フェルナン・メンデス・ピント
「嘉靖大倭寇」の時代に東アジアで活動していたポルトガルの冒険商人。本国に帰ってから著した「東方遍歴記」で知られている。ただし、この著書、あとで触れるように「ホラ話」の塊とも言える奇書のため、この内容をそのまま信じるわけには行かない。しかし彼がまさに「嘉靖大倭寇」の時代に日本・中国を往来し、そして「倭寇」と何らかの繋がりがあった可能性は否定できない。

彼の話によれば、彼が故国ポルトガルを出てアジアの海に乗り出したのは1537年ごろの事だという。その後インドのゴアから東南アジアのマラッカに進出、初めは東南アジア各地で冒険と商売に励んでいた。「遍歴記」ではとにかく航海に出ては難破やら海賊の襲撃やらに見舞われっぱなしで波瀾万丈の極地であるが、むろん全面的に信用は出来ない。やがてイスラム海賊「コージャ・アセン」と死闘を繰り広げ中国沿岸に到達、ここで中国人海賊と関係を持った事が記されているが、これもホラ話らしい。ただし「コージャ・アセン」自体は十年ほど前に実在しており、それを自分の冒険譚に組み込んでしまったものらしい。彼の記述にはこの種の「元ネタのあるホラ話」が頻出する。

この手のホラ話で有名なのが「鉄砲伝来」の一件で、彼は自分が種子島に到達したポルトガル人の一人であると主張している(種子島側の記録に彼の名はない)。またその後豊後の大友宗麟のもとに行き、宗麟の弟が鉄砲の事故で負傷した際、これを治療したとも書いている(事件は実際にあったが、治療したポルトガル人は別人であることが判明している)。また、後にザビエルに日本渡航を決意させるアンジロウ(ヤジロウとも)を薩摩から逃亡させたのは自分だとも記している(アンジロウの書簡にピントに関する言及はない)

万事この調子である(笑)が、彼が日本にもっとも早く到達した西洋人の一人であることを疑う者はいない。「遍歴記」の魅力は事実関係よりも、実際に大倭寇の世界を生きた冒険商人が語る「混沌」のリアリティと言って良い。彼が記す双嶼港や平戸・豊後の実態や実際の航海・戦闘の描写は実際に見聞した者でなければ描けない生々しさがある。彼が日本・中国を往来していた時期はちょうど王直が海上を制覇していく時期に重なり合う。活動地域もほとんど同じで、「遍歴記」に王直とおぼしき人物が登場しないのが不思議なほどだ。

しかし「遍歴記」に記されていない実像のピントはまさに「小説より奇」である。少なくとも1540年代末には貿易にかなりの成功を収めて富を得ていた。その証拠に彼は日本へ渡航するフランシスコ=ザビエルに金を貸しているのである。この事実はザビエルのローマに送った書簡で判明している。
その後ザビエルが1552年に中国沿岸で死去し、数ヶ月後にピントは遺体に対面した。ザビエルの遺体がまったく腐らないという奇跡を目の当たりにしたピントは感動し、突然全財産をなげうってイエズス会に入会するのである。そして日本布教の先兵として活躍してしまう。(あのルイス=フロイスもピントに接触している)。

しかし宗教家になるのも突然だったが、やめてしまうのも突然だった。布教者として1556年に日本に渡航したピントだったが、突然姿をくらましてしまうのである。この辺りの事情は全く不明だが、何か彼が不祥事をやらかしたのではないか、という見方は出来る。その証拠としてイエズス会の関係文書にピントの名は一切見つからず、あったとしても線で削除されているという。イエズス会はなぜかピントを記録から抹殺したかったようだ。もっとも晩年のピントにイエズス会は記録整理のために接触しているというから、完全に縁が切れていたわけではないらしい。
ピントはその後帰国し、アジアの海を離れた。奇しくもその時期は王直が海上世界から退場していく時期と一致する。帰国後のピントは「遍歴記」を執筆し(出版されたのは彼の死後だが)、莫大な遺産を子らに遺したという。


主な資料
ピント「東洋遍歴記」(岡村多喜子氏の邦訳が平凡社・東洋文庫から全3巻で出ています)

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