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投稿日: 2016/01/31(Sun) 22:20
投稿者Ken
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タイトル使徒言行録

『使徒言行録』

 イエスは死んだ。それに続く時代のキリスト教史を語るのが使徒言行録である。初期のキリスト教の発展には二つの大きな特徴がある。一つは教勢の拡大で、エルサレムを出発点としながら、ついにその影響はローマにまで及んだ。もう一つは、キリスト教が、ユダヤ教の一宗派から、異邦人のための普遍的な教えに変質したことだ。その物語の最大の主人公が使徒パウロなのである。もっともパウロの活躍を描くのは、おもに使徒言行録の後半で、前半はいろいろな弟子たちについて書いている。その文体や用語から、第三福音書と同じルカの著作と考えられ、書かれたのも同じ八〇年頃だろう。

 使徒言行録の冒頭では、復活したイエスがまだ弟子たちに指示を与えている。だが、やがてイエスは昇天し、いよいよ今後のことは弟子たちの肩にかかることになった。まずイスカリオテのユダに代わる十二人目の弟子マティアを籤で選んだのが、彼らの初仕事となった。

 次に、過越しの祭の安息日から五十日目と決められているペンテコステの祭が近づいていた。ユダヤ教の祭だが、弟子たちはまだ全員ユダヤ教徒だから、当然これを祭らねばならない。なおイエスは昇天して去る前に、弟子たちにこんな予言を残していった。

使徒言行録1章5節:多くの日数を経ないうちに、諸君は聖霊に清められる

 そのとおりのことが、ペンテコステ祭では起こったという。

使徒言行録2章4節:使徒たちは皆、聖霊に満たされ、その霊の力で、異国語を話し始めた

 霊の力で話すとは、宗教儀式の中で神懸り状態になったときに言葉を発することで、士師や王の時代の預言者はみなこうだった。十九世紀のアメリカにすらシェイカーと呼ばれた人々がいたほどである。だが、この場合の奇跡は「霊の力」で発した異国語を、その場の全員が理解したことだろう。

使徒言行録2章5節:そこには世界万国から来た信仰心の篤いエルサレムのユダヤ人がいた
使徒言行録2章9節:パルティア、メデス、エラム、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、
使徒言行録2章10節:フリギア、パンフィリア、エジプト、リビアのキュレネ地方、そしてローマからの訪問者、
使徒言行録2章11節:クレタ、アラビア、

 アジアというのは小アジアのことだから、ここに列挙された諸地名は、東のパルティアから西のローマまでを網羅したものだ。これほど広汎な地域から集まった人々が、使徒が発する言葉を理解したのなら、聖霊の奇跡かもしれない。だが、この時代にはユダヤより西の諸国ではエジプトやローマにいたるまですべてギリシャ語が通用したし、ユダヤ自体と東のパルティアではアラム語が交易の共通言語だった。使徒たちが発した言葉にギリシャ語とアラム語が入っていれば、列挙された諸国の人々が理解できる言葉が、必ずあったはずなのである。

 それでも目撃した人々の中には、奇跡と信じて、キリスト教に入信する者が多数いた。

 この時期のキリスト教がどうにか生き残れたのは、ユダヤ教の内部抗争が一因だったといえる。貴族階級を代表し親ローマのサドカイ派は、反ローマ運動に繋がりかねないこの新興宗派を最も危険視したが、ファリサイ派は常にサドカイ派と対立関係にあった。実のところ、イエスを救世主と認めるかの一点を除けば、初期のキリスト教とファリサイ派の教義は重なる部分が多く、ファリサイ派の人々は、イエス信仰などは無知な誤解でいずれ消え去るのだから、サドカイ派こそがユダヤ教の敵だと信じていた。サドカイ派に反対して使徒たちを弁護したのも、ファリサイ派の一人だった。

使徒言行録5章34節:そのときファリサイの一人で、律法学者として名高い、ガマリエルという人物が立ち上がり、

 ガマリエルは、キリスト信者が正しいにせよ、誤っているにせよ、神が彼らを裁くのだから、放っておけばよいと主張し、他の宗教指導者たちを説得したので、使徒たちは活動を続けることができた。

 むしろ初期の教会を危険にさらしたのは、二つの派閥の内部対立といってよい。一派はユダヤ本土とガリラヤのユダヤ人で、アラム語を話し、伝統を大切にする人々である。もう一派はそれ以外の地に住む人々で、言語も生活習慣もギリシャ風になっている。どちらもユダヤ人なのだが、使徒言行録は彼らをヘブライ人、ギリシャ人と呼び分けている。ヘブライ人はギリシャ人を異邦人に影響された不純な存在と見なし、ギリシャ人はヘブライ人を広い世界を知らない田舎者と思っていた。

使徒言行録6章1節:その頃、弟子の数は増えたが、日々の配給で彼らの寡婦がヘブライ人に無視されている、という苦情がギリシャ人から出た。

 十二使徒の全員がヘブライ人だったので、あるいはこの苦情には根拠があったのかもしれない。だが、ここでヘブライ人の使徒たちは優れた決定をした。ギリシャ人側から七人の代表を選んで、教団の運営に参画させたのだ。

使徒言行録6章5節:その報せはすべての者を喜ばせ、ステファノ、フィリポス、プロコロス、ニカノル、ティモン、パルメナス、ニコラスが選ばれた

 ギリシャ人の筆頭がステファノで、彼は仲間のギリシャ人の間にキリスト教を広める活動を始めた。ところが、抵抗に直面した。

使徒言行録6章9節:すると、自由人、キュレネ、アレクサンドリア、キリキアのシナゴーグでステファノに反論した者たちがいた。

 自由人とは解放された奴隷のことだ。審問の場へ呼び出されたステファノは、イエスを真の救世主と信じる自分が反対されるのは、モーセが反対者に直面したのと同じであると弁じるが、神を冒涜した罪に問われ、ただちに処刑された。紀元三一年、イエス処刑の二年後だが、キリスト教の最初の殉教者がギリシャ人だったことは、すでに起こりつつあった重要な変化を示すといえよう。

 ステファノが処刑された後、同じギリシャ人のフィリポスが布教活動をした。

使徒言行録8章5節:フィリポスはサマリアの町へ行き、キリストの話を伝えた

 この頃には、キリスト教徒の間で、サマリア人への偏見はなくなっており、むしろユダヤの伝統勢力から排斥される者同士の連帯感すら見られた。フィリポスがサマリアで信者を獲得すると、十二使徒のペトロとヨハネが直ちに赴いて入信の儀式を行ったが、そのことにためらいはまったくみられない。サマリア人のキリスト教徒はユダヤ人のキリスト教徒と対等な立場を得、これもキリスト教が勢力を拡大する重要な一歩となった。サマリアで成功したフィリポスは、次にガザへ行き、その地で遠い異国から来た人物と遭遇した。

使徒言行録8章27節:エチオピアの女王カンダケに仕え、女王の財宝を管理する宦官の一人が、礼拝のためエルサレムへ向かっていた

 前七世紀にはエジプトを征服したこともあるエチオピアには、長い間にユダヤ人が流入し、この宦官もその一人だったろう。のちのイスラム教徒がメッカへ巡礼するように、彼もエルサレムへの途上にいたのだ。このユダヤ人の宦官はイザヤ書を読んでいたのを、フィリポスは救世主イエスを理解するためのイザヤ書の正しい読み方を指導し、彼をキリスト信者にしてから帰郷させた。この時はフィリポスが自分だけで入信の儀式を行い、ペトロもヨハネも関与していない。これも、キリスト教の布教がエルサレムのヘブライ人の手を離れ、ギリシャ人が主体になってゆく過程を表すエピソードであろう。

 だが、ステファノやフィリポスとは桁違いに巨大な影響を与えたギリシャ人が、このとき舞台に登場した。しかも登場した時は、イエスの信徒たちにとって容赦のない迫害者だったのだ。その名をサウルという。

 ベニヤミン族に生まれたサウルは、後に彼自身が書いているように、強烈なユダヤ民族主義者だった。

フィリピの信徒への手紙3章5節:八日目に割礼を施したイスラエル人、ベニヤミン族、ヘブライの中のヘブライ

 彼は、ベニヤミン族の英雄サウル王の名をつけられたのだ。ただ、自分をヘブライの中のヘブライという彼は、キリキアのタルサス市の出身で、当時の分類ではギリシャ人だった。もっと重要なことは、彼がローマの市民権をもっていたことである。彼は生涯に何度も迫害を受けるが、ローマ市民権のおかげで迫害を逃れたことも多くあった。また、ユダヤ人の彼がローマの市民権を持っていたのは、彼の生家が市民権を買えるほど豊かだったことを示す。そのおかげでサウルはエルサレムへ留学し、ギリシャ語だけでなく、アラム語にも通じることができた。

 彼はまた、自分はファリサイ派だという。若い頃は、イエスが救世主という教えを、到底許すことができなかった。ステファノの殉教につながる告発を行った中にキリキアのユダヤ人もいるが、キリキアはサウルの故郷だから、彼も熱心な告発者の一人だったろう。ステファノが群衆に処刑されたその場にサウルがいたことも明記されている。

使徒言行録7章58節:告発者たちは、サウルという名の若者の足元に、脱いだ上衣を置いた
使徒言行録8章1節:そしてサウルはステファノの死に同意を与えた

 ユダヤの伝統的な処刑法は、衆で囲んで相手が死ぬまで石をぶつけることである。告発者たちは石を投げやすいように上衣を脱いだのだ。実はこれが使徒言行録へのサウルの初登場なのである。サウルにとって、ステファノの処刑は、キリスト教徒迫害の手始めにすぎなかった。

使徒言行録8章3節:サウルは教会を襲い、各家に押し入って男女を連行し、投獄した

 サウル自身も、彼がキリスト教を迫害したことを、後に語っている。

ガラテヤの信徒への手紙1章13節:私が神の教会に計り知れない害を与え、滅ぼしたことを聞かれたことがあるだろう

 ところが、サウルはキリスト教徒を捕らえるために赴いたダマスカスで、異常な体験をする。

使徒言行録9章3節:サウルがダマスカスの近くまで来た時、天からの光が彼を包んだ
使徒言行録9章4節:彼は地に倒れ、声を聞いた。サウルよ、サウルよ、なぜ私を害するか、と
使徒言行録9章5節:サウルは言った、どなたですか、と。主は答えた、お前が害しているイエスだ、と

 実は、サウルはのちに自身のことをこのように語っている。

コリントの信徒への手紙一2章3節:私もまた弱く、恐れ、そして震えることが多い

 この「震えることが多い」とは、実際に発作が起こったことを意味し、彼にはてんかんの持病があったと解釈されることがある。あるいはこのときのダマスカスでも幻覚を見たのかもしれない。このときサウルは失明し、三日後にキリスト教徒が彼に触れると視力を回復したという。

 これでサウルはキリスト教に改宗し、それまでの最も熱心な迫害者が、最も熱心な伝道者となった。その時期は書かれていないが、紀元三二年から三六年の間と考えられている。サウルは直ちにダマスカスでキリスト教の布教を始め、それまでの彼を知っていた人々を仰天させた。

使徒言行録9章23節:その後かなりの日数を経て、ユダヤ人たちは彼を殺そうと相談した

 後にサウルが書いていることから判断すると、彼はこのときダマスカスに三年滞在したようだ。その間に布教のやり方を考えたのだろう。だが、彼を背教者と見なすユダヤ人だけでなく、この地方を統治していたアレタス王もサウルを捕らえようとしたので、彼は奇策を用いて脱出せざるをえなかった。

コリントの信徒への手紙二11章32節:ダマスカスではアレタス王の総督が守備隊を配して、私を逮捕しようとした
コリントの信徒への手紙二11章33節:そこで私は窓から籠に乗って城壁伝いに降り、彼の手を逃れた

 エルサレムへ戻ったサウルはキリスト教会に加わろうとしたが、彼の過去を知る人々から当然ながら警戒された。幸い彼の参加を支持してくれた人物がいた。

使徒言行録9章27節:だがバルナバがサウルを使徒達の下へ連れて行き、サウルが主と会ったことを保証した

 バルナバもギリシャ人で、キリキアから近いキプロスの出身だから、サウルへの親近感があったのだろう。参加直後の彼自身については、サウルが後に語っている。

ガラテヤの信徒への手紙1章18節:私はエルサレムへ行ってペトロと会い、十五日間いっしょにいた
ガラテヤの信徒への手紙1章19節:他の使徒では、主の弟のヤコブだけと会っていた

 ペトロは十二使徒の筆頭だが、イエスの弟のヤコブも、この頃には指導的な役割に就いていたらしい。サウルがこの二人と会っていたということは、この二人からイエスの教えを学んだということだろう。だが、エルサレムでもサウルはユダヤ教徒から裏切者として狙われ、逃げ出さねばならなかった。その後の数年を彼は故郷のタルサスで過ごした。

 この頃、ペトロもまた伝道の旅をしていたが、あるとき彼はローマ軍の駐屯地カエサリアを訪れた。

使徒言行録10章1節:カエサリアにコルネリウスという百人隊長がいた
使徒言行録10章2節:信心深く、神を畏れる彼は、多くの喜捨を行い、いつも祈っていた

 コルネリウスはペトロが町を訪れていると聞いて招待したが、ペトロは躊躇した。

使徒言行録10章28節:ユダヤ人が異国人と接するのは、律法に反するので

 接するといっても、この場合は食事を共にすることを意味する。異教徒と会食をすれば、食物に関する戒律を破ることになるので、本来なら許されない。ペトロはユダヤの律法と、ローマの士官をキリスト信者にできる機会の板ばさみで苦しんだであろうが、ついに食物の戒律を廃止する決定をした。それだけではない。

使徒言行録10章48節:ペトロは主の名において彼に洗礼を与えた

 これは画期的なことだった。これまでキリスト教への入信者は、すべてモーセの律法に従う者だった。マタイの福音書では、イエス自身が明言している。

マタイによる福音書5章17節:私が律法を壊しにきたと思ってはならない、私は破壊ではなく、完成させるためにきたのだ

 ところが、今やペトロは割礼もしていない者と会食したのみか、彼をユダヤ教徒にする前にキリスト教徒にしたのだから、いわばモーセの律法を無視したことになる。もちろん保守派からは非難を受けた。

使徒言行録11章2節:ペトロがエルサレムへ来ると、割礼をした人々は彼を非難した
使徒言行録11章3節:君は、割礼をしない者たちのところへ行き、食事をともにした、と

 使徒言行録では、結局ペトロの説明を保守派が受け入れたことになっているが、事実は異なるであろう。むしろ後にパウロの書簡が、ペトロの弱気をなじっていることからして、ペトロの方がヤコブたち保守派に屈したと思われる。

ガラテヤの信徒への手紙2章12節:ヤコブからの使いが来る前は、ペトロは異邦人と会食したのに、使いが来るとペトロは割礼した者たちを恐れ、引き下がった

 事実、ペトロはこれ以後だれ一人改宗させていない。それでもコルネリウスの入信が無効にされることはなかった。やはりこれも歴史の転換点の一つになったのは、間違いない。

 ユダヤ本土を離れた場所では、布教ははるかに容易だった。

使徒言行録11章19節:諸国へ散った者たちは、フェニキア、キプロス、アンティオキアへ行き、ユダヤ人相手に伝道をした
使徒言行録11章20節:そしてキプロスとキュレネの者たちがアンティオキアへ来ると、ギリシャ人に道を説いた
使徒言行録11章21節:そして多くの信者を得た

 ここでの「ギリシャ人」は直前の「ユダヤ人」との対比だから、これまでに出たギリシャ語を話すユダヤ人ではなく、本物のギリシャ人かギリシャ化したシリア人と思われる。つまりここでも、ユダヤ教の段階を省略して、直ちにキリスト教徒になっている。異邦人の本格的な入信が起こったのはこの時のアンティオキアだろう。キリスト教徒という呼称自体もこの地で発生した。

使徒言行録11章26節:アンティオキアの弟子たちが、最初にクリスチャンと呼ばれた

 この呼び名は当初は蔑称だったのが、やがて信者たちはそう呼ばれることを誇るようになったのは、後世のクエーカー教徒などと事情が共通する。キリスト教の発展に重要な役割を果たすことになるのは、地方都市エルサレムではなく、ローマとアレクサンドリアに次ぐ帝国第三の都市アンティオキアの教会だった。一方でエルサレム教会は、アンティオキア教会が、ユダヤの律法に正しく準拠して布教を行っているのか疑い始めていた。遠隔地のキリスト教が正統から外れた道を行くのを防ぐため、エルサレムはバルナバを指導者として派遣することにした。重大な責務を負うことになったバルナバは、強い意志と情熱をもつかつての仲間を思い出し、協力者とした。

使徒言行録11章25節:バルナバはサウルを探すためタルサスへ赴いた
使徒言行録11章26節:そして彼を見つけると、アンティオキアへ連れて行った

 その時期は、

使徒言行録11章27節:その頃、
使徒言行録11章28節:クラウディウス皇帝の治世で、世界を覆う飢饉があった

 もちろん世界を覆う飢饉などなかったが、バイブルの著者にとって「世界」はユダヤのことだから、これは史家ヨセフスがいう、四六年から四八年にかけてこの地方を襲った飢饉のことではないか。だが時代に言及した記述はもう一つある。

使徒言行録12章1節:同じ頃、ヘロデ王は教会に弾圧の手を伸ばし
使徒言行録12章2節:ヨハネの兄ヤコブを剣で殺した

 このヘロデはヘロデ・アグリッパ王のことで、ユダヤ主流派の支持を得るためにキリスト教を弾圧した。ヤコブは(ユダを除き)十二使徒の中で最初に死んだことになる。ヘロデ・アグリッパはペトロも投獄させたが、彼は脱出して友人宅へ逃れた。

使徒言行録12章12節:彼はマルコと呼ばれたヨハネの母、マリアの家へ来た

 バイブルに記述はないが、このヨハネ・マルコがマルコの福音書の著者とされている。

 ヘロデ・アグリッパ王は人間関係の調整に優れ、ユダヤの伝統主義者及びローマの双方と、非常に良好な関係を維持していた。この王が長命しておれば安定した王朝を築き、ユダヤ人の反乱も起こらず、キリスト教は歴史から消えていたかもしれない。だが紀元四四年に不慮の事故で王が急死したことが運命を変えた。ユダヤ人はいよいよ激しくローマを憎み、ついに六六年の反乱を起こした。その結果ユダヤ教は殲滅され、代わってキリスト教が勢力をのばし、やがてローマ帝国そのものを、ひいては西洋世界を支配するにいたる。ともあれ、彼が王位に就いていたのは四一年から四四年までで、サウルたちがアンティオキアへ行ったのはこの時期とも考えられる。やはり、バイブルは年代については大まかな記述しかしていないということだろう。


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