倭人襲来絵詞・第二日
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☆蘇州より南京へ

 北寺塔さて外に出た僕の目に入ってきたのは写真のような光景だった。これを見てすぐに分かった方もいるかも知れない。蘇州のシンボルとも言える「北寺塔」である。なんとあの三国の呉の孫権が母親のために建てたというこれまた結構古い由来を持つ。こういうところ歩いていると何だか日本の京都がバカみたいに見えてくるなぁ(京都の方、すいません。悪気はないです)。まあこれはさすがに三国当時のものではなくて南宋時代の再建もの。それだって十分古いけどね。関係ないけど写真の手前に入っている建物には「奥波乾洗店」と書いてあります。なぜかこの一角、クリーニング屋が妙に多かったんですね(笑)。それにしても北寺塔行かないでファッションショー見せるツアーってのはいったいなんなのだろう…。

 ようやく出発すると、今度は蘇州名物「拙政園」へ。話に聞くと明代嘉靖年間の官僚・王献臣が作った庭園で中国でも屈指の庭園だという。庭園はともかく僕はやはり作った時代に注目してしまう。この庭園を造り始めた1530年(嘉靖9)といえば浙江の海上でポルトガル人も交えた密貿易が開始されていた頃で、「嘉靖倭寇」の前哨戦が開始されていた時代だ。そんな時代の官僚というか大金持ちの邸宅を見てみることに大いに興味を抱いたわけだ。
 さすがに中国でも屈指の庭園らしく、拙政園周辺は大変な混雑。人や自転車はもちろん各地からの観光バス(中国人だけでなく白人の観光客もいる)もひしめいている。まぁホントに中国のバスの運転手さんは強心臓でないとつとまらない。とにかく中国の人って道路上で「遠慮する」ということを日本人以上に知りませんからね(笑)。人を押しのけたモン勝ちである。
 どうにかバスを駐車場に入れるとそこから全員で入り口へダッシュ。例によって「センエン!」の押し売り集団が追いかけてくるからだ(笑)。どうにか脱落者もなく(ご老人が多いというのに)無事入り口に到着、いよいよ拙政園に入る。

拙政園 庭園の感想を述べるってのは難しいが、とにかく日本における「庭園」とはまるでスケールが違うことだけはよく分かった。おそらく面積的にはさして広くはないのだが、とにかくそこに趣向を凝らして詰め込まれた建物と池の配置の妙は確かに凄い。同じ池や建物でも建つ場所によって全然眺めが違ってしまう。絶品なのが池と建物の向こうに北寺塔が見えるポジションなのだが、あいにく良い写真が撮れず、ここには載せていない。確かにここまで凝って作れば一生住んでいても飽きないだろうな。とにかくそのつもりでとことん財産をつぎ込んだのだろう。明代の官僚、地域のエリートってやつがいかに巨大な資産を持つことが出来たか良く分かる。

 良く事情は調べていないが(後日調べようとは思うんだけど)、この庭園の主・王献臣は中央の官僚だったが何があったか追放されて故郷のこの地に帰ってきたものだという。必ずしも恵まれた政治経歴とは言い難いのだけど、それでこの贅をこらした庭園が造れるわけである。それにこの拙政園はあくまで「庭」で、本宅は別にあるのだ(ひょえ〜)。ガイドさんの説明だと「さんざん集めた賄賂で作ったんですよ」とのことで、「拙政(愚か者の政治)」の名も実は自嘲の意味を込めてつけているらしい(いちおう「閑居賦」の「拙者之為政」が元ネタ)。
 確かに明代、科挙に合格して中央官僚ともなるとそりゃもう大変なことで、その官僚に群がるように人々が金品や土地を贈ったり娘を嫁にやったり召使いになろうとしたりと、何とか人脈を作ろうと必死になってその家に殺到したという。そんなわけで科挙に合格すればそれだけで一財産。明代では官僚は退職してからもその地方における有力者「郷紳」として地方政治に影響力を持っていたぐらいだから、その資産たるや大変なものであったに違いない(ただし一族から継続して科挙合格者を出さねば繁栄が続かないのが辛いところ)。こういう官僚を出した地域の有力者が「倭寇」との密貿易の出資者になっているケースも多いが、その力の様を目の当たりにした形だ。
 いきなりだけど僕はこんな連想をしていた。「倭寇王」なんて言われることもある王直の義子および腹心に「毛烈」という男がいる。彼は寧波人なんだけど、実家の毛家はやはり官僚(中央じゃないけど)を出した地域の有力者で彼の兄は科挙受験者だった。その一方で密貿易に手を出していて、その負債の質に息子を王直に差し出したのが二人の縁となったのだ。この庭園の主ほどではないにせよ、毛家も大変な資産家だったんだろうなぁ、などと歩きながら考えていた。

 さて拙政園見学も慌ただしく終了し、「センエン軍団」の追跡から逃れてバスに到達すると、今度はバスの入り口に物乞いのお婆さんが立って一行に手を合わせて拝んでいる。後で分かったことだけど、ちょっとした観光地ならどこ行ってもいるんですよね、こういうの。ガイドの梁さんも「あの人達は地方からの出稼ぎですから」と無視することを勧める。本物の乞食なんてそうそういやしないそうだ。
蘇州町並み 拙政園周辺は結構古い、昔ながらの蘇州の町並みが残っている。聞いてはいたが、確かにこの辺りの古い町って写真のような運河が街のいたるところに存在し、それに沿ってびっしり家が並んでいる。明代もだいたい同様の面影だったそうで、当時の雰囲気はけっこうつかめる。しかし最近は大規模な都市改造計画が進んでいるようで、あちこち古い家をブチ壊しているのを目にした。蘇州のメインストリートなんて日本の地方都市の繁華街とさして違いはないぐらいになっている(例によってマクドナルドとケンタッキーが進出していた)。

 拙政園の次は「蘇州刺繍研究所」。ああ、ここでもお土産買え買え攻勢である(笑)。確かに手作業ながら凄い技術だと思うし、実演も説明入り(もちろん所員による流暢な日本語)で楽しめたけど、その後の刺繍工芸品の土産物売場へ通されてからは凄かった。とにかくあちこちでツアーのお爺さんお婆さんを呼び止めて大阪商人のような日本語で品物の売り込みを行う。もちろん客も値切るが、「おう、それじゃコスト取れないね!」などと大袈裟に頭を抱えながら値を下げて売り込んでいく(笑)。交渉が成立すると「はーい!お買いあげ!」ってな大声を上げて周囲をけしかける(…)。ちなみにこういう光景は道中しばしば見ることになるのだが、不思議と僕はほとんど声を掛けられることは無かった。あっちもプロ、金のある無しは分かるんでしょうね(笑)。それと後で分かったが、ここで売っていた土産物なんて訪問先の都市ならどこでも売ってるんだよな。上海の免税店で大概の江南土産は買えますね(上野駅と東京駅で全国の土産が買えるのと一緒だな)。まぁよほど貴重なものと思わない限り、慌てて手を出す必要はないようだ

 この後、ようやく昼食。レストランは泊まった雅都大酒店のお向かいのホテル内。なんだかエライ遠回りをして食事にありついたような印象。朝にバスが遅れた「おわび」としてガイドさん側から紹興酒が各テーブルに一本ずつふるまわれた。(これって後で結構酔いが回ることもあるんだよなぁ)と思いつつジャンジャン飲む(オイオイ)。しょうがないんだよな、周囲のご老人が「そこの若いの」という調子でドンドン注ぐもので(^^;)。まあ嫌いではないし(日本人の口には確かに合うのだ)どうせ南京までバスの中だしというわけで、結構やってしまった。当然ながら道中飲んだ紹興酒にはいずれも日本みたく砂糖は入れない。それでも充分に甘みがあっておいしいのだ。

 ついに蘇州を離れる。バスは再び高速道路に入るわけだが、その辺りは合弁企業の工業団地が広がり、古い町の郊外にやたら近代的な建物群が並ぶ恰好。地図で見るとこの辺りに「滸関」という地名がある。明代に「滸墅関」という地名があったので、たぶんこの辺りがそうなのだろう。僕がこの地名で感慨深くなるのには訳がある。ここは王直のもう一人の義子「王一枝」が1555年(嘉靖34)に島原の倭人を率いて入寇し、二万七千余の民居を焼いたとされる土地なのだ。
 王一枝。このサイトの「海賊人名録」にも略歴は載せてあるが、はなはだ興味深い男である。出身は不明で、海賊にさらわれて日本に売り飛ばされていたのを王直が拾って養子とした。しかし一枝は逃走、僧侶となるが普陀山(浙江海上の島で名刹がある)で思いがけず王直に再会し連れ戻される。その後もう一度財宝を盗んで逃走し、島原(九州のアレね)に隠れていたという。ここで財産を食いつぶすと「倭寇」となって大陸へ侵攻した。その現場がここ、というわけ。ちなみに一枝は王直が官軍に投降する際これに同道し、王直が逮捕されると官軍に抵抗、しかし同じ王直の義子である毛烈とは離れて、結局官軍の手で撲殺されるという最期を遂げた。どうも行動が矛盾に満ちてるんだよなぁ…そこがどうも気になる、嘉靖倭寇のマイナースターである(笑)。

 高速道路をビュンビュンとバスは飛ばしていく。さすがに今日は多少交通量が多い。チンタラ走っている車があると、運チャンは「ブブー!」と盛大に警笛を上げて「抜かすから動くんじゃねぇぞ」と相手に警告して抜いていく。高速道路でもちょっとハラハラする運転をやってくれるものだ。
 地図をぼんやり眺めてみると、蘇州から南京まではかなりの道のり。高速で二時間ほどかかるらしい。しかしその途中にある地名たるや…、ああ、来たこともないくせに懐かしい名前のオンパレード(笑)。まさに嘉靖時代の「倭寇」どもが駆けめぐった土地ばかりである(まぁこの地方はどこもそうなんだけど)。昨日の深夜走行と違ってちょっと小雨気味ながらも周囲はよく見える。辺りはひたすら真っ平らな農村ばかり。どこか僕の故郷の利根水郷地帯を思わせるところすらある。ガイドの梁さんは「日本と違って山がないでしょう」と言っていたが、日本最大の平野部のど真ん中に住む私にはかえって懐かしいぐらいの光景だ。「こんなただっ広いところを連中は駆けめぐったわけだねぇ」と彼ら「倭寇」の機動性を改めて実感する。こんな真っ平らなところばかりじゃ立て籠もったり隠れたりことも出来やしない。なるほど、彼らが猛スピードであちこちを寇掠してまわったのがよく分かる。

 ここからの南京までの道のり、しっかり目に留めておこうと決意した僕だったが、ここでいきなり瞼が重くなってきた。そう、先ほどあおった紹興酒が効いてきたのだ!幸い悪酔いの雰囲気ではないが、いい気分で眠りに落ちそうになる。「立て!立つんだ、城!」と馬鹿なギャグを思いつきながらの抵抗も空しく、徹夜城は闇の中へと落ちていくのでありました。

 さてここはお国を何百里、やっとその地に立ちながら、酒に我が身を滅ぼすか、というところ。果たして徹夜城の目は覚めるのか。それは次回で。

次へ進む。いよいよ南京へ!