倭人襲来絵詞・第一日
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☆中国上陸は闇の中

 さて徹夜城の乗る日航機は闇の中を抜け、いつの間にやら上海の上空にいたのであった。いよいよ着陸に入るとのアナウンスがあり、いささか緊張する。ふと窓の外に目をやると、そこにはまばゆいばかりに輝く色とりどりのお星さまが…いや、違う。「翼よ、あれが上海の灯だ」というわけである。さすがは大都会上海、見事な夜景が広がっている。ここで飛行機がググッと体勢を傾けたため窓の外の夜景も一緒に傾いていく。なまじ外を見つめていたため、これには一瞬クラッと酔う。着陸までの一部始終を見ていてやろうと気構えていたら、いきなり隣の席のお爺さんが話し掛けてきた。
 「中国のダイオキシン問題ってどうなっているのかねぇ」一瞬何が何やら分からなかったが、どうも窓の外の光景を見ているうちに連想が働いたのだろう。相手の意図が良く分からないので、さあ、日本よりは公害に気を付けてはいないでしょうねぇ、などと適当な答えをしていた。ちなみにこのお爺さん、なかなか面白い人で道中さまざまな話を聞かせてくれた。なんでも終戦時に朝鮮・満州国境に兵士としていて、上官の逃亡から放浪、そしてソ連の捕虜となってシベリア行きと、大変な戦争体験をしている方だったのだ。この時も延々話し込んでしまい、おかげで僕は着陸時のことは何も覚えていない始末である。話しているうちにタイヤが地面にドンとついて無事着地という次第だった。今から思うと緊張をほぐそうとしていたのかもしれないな、あれは。

 一行は上海・虹橋(ホンチャオ)空港に降り立った。飛行機から建物に入るといかにも「中国」という感じのくすんだ緑色の軍人っぽい制服姿の男性が何人か立っている。「ああ、中国に来たんだなぁ」と妙なところで実感する。外は夜なもので何も見えやしない。僕らはツアーの手続きをした順に整列させられてコンダクターの指示のもといささか待たされながらもパスポートを見せて入国手続きを終える。ちなみに僕は駆け込みで申し込んだだけあってビリっけつ。待っている間キョロキョロと空港内を見渡してみる。

 まず目に付くのは大きな広告だ。「可口可楽(コカコーラ)」「百事可楽(ペプシ)」など日本でもおなじみの商品の広告が漢字だらけ(当然だが)で掲げられている。「○○高爾夫球場」なんてゴルフ場の広告もある。聞いてはいたが、「改革・開放」による中国沿海部の急速な商業化を目の当たりにした形だ。もっともあとから思えばこんなのは序の口であったが(笑)。「シャロン」なんて日本のカタカナで書かれたレストランの看板も見える。

虹橋空港周辺夜景 入国手続きが済むと、そのままバスに直行。空港の建物を出ると、そこは巨大なネオンサインの嵐だった。「トヨタ」や「フォルクスワーゲン」がホントに目立つ巨大なネオンサインを掲げている。その理由は最終日に分かることになるが、それは後日。
 慌ただしくバスに詰め込まれたツアー一行は空港を離れて、夜の道を最初の宿泊地・蘇州へと向かう。現地時間8時過ぎに上海に着いたのであるが、そこから一気に蘇州まで行っちゃうわけで、なかなかの強行軍だ。それが可能なのも三年前に完成した高速道路のおかげ。上海から南京まで延びる、なかなか立派な高速道路である。当たり前かもしれないが料金所や標識な見た目は日本の高速道路とさして違いはない。ただパーキングエリアの類は見かけなかった。しばらく走ると町並みは次第に閑散としてきて、辺りは暗くなってくる。バスは闇の中を時速120qか140qぐらいのスピードで疾走していった。

 ただ闇の中を走っても退屈なのであるが、ここで現地のガイドさんが登場する。梁さんという人で30歳前後ぐらいだろうか、流暢な日本語を操ってガイドをしてくれる。梁さんは蘇州の観光公司の職員で、これでもレッキとした公務員である……って言っても考えてみれば中国は本来社会主義国なんだから、基本的にみんな公務員のはずなのであるが。
 梁さんは道々、いろいろと周辺地域の事情などを解説して、一行の退屈を紛らわせてくれる。道路の周囲にポツポツと二階建ての家の影が見えるが、明かりはあまり見えない。話によると、みんな農家で、それぞれなかなか立派な家を構えているのだが、電力不足のため夜間の電気は極力抑えるよう指導されているのだという。夜は部屋でテレビだけつけているなんて状況がよくあるそうだ。道中気がついたことだが、確かに町中でも日本に比べれば夜が暗い。駅の待合室なども妙に暗く、お年寄り達が不便そうにしていたこともあった。しかし後日に入った上海の夜はまるで事情が違っていたが…。

 影しか見えないものの、家の数はかなり多い。上海を離れてけっこう時間が経ったような気がするのだが、どう見ても日本の都市の郊外よりは人家の密度が高いようだ。しかもいずれも最近建てたような近代的新築。中にはかなりリッチな建物も目に入る。ここで梁さんがこの辺りの経済事情について解説する。
「改革・開放政策のもとの生産請負制(なぜか彼は「おいうけ」と発音したが)で貧富の差がかなり広がってきました。万元戸って言葉はご存じでしょ?今は一万どころか十万、百万元戸もおりますよ」
「私の知人で株取引を始めたものがおりますが、大変な儲けになりましたよ。凄いときは月に100%の利子を稼いでいました。もっとも今はみんな手を出すからそう大儲けできないけどね」

ついでにご自分の経済事情も。
「日本はボーナスは半年に一回ですね。私の会社は毎月ボーナスがありますよ」…要するに基本給プラス成績による歩合給ということなのだ。
「家は会社にもらったし(家賃は安価ながら払う)、治療費は国が負担して全額タダ。車は無いけど家は会社のすぐ側だからね」
 聞いていて思うのは、彼は今中国で並び立っている資本主義と社会主義の両方の恩恵をうまい具合に得ているのではないかということだった。梁さんの例は、あくまで蘇州という経済発展が進む江南の大都市のエリート(たぶん)の生活ということだから、現在の一般的中国人の例とは思わない。しかし確実に中国の社会は資本主義的方向に向かっていくのだろう。それは当然ながらみんなが成功する社会ではない。社会保障もシビアになっていくはずだ。江南の中ですら貧富の差もすでに拡大を見せているし、中国全体にアンバランスな状態が出来つつある。このあたりが今後どうなっていくんだろう…と窓の外の闇の中を睨みながら考えていた。

 この高速道路周辺は16世紀半ばの「嘉靖大倭寇」の争乱の舞台となった地域だ。たまに見える高速道路の行先表示に、日頃見ている史料で覚えのある地名が見つかる。「倭寇」達は長江河口付近や杭州湾の北岸から上陸し、蘇州を初めとする各都市を襲った。地図ではよく見ていたものの、こうして実際に現場を走ってみるとこの地域のただっ広さが実感できる。蘇州なんて想像以上に内陸にある町だ。とてもじゃないが「海賊が沿岸諸都市を襲撃」なんてレベルじゃない。「倭寇」達はこの大地を素足で走り抜けていったのだ。しかも数十、後期には数百・数千という数で。
 「倭寇」というが、良く知られているように「嘉靖大倭寇」の際にこの辺りを走り回った「倭寇」の構成員の大半は中国人だった。福建人がそのまた大半を占め、寧波人がそれに続いたという。中国人とはいえこの現地の人間にしてみれば完全な「よそ者」だ。しかし今僕が研究しているところでは、案外多くの現地の人間がこの「倭寇」に参加していたようなのだ。しかもいささか特殊な連中である。
 「倭寇」の上陸地となった長江南岸・杭州湾北岸の海岸地域には「竈戸(そうこ)」と呼ばれる製塩業に携わる人々が住んでいた。彼らは農民とは別枠で管理され、国家財政を支える官塩を生産して国家に収めつつ同時に漁業も営んで生活の糧としていた。そのため彼らは操船術に優れており、倭寇ですら彼らと戦うのを避けたという。官軍は彼らを倭寇対策に利用しようとしたが、竈戸たちは荒くれ者でいささか操縦しがたい存在だったそうだ。ところが嘉靖34年(1555)ごろの史料によると、官軍に捕らえられた「倭寇」の中に数多くの「竈戸」たちが混じっていたことが報告されているのだ。
 似たような存在は他にもいる。長江の河口には現在「崇明島」というバカでかい川中島が浮かんでいるが、明代にはまだまだ形成期で、「沙」と呼ばれる大小の堆積地が無数に浮いているという状態だった。ここには「沙民」と呼ばれる、やはり製塩と漁業で生活する人々が住んでいた。彼らは無頼集団や塩の密売とも関わり、しばしば反乱を起こしている。嘉靖倭寇はしばしばこうした「沙」に拠点を構えており、「沙民」が「倭寇」に参加していたことは容易に想像できる。

 彼らの生活は当然ながら貧しかった。一方ですぐそばの蘇州などは当時の世界トップレベルの経済先進地帯だった。この(中国全体で見れば)狭い江南の中で大きな経済格差が存在していた。そこへ発生したのが密貿易だ。発達する明の経済が世界経済と接触し巨大な密貿易市場が形成されたが、これを下から技術で支えて利益にあずかったのが「竈戸」や「沙民」だったと僕は考えている。しかし「海禁政策」という建前のもと、密貿易は官憲により弾圧・破壊された。生活の糧を奪われた彼ら「海民」が「倭寇」となり、陸上に対する復讐として各都市に攻め込んでいったのではなかったか…近頃そんなことを考えている。ひょっとすると今でも似たような状況が現出しつつあるんじゃなかろうか?そんな思いもチラとよぎる。

 上海から高速を二時間半、バスは順調に蘇州に入った。ガイドさんによれば高速が混雑していることもあるそうで、これほど早くつくのはラッキーだったともいう。まぁ土曜日ということも幸いしたようだ(中国も近頃は土日休みである)。
 蘇州のホテル「雅都大酒店」に入る。なぜか知らないけど中国のホテルは飲み屋か食堂みたいな名前をつけるのである。4つ星ホテルで、想像以上にロビーは豪華。日本の宿にあるような「歓迎○○様」のボードを見るとやはり日本のツアーが多いようだ。このツアー、一貫してそうだったのだが、どこでも外国人向けらしい欧米風の一流ホテルばかりに泊まらされた。いずれも現地と外国企業の合弁で建てられたもののようで、全く「中国的」なところはないごくごく普通の豪華ホテルである。ちょっと贅沢な悩みだが、異国情緒には欠けるきらいところがある。まぁこんなご老人も多いツアーではこういう恵まれた施設の方がいいのだろう。

 僕は相部屋になるはずだったのだが、キャンセルもあり、また歳が離れていることも配慮されて一人部屋となった。といっても構造上は二人部屋なので広い空間を一人で占領して優雅に過ごせた(笑)。テレビをつけると中国の放送各種、やたらにチャンネルがある。言葉は分からないが字幕も時折出るので眺めていられる。それにしても驚かされたのは大量のCMの嵐。どことなく日本のCMとよく似ているような気もするが、とにかく商品名をこれでもかと強調している(そりゃ広告ってのはそういうものだが)。ある洗剤のCMなんて「嫁と姑の対決」パターンが使われており(笑)、確か日本にもおんなじのがあったな、などと思い出させてくれた。商品も食品(水道水が飲めない国らしく、ミネラルウォーターのCMが多かった)・家電・薬品と実に多様。どこが社会主義国なのだろう(笑)。「テレビに広告を出したい人はこちらへ」という役所のCMもやっていた(同様の看板も街中でよく見かけた)。それにしてもドラマの途中でいきなりCMを入れるのは勘弁して欲しかった。ちょっと「間」が欲しいよね。
 CNNや日本の衛星放送も入っている。ちょうどアカデミー賞授賞式の編集バージョンをやっていたのでしばらく観てみる。なんとWOWOWも観ることが出来た。

 さて普通のホテルらしいところはユニットバスがあることである。しかし前から思っていることだが、どうもこういうホテルのユニットバスという奴は使いづらい。だいたい何が悲しゅうてトイレと風呂と洗面台が同じ室内になけりゃならんのかいな。日本のホテルでも同様なのだが、何回使っても快適と思ったことはない。結局この旅行では全てのホテルで同様の仕様であった。やはり熱狂的風呂愛好者の日本人としては(実は16世紀にすでにその記録がある)お湯をどっぷり注いだ風呂に長々と浸かりたいものだ。こういうバスタブでは望むべくもない。
 とりあえず適当にお湯を注いでバスタブに入り、続いてシャワーを浴びようとした。ところがどうもシャワーへの切り替えが分からない。シャワー側にいじれる所はないし、バスタブについているコックを試してみたが、お湯の排出用のものだった。他にこれといって目立った装置はないし…うん?壁の上の方に何かあるな。試しに動かしてみっか、と手を伸ばしかけたが、一応用心に説明文(英語)を読んでみる。危ない、危ない、緊急連絡用の装置のようだ。さてと、どうすりゃいいのかな…

 さて闇夜を抜けて蘇州に入り、無事にホテルに入ってみたが、今度は風呂場で闇の中、というところ。はたしてシャワーを浴びることは出来るのか。それは次回で。

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