海上史論文室
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16世紀「嘉靖大倭寇」を構成する諸勢力について
(その2)
(1)江南地方在地人の参入による「倭寇」規模の拡大
一般に「嘉靖大倭寇」と呼ばれる「倭寇」の大侵攻活動は嘉靖3 2年(1553)から開始されると見てよい。むろんそれ以前にもいくつかの「倭寇」あるいは海寇の寇掠活動が見られるが、『世宗実録』や『嘉靖東南平通録』『倭変事略』といった史料の倭寇記事はいずれも嘉靖32年の2〜4月から連続かつ多発的な寇掠活動が開始されたことを記している。
『世宗実録』ではこの年の閏三月甲戌の記事で「海賊汪直、ショウ[シ章]・広の群盗を糾し、各島の倭夷を勾集して大挙入寇す。連艦百余艘、海を蔽うて至る」
と記し、この記事を受けた『明史』日本伝などでもこの年の閏三月をもって王(汪)直が海賊・倭人を糾合して大群で押し寄せてきたかのように記している。王直とは言うまでもなく徽州出身の密貿易商人の大物であり、対抗勢力を打倒して当時の海上において並ぶもののない威勢を誇っていた。しかしこの「大倭寇」が始まる年の3月に王直は密貿易の拠点としていた舟山群島の烈港を官軍に急襲され、烈港を破壊されて自らはかろうじて逃亡している。まさにその直後から始まる「大倭寇」の原因がこの官軍の攻撃にあるのは間違いなく、王直自身が直接関わっていたかには疑問もあるが、その配下にあった者の一部が報復的に寇掠活動を行ったということは容易に想像がつく。
しかしこの『実録』の記事は後年王直が倭寇の首魁として断罪された以後に編集された疑いが強いものであり、およそ実態を記しているとは思われない。少なくとも「海を蔽うて」というような大挙襲来でなかったことは現地の史料などからも明白である。
特に海塩県における倭寇活動を詳細につづった『倭変事略』によると、この年に海塩周辺に出現した「倭寇」の規模について、4月に最初に上陸したものが40名、5月に7隻の船に分乗した数百人の集団があり、同じ月に海寧方面からの「流賊」70余名、8月に「三倭船」に乗った200人、などが記されており、いずれもせいぜい数十人単位の集団が複数横行し、合わせても数百人といった程度の規模に過ぎない。同じ傾向は同時期のより広い地域を扱っている『嘉靖東南平倭通録』にも見え、こちらではこの年の4月に呉淞・南匯所などを襲った蕭顕率いる集団について400人という規模を記し、海塩・平湖を攻撃した「失船倭」については40人と記している。こうした数十人単位、糾合して数百人といった「倭寇」集団の規模の由来は恐らく船一隻の乗員数と関係があると思われる。
ところで「倭」や「賊」など様々な表現をされているこれら「倭寇」集団が、実際に日本から来た「真倭」を中心としているとはこれら史料の記録者たちも見なしてはいなかった。『倭変事略』では最初に海塩沿海に上陸した「倭寇」が「日本人」の漂着者を装ったことを記しているが、その後これら「倭」が立ち去った廟堂の壁に漢詩を書きつけていった者があったことを記して「多くは中国不逞の徒に由り、衣冠失職の書生の志を得ざる如きの者、其の中に投じ、これの奸細と為る」という鄭端簡らの意見を紹介して「この四十賊を観みるに亦た能く題詠する者あり。則ち乱を倡える者はあに真倭の党なりや。厥の後、徐海・王直・毛烈ら並べて皆華人なり。信ず可し」と、これら「倭寇」の多くが「華人」であったことを示唆している。
当初は小集団であった「倭寇」が急速に規模を拡大していったことについては『嘉慶松江府志』巻三十五武備志・兵事に「徐御史宗魯、倭変始末を論ず」として以下のような文がある。
寇起こりて四年、初めは十を以って計う。漸く数百数千の衆きに至る。今則ち聚りて幾万を為す。始め一方を寇して沿隣邑旁郡の間に次り、猶お顧忌を懐く。今歳は則ち浙の東西、江の南北に満つ。名は倭寇と雖も実はショウ泉寧紹の民の勾引して乱を為す。今歳は客兵の附党、郷民の投入多し。昔は但だ剽掠して毎ごとに郊野海浜の区に竊窺し、飽けば即去せんと欲す。今歳は則ち郡邑の城池を攻め腹裏の内地に拠る。
「寇起こりて四年」とあることから、嘉靖31年から四年後の嘉靖35年(1556)ごろの文であると思われる。実際、嘉靖35年ごろは徐海らによる数万単位の倭寇集団が江南地方を荒らしまわった、「後期倭寇」の最盛期とも言える年である。この段階において徐宗魯は「倭寇」が当初は「十を以って計う」ほどの小集団であり、各地を転々と寇掠する程度の活動であったと述懐している。こうした「大倭寇」当初の「倭寇」の小集団・散発的な活動ぶりは『倭変事略』等が記す具体例とも一致しており、実態を正確に描写したものであると思われる。
この文の中で徐宗魯もこうした「倭寇」集団について名は「倭寇」と言いながら(この一節で当時実際に人々がこれら海寇を「倭寇」と呼んでいた事が確認できる)
実際にはショウ州・泉州・寧波・紹興の民が勾引したものであるとの認識を示している。「ショウ泉寧紹の民」は前章で触れたように当時一般に密貿易に携わっていると思われていた人々であり、密貿易活動が「倭寇」の呼び水になっていること、そして「倭寇」自体にも彼らが多く参加していたことをうかがわせている。
しかし「今歳」になって「倭寇」集団が次第に数万に至るほど数を増し、浙江の東西、江南・江北に満ちるほどに成長し、さらにはその活動の形態自体が内地に拠点を構えた大規模なものへと変化していったことについて、他地方から鎮圧のためにやってきたはずの「客兵」の「附党」やその地域の「郷民」の「投入」といった「倭寇」勢力への新規参加がその要因であると徐宗魯は言う。彼らは本来密貿易とは直接的な関わりは無く、「大倭寇」の寇掠活動に初めから関わっていたわけではないが、次第にこれに加わっていったなぜなのか。これをいくつかのケースに分けて以下に考察する。