Web Forum
[記事リスト] [新規投稿] [新着記事] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]

投稿日: 2015/07/26(Sun) 22:00
投稿者Ken
Eメール
URL
タイトルマカバイ記一

『マカバイ記一』

 これまで見てきたように、バイブルの多くの部分が、エルサレム神殿の再建よりもずっと後世に書かれたにも関わらず、いずれも過去の時代の著作とされてきた。詩篇はダビデの、箴言はソロモンの、そしてギリシャ時代を描いた黙示文学はダニエルやゼカリヤの作とされたのだ。神殿の再建が偉大な物語の大団円で、もはや続きはないとされたからである。

 だが、言うまでもなくユダヤの歴史が終わったわけではない。特に、紀元前二〇〇年から紀元後一〇〇年は激動の時代だった。ダビデ時代のようにユダヤ国家が成立し、エレミヤ時代のように巨大な災厄が訪れ、そして第二イザヤ時代のように世界を変えるほどの影響を与えた預言者が出た。それでもユダヤの正典はこの時代を一言も語らない。語っているのは外典、新約聖書、そしてヨセフスのような歴史家の書なのである。

 その外典にはマカバイ記がある。とりわけ第一書は史料的価値が非常に高く、前一七五年から前一三五年までの歴史を語る。作者は不明だが、きわめて合理的な考え方をするユダヤ人であることは確かで、マカバイ記には奇跡譚のたぐいは皆無である。

 マカバイ記はマケドニア帝国に挑んだユダヤ人の物語なので、まずマケドニアの覇権が打ち立てられた経緯から語り起こしている。

 ペルシャ帝国支配化のユダヤ人は、総じて穏やかな日々を過ごしていたと思われる。だが、同じ頃ギリシャでは巨大な歴史が進行した。クセルクセスの侵攻を撃退した後、ギリシャは黄金時代を迎え、ネヘミヤがエルサレムの再建に苦闘していた前五世紀には、アテネは人類史に輝く文化の金字塔を打ち立てた。だが諸都市間の抗争のため、次第にこの文明は斜陽へ向かい、前三五〇年までには衰えはてていた。その彼らを征服する王の名を挙げて、マカバイ記は始まるのである。

マカバイ記一1章1節:マケドニアのフィリポス

 ギリシャ諸都市の北方に位置するマケドニアは、言語も文化もギリシャと密接な関係にあったが、フィリポス二世という優れた君主が前三五九年に王位に就くと、政治と軍制を改革して力を蓄えた。前三三八年、フィリポスはアテネとテーベの連合軍を破ってギリシャ世界の覇者となるが、この戦いを決する働きをしたのがフィリポスの十八歳の息子アレクサンドロスである。だが前三三六年、ギリシャ・マケドニア連合軍を率いてペルシャ遠征の途に上ったフィリポスは、突如謀殺され、二十歳のアレクサンドロスが後を継いだ。

マカバイ記一1章1節:マケドニアのフィリポスの子アレクサンドロスは、キティムより来て、ペルシャとメデスの王ダレイオスを討ち、替わって王位に就いた

 ペルシャに侵攻したアレクサンドロスは、前三三三年イッソスの戦いでペルシャ軍を大破した後、シリアとユダヤを南下して無抵抗のエルサレムも占領した。さらにエジプトまで征服してアレクサンドリア市を建設すると、再び兵を東方へ向け、前三三一年にバビロニアの地でペルシャ軍を再度大破した。翌年ダレイオス三世は殺され、ペルシャ帝国は開祖キュロスから二世紀で滅んだ。アレクサンドロスはそれから七年、インドまで至る東方の地を征服するが、前三二三年、わずか三十三歳で歿した。

マカバイ記一1章7節:アレクサンドロスは十二年君臨して死んだ
マカバイ記一1章8節:彼の部下たちがそれぞれの地で支配者となった
マカバイ記一1章9節:彼の死後、彼らは戴冠し、さらに息子たちが継いだ

 こうしてアレクサンドロスの帝国は将軍たちに分割されたが、アレクサンドリアを首都にしたエジプトのプトレマイオス朝と、アンティオキアを首都にした西アジアのセレウコス朝が、ユダヤ人の運命に深く関わることになる。

 この後マカバイ記の著者は、一世紀半の歴史を省略して問題の人物を登場させる。

マカバイ記一1章10節:ここに邪悪の根源である、アンティオコス王の息子が現れた

 セレウコス朝の王にはセレウコスと並んでアンティオコスという名が多かったが、ここでは前二二三年に即位したアンティオコス三世を指す。退潮が続いていたセレウコス帝国を一気に盛り返し、ユダヤがプトレマイオス朝からセレウコス朝の支配下に移ったのも、この王がエジプト軍を破った結果である。

 だが、第二のアレクサンドロスを夢見たこの王は、生まれるのが遅すぎた。すでに新しい超大国が登場していたからである。

マカバイ記一1章10節:ここに邪悪の根源である、アンティオコス王の息子が現れた、その名をアンティオコス・エピファネスといい、ローマで人質になっていたが、

 伝説上のローマ市建設は前七五三年で、イザヤが預言者としての活動を始める直前の時期にあたる。当初は王国だったが、前五〇九年、エルサレムで第二神殿が完成した頃に、王を追放して共和国となった。ローマはその後の数世紀をかけて力を伸ばし、前二七〇年、ユダヤ人がプトレマイオス二世の治下で穏やかに暮らしていた頃、イタリア全土を統一した。そして、プトレマイオス朝とセレウコス朝が戦っていた前二六四年から前二〇二年にかけて、ローマは北アフリカのカルタゴと激戦を交え、最後は完勝した。版図はスペインまでも伸び、西地中海最強となったその勢力が東へ及ぶのは必然の順序だった。こうなると、アンティオコス三世の脅威に晒されていた群小国のみか、エジプトまでがローマの保護を求めて同盟関係を結んだ。だが野心を持つアンティオコスは、ローマの警告を無視してギリシャのペルガモンを攻め、前一九一年ローマ軍と衝突した。アンティオコスは大敗して逃れ、追撃したローマ軍は初めてアジアに進出した。翌年再び敗れたアンティオコスは屈辱的な講和を結び、やがて暗殺された。ローマで人質になっていた息子のアンティオコス・エピファネスが帰国して即位し、アンティオコス四世となった。マカバイ記一1章10節を最後まで見てみよう。

マカバイ記一1章10節:ここに邪悪の根源である、アンティオコス王の息子が現れた、その名をアンティオコス・エピファネスといい、ローマで人質になっていたが、ギリシャ人の国の百三十七年に王となった

 セレウコス朝の開祖セレウコス一世は前三一二年の戦勝を記念して、この年を彼の帝国の元年と定めたので、その百三十七年すなわち前一七五年に、アンティオコス四世が即位したわけだ。マカバイ記の記述から、この時代のユダヤ人がセレウコス朝の紀元を用いていたことが分かる。

 この時代は、アレクサンドロスの征服でギリシャ文化が東方へ伝わり、多くの民族が強い影響を受けた時代でもある。ユダヤ人も例外ではない。かつて士師や王の時代にはカナン文化に染まり、現代はアメリカ文化に染まっているように、この時代のユダヤ人はギリシャ文化に染まったのだ。そして保守的な人々がそれに激しく反発するのもあらゆる時代に共通する。マカバイ記の著者もその一人だった。

マカバイ記一1章11節:この頃、邪悪な者共はイスラエルを去り、周囲の異教徒と契約を結ぼうと多くの人を語らい、
マカバイ記一1章14節:エルサレムに異教徒の習慣にのって競技場を作り、
マカバイ記一1章15節:割礼も止め

 ところが一方には、ギリシャ文明を至高とし広めようとするセレウコス朝がある。ユダヤの保守派との対立は必然だったといえる。

 エジプトのプトレマイオス六世が、セレウコス朝からユダヤを奪還しようとして戦いが始まった。だがエジプト王はアンティオコスの敵ではなかった。セレウコス軍は大勝してエジプトへ追撃するが、エジプトが崩壊するかに見えたときローマが干渉した。ローマの使節が単身セレウコス軍の陣前に現れて退却を命じ、アンティオコスは従うしかなかった。

 悪いことに、これらの戦役がセレウコス朝の財政を逼迫させ、アンティオコスは各地の宗教施設の財宝を没収して財源に充てようと考えた。そしてエジプトからの帰途エルサレムを通過したとき、当然のように神殿を略奪した。

マカバイ記一1章20節:アンティオコスはエジプトを討った後、百四十三年(前一六九年)に来たり
マカバイ記一1章21節:傲然と聖域に入り、金色の祭壇を持ち去り
マカバイ記一1章23節:銀も金も、貴重な祭具も、隠された財宝も奪った

 おそらくアンティオコスは、ローマから受けた屈辱を晴らすはけ口を求めたのだろう。神殿を略奪したのみか、神殿を穢す行為に出た。神殿にゼウス神の像を建て、しかも像に彼自身の顔を彫らせた。ユダヤ人にとっては、この世で考えうる最悪の冒涜行為である。

マカバイ記一1章54節:百四十五年(前一六七年)に、彼らは祭壇に凶悪の印を置き、

 そしてアンティオコスはユダヤの経典を破棄させ、律法も割礼も禁じ、従わない者を処刑した。ユダヤ教は存亡の危機に直面したといってよい。

 だがこのとき、驚嘆すべき一族が登場した。

マカバイ記一2章1節:その頃、エルサレムで生まれた祭司マタティアは、モディンに在住した

 アンティオコスの軍がエルサレムを占領したとき、マタティアは一族とともに、二十五キロほど離れたモディンへ移っていたのだ。そのマタティアには五人の息子がいた。

マカバイ記一2章2節:カディと呼ばれたヨハネ、
マカバイ記一2章3節:タシと呼ばれたシモン、
マカバイ記一2章4節:マカバイと呼ばれたユダ、
マカバイ記一2章5節:アバランと呼ばれたエレアサル、そしてアフスと呼ばれたヨナタン

 同名の人物を区別するため通称を用いるのは本来ギリシャの習慣だが、この時代にはユダヤ人の間でも広まっていた。三男のユダにつけられたマカバイは「鉄槌を下す者」を意味し、彼はそのとおりのことをセレウコス朝に行うことになる。マタティアの一族は本来ハスモナ家と称したのだが、ユダ・マカバイの名が轟きわたったので、一族がマカバイ家と呼ばれ、彼らが建てたユダヤの国もマカバイ王国と称され、時代はマカバイ時代で、その時代を記述したのがマカバイ記なのである。

 彼らの戦いは、帝国の官吏が王命どおりに祭祀を行うことを求めた時に始まった。マタティアたちは強く反発したが、ここで帝国官吏は、多くのユダヤ人がすでにそれを実行していることを指摘した。

マカバイ記一2章18節:ユダヤの民、そしてエルサレムの人々のように、王命に従うべし

 この指摘はおそらく真実を突いているのだろう。成功した革命は理想化して後世に語られるが、命を懸けて革命のために戦うのは常に少数で、命を懸けて革命と戦う者もいるし、大多数は関わりたくないと思うものだ。アメリカ独立戦争でも英国に忠誠を誓う人は多くいたし、今の公民権運動でも、問題の一つは大多数の黒人の無関心だろう。(※バイブル・ガイドが六十年代の作品であることに注意※)

マカバイ記一2章23節:衆目の中、一人のユダヤ人が、王命に従って祭祀を行うために現れ、

 これを見たマタティアは怒りを発してそのユダヤ人と帝国官吏を殺し、山へ逃れ、反乱の同志を集めた。ところがユダヤの律法を厳格に守る人々が参加したことが、一つの問題を引き起こした。彼らは安息日には自衛の戦いをすることすらも拒否したのだ。その主張たるや、

マカバイ記一2章37節:我らは罪を犯すより死を選ぶ、天も地も、我らを殺すものが誤ったものであることを、照覧せよ

 というもので、その言葉通り彼らは信仰に殉じた。しかしこれでは現実世界では戦えない。マタティアたちは死者を悼みながらも、自分たちのやり方は異なることを宣言した。

マカバイ記一2章41節:安息日に我らを攻める者があれば、我らは戦うだろう

 現実の要請に合わせて律法を柔軟に運用することは、後のイエスの教えにまで影響する。

 マタティアはほどなく世を去り、ユダ・マカバイが後継者となる。当初、反乱を軽く見たセレウコス朝は、サマリア知事のアポロニウスに現地の異邦人(非ユダヤ人)を召集した軍勢を付けて差し向けるが、これが脆くも敗れ、アポロニウスも戦死した。次に政府軍が討伐に向かうが、ユダはベト・ホロンの地で奇襲攻撃をかけ、これを殲滅してしまった。

 帝国が西のユダヤ人に手を焼いている時、東にも強敵が現れた。前一七一年、それまで属国だったパルティアでミトラダテス一世が王位に就き、セレウコス朝への服属をやめてしまった。今や東西に敵を持ったアンティオコス四世は、軍を分けて両面作戦に出るという愚かな選択をした。自分は東のパルティアへ向かい、帝国貴族のリシアスを西へ向かわせたのだ。

 大局を見れば、セレウコス朝はローマの脅威を受ける西よりも、東の中央アジアを目指して勢力を拡張すべきであったろう。だが、彼らのギリシャ人意識はあまりに強く、西を捨てることができなかった。開祖セレウコス一世は、せっかくバビロンに代わるセレウキアという都を作りながら、地中海に近いアンティオキアにもう一つの都を作ったのが、この王朝の意識を象徴している。そして今、アンティオコス四世は、リシアスに自分の王子を付け、国軍の半分を託してユダヤ人討伐に向かわせた。

 だがユダの率いる革命軍はリシアスの討伐軍も打ち破った。そして敵が退いた時、ユダヤ人はエルサレムの神殿を清めることができた。セレウコス朝と妥協しなかった祭司たちを任命し、穢された祭壇を破壊して地に埋め、新しい祭壇と祭具を設置した。前一六四年のことで、これを記念するのが現在まで続くハヌカ祭である。

 ユダ・マカバイは、このまま守勢に入るつもりはなかった。

マカバイ記一5章3節:ユダはイドゥミアのエサウ族と戦い、大いに破った

 ユダは自衛から勢力拡張の戦いに移行したのだ。イドゥミアはエドムのギリシャ語形である。イドゥミア人(エドム人)は、バビロン捕囚の時期に旧ユダ王国の南部へ侵入していたので、ユダヤ側は失地回復のつもりだったかもしれない。だがのちにマカバイ家は、征服したイドゥミア人にユダヤ教への改宗を強制した。宗教的迫害の被害者が加害者に転じるのは、アメリカへ渡った清教徒たちが、自分たちがあれほど求めた信教の自由を、新大陸の他宗派の人々に一切許さなかった歴史を思い起こさせる。

 一方、セレウコス朝はパルティアとの戦いにも成功せず、アンティオコス四世は遠征途上で病歿した。

マカバイ記一6章16節:アンティオコス王は、百四十九年(前一六三年)に死んだ
マカバイ記一6章17節:王の死を聞いたリシアスは、王の子を即位させ、エウパトルと名乗らせた

 わずか九歳の新しい王がアンティオコス五世だが、実権がリシアスにあったのはいうまでもない。セレウコス朝の混乱を見たユダは、翌年、エルサレムにあった帝国軍の駐屯基地まで攻撃するが、事態を重視したリシアスは、これまでにない強力な増援軍を送った。この軍隊には象の部隊が含まれていたのだ。ユダの弟エレアサルはその下敷きになって戦死し、ユダヤ軍は追い詰められた。ところがこの時セレウコス朝廷で内紛が起こり、リシアスはユダヤ人に関わっておられなくなった。そこでユダヤ人の信教の自由を認める代わりに、政治的独立は断念するという妥協案が提示された。配下の多くが宗教的自由にしか関心がないことを知っていたユダ・マカバイは、妥協案を受け入れた。

 アンティオキアへ戻ったリシアスは政敵の排除に成功したが、すぐに次の内紛の種が現れた。アンティオコス五世よりも王位継承順位の高いデメトリオスという従兄が、人質として置かれていたローマを脱出して戻ってきたのだ。続いて起こった内戦はデメトリオスの勝利に終り、リシアスと少年王は殺され、デメトリオス一世が即位した。彼はユダ・マカバイとの戦いに、帝国に忠実なユダヤ人を利用することを考えた。

マカバイ記一7章5節:イスラエルの中の邪悪で不信心な者たちが祭司長の地位を望むアルキモスを頭にデメトリオスの所へ来て、
マカバイ記一7章6節:告発を行った

 これらのユダヤ人の支持を得たデメトリオスは、ニカノルを司令官に任じてマカバイ討伐の大軍を送った。

 しかしユダ・マカバイは、その名のとおり鉄槌を下す者であった。両軍はエルサレム北西のベト・ホロンで決戦し、ユダは彼の経歴を通じて最大の勝利を得た。ニカノルは討ち死にし、セレウコス朝はまたも敗戦の中に撤退を余儀なくされた。


- 関連一覧ツリー (★ をクリックするとツリー全体を一括表示します)

- 返信フォーム (この記事に返信する場合は下記フォームから投稿して下さい)
おなまえ
Eメール 非表示
タイトル
メッセージ    手動改行 強制改行 図表モード
URL
パスワード (英数字で8文字以内)
プレビュー

- 以下のフォームから自分の投稿記事を修正・削除することができます -
処理 記事No パスワード

- Web Forum -