海上史論文室
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16世紀「倭寇」を構成する人間集団に関する考察−倭と日本人の問題を中心に−
(その4)
(4)「後期倭寇」における風俗と言語
(a)風俗=コン[髪+几]頭・推髻・左衽
明沿岸を襲った「後期倭寇」において、その容姿的特徴として大きく頭部を剃り上げた、日本で言うところの月代(さかやき)が挙げられる。この独特の頭部の外見は「倭」の特徴として広く知られていたようで、各種の倭・日本の風俗を述べ文献には「コン首」「コン頭」「コン髪」といった表現で多く言及が為されている。さらには『洋防輯略』広東防海略には福建・浙江の出身者が「倭寇」に加わっていた場合について、
ビン[門+虫]浙通番の徒、頂前剪髪・椎髻向後し、以てこれに従う。然れども髪根は断たず、真倭の禿者とは自ずから別あり。
とし、彼らが「真倭」に偽装する場合にやはりこの髪型にするケースが多かったことが知られる。一方で官軍の側も地域の住民で頭髪の薄い者の首をとったり、あるい地域住民の頭を剃って倭人に見せかけ戦果を誇大に報告するなどの行為が少なくなかったことが石原道博氏の研究でも詳しく触れられていることからも、倭寇・倭人=コン頭というイメージが当時一般化していたことがうかがえる。
先に引いた『倭変事略』の冒頭、嘉靖三十二年四月に「日本人」を名乗って海塩に上陸した倭寇たちは「コン頭」であった。これが「真倭」であったのかそれとも華人であったのか『倭変事略』の著者も判然とさせていないが、「鳥音」を話したとあるからその全てが偽装ではなかったのではないかと考えられる。同じく『倭変事略』嘉靖三十五年八月十一日・十二日の記述では勢力を失い平湖沈荘に逼塞しつつあった徐海が宴席を設けて近隣の壮夫二、三百人を集め、
酒半ばにして、刀を出して髪を剪し、其の首をコンし、咸(みな)刧して用と為す。
という行為に及んだとある。ここで徐海(彼自身は徽州出身で杭州で僧をしていた明白な明人である)たちが強制的に地域住民を自分たちの手先として組み入れた際にやはり頭髪を切り頭を剃り上げていることは、徐海の率いる集団の構成員がそのような髪型をしていたことを示している。
徐海の率いる集団はその副将が辛五郎という日本人であったことにもうかがえるように比較的日本人の比率の高い集団であった可能性がある。『籌海図編』寇踪分合始末図譜にも徐海が和泉・薩摩・肥前・肥後・津州(博多津?摂津?)・対馬の諸倭を率いたとされ、『日本一鑑』流逋にも徐海の集団に「和泉細屋」「日向彦太郎」といった日本人が加わっていたことを記しているうえ、『倭変事略』に載る王直上疏文にも恐らく徐海らのことを指すと思われる「菩薩未散之賊」という表現があり「菩薩」は「薩摩」の誤と思われることからやはり徐海集団がかなり「真倭」色の強い集団であったことをうかがわせている。そうした集団においては恐らくその大半が「コン頭」していたと考えられ、これに新たな人員を強制的に加えるにあたって同じ外見を強制したものであろう。
同様に「倭寇」が地域住民を捕らえて「コン頭」した実例としては『乾隆重修潮州府志』巻三八・征撫に
倭寇は果たして尽くは日本に属するに非ず。大抵多くショウ[シ+章]・泉の流賊残倭を挟んで以て 酋長となし、遂にその名号によりて以て徒衆を鼓舞し、至るところ郷寨を破り、尽くその少壮なる者を収めてこれをコンす。これを久しくすれば倭と異なる無し。
という記事も挙げられる。徐海集団の場合は間もなく彼らが滅亡してしまうためにコン頭を強制された者たちがそのまま「倭寇」化した可能性は低いが、『潮州府志』に見えるようにそのまま長期にわたってコン頭し行動を共にしているうち「倭寇」化してしまう沿海住民は少なくなかったのかもしれない。
「倭寇」における最大の集団を率い、後世「倭寇王」なるイメージで語られることになった王直その人についても『籌海図編』巻九・大捷考所収の「擒獲王直」には総督胡宗賢に派遣された蒋洲らに五島で面会した王直が「椎髻左衽」といういでたちであったことが記されている。「椎髻左衽」は北方民族の身なりを念頭に置いた異民族の身なりを表す古典的常套表現であるが、ここでこの表現が使われていることは王直もまた彼の出身である中国のそれとは異なる「倭風」の外見をしていたということを示していると見ることも出来るのではないか。このことは想像を膨らませれば、王直のような明の出身者でも「倭」の世界の住人となるためにその外見をも「倭」のものに変える必然性があったということを示しているとも思える。そしてこのことは村井章介氏らが対馬・済州島周辺の海民に関して「倭人」の共通のいでたちとして「倭服」を想定し、「倭語」と共にそれを身につけることによって「帰属していた国家や民族集団からドロップアウトし、いわば自由の民として転生できたのではないか」と指摘した(21)
ことと呼応しているとも思えてくる。
(b)言語
筆者はこれまでに後期倭寇に関する発表を行うたびに「民族混合の集団であった倭寇の中ではどのようにして意思疎通を行っていたのか」という質問を受けてきたが、これに対する明確な回答をいまだに得られていない。倭寇・海寇活動と直接関わるものではないが、先にも触れた官軍による双嶼港攻撃時に捕縛されたポルトガル人に雇われていた「黒鬼番」沙哩麻喇らは中国語を話したと見られ(22)
、また同じ双嶼攻撃時に日本人稽天・新四郎について証言をしたのは「能く夷語を諳んじ」ていた周富一なる「附近民人」であった(23)
。密貿易の一大拠点であった舟山群島の双嶼港にはこうした多言語を操る人間達が多く存在していたであろう事は容易に想像できるところである。
その一方で密貿易から離れて実際に海寇活動を行った「倭寇」たちについてであるが、数多くの倭寇関係の史料中に彼らの言語に関する記述は決して多くはない。ここでは特に倭寇に参加していた日本人の言語に関する記録を挙げて考察をしてみたい。
たびたび引く『倭変事略』冒頭の倭寇の海塩上陸の場面で、倭寇たちは「鳥音」で言語を通じなかったとある。「鳥音」は明人には理解不能の言語に対する常套表現で特に日本語を指すものとも言いがたいが、この場面における表現では彼らが少なくとも現地の人間には「中国人」とは異質な人々と映ったことは間違いないであろう。それが偽装なのか、それともその「倭寇」内ではその「鳥音」が共通語であったのかは判然としない。
『籌海図編』はその巻二で日本の地理・風俗を説明する中で多くの日本語の単語を収録・掲載しているが(鄭舜功、蒋洲ら訪日した者たちの報告に基づくものかと思われる)倭寇との戦闘の記録中に日本語が話されている場面を見出すことはほとんどない。ほとんど唯一の例外がかの徐海の副将で大隅人とされる辛五郎の捕縛の顛末を記した「金塘之捷」の記事(24)
で、徐海の滅亡後に金塘山の近くで停泊していた辛五郎らの船に官軍の船が接近し威嚇すると、「賊」らは手を振って攻撃をとどめ、話し合いたければ武器を捨てよという官軍の指示に対して「掌を拍して」武器の無いことを示し「一董と呼」んだとある。この「一董」について割注に「一董者一家之義。乃倭語也」と記されていて、これが少なくとも明側には「倭語」とみなされ「一家」の意味であると解されていたことが分かる。ただこの「一董」が日本語、恐らくは薩摩・大隅など南九州方面の言葉で該当するものがあるのか、今のところ確認できていない(あるいは「一党」か)
。しかしながらここにおける「倭語」は特に日本語と区別したものと解釈することは困難ではないかと思う。またこの船には日本人ばかりではなく「華人の寇に従う者」が乗り込んでいて官軍側との交渉を口頭で行っていることが記されており、辛五郎らの集団もまた民族混交の状態でありその内部でどのような言語による意思疎通が行われていたのか考える上で興味深いものがある。
より後のケースでは、『江南経略』太倉州倭患事跡の嘉靖四十四年(1565)四月に長江の三沙に出現した「賊」についての記事にその言語をうかがわせるものがある。
四月十六日に現れた賊舟は「大衢山から南行する者甚だ多く、羊山より西行する者七十余艘、蓋し蘇松を犯さんと欲するなり」
とある。大衢山は舟山群島の北部に位置する島であるが日本からの渡航ルート上にあり、ここを経由して南へ行くものがあったということはこの集団が日本からやってきたものである可能性を示している。このうち蘇・松地方を目指して西に進んだ七十艘は海上で沿海の漁民の「黄魚船」数百艘と遭遇し、これと戦って敗れ、逃れたもののうち六舟が長江河口に入り三沙に上陸したのである。彼らはただちに官軍の攻撃を受けたがこれを逆に破り、さらに賊舟二隻もあとから加わってきて「呉家沙・新竈沙・響沙みな賊有り」という情勢となる。
しかし彼らはやがて高家嘴に追いつめられ、ここで三十七名が捕らえられ七十七名が首を斬られた。残りの賊はなおも叢の中に隠れて抵抗したが、このとき官軍側は「通事」
を遣わしてこれを説得、これに応じて二十余人が投降したとある。投降に応じなかった者は夜半に沙船を盗んで逃走しようとしたが、沙兵に発見され二十余人が海中に屠られた。この「通事」がいかなる言語を通訳するものであったのか明記はないが、自然に考えればこれは日本語(あるいは倭語)を通訳するものだったのではないか。だとすればこの時の「賊」はどちらかといえば「真倭」に近い構成員を持つ集団だったことになる。
この長江河口地域は海流等の条件のためか倭寇とは無関係の者でもしばしば漂着者があったようで、万暦年間に済州島から都へ向けて船出した朝鮮人一行が川沙付近に漂着したことがある。このとき彼らも「倭」あるいは「奸細」ではないかと疑われたが、その船内の物品や身なり、そして彼らの持っていた書状などにより朝鮮人と確認されたが、このとき「通事新五郎」なる人物が往訳せしめられたという記録がある(25)
。この地域は「倭寇」だけでなく朝鮮人や琉球人も漂着することが多かったようで、言語に通じた通事が常時配置されていたのかもしれない。この新五郎なる通事は名前からしても捕虜あるいは漂着した日本人であったのだろう。
結びにかえて〜前期と後期の倭寇を結ぶ線〜
「倭」「倭寇」といった語、および存在をめぐって本稿では主に「後期倭寇」、十六世紀の明沿海を襲撃した「倭寇」を対象に手短ではあるが考察をしてみた。そこから浮かび上がってくるのは「前期」「後期」、あるいは「十四世紀」「十六世紀」、あるいは「朝鮮半島」「中国沿岸」といった、時代や対象地域、ときには民族構成などで区別されてきた二つの「倭寇」が、少なくとも史料に表れる現象面において驚くほど類似点を持っていたということである。
史料中同じ文字で表されているからと言って朝鮮における「倭」と明における「倭」とが同じ実態を表していると即決することはかなり危険ではあろう。しかしそのいずれもが「倭=日本人」という意味合いを含みながらも、必ずしも真の「日本人」ではない人間を含んだ集団を「倭」の名で呼ぶという点で確かに共通していると言えるし、またその「倭」に含まれる人々が国家の側からすれば把握しがたい厄介な存在である海民や交易商人、あるいはいわゆる「マージナル・マン」=境界をまたぐ人間集団である点でもよく似通っていると言えよう。
そしてその「倭」に含まれる人々が「推髻」「コン頭」といった共通のいでたちをしており、あるいはそれは単なる偽装にとどまらない何か共通の一体感をもったものであったかもしれない。これは村井氏も指摘するところの「倭服」「倭語」の問題とも通ずる部分を持っていると思える。
むろん、朝鮮半島における「前期倭寇」や「倭人」たちの活動と、十六世紀の明における「嘉靖大倭寇」とはその背景に持つ事情は大きく異なる。特に「嘉靖大倭寇」においては日本における銀の大量産出、ポルトガル人等の新勢力の参加などにより過去に例を見ないほどの過熱した環東シナ海の貿易活動がその背景にあり、明国内の社会変動ともあいまってより大規模な、かつ複雑な事情を抱えた「倭寇」となっていったところがある。しかしそれを支えた基底部分、倭寇に協力あるいは参加していったと思われる無頼、沙民や竈戸、舟山群島の住民といった海民たちの存在は、朝鮮半島側における禾尺や才人、済州島等の海民たちと相通ずるものがあると感じている。事情は時代・地域により異なれど、「環東シナ海地域」として時代を超えた何らかの一体感、共通性はあったのではないだろうか。
やや私事になるが、昨年筆者は「倭寇の会」と名乗る、まさに環東シナ海世界を共通テーマに持つ人々の会合に参加させていただき、その場となった瀬戸内海の島に旅する機会を得た。その島の公民館で清代の漂着船の絵が乗る江戸時代の文献など非常に興味深い史料の数々に触れる会があったが、そこで見かけた因島の歴史を扱った写真集の中に、この島にかつて存在していた「家船(えぶね)」と呼ばれる居住型の船で生活する人々をを写した写真があり、いつもは寄宿舎生活をしている小学生が両親の「家船」に泊まりに行く様子や、遠く各地に漁に出かけていた彼らの船が正月に故郷の港に旗を掲げて集結している写真があり驚かされた。しかも彼らのような人々は高度成長期の昭和三十年代というつい最近まで確かに存在し、朝鮮沿岸までも軽々と出かけていたとの話であった。
まさにこれは「船を以て家と為す」「海を以て家と為す」人々だ、と筆者はひどく感動を覚えた。決して遠い昔の話ではない。つい半世紀前まで確かに瀬戸内海にもそうした人々が存在していたのである。「倭寇世界」を構成していた海に生きる人々の世界は、今日の我々の想像を超えた根強いものをもっていたとも思えたのである。
注
(21)村井章介『中世倭人伝』38〜39頁。
(22)『甓余雑集』巻二・議處夷賊以明典刑以消禍患事。彼ら「黒番」について「その面漆の如し、見る者之が為に驚怖す。往往に能く中国人語を為す」とある。
(23)『甓余雑集』巻二・議處夷賊以明典刑以消禍患事。ちなみに稽天自身は自らの来歴を手書して説明しており、その内容が疑われたため周富一が呼び出されている。
(24)『籌海図編』巻九・大捷考。
(25)『万暦武功録』巻之二・南直隷・朝鮮梁承貴列伝。「…即使通事新五郎往訳以字、見承貴所賚牒文、果為州守遣送戸曹…」