Web Forum
[記事リスト] [新規投稿] [新着記事] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]

投稿日: 2016/02/28(Sun) 21:58
投稿者Ken
Eメール
URL
タイトル書簡集

『ローマの信徒への手紙』

 使徒言行録の次に収録されているのが、各地の教会や個人へ宛てた合計二十一通の手紙で、うち十四通はパウロが書いたとされる。書かれた順番ではなく、長い手紙から順に並べられており、最も長いローマの信徒への手紙が最初に来る。パウロの見解が最も詳しく述べられ、かつ帝都の信者へ向けた手紙であることも、最初に置かれた理由だろう。執筆時期は明記されていないが、

ローマの信徒への手紙15章25節:今、私は聖者たちを手伝うために、エルサレムへ向かう
ローマの信徒への手紙15章26節:なぜならマケドニアとアカイアの人々は、エルサレムの貧しい聖者たちを助けることを喜んでいるので

 というくだりは、使徒言行録に記載のある、三度目の旅からの帰途、マケドニアとギリシャの豊かな教会からエルサレムの貧しい教会への援助を届けたことと一致するので、この手紙は五八年に書かれたと思われる。冒頭で、手紙の著者と宛て先が明示される。

ローマの信徒への手紙1章1節:イエス・キリストに仕え、使徒と呼ばれるパウロより、
ローマの信徒への手紙1章7節:聖者と呼ばれる、ローマのすべての人へ

 まだパウロ自身はローマを訪れていないが、ユダヤ人は帝国各地に居住し、エルサレムへ巡礼するから、キリスト教の教義を覚えて帰った者もいたろうし、ローマ在住者の中から信徒が生じたのだろう。パウロがローマへ到着するのは、この手紙から五年後である。

 パウロは手紙の中で、この時期の最重要問題を論じている。異邦人がキリスト教に入信するとき、割礼を含めて律法が定める儀式に従わねばならないのか。

 律法に対するパウロの姿勢は、かつての神殿に対するエレミヤの姿勢と同じであった。割礼をすれば十分と考えるのも、逆に割礼をやらねばそれだけで駄目と思うのも、誤解であるという。

ローマの信徒への手紙2章25節:法を守る者には割礼は役立つが、法を破る者には割礼は意味がない
ローマの信徒への手紙2章26節:よって、もし割礼をしない者が正しい法を守るなら、割礼の有無にこだわる必要はない
ローマの信徒への手紙2章29節:その者は内なるユダヤ人で、心の中で割礼を行っているのだ

 そして、キリストの教えに従うなら、最も大切なのは倫理であるという。

ローマの信徒への手紙6章15節:我らが法ではなく、神の慈悲の下にいるから、罪を犯してよいことになろうか、そんなことは神は禁じている

 パウロは、ユダヤ人が異邦人の信徒に寛容であるべきと説くことが多いのだが、彼自身がユダヤ人であることは、常に意識していたようだ。

ローマの信徒への手紙11章1節:では言おう、神は自分の民を見捨てたか? それは神の意思ではない。私はイスラエル人、アブラハムの裔、ベニヤミン族

 とくにローマでは異邦人の信徒の方が優勢だったので、むしろ異邦人信徒がユダヤ人信徒に寛容であってほしいと、パウロは訴えている。

ローマの信徒への手紙14章13節:お互いに相手を裁かぬようにしよう
ローマの信徒への手紙14章14節:本質的に穢れた存在などはなく、ただ穢れていると思っているだけなのだから

※ローマの信徒への手紙についてのアジモフの記述は、このようにユダヤ人と異邦人の宥和を訴える箇所と、あとは手紙に登場する個人名についての考察からなる。意外なのは、神学的教義に関する記述がなにもないことだ。この手紙こそ、パウロの教義が最も明確に述べられていると、多くの研究者が指摘するのに。

 そもそも「キリストの教え」として、現在世界中の教会で語られる思想は、真にイエスが唱えたことなのか、それともパウロが唱えたことなのか、議論が費やされてきた。神の意思に従って正しい人生を送ることを求めるのは、両者に共通する。異なるのは、イエスは人間の努力でそれが可能とするのに、パウロは人間の独力で罪を克服するのは不可能ということだ。

ローマの信徒への手紙7章18節:良いことはせず、やってはいけない悪いことは、やってしまう

 そのような人間は、捨て置けば全員が地獄へ落ちるからこそ、キリスト(救世主)が必要なので、神の子は、当然人間が受けるべき罰を、人間の身代わりに受けてくれたと教会は教えてきた。その最大の論拠がローマの信徒への手紙なのに、アジモフは何も言わない。

 もちろん、アジモフは無神論者だから、このような思想にはまったく同意できないであろう。しかし、それならパウロの教義を紹介した上で批判を加えればよいので、これほど人類史に巨大な影響を与えた教義の説明を忘れるのは、アジモフ先生の手抜かりと言わざるをえない。※



『コリントの信徒への手紙一』

 コリントの信徒への手紙は二通が収録されており、一通目の長さはほとんどローマの信徒への手紙に匹敵する。コリント教会は、五一年、パウロが二度目の伝道旅行の途上で創設した。三度目の旅のとき、パウロは五五年から五七年までエフェソに滞在し、その間にこの手紙を書いたのは、次の一節から明らかだ。

コリントの信徒への手紙一16章8節:私はペンテコステまではエフェソに留まるつもりだ

 書き出しで、送り主の名が記されている。

コリントの信徒への手紙一1章1節:使徒と呼ばれたパウロ、我が兄弟のソステネス、

 このソステネスは、使徒言行録で、集団暴行を受けたことが記録されている人物だ。

使徒言行録18章17節:ギリシャ人たちは、シナゴーグの長のソステネスを捕らえ、裁きの場の前で、殴りつけた

 ここで「ギリシャ人」というのは、明らかに誤訳で、ここはユダヤ人でなければ意味が通らない。この時、ユダヤ人たちはアカイア総督のガリオの手でパウロを断罪させようとしたが、ガリオは、パウロのことはユダヤ人の問題だからと、関わりを拒否した。憤慨したユダヤ人たちは、彼らの指導者ソステネスがキリスト信者に断固とした姿勢で臨まないからこういうことになるのだと言いがかりをつけ、彼を集団リンチにかけた。バイブルに記述はないが、このソステネスは、やがてキリスト教に改宗してパウロの伝道仲間になったという。コリントの信徒へ送る書状の送り主が、パウロとソステネスの連名になっていても、不思議はない。

 手紙の文面からすると、どうやらこの頃、コリントの教会では内部対立があったらしい。

コリントの信徒への手紙一1章12節:諸君のそれぞれが、自分はパウロ派とか、自分はアポロ派とか、ペトロ派だ、キリスト派だと言っている

 キリスト派とは、伝えられるイエスの言葉だけに固執し、使徒をまったく認めない者をいう。それ以外は、それぞれ支持する使徒の教えを重んじる者だが、この場合とくにユダヤの伝統に重きを置く保守派がペトロを、その反対がパウロを支持したのだろう。アポロは洗礼者ヨハネの教えを奉じていたが、エフェソへ来てからキリスト教に改宗した人物だ。やがて彼はギリシャへ行き、アカイアやコリントで伝道活動をした。現存するどの文章からも、アポロとパウロの主張がどう違っていたのか分からない。支持者同士の派閥争いだったのかもしれない。パウロ自身は終始アポロを賞賛しているのだ。

コリントの信徒への手紙一3章6節:私が種を蒔き、アポロが水をやった

 パウロが男女関係について語った部分がある。基本的には、あまり肯定的には捉えていないが、正式な婚姻関係を結ぶことは、無制限の欲望に駆られることを制御できるので、それ自体は罪ではないという。ただ、多くのキリスト教徒と同じく、パウロもまた救世主の再臨と世界の終末は近いと信じていたから、急いで結婚しても意味がない、という立場だった。

コリントの信徒への手紙一7章29節:だが言おう、兄弟たちよ、時間はあまりない、
コリントの信徒への手紙一7章31節:この世のことは過ぎ去ってしまうのだ

 この世はじきに終わるが、キリストは再臨し、死者は甦って永遠の命を得る。だからこそ、今を正しく生きねばならない。わずかな時間の人生だけがすべてなら、でたらめでも楽しければよいではないか。このようなキリスト教の根本思想が、はっきりとした言葉で語られている。

コリントの信徒への手紙一15章32節:エフェソの獣のような者たちと戦ってきたが、もし死者が復活しないのなら、それに何の意味があるか、どうせ遠からず死ぬのだから、食べて飲んでおればよいではないか



『コリントの信徒への手紙二』

 コリントへの最初の手紙が送られた時、パウロは手紙を届ける一行に愛弟子を同行させたようである。

コリントの信徒への手紙一4章17節:この目的で、わが愛する息子テモテウスを派遣する。彼は、私がどこの教会でも教える私の道を忘れないための助けとなるだろう

 パウロがテモテをコリントへ送ったことは、使徒言行録に記載がある。

使徒言行録19章22節:パウロはテモテウスとエラストスの両名をマケドニアへ派遣したが、彼自身は、季節が変わるまでアジアで過ごした

 また、パウロ自身もやがてコリントを訪れる意思を表明している。

コリントの信徒への手紙一16章5節:私も、マケドニアを通過する時、諸君の所へ立ち寄るつもりだ
コリントの信徒への手紙一16章6節:あるいは、一冬を過ごすかもしれない

 これも使徒言行録に記述がある。銀職人の暴動のあと、

使徒言行録20章1節:パウロは、マケドニアへ向けて出発した
使徒言行録20章2節:そしてこれらの地域を通過した時、ギリシャへ入った
使徒言行録20章3節:そして三か月滞在した

 三か月滞在したなら、パウロの二度目のコリント訪問時のはずである。

 コリントへの二度目の手紙が書かれたのは、五七年にパウロがコリントへ向かう途上だったのは明らかで、二通ともローマへの手紙よりも前に書かれたことになる。コリントへの旅については、

コリントの信徒への手紙二13章1節:諸君を訪問するのはこれが三度目だが

 三度目ということは、使徒言行録に記載された二度のコリント訪問の間に、もう一度訪れたことになる。おそらくテモテの活動は成功とはいえず、コリントのキリスト教徒は、パウロ以外の使徒たちから影響を受けていたのだろう。それでパウロが自ら乗り込んだが、やはりうまくはゆかなかったとみえる。

コリントの信徒への手紙二2章4節:心に激しい悲しみと苦悩をもち、涙ながらに手紙を書いた

 涙ながらに書いたのが、コリントの信徒への手紙二の、最後の四章であろう。

 結果的には、パウロの怒りの書簡をコリントへ運んだテトスが朗報をもたらした。コリント教会はパウロの主張に従うことになったようなのである。テトスが戻ってそのことをパウロに伝えた。

コリントの信徒への手紙二7章6節:神は私を安らかにさせるため、テトスを戻らせた
コリントの信徒への手紙二7章7節:戻らせただけではなく、彼が諸君と安らかな仲になったときいて、私の心も安らいだ
コリントの信徒への手紙二7章9節:諸君が悔いていることを、私は喜ぶ

 コリント教会が「悔いている」とは、パウロを怒らせた者たちが処罰を受けたことを意味するのだろう。コリント教会との間に恨みを残さないためにパウロが書いたのが、コリントの信徒への手紙二の、初めの九章と思われる。その後、パウロがコリントを訪れたのは、周知のとおりである。



『ガラテヤの信徒への手紙』

ガラテヤの信徒への手紙1章1節:使徒パウロから、
ガラテヤの信徒への手紙1章2節:ガラテヤの教会へ

 まず注意を要するのは、ガラテヤとは正確にはどの地を意味するかだろう。本来のガラテヤとは、その名の由来であるゴール人がパウロより三世紀前に定住した、小アジア北部の地域である。そしてパウロより一世紀前にローマが小アジア全土を征服して、その全体を「ガラテヤ州」とした。使徒言行録にパウロが訪れた町の名としてデルベやルステラが記載されているが、これは小アジア南部の都市なので、パウロがいうのは広い意味のガラテヤで、帝国のガラテヤ州のことだろう。

ガラテヤの信徒への手紙4章13節:私が一回目の時に、病をおして福音を説いたことは、覚えておられよう

 「一回目」というからには、この手紙を書いた時点で、すくなくとも二回目があったのだろう。パウロは最初の伝道旅行で、往路と復路の二度ガラテヤを訪れているから、この書簡は最初の旅の後、四七年以降に書かれたと思われる。また、

ガラテヤの信徒への手紙2章11節:ペトロがアンティオキアへ来たとき、私は彼と対決し、

 このペトロとの「対決」は、異邦人の入信に割礼を課すべきかをめぐる論争だが、この問題に裁定を下した四八年のエルサレム会議への言及がないので、この手紙が書かれたのはその前、おそらく四七年だろう。だとすれば、現存するパウロの手紙の中で、というより新約聖書の文書の中で、最も早く書かれたことになる。

 異邦人の割礼をめぐって各地の教会が紛糾していた時期であり、ガラテヤ教会には強硬な保守派が多かったことは、パウロが二度目の伝道旅行のとき、この地で弟子になったテモテに、割礼を施すように勧めたことからも見てとれる。

 もっとも、こういう記述もある。

ガラテヤの信徒への手紙2章9節:ヤコブ、ペトロ、ヨハネは、私とバルナバに承諾を与え、我らは異教徒を、彼らは割礼をした者を担当することになり、

 これだと、割礼なしに異邦人を入信させることに、エルサレムの保守派が既に同意しているようにとれるので、エルサレム会議の後に書かれたことが考えられる。パウロのいう二度のガラテヤ訪問が、彼の二度の伝道旅行を意味しているなら、ガラテヤへの手紙が書かれたのは、五一年頃まで時期が降る。それでもエルサレム会議への言及がないのは、ペトロたちガリラヤ人使徒の承諾つまり彼らの権威に頼っているようにみえるのを避けるためかもしれない。なにしろパウロは、彼は他人の意思に従って行動しているのではないと、誇り高く語っているのだから。

ガラテヤの信徒への手紙1章1節:人ではなく、イエス・キリストと父なる神から命を受けた使徒パウロ、
ガラテヤの信徒への手紙1章12節:私の教義は他人から教わったものではなく、イエス・キリストの啓示によるものだから



『エフェソの信徒への手紙』

 最初の四つの手紙(ローマ、コリント一、コリント二、ガラテヤ)をパウロが書いたのは疑問の余地がないが、五つ目のエフェソの信徒への手紙の著者については議論がある。もっとも、冒頭ではパウロの手紙だと言ってはいる。

エフェソの信徒への手紙1章1節:イエス・キリストの使徒パウロから、エフェソの聖者たちへ、

 しかしながら、手紙全体の用語や文体から、別人の作ではないかと疑われている。例えば、特定の個人へ宛てた挨拶がないのも、他の手紙と異なる。手紙を届けたのは、ティキコスという人物だという。

エフェソの信徒への手紙6章21節:愛すべき弟、主の忠実な下僕のティキコスが、諸君に伝える



『フィリピの信徒への手紙』

 この手紙は、ローマから送られたらしい。

フィリピの信徒への手紙4章22節:聖者たち全員が挨拶を送る、とりわけ帝室に仕える者たちが、

 帝室に仕える者たちがキリスト教に改宗した宮廷奴隷だとすれば、この手紙が書かれたのは、パウロがローマに到着した六二年より後。ただしネロ帝がキリスト教徒を迫害した六四年以降は、宮廷に信者がいたはずがないので、この間の期間であろう。

 手紙は、このように書き出している。

フィリピの信徒への手紙1章1節:パウロとテモテより、司教および助祭と共にいる、フィリピのすべての聖者たちへ、

 フィリピはマケドニアの町で、パウロがヨーロッパで最初の教会を建てた地でもある。その教会には、司教と助祭がいたらしいが、はたして後世のカトリック教会におけるような絶大な権威をもつ聖職者が、この時代の教会にすでにいたのだろうか。そうではなく、使徒たちの仕事を手伝う長老とその助手という程度の意味だったのだろう。長老といっても老人とは限らない。平均寿命が三十五歳くらいの時代には、四十を越えれば長老と見なされたはずである。

 フィリピの信者たちはパウロに援助をしていたようだ。

フィリピの信徒への手紙4章18節:諸君が送ってくれた物資を、エパフロディトスから受け取った


『コロサイの信徒への手紙』

コロサイの信徒への手紙1章1節:パウロと、テモテから、
コロサイの信徒への手紙1章2節:コロサイの聖者たちへ、

 コロサイの名は使徒言行録に登場せず、パウロが訪れたことがない町と思われる。エフェソより二百キロほど東に位置し、ペルシャ帝国時代は商業都市として栄えたが、アレクサンダーの征服後は衰退した。コロサイ教会を設立したのは、パウロの仲間だった。

コロサイの信徒への手紙1章7節:我らの愛すべき仲間、キリストの忠実な下僕、エパフラスのことを覚えておられよう

 パウロが手紙を送ったのは、コロサイでグノーシス主義が影響を増していると知らされたからだった。コロサイの信徒の中には、天使には非常に多くの階層があり、イエスなどは下級の天使に違いないと考える者がいたようだ。パウロは雄弁に駁し、イエスを超えるものなどありえないと論じたてた。

コロサイの信徒への手紙1章15節:イエスは、目に見えない神が姿をえたもの
コロサイの信徒への手紙1章16節:万物を創ったのはイエスである、天のものも、地のものも、見えるものも、見えないものも、朝廷も、王国も、公国も、藩国も、すべてはイエスが、イエスのために造られたのだ

 朝廷、王国、公国、藩国とは、天使の階層に付けられた名称である。

※原文では、thrones、dominions、principalities、powersと、政治単位として上位のものから下位のものへと順に並べ、階層を表現しているので、上記のように日本語化した。日本聖書協会のサイトでは、王座、主権、支配、権威となっているが、どうであろう。これでは、階層の意味がうまく伝わらないのではないだろうか※

 パウロは、このような天使の階層を想像することを戒めた。

コロサイの信徒への手紙2章18節:天使を拝したり、見たこともないものに踏み込んだり、しょせんは肉体の中の精神に想像させたり、そういうことをしないように、

 もっとも後世のキリスト教は、パウロが否定した天使の階層を大量に教義に取り入れてしまった。想像された階層の名称には、セラフィム、ケルビム、大天使、天使といった旧約聖書に記載があるものと、朝廷や公国のようにグノーシス主義に由来するものがある。

 パウロは、彼と一緒にいる仲間の名も挙げている。

コロサイの信徒への手紙4章10節:我が囚われの仲間アリスタルコスも挨拶を送る、バルナバの甥マルコスも、

 マルコスはヨハネ・マルコのことだろうから、どうやらパウロと仲直りしていたようだ。アリスタルコスはパウロがエフェソで銀職人の暴動に襲われたとき、彼と一緒にいた仲間である。そのあとも、マケドニア、ギリシャ、アジアそしてエルサレムまで、パウロに同行し、やがてローマへ旅立つ時も一緒だった。

 同じく、パウロと一緒にいたのがルカとデマスである。

コロサイの信徒への手紙4章14節:愛すべき医者のルカとデマスも、

 だが、デマスは殉教の危険を伴う伝道活動に耐えられなかったらしい。のちの書簡で、パウロを見捨てたことが語られているのである。

テモテへの手紙二4章10節:デマスは今のこの世を愛するあまり、私を捨て、テサロニケへ去ってしまった



『テサロニケの信徒への手紙一』

 パウロとシラスは、二度目の旅の途上でテサロニケを訪れたが、現地のユダヤ人社会から異端者として叩き出された。それでも異邦人のための教会はできており、パウロの手紙が送られた。

テサロニケの信徒への手紙一1章1節:パウロ、シルバヌス、テモテウスからテサロニケの教会へ

 手紙が書かれたのは、パウロがアテネを去り、コリントに滞在していた時期なので、五〇年頃と思われる。ガラテヤの信徒への手紙が四七年に書かれたという説には賛否があり、このテサロニケへの最初の手紙が、現存する最古のパウロの著作と考える研究者も多い。

 パウロはテサロニケの信徒の信仰心を讃えているが、大半が異邦人の教会は、元々ファリサイ派のユダヤ教徒が考え出した、復活と最後の審判の教義には不案内だった。そこでパウロは、印象に残る表現で説明をしている。

テサロニケの信徒への手紙一4章16節:大天使の声と神のラッパとともに、主その人が声を上げて天より降り、キリストを奉じる死者がまず甦る
テサロニケの信徒への手紙一4章17節:そして我ら生きる者は、雲の中で彼らと一緒になり、空で主とまみえる

 「我ら生きる者」が復活したイエスとまみえるといっているのは、パウロが自分が生きている間にそれが起こると信じていたことにほかならない。それでも時期の明言はできないと、慎重な態度をとることも忘れない。

テサロニケの信徒への手紙一5章1節:その時期については、兄弟らよ、私が書き記す必要はない
テサロニケの信徒への手紙一5章2節:なぜなら、諸君も知るとおり、主の日は夜盗のようにしのび来るのだから


- 関連一覧ツリー (★ をクリックするとツリー全体を一括表示します)

- 返信フォーム (この記事に返信する場合は下記フォームから投稿して下さい)
おなまえ
Eメール 非表示
タイトル
メッセージ    手動改行 強制改行 図表モード
URL
パスワード (英数字で8文字以内)
プレビュー

- 以下のフォームから自分の投稿記事を修正・削除することができます -
処理 記事No パスワード

- Web Forum -