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投稿日: 2016/01/31(Sun) 22:21
投稿者Ken
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タイトル使徒言行録 (続き)

 成長したアンティオキア教会は、エルサレム教会をしのぐ実力を持ち始めていた。前述の飢饉にユダヤ本土が襲われたとき、アンティオキアは援助をするまでになっていたのだ。

使徒言行録11章29節:アンティオキアの弟子たちは、各自が自分にできることで、ユダヤの兄弟たちを助ける決心をし、
使徒言行録11章30節:それを実行した。援助を届けたのはバルナバとサウルだった

 二人がアンティオキアへ戻るときヨハネ・マルコも同行した。そしてアンティオキア教会を本拠にして、いよいよ本格的な伝道活動が始まった。布教に赴くのはバルナバとサウル、助手として従うのがヨハネ・マルコである。

使徒言行録13章4節:彼ら(バルナバとサウル)はセレウキアへ行き、そこからキプロスへ航海した
使徒言行録13章5節:サラミスではユダヤ人のシナゴーグで神の言葉を説き、

 サラミスはキプロス島の中心都市だが、一行はこの後、島を横断してパフォスの町へ行った。そこはローマの駐屯地で、ローマの地方総督セルギウス・パウルスが滞在していた。パウルスはユダヤ教に関心があったが、それは彼に仕えるユダヤ人の影響だったらしい。

使徒言行録13章6節:バルナバとサウルの二人は、その地で魔術を使う偽の預言者で、ユダヤ人のバルイエスとまみえた

 パウルスは新しい教義を説く二人に関心を持ったが、バルイエスは彼らを異端者とみて排除しようとした。両者は総督の前で対決した。

使徒言行録13章8節:魔術師は二人と対峙し、総督を正しい教えから遠ざけようとした

 この次の一節で、人類史上最も有名な伝道者の名が登場する。

使徒言行録13章9節:このときサウルまたの名をパウロは、バルイエスをしっかと見据えた

 この時代、ユダヤ人でもギリシャ・ローマ風の名を持つのは普通の習慣になっていた。使徒の中でもアンデレやフィリポスがそうだし、ヨハネ・マルコのようにヘブライ(ヨハネ)とローマ(マルコ)の名をあわせ持つ人物もいた。サウルもまたパウロというローマ名を持っていたが、使徒言行録は、これまでこの人物を一貫してユダヤ名のサウルで呼んできた。それがこの時を境に、以後はすべてローマ名のパウロで呼ぶようになる。なぜここで彼の呼称が変わったのか、使徒言行録は語らない。だが、このとき彼は初めて異邦人を入信させ、それに反対したのがユダヤ人バルイエスだった。しかもパウルス総督は、ユダヤ教に惹かれていても、割礼をはじめとするモーセの律法は、彼には全く不合理なものに見えたに違いない。もしも、キリストへの信仰があればモーセの律法は入信の条件としないとなれば、彼を改宗させるのははるかに容易だろう。総督がどういう条件で改宗したのかは記述がないが、その後の歴史を見れば、サウルは割礼なしで彼を入信させたのは間違いない。サウルからパウロへの転換はそのことを、つまりキリスト教がユダヤ教から一歩遠ざかって、異邦人のための宗教への道を歩み始めたことを象徴しているのではなかろうか。あるいはパウロという、この時が初登場の名も、パウルス総督を改宗させたことを記念して付けたのかもしれない。さらには、名前を変えることで、かつてキリスト教を迫害したサウルとしての過去と、ここで完全に決別したとも考えられる。ここまでのサウルは常にバルナバの助手として描かれていたのが、彼が伝道者たちの中で占める地位すらも変わったように見えるのである。

使徒言行録13章13節:さて、パウロの一行がパフォスを発した時

 この一節の書き方が象徴的である。これまではずっと「バルナバとサウル」という書き方だった。バルナバが疑いなく上位者で、かつてサウルがエルサレム教会で受け入れられるのにも、バルナバの支持を必要とした。その地位が逆転した理由も使徒言行録には記述がないが、想像するのはさして難しくはない。パウルス総督の入信についてバルイエスと対決したとき、モーセの律法厳守を省略しようというサウルの主張に、バルナバは恐れをなして、しり込みをしたに違いない。だが総督を改宗させたのはサウルのやり方だったし、これ以後の布教活動もそれを踏襲する。ここからの使徒言行録は、全くパウロの物語になるのである。

 同時にそのことは、ユダヤ伝統派とパウロの間に路線の対立を生じ、次第に深刻になったことを意味する。例えば、ヨハネ・マルコはこのとき一行を離れ、エルサレムへ戻っている。もし彼が本当にマルコの福音書の著者なら、その内容からして彼はユダヤの伝統主義者だったはずで、パウロのやり方にはついてゆけなかったであろう。実際に、パウロが説く教えを異邦人は受け入れるのに、ユダヤ人は反発するケースがますます多くなってゆく。例えばピシディア地方のシナゴーグで伝道した時も、パウロたちが成功するかにみえたとき、現地のユダヤ人指導者の妨害が入り、結局イエスは救世主とは認められなかった。情熱家のパウロは、同時に短気でもあったようだ。

使徒言行録13章46節:パウロとバルナバは言い放った、必要があったから神の言葉を諸君に伝えたが、諸君がそれを拒むなら永遠の命に値しないのだから、これからは異邦人を相手にする

 とはいえ、パウロはユダヤ人を見捨てたわけではなく、彼が伝道の旅で新しい町へ到着すると、どこでもまずユダヤ人たちに接触している。ただ、ユダヤ人が彼の教えを受容しなければ、対象を異邦人に変えているのだ。パウロは第二イザヤが伝える神の言葉を挙げて、異邦人への布教の正しさを主張した。

イザヤ書49章6節:君を異邦人の光としよう、私のために、君が世界の果てまで救済できるように

 だが一行が旅を続けるにしたがい、ユダヤ人による迫害はますます激しくなった。ルステラの町では、病人を治療したところ、市民はバルナバとパウロを、人間の姿をとったゼウス神とヘルメス神に違いないと拝しにきた。すると今度はユダヤ人が集まってきて、二人が神を冒涜する者であると扇動し、一転して二人は集団暴行を受けた。半死半生になりながらも、二人はルステラを脱出し、次の目的地へ向かった。

 やがてアンティオキアへ戻ったパウロたちは布教活動の報告を行った。モーセの律法の完全厳守を求めずに異邦人を改宗させる彼の手法は、アンティオキア教会で支持されたようである。

使徒言行録14章27節:パウロとバルナバは教会の衆を集め、神が彼らにやらせたこと、それが信仰の扉を異邦人に開いたことを説明した

 だがこの報せがエルサレム教会に伝わると、ヤコブを筆頭とする保守派の反発を買った。

使徒言行録15章1節:ユダヤから来た者たちが言った、モーセの方法で割礼をしない者に、救済はありえない、と

 この時エルサレムから来た告発者の中にはペトロもいたようだ。後にパウロがこの時のことを語っている。

ガラテヤの信徒への手紙2章11節:だが、ペトロがアンティオキアへ来た時、彼は誤ったことを行い、私は彼に立ち向かった

 パウロは、ペトロもかつて異邦人コルネリウスと会食したくせに、ヤコブたちに迫られて立場を後退させたと相手をなじった。議論は沸騰し、誕生したばかりのキリスト教会は、分裂の危機に直面した。

 ついに、この問題を論ずるため、紀元四八年のエルサレム会議が開かれた。会議では、ヤコブが律法の厳守を、パウロがその対極を主張し、ペトロとバルナバがなんとか妥協点を見つけようと腐心したようである。使徒言行録は会議の推移を記録している。

使徒言行録15章5節:そのときイエスを信じるファリサイ派の者たちが立って言った、割礼は必要である、モーセの律法を守らせなければならない

 だがペトロが立ち上がって、彼自身がコルネリウスを割礼なしで入信させたことを述べた。

使徒言行録15章7節:諸君も知ってのとおり、昔、神は、異邦人が私の口から福音を聞き、信仰を得るように、我らの内から選んだ

 これは律法厳守派には打撃を与えたろう。パウロも彼のやり方はペトロの前例を踏襲しているのだと主張し、ついにヤコブを屈服させた。ヤコブは異邦人を入信させる上で、どうしても譲れない四つの点を挙げるに留まった。

使徒言行録15章20節:穢れた偶像、姦淫、絞め殺した獣、血、これらは避けねばならない

 それでも、割礼も複雑な食物の戒律も免除されることになった。マカバイ時代のユダヤ人は、これらの戒律を破るよりも死を選んだことを思えば、パウロの完全勝利といえる。アンティオキアへ戻るパウロたちには新しい仲間のシラスが加わっていた。このシラスもパウロと同じローマ市民だったと思われる。

 アンティオキアのパウロとバルナバは二度目の伝道の旅を計画するが、バルナバがヨハネ・マルコを加えることを主張し、パウロが反対したことで、ついにこの両者が決裂した。

使徒言行録15章39節:二人の争いはあまりにも激しく、別々に旅立つことになった

 パウロにすれば、モーセの律法に固執するマルコはもちろん、マルコを切ることができないバルナバとも、行動をともにできないと思ったのだろう。

使徒言行録15章39節:バルナバはマルコとキプロスへ航海した
使徒言行録15章40節:パウロはシラスを選び、
使徒言行録15章41節:シリアからキリキアを通って、

 パウロとシラスはルステラまで来て、新しい同志を得た。

使徒言行録16章1節:そこにテモテという名の弟子がいた。母はユダヤ人、父はギリシャ人で、

 ただ、ギリシャ人の子テモテは割礼をしていなかった。ユダヤ人たちはパウロがテモテを伴うことを認める代わりに、彼に割礼を施すことを要求し、パウロもここでは保守派の要求に従った。

 この二度目の旅は、前回の旅で教会を設置した地域に連なる小アジアの地方を回るはずだった。ところがパウロはそれらに目もくれず、まっしぐらに西方を目指した。理由については、

使徒言行録16章6節:聖霊がアジアでの布教を許さなかった

 などと書かれているが、真相は、エルサレム会議で異邦人への布教を公認されたパウロが、異邦人の本拠ともいえるヨーロッパの地を目指したのではなかろうか。もしそうなら、彼はアンティオキア教会にすら真の意図を隠して出立したことになり、あるいはこれこそ彼とバルナバの道が別れた真相かもしれない。結局バルナバは大胆すぎるパウロの行動についてゆけなかった。彼はその結果歴史から姿を消し、キリスト教の命運はパウロが一身に背負うことになる。

 パウロがヨーロッパに入ったのは紀元五〇年頃であろう。

使徒言行録16章11節:トロアスを離れ、我らはまっすぐサモトラキへ、そして翌日はネアポリスへ来た
使徒言行録16章12節:さらにはフィリピまで、

 つまりエーゲ海を横断してネアポリス港で上陸し、マケドニアへ入ったことになる。フィリピはマケドニアの大都市で、かつてカエサルが暗殺された後、暗殺者ブルートゥスとカシウスの連合軍がアントニウスとオクタウィアヌスの連合軍と前四二年に戦った戦場だった。パウロたちはここでいつものユダヤ人ではなく、異邦人から迫害を受けた。迫害者には、ユダヤ教徒とキリスト教徒の区別がつかず、一行がユダヤ教を広めに来たと思ったのだ。

使徒言行録16章20節:このユダヤ人たちは、
使徒言行録16章21節:我らローマ人が学ぶことも行うことも法に反する習慣を教えにきた

 パウロとシラスは鞭打たれて投獄されたが、折からの地震で脱出し、さらには彼らがローマ市民と判明したので自由の身になった。パウロの布教活動において、彼のローマ市民権は何度も彼を守ったが、このときもそうだったのだ。そして一行は、テサロニケ、ベレヤを経て、ギリシャ史上の最も偉大な町に入った。

使徒言行録17章15節:彼らはパウロを案内してアテネへ連れて行った

 この時代のアテネはもちろんローマの支配を受けていたが、いわば大学の町として、学府で学びに来たギリシャ人やローマ人が多くいた。過去から製造されてきた神殿や偉大な美術品も多かったが、パウロにとっては、戦慄すべき偶像崇拝のしるしに過ぎなかった。またアテネには哲学者が多くいて、奇妙な思想を持つ新来者のことを聞き、面会を求めてきた。

使徒言行録17章18節:すると、エピクロス派とストア派の哲学者たちが、パウロと遭遇した

 この二つの学派は、どちらも当時のアテネでは大きな存在だった。エピクロスは前三四一年にサモス島で生まれた人物だが、人間を含む宇宙の万物は「原子」の動きにのみ影響されるので、神の意思が介在する余地はないという、大胆な無神論を提唱した。そのような宇宙にあっては、人間が知覚できるのは快楽と苦痛だけなのだから、快楽を最大に、苦痛を最小にすることを追求すればよい、という思想である。エピクロス当人にとっては、真の快楽とは学問をしたり友情を育む心の動きであって、過度の肉体的快楽ではなかったのだが、人間の通弊として、肉体的快楽だけが人生の喜びだと短絡する者がはるかに多く、結局、エピクロス派は享楽主義者の代名詞になってしまった。

 もう一方のストア派は、エピクロスと同じ頃にキプロスで生まれたゼノが創始者である。アテネに作られたゼノの学校には、ギリシャ語で彩色柱廊を意味するストア・ポイキレがあったのが、学派の名称となった。基本的には多神教の立場をとるが、圧倒的な力をもつ最高神がいると考える点で、一神教への途上にあるようにもみえる。ストア派も苦痛を最小にすることを目指すが、その方法はエピクロス派のような享楽ではなく、苦楽を超越し、ただ倫理的に正しいことを追求する精神を養うことだった。パウロよりも一世紀後に現れたマルクス・アウレリウス皇帝などはこれの信奉者で、異教徒にも関わらず、まるでキリスト教の聖者のような人格を持っていた。

 そのアテネの哲学者たちを相手に、パウロは議論をすることになった。

使徒言行録17章19節:彼らはパウロをアレオパゴスへ案内して言った、新しい教義について聞かせてもらえようか、と

 ここでパウロが倫理の話だけをしておれば問題はなかったろうが、彼の教義の根幹というべきイエス・キリストの復活を語ると、アテネ人の失笑を買った。ただ、その中でも信者になる者はいた。

使徒言行録17章32節:死者が復活した話を聞くと、ある者は侮辱した
使徒言行録17章34節:だが一部の者はパウロに従い信仰を得た、その中にはアレオパゴスのディオニシオスがいて、

 このディオニシオスは後に数々の伝説の題材になった。アテネの初代司教になったという話もあるし、ガリアの地で殉教し、フランスの守護聖人サン・ドニになったという話もある。すべてフィクションではあるが。

 アテネの次に訪れたコリントでは、パウロは一年半も滞在した。彼を告発する機会を窺っていた現地のユダヤ人は、新任の総督が到着した時を捉えた。

使徒言行録18章12節:ガリオがアカイアの副知事だったとき、ユダヤ人たちはパウロを裁きの場へ連れて行った

 だがガリオ総督はユダヤ人内部の争いには無関心で、パウロに何の手出しもしなかった。ここからパウロたちは東へ向かって旅立ち、エフェソ、カエサリアを経てエルサレムへ、その後アンティオキアへ戻り、二度目の伝道の旅を終えた。

 パウロが三度目の伝道の旅に出たのは五四年だった。まず小アジアのエフェソへ行き、五七年頃まで留まった。この時期になってもなお、洗礼者ヨハネを奉じる人々がいたらしい。

使徒言行録18章24節:アレクサンドリアの生まれで、弁の立つアポロというユダヤ人がエフェソへ来た
使徒言行録18章25節:彼はヨハネの洗礼しかしらなかった

 パウロはこのような人々にキリストの教えを説いていった。彼の努力は報われ、エフェソはエルサレム、アンティオキアに次ぐ、キリスト教の第三の根拠地となるのである。使徒ヨハネもこの地で第四福音書を書いたし、イエスの母マリア、マグダラのマリア、使徒アンデレとフィリポスもこの地へ移ったという。

 だが、教会の発展に伴って、予想外の摩擦も起こった。

使徒言行録19章24節:デメトリオスという銀職人は、ディアナ神の銀の祭壇を作り、職人たちに多くの利益をもたらしていた
使徒言行録19章25節:その職人たちと、同じような仕事をする作業者を集め、

 ディアナとはギリシャ神話の豊穣の女神で、バビロンのアシュタルテなどと同様の位置を占める。エフェソはこの女神の祭祀の場として知られていたが、旧約聖書がアシュタルテを邪神と見なしていることを思えば、パウロたちのディアナへの反応も容易に想像がつく。祭祀のおかげで利益を得ていたデメトリオスが怒りを発し、仲間を語らってパウロたちを襲おうとしたが、エフェソの当局が押さえ込んで、事なきを得た。そのことに安心したのか、パウロはギリシャの諸教会を数ヶ月かけて巡回し、その後、小アジアのミレトスに滞在した。そこからエフェソの長老たちに送った書簡の一節が記載されている。

使徒言行録20章35節:主イエスの言葉を思い出されよ。主は言われた、与えられるより与える者が、神に祝福される、と

 非常に有名な「イエスの言葉」であるが、実は福音書のどこにも記載がない。

 その後、パウロはエルサレムを訪れた。彼の布教方法が承認された前回のエルサレム会議から、早くも十年が経過していた。

 ここでパウロはヤコブたちから、割礼も律法の厳守も免除して異邦人を入信させるパウロの布教への不満と怒りが、いよいよ大きくなっていることを聞いた。

使徒言行録21章20節:見られよ、兄弟、信仰を持つどれだけ多くのユダヤ人が、律法を激しく守ろうとしていることか
使徒言行録21章21節:彼らは、君が異邦人に混じって住むユダヤ人に、モーセを忘れよと教えていることを、聞いているのだ

 実際には、パウロは異邦人には律法厳守を課さないだけで、ユダヤ人には律法を守らせていた。それでもヤコブたちは、信徒の中に律法を守る者と守らない者があり、守らない側が異邦人を取り込んで果てしなく勢力を拡大すれば、最後には守る側が圧倒されてしまい、キリスト教はまったく異邦人の宗教になってしまうという懸念をもっていた。(その後の歴史はまさしくそうなったのだが。)それにヤコブたちは、ユダヤ教徒にも時間をかけてイエスが救世主だと納得させ、やがては彼らと宥和することを願っていた。それなのに、パウロのせいで、キリスト教が反ユダヤ思想であるかのように思われたら、その望みは雲散霧消し、エルサレムのキリスト教徒はまたも迫害を受けるに違いない。ヤコブはパウロに神殿で清めの儀式を行い、パウロ個人は律法を守っていることを人々に見せることを求め、パウロも従った。ところがパウロが神殿に入ると、彼を知っている者に発見され、大声で叫ばれてしまった。

使徒言行録21章28節:イスラエルの民よ、手を貸せ、この男だ、あらゆる場所で我らに、律法に、この神殿に反対しているのは

 パウロはあやうく殺されるところだったが、騒ぎを聞いたローマの守備隊が駆けつけたので救われた。パウロはローマの隊長には彼がローマ市民であると告げ、ユダヤの祭司たちには、自分は救世主の復活を信じるファリサイ派であると主張して、難を逃れた。たしかに、ファリサイ派はイエスを救世主と認めないだけで、救世主の復活自体は重要な教義であり、救世主を否定するサドカイ派こそが敵だと、この時期でもまだ信じていたのだ。

 しかし、エルサレムの人々のパウロへの怒りは治まらない。ローマの隊長は、彼をカエサリアへ送り、フェリクス総督の裁きを受けさせるように取り計らった。フェリクスは当時は珍しい、解放奴隷から高官に昇った人物で、しかも妻はユダヤ人だった。

使徒言行録24章24節:フェリクスはユダヤ人の妻ドルシラを伴って現れ、パウロを呼び出し、キリストへの信仰について話を聞いた

 だがフェリクスはパウロがキリスト教の倫理面を語りだすと、関心を失ったらしい。ただ、エルサレムの社会不安が悪化するのを恐れて、パウロを拘留するにとどめた。二年が過ぎると、フェリクスはローマ皇帝の宮廷で政治的な後ろ盾を失い、総督の地位を解任されてしまう。新総督として赴任したのがポルキウス・フェストゥスで、パウロの裁判をあらためてエルサレムで行うことを考えた。だが、パウロは、エルサレムで裁判を行えば、ユダヤ人が強硬に彼の処刑を要求し、三十二年前のピラトと同じく、フェストゥスも抗しきれなくなることを恐れ、ローマ市民の自分には皇帝に直訴する権利があると主張した。そうなるとフェストゥスもどうすることもできず、ついにパウロをローマへ行かせることになった。これがパウロにとっては四度目の伝道の旅となり、彼は再びアジアへ戻ることはなかった。パウロを乗せた船は、何度も嵐に襲われながら、クレタ島、マルタ島、シチリア島を経由してイタリア半島に達し、六二年、ついにパウロはローマに到着した。

 パウロの皇帝への直訴がどうなったのかは記述がない。二年後の六四年に、

使徒言行録28章31節:誰に妨げられることもなく、自信をもって神の王国を説いていた

 と、彼がローマの地で布教活動をしていることを記して、使徒言行録は終わっている。実は、この年こそネロ皇帝によるキリスト教徒弾圧の年で、いわばそれが起こる直前の、パウロの伝道活動が最も成果を上げた時点を選んで、著者のルカは筆を置いたのではなかろうか。パウロの死は三年後の六七年と伝わる。イエスが十字架にかかってから三十八年、パウロがキリスト教に転じてから三十三年が経っていた。パウロが登場したとき、キリスト教はエルサレムに残ったわずかな弟子たちが奉じる、いつ消滅してもおかしくない弱小宗派だった。それが今や、キプロス、小アジア、マケドニア、ギリシャの各地に力強く布教を行う教会がたち、その信徒は帝都ローマにまでいた。それを実現したのは、タルサスのサウルとして生まれ、聖パウロとして生涯を終わった、驚嘆すべき一人の人物だったのである。


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