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投稿日: 2015/12/20(Sun) 23:14
投稿者Ken
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タイトルヨハネによる福音書

『ヨハネによる福音書』

 第四の福音書が描写するイエスは前の三書とはあまりにも異なり、バイブルの記述がすべて真実と主張する人々は、その違いを説明するのに苦労をしてきた。マルコ、マタイ、ルカの三書はまとめて共観福音書と呼ばれるが、いずれもイエスがエルサレムに滞在したのは最後の一週間ほどだという。ところが第四書では、イエスはエルサレムに三年ほど留まったように書かれている。イエスの説法も、例え話を多用する三書と比べて、はるかに本職の祭司や神学者を思わせるような議論の仕方になる。おそらく第四書が書かれた時代には、キリスト教の中に教義上の対立が生じており、著者は自分の考えをイエスの口を借りて言わせたのではなかろうか。書かれたのは、ローマによるエルサレムの破壊から一世代を経た一〇〇年頃らしい。すでにキリスト教はユダヤ教から完全に分離しており、キリスト教の将来は異邦人が担うことも明らかだった。ルカと比べてすら、第四の福音書のイエスはユダヤ性が希薄であり、何よりもユダヤ人の扱いが非好意的である。

 第四書を書いたのは誰であろうか。それを考える上で、最後の晩餐の場面が手がかりになるようだ。イエスが弟子たちを前にして、彼らの一人が裏切ると予告するのは、四つの福音書に共通しているが、弟子たちの反応は異なる。マルコは全員が質問したという。

マルコによる福音書14章19節:彼らは悲しみ、各自がイエスに尋ねた、それは私ですか、と

 ルカは、弟子たちが自分たちで議論したという。

ルカによる福音書22章23節:彼らは互いに尋ねだした、誰がそんなことをするのか、と

 マタイはユダ本人だけがイエスに尋ねたという。

マタイによる福音書26章25節:裏切者のユダが答えて言った、師よ、それは私ですか、と

 ところが第四書のイエスは極端に神格化されているため、弟子といえども簡単には質問を向けることができないのである。そこで、イエスから特に愛された一人が、皆を代表して尋ねることになった。

ヨハネによる福音書13章23節:この時イエスの傍らには、イエスから愛された一人の弟子がいた
ヨハネによる福音書13章24節:シモン・ペトロは彼に合図して、イエスが誰のことを言っているのか、尋ねるように促した

 他の三書には弟子の誰かが特に愛されたという記述はないが、第四書ではこの弟子がイエスの磔に立ち合い、復活したイエスを使徒の中で最初に認識する。なによりも、この福音書の最後に来る記述が重要だろう。

ヨハネによる福音書21章20節:ペトロは振り返って、晩餐のとき師の傍らにいた、イエスが愛した弟子を見た
ヨハネによる福音書21章24節:この文書を書いたのは、その弟子である

 たしかにこれだけでは、その愛された弟子が第四書を書いた証明にはならない。後世の著者が過去の大人物の名をかたって著作を行うのは、バイブルにいくつも例がある。そもそも著者自身が、自分はイエスから特別に愛されていたなどと、繰り返し述べるのは奇妙ではないか。ただし、もしこの書が、複数の教義が競合した時代に書かれたなら、著者は自分の考えに最大限の権威を持たせようとしたろうし、彼がイエスから愛されたとなれば、絶大な効果をもつだろう。

 ではその愛された弟子とは誰であろうか。最後の晩餐の席にいたのだから、十二使徒の一人には違いない。福音書を読むと、十二使徒の中にも、特別にイエスと親しい三名がいたことが分かる。ペトロと、ゼベダイの二人の息子ヤコブとヨハネである。この三人は、いわゆる「主イエスの変容」に立ち会ったことがマタイに記されている。

マタイによる福音書17章1節:イエスはペトロ、ヤコブ、その弟のヨハネだけを連れて、高い山へ登った
マタイによる福音書17章2節:そして彼らの眼前で変容した

 また、イエスがゲッセマネで祈った時も、その場にいたのはこの三人だった。イエスから特に愛された弟子がいるなら、この三名の誰かと考えるのが自然だろう。そのなかで、まずペトロが除外できる。なぜなら裏切者の正体を尋ねよと、愛された弟子を促したのは彼だからだ。残るは二人の兄弟だが、イエスは、特別に愛したこの弟子に、彼の再臨に立ち会うことを命じている。

ヨハネによる福音書21章23節:この弟子は死なないという言葉が異国の兄弟たちに伝わった。だが、イエスは彼が不死だと言ったのではない。自分が戻るまで彼が待っていることは、ペトロには関係がない、と言ったのだ

 重要なのは、初期のキリスト教徒は、イエスの再臨は遠い未来のこととは考えなかったことだ。一人の人間の生存中に起こるはずだったのである。だが、もしも第四書が書かれた時、愛された弟子が死んでいたなら、上の予言は外れたことになる。第四書が一〇〇年頃書かれたなら、その時この弟子は存命だったはずである。そうなるとヤコブではない。彼はイエスの磔からそれほどの年数が経たないうちに、殉教の死を遂げているからである。

使徒言行録12章1節:その頃、ヘロデ王が教会へ魔手を伸ばした
使徒言行録12章2節:そしてヨハネの兄ヤコブを剣で殺した

 西暦一〇〇年頃に第四福音書が書かれたなら、イエスの死から七十年ほどを経ている。著者がイエスの生前を知る十二使徒の一人なら非常な長命だが、それでもあり得ない数字ではない。結局、第四の福音書は、ヨハネによる福音書、と呼ばれるにいたるのである。

 マルコの福音書はイエスが洗礼を受け、聖霊が宿った時から始まる。マタイとルカはイエスの生誕から書き起こす。これがヨハネになると、イエスの神性がはるかに顕著で、イエスがどういう存在かを神学的に解き明かすため、言葉(ロゴス)の讃歌から始めている。

ヨハネによる福音書1章1節:初めに言葉があり、言葉と神は一体だった

 言葉(ロゴス)を神の意味で用いるのは、旧約聖書にも例がないし、新約聖書でもヨハネの記述だけの特徴である。だが、ロゴスはギリシャ哲学では重要な位置を占める。

 ユダ王国が最後の時を迎えていた頃、この世を理解するための、全く新しい思想が小アジアの地に現れた。その先駆者はタレスで、幾何学を学問として興し、電気と磁気の現象を研究し、バビロニアの天文学をギリシャ世界に紹介し、万物の根源物質は水であると主張した人物として伝わっている。だが、タレスと彼の学派の最大の功績は、この世の森羅万象は、神や悪魔の恣意的な決定ではなく、人間にも理解可能な言葉で表せる法に従う、という考え方を始めた点にある。思想としての科学の誕生と言ってよかろう。彼らは神を否定したわけではないが、造物主の神といえども、その法には従うのである。タレスの思想を継承したのが前五〇〇年頃活動したヘラクレイトスで、世界を創った合理的な理論をロゴスと呼称した。ロゴス(logos)は知識の体系でもあり、例えば、生物(bio)の知識体系をバイオロジー(biology)、大地(geo)の知識体系をジオロジー(geology)というように、現代の科学用語にまで影響を与えている。

 このロゴスがギリシャ哲学で中心的な位置を占め、万物をロゴスが支配するという考えが確立すると、やがて、ロゴスは、抽象概念を越えたものとして、それ自体が意志を持つ神として理解されるに至るのである。そしてギリシャ文化の影響がユダヤ人に及ぶと、智恵はそれ自体が人格を有する霊的存在という思想になる。例えば箴言には、智恵そのものが意志をもって一人称で語る箇所がある。

箴言8章22節:主は始まりの時、仕事にかかる前に、私を所有し、
箴言8章23節:私は太古の始まりの時に作られ、大地とともにあった

 コヘレトの言葉にも同様の表現がある。

コヘレトの言葉24章9節:神が私(智恵)を世界の初めに創られた、私が失敗することはない

 イエスと同時代に、アレクサンドリアにフィロンというユダヤ人がいた。ギリシャ思想に精通しており、ユダヤ思想をギリシャ的に表現するのが非常に巧みだった。彼は、ロゴスとはヤハウェ神の論理と創造の力が表れたものと考え、比喩的な意味で「神の姿」や「神の子」と呼んだ。ヨハネはこの考えに立ち、彼の福音書は冒頭にロゴスへの讃歌を載せている。

※考えてみれば、『最後の質問』に登場する超次元コンピュータは、智恵と論理が極大化した存在が宇宙創造の神になる、というプロットではないか。※

 なお、ロゴスと神の関係については、ヨハネのものとは異なる見解もあった。例えば一部の学者たちは、人格をもつ智恵である神は、人智をもっては到底理解しがたく、何よりも純粋に霊的な存在で、物質世界とは一切の関わりをもたないと考えた。彼らはそのような存在を「グノーシス」と呼んだが、もし真の神グノーシスが物質世界と関わりを持たないのなら、この世界を創ったのは何者かが問題になる。ここでグノーシス主義者はタレスと異なる立場をとり、世界を創ったのは偽の神で、この世はタレスが考えたような正しい合理的な法ではなく、邪悪な原理が支配すると考えた。ギリシャの思想家プラトンは造物主をデミウルゴスと呼び、人間のために働く超人的な奉仕者であるとしたが、グノーシス主義者にとってのデミウルゴスは、悪意をもって邪悪な世界を創った存在である。ただし、人間性の本質はグノーシスに近いもので、邪悪なデミウルゴスによって物質世界に閉じ込められているので、救済とは物質世界を克服してグノーシスに近づくことである。よって、グノーシス思想に拠れば、救世主イエスは、グノーシスが本来なら関わりえない物質世界と関わるため、幻の肉体をもって現れたものということになる。初期のキリスト教徒にはこのような立場をとる人々がいた。彼らにとって、この世を創ったヤハウェは邪神、キリストはグノーシスなのである。

 ヨハネの福音書は、グノーシス主義とは反対の立場をとる。旧約聖書の神とロゴスは一体であり、創造主である。

ヨハネによる福音書1章2節:初めに、言葉は神とともにあった
ヨハネによる福音書1章3節:神がすべてを創った、神なくして何ものも生じえなかった

 イエス自身も幻の肉体ではなく、ロゴスが物質となって現れたものである。

ヨハネによる福音書1章14節:そして言葉は肉となり、我らの間に居住した

 ロゴスへの讃歌は、一方で、洗礼者ヨハネをロゴスと誤解してはいけないともいう。

ヨハネによる福音書1章6節:神に遣わされたヨハネという男がいた
ヨハネによる福音書1章7節:彼の使命は光の存在を見届けることだった
ヨハネによる福音書1章8節:彼自身は、その光ではない

 その少し後では、洗礼者ヨハネ自身が、自分が救世主ということを否定する。

ヨハネによる福音書1章19節:ユダヤ人は祭司とレビの者をエルサレムからヨハネの下へ遣わして、君は何者かと尋ねさせた
ヨハネによる福音書1章20節:するとヨハネは告白した、自分はキリストではない、と

 この福音書がこういうことを述べていることから、西暦一〇〇年頃になっても、洗礼者ヨハネこそが救世主だと信じる人々がまだ勢力を保っていたことが分かる。前の三つの福音書が洗礼者ヨハネをエリヤの再来と持ち上げたのは、まだ弱体だったキリスト教が伝統的なユダヤ教と争うための味方を必要としたからだが、ヨハネの福音書が書かれた時代になると、そのような味方は必要がなくなっていたらしい。

ヨハネによる福音書1章21節:彼らはヨハネに尋ねた、君はエリヤか。彼は答えた、そうではない。ではあの預言者なのか。彼は否と言った
ヨハネによる福音書1章23節:彼は言った、私は荒野で叫ぶ声、主のために道を作る

 「あの預言者」とは、申命記でモーセが伝えた神の言葉が予言する者である。

申命記18章18節:同胞の中から預言者を作り、汝(モーセ)にしたように、私の言葉を語らせる

 洗礼者ヨハネがイエスを見る目も、第四書は前三書とは異なる。マルコとルカが記述するヨハネは、洗礼のために現れたイエスを見ても何の反応も示さない。マタイは、イエスの方が偉大だということを、一節だけ語らせている。

マタイによる福音書3章14節:ヨハネはイエスを遮って言った、私の方が君から洗礼を受けねばならないのに、君が私のところへ来るのか?

 だが、マタイもルカも、その後ヨハネが、イエスが救世主なのかを確かめるために弟子を派遣したと書いている。だが、第四書のヨハネにはそんな必要はなかった。自分の目で奇跡を目撃したからである。

ヨハネによる福音書1章29節:翌日ヨハネはイエスを見て言った、世界の罪を取り除く神の羊を見るがよい
ヨハネによる福音書1章30節:私が言ったのは彼のことだ、私よりも神に愛でられた者が私の後に来る
ヨハネによる福音書1章32節:そしてヨハネは証言した、聖霊が鳩のように天から降り、彼の上にとまるのを見た
ヨハネによる福音書1章34節:私は見て証言した、彼は神の子である、と

 前三書も聖霊がイエスに降ったことを語るが、それを見たのはイエス本人だけとなっている。前三書では、イエスが救世主ということは、彼の弟子たちすらも徐々に理解していったのであり、イエス自身も、最後の段階で祭司長カイアファの前でそれを認めるまで、公言を避けている。一方、第四書では、ヨハネだけでなく誰もがイエスを直ちに救世主と認識するし、イエス自身も、救世主に言及したサマリア人の女性に答えている。

ヨハネによる福音書4章26節:今、君に話している私がそうだ。

 このように自他共にイエスを救世主と認める事例が、エルサレムを含む各地で三年も続くのである。だが、史実としての当時の状況からすれば、そんなことをして無事でいられるはずがない。これは神学的記述であって、歴史的記述ではないのだ。なお、洗礼者ヨハネがイエスを神の羊と呼んでいるのは、救世主に関する考え方がすでに変化していることを示している。救世主といえば、ダビデのように異教徒を征伐する英雄王と長く考えられてきたが、ここでは世界の身代わりになって贖罪を行うものとされている。

 イエスが弟子を得る過程も異なる。前三書ではガリラヤの地で、イエスが声をかけて弟子を集めているが、第四書のイエスは威厳に満ちた存在で、弟子たちは自分から集まってくる。例えば、洗礼者ヨハネからイエスが神の羊だと聞いた二人の弟子は、直ちにヨハネを去ってイエスに従うのである。

ヨハネによる福音書1章40節:ヨハネの言を聞いてイエスに従った二人の内の一人はシモン・ペトロの弟アンデレ

 前三書のどこにも、十二使徒の誰かがヨハネの弟子だったという記述はないが、ヨハネよりもイエスが偉大であることを示す第四書の目的を考えれば、これほど好都合な話はないだろう。そのアンデレは兄のペトロに語っている。

ヨハネによる福音書1章41節:アンデレは兄のシモンを見て言った、救世主を見つけた、と

 これでは、ペトロが自発的にイエスが救世主であることを発見し、それがイエスのエルサレム行きと処刑に繋がったという、重要な話を否定してしまう。だが、イエスを徹底して神格化する第四書では、当初は誰も彼が救世主だとは分からなかった、という話は認められないのだ。

 もう一つ、第四書ならではの特徴がある。

ヨハネによる福音書1章45節:フィリポスはナタナエルを見て言った、その人を見つけた、ナザレのイエスで、ヨセフの子だ

 第四書は、イエスがベツレヘムで生まれたとも、ダビデの子孫であるとも言わない。この点はマルコの福音書も同じだが、マルコと異なるのは、救世主ならベツレヘムに現れるはずというユダヤの伝統自体は語られているのである。

ヨハネによる福音書1章46節:ナタナエルは問い返した、ナザレなどからすばらしいものが現れるのか?
ヨハネによる福音書7章42節:経典によれば、キリストはダビデの子孫で、ダビデと同じベツレヘムに生まれるはずではないか?

 このような記述は第四書に多くある。にも関わらずイエスをナザレの人としか言わないとすれば、著者はユダヤの伝統を承知しながら、もはやそれに賛同していないからではないのか。

 最も重要なことは、誰がイエスの対立者だったかである。前三書では、ファリサイ派やサドカイ派の者たちがイエスの教えを危険視し、彼を陥れて処刑させたことになっている。ところがヨハネの福音書の読者は大半が異邦人で、そのようなユダヤ内部の派閥の知識もないし、関心もない。イエスの敵は単に「ユダヤ人」と呼ばれているのだ。だから、イエスを尋問したのも、サドカイ派ではなく「ユダヤ人」である。

ヨハネによる福音書2章18節:するとユダヤ人たちはイエスに言った、君がそんなことをするというどんな証を示せるのか?

 それどころか、イエスの弟子たちまでも、敵を「ユダヤ人」と呼んでいる。例えば、エルサレムへ行こうとするイエスに、行けば危険だと注意する場面がそうだ。まるで弟子たち自身はユダヤ人ではないかのようだ。

ヨハネによる福音書11章8節:弟子たちは言った、師よ、近頃ユダヤ人たちは、あなたを処刑しようとしているが、それでも行かれますか?

 あるいはまた、イエスが子供の病を治したとき、子供の両親はそのことを口外しなかった。なぜなら、

ヨハネによる福音書9章22節:ユダヤ人を恐れたからである

 もちろん子供の両親もユダヤ人なのだが。

 第四書(ヨハネの福音書)における、このようなユダヤ人の描写は、後世のキリスト教徒に絶大な影響を与えた。キリストを殺したのはユダヤ人で、ペトロからパウロにいたる初期の使徒たちはユダヤ人ではなかったと、信じられるにいたるのである。

 イエスがエルサレムの神殿で金融業者を叩き出した話だが、ユダヤ人(サドカイ派ではなく)が、イエスに本当に神の意思でやったのかと尋ね、イエスは答えている。

ヨハネによる福音書2章19節:神殿を破壊しても、三日で再建できる

 前三書のイエスはこんな発言はしていない。というより、マルコもマタイも、イエスを陥れるために、祭司たちが事実を捏造して、イエスが言ってもいないことを言ったと証言したのだと述べている。

マルコによる福音書14章57節:その時立ち上がって偽証をした者がいた
マルコによる福音書14章58節:手が築いた神殿を破壊し、手を用いずに三日で再建してみせると、彼が言うのを聞いた、と

 第四書を書いたヨハネにすれば、神殿を三日で再建するとは、イエスが死の三日後に復活することを、暗に予言したというのである。

 イエスのサマリア人への態度も重要である。マルコもマタイも、サマリア人へのユダヤ人一般の敵意をイエスが共有していることを語る。ルカは良いサマリア人を語ったが、これも、本来サマリア人がユダヤ人の敵という前提があってこそ意味を持つ話である。それがヨハネの福音書になると、イエスはユダヤ人とサマリア人をまったく区別することなく扱っている。イエスはユダヤ人ではなく、全人類の救世主とされているし、そうでなければ福音書を読む異邦人にとって意味をなさない。そしてイエスに言葉をかけられたサマリア人も、ユダヤ人と変わるところがなく、直ちにイエスを自分たちの救世主として受け入れたと書かれている。

 おそらく最も明確に、イエスを真に奉じるのが異邦人と言っているのが、次の部分であろう。

ヨハネによる福音書1章11節:彼は同胞の所へ来たが、同胞は彼を拒絶した
ヨハネによる福音書1章12節:それでも多くが彼を受け入れ、彼はその人々に神の子となる力を与えた。彼の名を信ずる者たちにも

 イエスの同胞のユダヤ人はイエスを拒絶したが、多くの異邦人がイエスを受け入れて神の子になった、というわけだ。

 イエスが捕らわれた夜について、ヨハネの福音書には、最後の晩餐も、ゲッセマネの祈りも記載がない。むしろそれとは矛盾するようなことをイエスに言わせている。

ヨハネによる福音書12章27節:我の心が乱れる今、何を言うべきか、父よ、今の私を救い給え、だが、これこそ私が今ここにいる理由なのだ

 これが、逮捕、処刑されるイエスの言動にそのまま反映されている。彼の死は、神による計画に従って起こったことなのである。

 イエスとピラトのやり取りは、どうなっているだろうか。君はユダヤの王なのかと尋ねるピラトに、

ヨハネによる福音書18章34節:イエスは答えて言った、これは君自身の考えか、それとも他者が私について言ったことか?
ヨハネによる福音書18章35節:ピラトは答えた、私はユダヤ人ではない、君の国民と祭司長たちが、君を連れてきたのだ、君は何をしたのだ?

 つまりピラトはイエスのことを何も知らず、ユダヤの宗教指導者たちに言われたとおりに動いている。イエスを処刑した罪は、完全にユダヤ人が負うことになる。そのことを一層明確にしたのが次の箇所である。なんとかイエスを助けたいピラトは言った。

ヨハネによる福音書19章10節:なぜ話さない? 私には、君を十字架にかけることも、釈放することもできるのを知らないのか?
ヨハネによる福音書19章11節:イエスは答えた、君が私に何をできるのも天から許されていればこそだ、よって私を連れてきた者の罪は、もっと大きい

 ユダヤの律法も、救世主の予言も、イエスの教えも知らないピラトには罪はない。罪があるのは、これらをすべて知っていながら、イエスを捕らえた者なのだ。それでもピラトは処刑をためらった。ところがユダヤ人はピラトを脅迫までしたと、ヨハネの福音書はいう。

ヨハネによる福音書19章12節:ユダヤ人たちは叫んだ、この男を釈放したら皇帝への反逆ですぞ、彼は皇帝に逆らって王を名乗るのだから

 何が何でもイエスを殺したいユダヤ人は、ついに自らの伝統を覆すような発言までする。

ヨハネによる福音書19章15節:ピラトは彼らに尋ねた、君たちの王を処刑してもよいのか。祭司長は答えた、我らの王はカエサルだけである

 イエスは処刑された。洗礼者ヨハネが初めてイエスを見たとき言ったように、彼は神の羊として犠牲の祭壇に登り、世界の罪をあがなったのである。


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