぶまで、預言者団は沈滞していた。ユダでは、十代目アマツヤ王がイスラエルへの従属を断ち切ろうとして戦を仕掛けるが敗れ、エルサレムは陥落して神殿も略奪された。アマツヤも父と同じ運命を辿って前七八〇年に暗殺され、アザルヤが十一代目の王になった。イスラエルのヨアシュは前七八五年に歿してヤロブアム二世が即位し、前七四四年まで統治する。これがイスラエル史を通しての最盛期だった。

列王記二14章25節:彼はハマトの入口から平らの海(死海)までの、イスラエルの領土を回復した

 この記述のとおりならシリア全土を占領したわけだが、シリアを属国にしたということだろう。すでにユダも服属させていたから、ダビデとソロモンの国が復活したかのようである。だが時代はすでにアッシリアの覇権確立前夜で、ヤロブアムの栄光も彼一代だった。息子のゼカリヤが王位を継ぐとわずか六ヶ月で暗殺され、メナヘムという軍人が王位を簒奪するが、彼はアッシリアに金を払って安全を買わねばならなかった。ここでアッシリアの歴史を概括しよう。

 アブラハムの時代、アッシリアは前期帝国といい、商業で栄えた国だったが、その後の数世紀はエジプト、ヒッタイト、ミタンニの諸帝国に雌伏を強いられた。だが海の民の活動でこれらの大国が弱体化したのが好機になり、イスラエル人がカナンを目指していた前一二〇〇年頃、アッシリア王のトゥクルティ・ニヌルタ一世はバビロニアを征服し、中期帝国を作った。前一一一六年から前一〇七八年まで在位したティグラト・ピレセル一世の時が最盛期で、イスラエルの士師の時代に相当する。この時は地中海まで力を伸ばしたが、小アジアから南下したアラム人に押されて中期帝国が終わった。ダビデの覇業は、この狭間の時代を捉えたものともいえよう。アラム人はシリアを占領し、ダマスカスに王国を作った。(バイブルに登場するシリアは、アラム人の国である。)そして前八八三年オムリがイスラエル王だった頃、アッシュールナツィルパルという強力な王が、アッシリア後期帝国を立てた。大量の鉄製武器を装備したアッシリア軍の強さと、攻略した町の住民を残酷に殺す恐怖政策のおかげで、アッシリアは大拡張し、シャルマネセル三世のときには矛先を南へ向け、イスラエルを属国の地位に置いた。前八二四年にシャルマネセルが死ぬと、また弱体な王が続き、ウラルトゥ王国との戦いに疲弊した。ヤロブアム二世のイスラエルが一時力を振るったのがこの時期である。しかし前七四五年、プルという将軍が簒奪して新しい王家を始め、アッシリアの栄光の記憶を呼び起こすべく、ティグラト・ピレセル三世を名乗った。

 イスラエルではアッシリアへの従属に不満を持ったペカ将軍が王を殺して簒奪し、第六王朝を始めた。彼はダマスカスの王レツィンと盟を結び、ユダの王ヨタムも引き入れようとするが、ヨタムが拒否したので、イスラエルとシリアの連合軍がユダを攻め、エルサレムを包囲した。その中でヨタムは死んで息子のアハズが王となった。アハズはティグラト・ピレセル三世へ臣従を誓い、救援を求め、それに応えたアッシリア軍はナフタリの地を占領し、前七三二年にはダマスカスのシリア王朝を滅ぼす。イスラエルも、サマリア近辺を残すのみとなった。

 ペカも殺されホシェアがイスラエル王になるが、アッシリアの記録では、ティグラト・ピレセル三世が彼を任命したことになっている。このホシェアもティグラト・ピレセルの死後反旗を翻し、アッシリアの王位を継いだシャルマネセル五世の討伐に一旦は屈するが、今度はエジプトを味方に引き入れようとした。

列王記二17章4節:彼はエジプト王のソに使者を遣わし、アッシリア王への貢納をせず

 この頃のエジプトはヌビア人の征服王朝で、バイブルに現れるソは、アッシリアの記録に現れるシャビ、つまり第二十五王朝のファラオ、シャバカと思われる。エジプトがアッシリアの勢力拡大を妨げようとしたのは理解できるが、問題はエジプト自身の力が弱すぎることだった。エジプトはアッシリアの多くの属国を焚き付けて反乱を起こさせるが、これらの国がアッシリア軍と直面したとき何の援助も与えず、結局エジプト自身を含めてすべての国に災厄をもたらしてしまった。

 アッシリア軍はサマリアを囲んだが、攻囲戦の途中でシャルマネセル王が突然暗殺され、暗殺者が新しい王家を始めた。彼もまた過去の栄光の王にあやかるべくサルゴン二世を名乗る。そしてこの王がイスラエルの息の根を止めた。

列王記二17章6節:ホシェア王の九か月目、アッシリア王はサマリアを落とし、イスラエル人をアッシリアへ連行し、ハラと、ゴザン川に沿ったハボルと、メデスの諸都市に置いた

 こうしてイスラエル王国は、ヤロブアムの決起から二百年あまりで消滅した。最後の王の名がホシェア(ヨシュア)だったのは、皮肉な偶然というべきか。サルゴンは、住民を殺し尽くす恐怖政策の代わりに、二万七千のイスラエル人を連れ去った。支配階級の人々であったろう。連行された人々の消息は全く不明になり、「失われた十部族」については後世あらゆる想像がなされた。彼らがいずこかの地で強力な王国を築き、いつかユダヤ人を(もしくはキリスト教徒を)救うために現れるという伝説が生まれ、その地はエチオピアだとか、モンゴルだとか、はてはアメリカだとか言われた。(※日本説まである。京都を開拓した渡来人の秦氏がイスラエルの末裔で、太秦広隆寺が神殿だったと※)傑作なのは、サクソン人は「サク・ソン」つまりイサクの息子で、彼らがイスラエルの子孫であり、イギリスを征服したのだから、英国人が十部族の子孫という、なんと十九世紀に流布した説である。もちろん真相はずっと平凡で、列王記二17章6節がハラとハボルとメデスの地と書いているとおりだろう。いずれもユーフラテス川の支流カブル川の近くで、イスラエルから北東へ七百キロほどの場所である。その地で彼らは現地人と混血し、現地の神と習慣を受け入れ、やがて民族的自覚を喪失したのに違いない。後の歴史で北アフリカを征服したヴァンダル人も、ハンガリーを征服したアラン人も、ウクライナを征服したハザール人も、すべて同じ運命を辿った。ただ、二世紀後にユダが滅び人々が連行されたが、彼らは消滅しなかった。それは特別の事情があったからである。

 さらにサルゴンはイスラエルへ移民を送り込んだ。

列王記二17章24節:アッシリア王はバビロンから民をもたらし、イスラエルの子等に代わってサマリアの諸都市に住まわせた

 この移民の子孫が、バイブルの中でサマリア人と称される人々である。当初は自分たちの伝統を守っていたが、やがては「その地で力をもつ神」ヤハウェを祀るようになるのは、当時の文化背景からは避けられない。ただし、ユダの民の目には、サマリア人のヤハウェへの祭祀は、異国の風習と混じりあった、許し難いものだった。

列王記二17章33節:彼らは主を恐れながら、自分たちの神に仕えた。やり方も自己流だった

 異教徒よりも異端者こそ許せないという考えも、人類史に何度も現れる。


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