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あしかがただよし〜あしかがよしみつ

足利直義
あしかが・ただよし 1307(徳治2)?-1352(観応3/正平7)
親族 父:足利貞氏 母:上杉清子 兄:足利高義・足利尊氏 妻:本光院(渋川貞頼の娘)
子:如意丸 養子:足利直義・足利基氏
官職 兵部大輔・左馬頭・相模守・左兵衛督 
位階 従五位下→正五位下→従四位下→従四位上→従三位→贈従二位
幕府 室町幕府・政務担当(俗に「副将軍」)
生 涯
 足利尊氏の実弟。挙兵以来兄をよく助けた優れた武将でもあり、確固たる政治構想と高い理想をかかげた同時代で最高の評価を受けた政治家でもあった。「室町幕府は直義によって作られた」と言っても過言ではない。ただ、そのかたくなな理想ゆえに悲劇的な最期を遂げることにもなった。

―兄との二人三脚―


 兄・尊氏(高氏)と両親とも全く同じ兄弟で、足利貞氏の側室・上杉清子が尊氏を産んだ翌年徳治元年(1306)に直義を産んだとされている。つまり尊氏とは一歳違いの弟とするのが通説だったのだが、のちに尊氏の護持僧となりその家族の祈祷もした三宝院賢俊の日記によると、直義の年齢は暦応5年(1342)に「三十六歳」と明記されていて、同じ記事に「三十八歳」とある尊氏とは2歳違いということになる。これは最近確認された史料であり、直義の生年は徳治2年(1307)とするのが正しいということになるかもしれない。なお、この賢俊の日記の記事に従うと清子は38歳のやや高齢の出産で直義を産んだことになる。
 兄の尊氏同様、直義は出生地も不明で、鎌倉説、足利説、丹波説がある。今川了俊『難太平記』には尊氏と直義の出生時に二羽の山鳩が飛来して、尊氏の時はその左肩と柄杓(ひしゃく)の柄にとまり、直義の時には柄杓の柄と湯桶の端にとまったという「生誕伝説」が描かれていて、事実とはとうてい思えないが尊氏と直義が同じ土地・場所で生まれたようにも読める。
 尊氏・直義兄弟には上に異母兄・高義がいて、いったんこちらが家督を継いだものの早世している。予想外の事態で同母兄の尊氏に嫡子の座が回ってきたことにより年齢の近い弟の直義の地位も上昇したのではないかと推測される。本来足利家の中心になるはずのなかったこの兄弟がどこでどのような少年時代を送ったのか、想像してみると興味深いところだ。
 
 兄・高氏が元応元年(1319)に元服して官位を授かっているので、その翌年頃には直義も元服したと推測される。元服時の名前は「高国」であったとされ、これは兄・高氏同様に北条得宗の北条高時の一字を与えられたものである。その後彼の名は「忠義(ただよし)」「直義(ただよし)」と変わったとされ、恐らく鎌倉幕府滅亡後に「高」字を捨てたものと考えられるが、本項では面倒なので全て「直義」で統一する。
 嘉暦元年(1326)5月に従五位下・兵部大輔に補されている(足利家官位記)。同時期に兄・高氏が北条一門の赤橋登子と結婚するなど北条氏との結びつきを強めて地位を上昇させたことに伴う官位授与であったと思われる。

 古典「太平記」で直義が初登場するのは巻九の冒頭、元弘3年(正慶2、1333)3月に高氏が北条氏への反逆の決意を固める場面である。倒幕派の討伐のため畿内への出陣を北条氏から命じられた高氏は妻子を連れて出陣しようとするが、長崎円喜がこれを疑い、高時に意見して妻子を人質として鎌倉に置いていかせ、さらに寝返らないと神仏に誓う誓詞を差し出させようとした。悩んだ高氏が「舎弟兵部大輔」すなわち直義に相談したところ、直義は「いま兄上がこの一大事を思い立ったのは、個人的なことではなく天下のためであります。『誓言は神も受けず』と言いますから、誓いの言葉に偽りがあっても行いが正しければ神仏も認めてくれましょう。奥方とご子息を人質に置いていくことは大事の前の小事というもの、あまり心にかけられますな。ご子息は幼いですから、何かあれば家臣たちがどこかへ隠せますし、奥方は赤橋どのの妹なのですからひどいことにはならないでしょう」と意見して高氏に決意を固めさせたという。これはあくまで物語としての描写だが、「太平記」は初期編集段階で直義自身のチェックが入った可能性が高く、実際に直義がこのような言葉を口にしたのかも知れない。この初登場の場面から、直義は高氏の良き相談相手、感情に動かされやすい兄に対して冷静な判断能力をもつ策士ぶりを発揮している。
 
 このあと直義は兄に従い篠村八幡宮での挙兵、六波羅探題攻略戦に参加。建武政権が成立するとその功績により左馬頭に任じられ、遠江国を与えられている。そしてこの年の11月に直義は相模守に任じられ、成良親王を奉じて鎌倉に下り、鎌倉ミニ幕府(鎌倉将軍府)の実質的な主催者として関東の統治にあたった。これは10月に北畠親房顕家父子が義良親王を奉じて奥州・多賀城に下り、東北を支配するミニ幕府体制を作ったことに対する足利側の対抗策であったと言われる。
 直義は都に残った尊氏の分身として鎌倉に入り、事実上の幕府体制を復活させ、戦功のあった武士たちに恩賞を与えるなどして関東武士たちを束ねた。あくまで後醍醐天皇による天皇親政体制「建武政権」の出先機関という形式ではあったが、成良という「宮将軍」を奉じて「執権」としてふるまう直義の政治姿勢は完全に鎌倉幕府のそれであり(直義自身、「御成敗式目」を定めた北条泰時の幕府政治を理想としている)、ここに幕府復活の既成事実を積み重ねていたと見ることができる。

―兄を支えて東へ西へ―

 建武元年(1334)、京では兄・尊氏と護良親王の対立が激化し、10月に護良は後醍醐の命により宮中で逮捕されて足利側に引き渡された。直義は鎌倉に護送されてきた護良を受けとり、鎌倉北東・薬師堂谷の東光寺に監禁した(土牢に九ヶ月も監禁したとするイメージが根強いが、事実ではない)
 
 建武2年(1335)7月、信濃に逃れていた北条時行が挙兵し、北条残党や建武政権に不満をもつ武士たちを糾合して大軍となり、鎌倉へと迫った。直義の妻の兄である渋川義季岩松経家らがこれを迎え撃ったが、いずれも武蔵・女影原で戦死。やはり迎撃に出た小山秀朝も府中で敗死したため、7月22日に直義は鎌倉の放棄を決断した。このとき直義は成良親王と甥の千寿王(のちの義詮)を逃がす一方で、家臣の淵辺義博に命じて監禁中の護良親王を殺害させた。これは足利家にとって仇敵である護良を敗戦のドサクサに紛れて抹殺したものとされるが、こっそり手を下すなら9か月の監禁の間にいつでもできたはずで、実際には護良が北条軍の首領に担ぎ出されることを恐れてのとっさの判断であったとも言われる(現実に時行は間もなく南朝に投降する)。いずれにしても混乱の中で冷徹に重大な決断を下す直義らしさの表れた一件と言えよう。

 北条軍の追撃を逃れつつ、足利の勢力圏である三河に入った直義は、自らはここにとどまったまま成良親王を都へと帰し、兄・尊氏の出陣を待った。この時点で直義は明白に建武政権からの離脱と三河以東に「足利幕府」を樹立する意思を示したと見られている。やがて尊氏は後醍醐の許可を得ぬまま出陣して三河で直義と合流、凄まじいスピードで鎌倉を奪回し、そのまま関東に居座って幕府設立へと動き出す。
 ただ、尊氏と直義とでは後醍醐に対する姿勢に大きな差があったのも事実らしい。個人的に後醍醐を敬愛し親近感を持っていた尊氏は後醍醐との全面対決を避け、既成事実の積み重ねで京の朝廷と鎌倉の幕府が共存・両立する形を作ろうとしていた(それは源頼朝がやった方法でもある)。後醍醐から京への帰還命令が出るとそれに従う姿勢すら見せたという。だが直義は幕府再興のためには後醍醐との全面対決が避けられないものであることを認識しており、尊氏をあくまで鎌倉にとどめる一方、各地に反後醍醐の挙兵(名目上は新田義貞討伐)を呼びかける軍勢催促状を「左馬頭」すなわり直義の名義で発している。結局これが後醍醐による足利討伐の決断を招くのだが、これを聞いた尊氏は「帝に弓を引くつもりはない」と出家の意思を示してわずかな側近と共に鎌倉の浄光明寺にひきこもってしまった。
 やむなくその間の政務・軍務はすべて直義が取り仕切ることになり(今川了俊も「難太平記」のなかで「中先代の時以来天下のことも足利家のことも任せてしまった」と書いている)、足利討伐に向かって来た新田義貞軍を迎え撃つべく、11月に直義自ら東海道へと出陣した。しかし三河の矢作川の戦い、駿河の手越川原の戦いで連敗、とくに手越川原では戦死寸前の危機に陥り、箱根へと敗走した。この知らせを聞いた浄光明寺の尊氏は「直義が命を落としては、わしだけ生きていても意味がない」として出陣を決断、12月11日に箱根・竹之下の戦いで新田軍を打ち破って直義の急を救った。ただし、「太平記」では尊氏がこもった寺は建長寺とし、直義自身が出家寸前の尊氏のもとへ駆けつけ、「出家しても許さぬ」という偽の綸旨を尊氏に見せて翻意をうながしたことになっている。

 尊氏・直義率いる足利軍は新田軍を追って京へ突入。翌建武3年(延元元、1336)正月に京を占領するが、間もなく奥州から北畠顕家の軍勢が駆けつけ、激しい攻防戦の末に足利軍は敗北、西へと敗走することになった。だがこの西下の途上で足利軍は光厳上皇の院宣を手に入れて後醍醐に対抗する正統性を確保し、元弘の乱以降に没収された土地をすべて元に戻すという政策を発することにより多くの武士の支持を得る。そして尊氏と直義は態勢を整えるために九州へと下った。この一連の戦いでは尊氏側近の武将が書いたと思われる「梅松論」では「両大将」「両御所」といった表現がしばしば見られ、ほとんどいつも兄弟そろって戦闘を指揮していた様子がうかがえる。

 しかし足利兄弟があてにしていた北九州の少弐貞経は、尊氏の到着直前に後醍醐側についた菊池武敏に攻め滅ぼされていた。足利軍は少ない手勢で菊池の大軍に立ち向かうことになる。
 そして3月2日の多々良浜の戦いが行われる。「太平記」では尊氏がはじめ敵の大軍を見て「これはかなわぬ。つまらぬ敵の手にかかるよりは腹を切ろう」と言い出したのを直義がおさえて「少数で大軍を破った例も多い。まずはこの直義がひといくさしてみましょう」と先陣に立った。一方で「梅松論」では尊氏から「我ら二人が一緒に戦って苦戦を強いられては全滅の恐れがある。わしは一騎なりとも本陣に踏みとどまるから、直義が先陣を切って戦え。もし不利になったらわしが馬廻りの者(将軍の親衛部隊)を率いて入れ替わって戦おう」と提案し、まず直義が前線に立って力戦したことになっている。いずれにしても直義が尊氏を後ろにおいて前線に出た点は一致する。
 激戦の中で尊氏の周囲が手薄で危ないとみた大高重成が尊氏の所へ行こうとすると、直義は「臆病風に吹かれたか。大高の自慢の大刀を刻んで剃刀にしてしまおうか」とあざ笑い、士気を鼓舞したという(「太平記」)。一時優勢にたった直義だったが菊池軍も反撃に転じ、菊池側の新手も現れたことに兵士たちは恐れをなしたが、直義は平然として「旗をしっかりと立てよ」と命じ、自らの直垂(ひたたれ)の右の袖を切って形見として部下に渡し、「直義はここで防戦して身代わりとなって命を落としましょう。そのすきに兄上は長門・周防へと落ち延びて大望をなしとげてくだされ」と決死の覚悟を伝言させた。結局最後に尊氏が敗走兵をまとめて出撃し、これを見た直義が太刀をふるって突進したため、合戦は足利軍の大勝に終わる(「梅松論」)
 この戦いののち、直義は戦死した少弐貞経を悼んで喪に服してひきこもり、周囲の者にも声高に騒がぬよう命じた。これは涙を流して見せただけの尊氏より極端な行動であったため、貞経の息子の少弐頼尚が酒と肉を持ち込んで直義に会い、「お気持ちはありがたいが戦時であることを忘れてはなりませぬ」と自ら酌をして直義に酒を勧めたところ、直義はやむなくその夜は酒を飲み明かし、人前にも出るようになったという逸話がある(「梅松論」)

 九州を押さえた尊氏・直義は4月2日に海路東上を開始、途中の備後の鞆の津で直義は陸路、尊氏は海路と二手に分かれて並行して東進することになる。陸を進む直義軍は迎撃に来た義貞の弟・脇屋義助と備前で戦ってこれを破り、5月25日の湊川の戦いで新田・楠木軍と決戦する。「太平記」では楠木正成は陸路を進撃してくる直義一人を狙って突撃を繰り返し、直義の馬が矢じりを踏んだため直義が落馬、あわや楠木軍に討ち取られようかという危機に陥り、家臣の薬師寺十郎次郎の奮戦と尊氏の「直義を討たすな!」との攻撃指示により、ようやく馬を乗り換えて難を逃れたと伝える。直義を討ち損ねた正成は自害して果て、新田軍は京へと敗走した。

 その後10月まで続いた京をめぐる攻防戦でも直義は尊氏と共に連戦し、良く兄を支えた。この間の8月に尊氏は清水寺に願文を納め、その中で「私は早く遁世したい。今生の果報は全て直義に与えて、直義を安穏に守らせたまえ」と祈った。しばしば感情に動かされ、ひきこもったり取り乱したりする兄に対し、常に冷静沈着で勇猛果敢な弟の存在は、尊氏にとって他に代わるもののない右腕、心の支えであったことがよく分かる。どこまで本気だったかは分からないが、尊氏は今後の幕府設立とその政務は直義に任せ、あとは心穏やかに「余生」を送る願望があったらしい。また尊氏がそう思うほどに、直義は「よくできた弟」だったのだ。

―潔癖症の大政治家―

 10月にいったん和睦が成立して後醍醐が比叡山から京にもどってきた時、直義がみずから兵を率いてこれを出迎えている。そして11月7日、「足利幕府発足宣言」というべき「建武式目」が発表された。これは尊氏から出された諮問に対し、かつて鎌倉幕府の評定衆をつとめた官僚である二階堂是円や知識僧の玄恵らが回答するという形式で作成された、新幕府の基本方針を示すものである。そして実質これは直義が中心となって作成されたと推定されている。

 この式目は幕府は鎌倉に置くべきであるが諸事情により京におくことから始まって、善政によって民心の安定を図ること、流行する婆沙羅行為の禁止、酒色にふけることや賭博に興じることの禁止、強盗・殺人など犯罪行為の禁止、京の住宅・土地の復旧、金融業の再興による経済立て直し、政務能力による守護の選定、権門・女性・僧侶の政治介入の禁止(この部分は建武政権批判と思しい)、役人の政務専念と贈収賄(贈り物も)の禁止、礼節をたっとび、廉直・名誉を重んじ、貧者の訴えに耳を傾け、寺社の主張は状況によっては拒絶する、政務は日時を決めて執り行う…といった内容で、全体的に非常に儒教的感覚のストイックな政治姿勢が示されている。
 現実には足利軍の中に大勢の「婆沙羅大名」がいて酒色や賭博に興じていたし、守護は政務能力ではなく軍功によって「恩賞」としてふるまわれたし、贈収賄や口利きのたぐいも多かったということなのだが、それをあくまで否定する潔癖ぶりは直義の性格をよく反映していると言われる。

 直義の潔癖症・生真面目ぶりは当時から有名だったようで、さまざまな逸話が残る。当時は8月1日の「八朔(はっさく)」に贈り物をする習慣があり、当然将軍・尊氏のもとにも人々から多くの贈り物があったが、尊氏はそれを片っ端から周囲のものに与えてしまい、夕方には一つも残らなかった。一方で直義は八朔の贈り物そのものを「建武式目で禁じた贈賄にあたる」として受け取ろうとしなかったという。
 また建武4年(延元2、1337)に母方のいとこで自らの腹心でもある上野守護・上杉憲顕にあてた手紙の中で「他の国の守護が非法なことばかりしていると聞く中で、あなたが上野をよく治めているのは大変喜ばしい。(中略)まったく諸国の守護について心苦しい思いをする中で、上野の様子を聞くと生き延びる思いがする」と書き、自分の理想がなかなか実現しないで葛藤している様子をうかがわせている。
 直義が詠んだ和歌にはこんなものがある。「うきながら 人のためぞと 思はずは 何を世にふる なぐさめにせん」(いやなことばかりのこの世の中、人のためだと思わなくては、とても生きていけない)(『新千載和歌集』)「閑かなる 夜半のね覚めに 世の人の 人の憂へを 思ふくるしさ」(静かな夜半にふと寝苦しく目が覚める。世の人々の苦しみに思いをはせて)(『風雅和歌集』)といった、いずれもこのうっとうしい乱世の中で世のため人のために良き政治をしようと葛藤する彼の姿勢が率直に反映されている。

 幕府の設立後、尊氏は直義に政務の全てを任せた。『梅松論』によると直義は再三辞退したが、ついに尊氏に押し切られてこれを引き受け、いったん引き受けた後はひたすら政務に没頭して尊氏に一切口出しをさせなかったという。こうして足利幕府の初期にあって、直義は所領問題や政務全般を担当、尊氏は武家の棟梁・征夷大将軍として武士たちとの個人的な主従関係を保ち軍事指揮権を握るという二頭体制がとられた。これを人々は足利兄弟が二人で将軍になったものとみなし、直義を「副将軍」と呼ぶことすらあったという。康永3年(興国5、1344)の尊氏が九州の伊作宗久にあてた書状では「援軍のことを直義に催促したところ、ただちに処置するとの返答だったので、もう少しこらえてくれ」という記述があり、直義が軍事面でも指揮権をもっていた時期もあるようだ。

 あるとき尊氏は直義に「お前は政治をする身なのだから、重々しくふるまえ。遊んだりして時間を浪費してはいけない。花見や紅葉狩りぐらいならともかく、物見遊山はほどほどにしろ」と忠告したという話も『梅松論』に載るが、そんなことを言われなくても直義は遊びなどほとんどしなかったらしい。尊氏が好んだ演劇(猿楽・田楽)を「政務の妨げになる」として全く見なかったという話も伝わる。
 またこれはあくまで『太平記』中の物語性の強いくだりではあるが、南朝の怨霊たちが集まって幕府に内紛を起こさせようとするくだりで「直義は他犯戒(たぼんかい。女性との接触を絶つ)をしていて、『俗人の中では自分ほど禁欲的なものはない』と自負している」と語られている。実際直義は同い年の渋川氏の正室がいたがながらく子ができず、それにもかかわらず当時としては当然の側室をもった形跡がない。それを世の人は彼の性格からくる「禁欲」ととらえたかもしれない。

 直義は政務の中心メンバーを足利一門と鎌倉幕府以来の官僚一族で固めつつ、朝廷の儒家である日野氏を採用するといった幅広い姿勢も示している。直義にとっての理想政治は鎌倉幕府前期、北条独裁が強まる以前の北条泰時時代の執権政治であったようで、足利一門による独裁体制を避けようという意図もあったようだ。養子の直冬(尊氏の庶子)や今川了俊ら若者たちに対し「自身の家柄によって身を立てようなどとは決して思ってはならぬ。文の道をもって将軍をお助けし、自らの徳によって立身すべきである」と朝に夕に語っていたという。
 直義は武将ではあったが、幕府が設立された上は「文」をもって世を治めねばならないという、かなり儒教的な政治観をもっていた。それは建武5年 (延元3、1338)に「建武」の年号を変えることになったとき、直義「『』の次は『』の字を用いるべきだ」と強く主張した事実に表われている。結局これは朝廷で通らず「暦応」という年号になるのだが。

 直義の政治姿勢はあえて言えば保守的なものでもあった。彼は朝廷の皇族・公家や寺社といった京の旧権威とも折り合いをつけていく政治姿勢であったため、その方面からの人気はかなり高かった。暦応5年(興国3、1342)正月に直義が重病になったとき、光厳上皇はひそかに勅使を石清水八幡につかわし、直義の平癒を祈願したという。
 その年の9月に土岐頼遠が光厳の車に「院か、犬か」と矢を射かける事件が起こる。直義はこれに対して断固たる厳罰をもって臨み、帰依している夢窓疎石の助命の口添えも受け入れず、頼遠を死罪に処した。その一方で土岐氏の領地は安堵させており、バランスのとれた対応をしたとも言える。この処置に人々は畏怖し、直義の政道をたたえたと「太平記」は記す。

―観応の擾乱―

 だが、そうした直義の保守的ともいえる「理想的政治性」は時代とは相容れない部分が多かった。特に直義が嫌った「婆沙羅」な武将たち、旧権威をものともせず公家・寺社の領地を侵略し、動乱の中で実力でのし上がってきた新興武士たちにとっては直義の姿勢は邪魔なものでしかなかった。こうした存在の代表が、足利家の執事である高師直だった。幕府設立初期までは共に軍事と政務でそれぞれ才能を発揮して尊氏を見事に支えた二人だったが、南朝との戦いが長引くなかで新興武士層の支持を集めて軍事的成功を収めてきた師直は次第に直義と深刻な対立を始めるようになる。
 こうした中で自らの立場を強化する意図もあったのだろうか。このころ鎌倉の東勝寺から上京してきた尊氏の庶子・新熊野丸(いまくまのまる)の存在を学僧・玄恵から知らされた直義は彼を引き取り、自らの養子として「直冬」と名乗らせた。実父に冷たくされた直冬はこの叔父である養父によくなつき、以後その忠実な腹心となり、武将としても成長してゆく。時期は不明だが尊氏の三男・光王丸(基氏)も直義の養子という扱いになっていたようで、幼少期に直義の薫陶を強く受け、後年直義を模範とする実直な政務をこころがけることになる。

 そんな貞和3年(正平2、1347)6月8日、直義の妻・渋川氏が数え年42歳で夫婦にとって初めての子を産んだ。それも後継ぎとなるべき男子で如意丸と名付けられた。直義はもちろんのこと周囲も大いに驚き、光厳上皇が祝いの太刀を贈ったほか、公家も武家もこぞって祝いの馬や太刀を贈ったという。
 だが「太平記」ではこの異例の出産を南朝の怨霊が仕組んだものとして、むしろ不吉の前兆として描いている。実際にこの直義にとっても意外な後継ぎの誕生は兄・尊氏との関係や幕府内部に微妙な波風を起こした可能性が高い。幕府の実務的な最高権力者といえる直義にその血統をひく後継ぎができたということは、今後の足利将軍家が尊氏からその嫡子・義詮の系統に行くとは限らない、ということも意味していた。これは当時の全国の武士の一族にありふれて見られる本家・分家の紛争、惣領権をめぐる争いのパターンでもあり、それは頂点にいる足利家においても例外ではない。幕府の内戦「観応の擾乱」の要因は複雑だが、足利家に関して言えば将軍一族の本家・分家の家督争いの側面が強かった。

 貞和5年(正平4、1349)4月、直義は養子の直冬を長門探題に任じ、中国地方へ向かわせた。そして閏6月、直義は尊氏に迫って師直を執事職から解任させる。ただしその後任には師直の甥である高師世(師泰の子)を立て、高一族のメンツは一応立ててやっている。さらに直義は懇意の光厳上皇に面会して師直を政治から退けると上奏しているが、これは光厳の院宣により師直らを打倒する大義名分を得ようとしたのではないかと考えられる。
 このころ直義の側近・上杉重能畠山直宗、そして僧・妙吉らが盛んに師直の抹殺を直義に進言し、7月に師直を自宅に招いてその暗殺を謀ったが、粟飯原清胤らの内通があってこれは失敗に終わる。そして8月13日、師直・師泰兄弟らを中心とする反直義のクーデターが発生、直義は尊氏から呼びかけられて尊氏邸に避難する。14日に師直軍は尊氏邸を包囲し、尊氏は直義に「家臣の手にかかるぐらいなら兄弟ともども自害しよう」とまで言ったが、結局直義がそれを諫めて政務を義詮に譲ることを承知して包囲は解かれる。この騒動は当時から尊氏と師直が仕組んだ芝居であったと見る見方が強く、尊氏としては対立する二者の上に立つ第三者の立場を取りつつ、息子の義詮に確実に将軍権力が継承されるよう直義を引退に追い込んだのが真相と見られている。今川了俊も「難太平記」のなかで「大御所(尊氏)はさすがにご子息のことを見捨てるわけにはいかず、かといって大休寺殿(直義)には中先代以来全てを譲ってきたこともお忘れにはなっておらず、ただどうにかして直義どのから義詮どのへ“うつくしく”天下を譲らせようとお考えになったのだ」と記していて、尊氏なりに穏便にことを収めようとしての作戦だったと思われる。

 この政変の結果、鎌倉にいた義詮が京に呼び出されて直義から引き継いで幕府の政務にあたることになり、入れ替わりに尊氏の三男・基氏が鎌倉に行くことになる(鎌倉公方・関東公方の始まり)。基氏が直義の養子とされたのはこの時ではないかとする説もあり、その後基氏が直義の政治姿勢を引き継ぐことから、この基氏の鎌倉下向は直義が自らの引退と引き換えに実現させたもので、後日の反撃のために関東に地盤を築いておこうとしたのではないかとの見方もある。
 10月22日、上京した義詮は直義がいた三条坊門の屋敷に入り、直義は腹心の細川顕氏の屋敷に移った。そして12月8日に出家し、法名「慧源(えげん)」を名乗ることになる。直義の側近・上杉重能と畠山直宗も流刑先で暗殺され、直義一派は完全に敗北したかに見えた。

 だが翌観応元年(正平5、1350)になると直義の養子・直冬が逃亡先の九州で勢力を拡大、その勢いを恐れた尊氏・師直は10月に九州へ出陣する。ところがその直前に直義は京から姿をくらました。師直はその追跡を主張したが、なぜか尊氏は「その必要なし」と放置したまま出陣してしまう。そして直義は大和の越智伊賀守を頼り、彼を通じてこともあろうに南朝に投降、11月に師直・師泰を討てとの後村上天皇の綸旨を受ける(「尊氏を討て」との綸旨になっていなかったのは直義がそう主張したためとみられる)。これに呼応して各地で畠山国清斯波高経桃井直常石塔頼房、細川顕氏、上杉憲顕といった直義党の武将たちが挙兵し、一気に巻き返しを図った。この一連の動きはおそらく九州の直冬とも連動し、この一年の間にひそかに周到に準備されたものであったと思われる。
 慌てて山陽から引き返した尊氏・師直は観応2年(正平6、1351)年明けの正月にかけて京をめぐって直義軍と激しく戦ったが、ついに京を失陥。2月17日に摂津・打出浜で両軍の最終決戦が行われて、これは直義軍の圧勝に終わる。尊氏は師直・師泰の出家・引退による助命を条件に直義と和睦するが、その直後の2月26日に師直・師泰以下の高一族は武庫川で直義派の上杉能憲により暗殺されてしまう。ここに「観応の擾乱」はひとまず直義の圧勝で終わったかに見えた。

―滅亡への道―

 師直が死ぬ前日の2月25日、八幡の直義の陣中で悲劇が起きていた。直義の愛息・如意丸がわずか4歳で急死したのである(「太平記」は26日のこととするが、「園太暦」に従う)。直義がなぜ幼い如意丸を陣中に連れていたかは不明だが、もしかするとすでに容体が悪く、情勢が有利なこともあって直義自身が気づかって身近に置いていたのかも知れない。政権を奪回し、いよいよこれからという時に愛児を失った直義とその妻、そして周囲の人々の悲しみは激しかった。「観応の擾乱」の一因だったとも思えるこの幼児の死は、その後の展開に少なからぬ影を落としたようでもある。
 直後の戦後処理の交渉ではなぜか負けたはずの尊氏が強気に出て、自分に味方した武将たちの領地安堵と恩賞を勝ち取り、師直を殺した上杉能憲の死罪を主張して直義になだめられるという一幕もあった。直義としてはあくまで師直らの排除して元のように政務をみることが目的で、尊氏を敵にして打倒するつもりなどなかったところに弱みがあった。

 またこれと同時並行で、直義は南朝と講和交渉を進めていた。直義は師直を倒すための大義名分を得るために方便として南朝に投降したのだが、一方で光厳はじめ北朝皇族に対する配慮も忘れていなかった。そして南朝天皇が京に戻る形での両朝の合体・和睦をかなり本気で実現しようともしていた。南朝側で直義と直接交渉したのは南朝の総帥・北畠親房で、その仲介にあたったのは楠木正成の三男・正儀だった。
 この交渉の中で親房は「吉野の天皇こそが後醍醐先帝を受け継ぐ正統の天皇であるのだから、奪った天下をまずこちらの帝にお返しするべきである。幕府などの問題はそのあとの話だ」と原理原則論を主張したが、直義は「源頼朝が幕府を開いて以来、天下は武士の力によっておさまってきた。承久の乱でも北条義時がこれを治めているし、元弘の乱の時も後醍醐先帝の功績だというが、実際には尊氏の戦功によるものだ。(中略)先帝が天下を統一したといっても三年とたたずに天下は乱れたではないか。諸国の武士が元弘の時のように公家の家来・下僕として仕えることを望むとお思いか。天下泰平を願うなら、もとのように武士に政治を任せて御入京されるべきだ。そうすれば先帝の血統も絶えることなく、皇室も安泰である」と、こちらもあくまで幕府政治の原理原則を主張して譲らなかった。親房も一種の原理主義者だったが、直義もまたあくまで鎌倉幕府の執権政治を理想として掲げる原理主義者だったのだ。
 結局この交渉は5月に決裂し、親房から突き返された直義の書状を持参した正儀の使者は「このうえは吉野を攻撃してくれ。そうすれば正儀は味方に加わる」と伝えたという。

 いったんは和睦した尊氏と直義の仲もたちまち険悪となった。3月には直義派の斎藤利泰が暗殺され、5月にはやはり直義派の桃井直常が何者かの襲撃を受けた。6月には地方で尊氏派・直義派の戦闘も始まり、緊迫する情勢の打開を図ったか、7月19日に直義は自分から申し出て政務を辞した。しかしその直後に尊氏派の諸将が京から姿をくらまし、赤松則祐佐々木道誉が南朝と手を結んで挙兵の姿勢を示し、尊氏と義詮がこれを討つためと称して東西に出陣した。これは全て京周辺から直義一派を包囲する策略で、これを察知した直義たちは7月30日に大急ぎで京を離れ、越前・金ヶ崎城に入った。
 8月に尊氏は直義に「京へ戻って政務をとれ」という使者を送る一方で、南朝にも使者を派遣し講和交渉にとりかかっている。尊氏は直義と違って原則論はほとんど主張せず、「天下のことはよろしく聖断あるべし」としごくあっさりと南朝天皇の主権を認めて交渉をまとめてしまった。もちろんお互いに一時の講和と分かった上での交渉だったのだろうが、それすらもできなかった直義の生真面目さがかえって浮き彫りになる。直義はこの段階で光厳ら北朝皇族に比叡山に逃れるよう勧めていて、これが尊氏に対抗するために北朝皇族を奉じようとしたものか、あるいは純粋に親切心から南朝による北朝接収を逃れるよう忠告したものなのかは分からない。

 9月に近江で尊氏・直義両軍の戦いがあり、これは尊氏側が勝利した。尊氏はそれでも直義に繰り返し和睦を求めて交渉しており、10月2日には近江・錦織の興福寺で二人で直接会談もしている。尊氏もその性格上、直義を徹底的につぶす気はなく、なんとか穏便に話をまとめたいと思っていたのだろう。だが、結局直義党の最強硬派・桃井直常の猛反対が和議をぶちこわし、直義は直常に従って北陸から関東へと逃れた。直義は桃井ら自分に忠実な部下たちを見捨てきれず、引きずられたのかもしれないが、こうした直義のかたくなな態度は細川顕氏、畠山国清といった腹心たちを尊氏側に寝返らせる結果も招いた。
 11月15日に直義は建武政権に反旗をひるがえした出陣以来じつに16年ぶりに鎌倉に入った。鎌倉には直義の養子である基氏が待っていた。直義はこの基氏を一方の旗頭にして関東に独立政権を作る意図があったとの見方もある。それはその16年前にも直義が構想していたものだった。だが基氏は直義に対して父・尊氏との和睦の仲介を申し出た。直義がこれを拒絶すると、基氏は鎌倉を出て伊豆(安房とも)に閉じこもってしまう。

―謎に満ちた最期―

 11月24日、尊氏は北朝を見捨てて南朝と完全に講和し(正平の一統)、後村上天皇から「直義討伐」の綸旨を受けた。尊氏は京を義詮に任せて関東へ出陣し、12月27日に駿河・薩埵山の戦いで直義軍を完全に打ち破った。敗れた直義は伊豆山中に逃れたが、畠山国清・仁木頼章が使者に立って直義に投降をすすめ、直義もそれを受け入れて尊氏の軍門に下った。尊氏と直義はひとまず「和睦」し、観応3=文和元年(正平7、1352)正月5日にそろって鎌倉に入った。

 このとき、基氏が実父と養父の兄弟の不和を嘆いて安房にひきこもり、尊氏からの使者をうけてようやく鎌倉に帰ってきた、という話が基氏の子孫・喜連川氏の歴史書「喜連川判鑑」にみえる。そして彼が鎌倉に帰ってまもなくの2月25日に基氏の元服が行われている(数えで13歳)。そしてその直後に、直義は急死した。享年47。
 直義は公式には「黄疸」による病死と発表されたが、尊氏に毒殺された―という「噂」が流れたという記述が「太平記」にあり、その命日がちょうど師直の一周忌にあたる2月26日であることから、「毒殺説」は昔からほぼ通説になっている。だが尊氏がこの時点で直義をわざわざ殺害する必然性が薄いこと、これまでにも直義に何度も講和を呼びかけた事実、毒殺の噂を記すのは「太平記」のみで物語的意図が強いことなどから毒殺という通説に疑問をとなえる声もある(最近では峰岸純夫氏が著書「足利尊氏と直義」で病死説を強く主張した)。また尊氏が手を下さずとも高一族の誰かが報復として殺したのではないかとする見方もある。

 最近では田辺久子氏が著書「関東公方足利氏四代」の中で、直義の死と基氏の元服があまりに接近していることに注目している。直義の死を「2月26日」とするのは「鶴岡社務記録」だが、生田本「鎌倉大日記」には2月25日に基氏が元服、その同じ日のうちに直義が死去したと記し「かの御逝去は以後」とわざわざ注記しているというのである。足利側の立場の史書「源威集」(佐竹師義が作者と言われる)では「2月25日に基氏元服、直義はその翌朝死去」と記しており、田辺氏はこれらの史料から「25日に基氏の元服式が行われ(一般的に夜行われたと推測)、それを見とどけた後で真夜中過ぎに直義は急死した」との見解を出している。さらに田辺氏は「直義は基氏の元服を見届けて覚悟の死を遂げたのかもしれない」と、直接的表現を避けつつも「直義は尊氏らと了解の上で自決した」とする新説を示している。あくまで推測の積み重ねで完全な証拠を見つけることは困難だろうが、直義の性格やその後の基氏が直義を非常に敬慕した事実からすると事実の可能性がかなり高いのではなかろうか。

 直義が死んだ場所は「常楽記」では延福寺、「鎌倉大日記」では大休寺、「建長寺年代記」では鎌倉稲荷智円坊屋敷とまちまちに記録されているが、いずれにしても足利義兼が創建した浄妙寺の一帯である。ここには父・貞氏の墓もあり、延福寺は早世した兄・高義の菩提を弔って建てられたもの、ここに隣接して足利氏の屋敷もあり、以後の鎌倉公方の邸宅ともなった。この足利一族ゆかりの寺で直義は死に、大休寺に葬られた。このため後年彼は「大休寺殿」と呼ばれることになる。残念ながら大休寺はのちに廃寺となり、直義の墓も現存していない。
 直義の死から6年後の延文3年(正平13、1358)2月12日、尊氏の強い要請により北朝朝廷は直義に対し従二位の贈位をした。公家たちも「すでに出家して死去した人物に対し異例。根拠も不明だ」と困惑したというが、自らの死期を悟った尊氏(この年4月30日死去)が直義の霊を慰めようとしたのではないかと言われている。尊氏の死後、二代将軍となった義詮は貞治元年(正平17、1362)7月に京・天竜寺の近くに直義を祭る祠を建立し、「大倉二位大明神」なる神とした。一説に、直義の死には義詮が深く関与していて、その怨霊を恐れたのではないかとも言われている(天竜寺も後醍醐の怨霊対策施設である)

―人物像―

 直義という政治家の生真面目ぶりについてはすでに書いたが、その他に彼についての逸話をまとめたい。
 直義は夢窓疎石に深く帰依したが、兄・尊氏がひたすらすがりつくような帰依を示すのに対し、直義はあくまで論理的に疎石と渡り合ったと言われる。直義と疎石の問答集「夢中問答集」は直義が素朴な疑問や論理の矛盾をつき、これに疎石がやさしく答えて禅の奥義を説明してゆくという構成になっており、直義のなみなみならぬ教養と論理的思考ぶりがうかがえる。
 禅僧との交流ではこんな逸話もある。ある日、禅僧たちが直義邸を訪問したとき、ひとり雪村友梅だけが遅れて帰ろうとしたが誰も履物を差し出さなかった。すると「副将軍」である直義みずからが履物をとって差し出したという。

 今川了俊は若き日に直義と顔を合わせることが多く影響もよく受けたのか、回想録「難太平記」で多くの直義の言動を伝えている。彼によると尊氏・直義が対立した時、人々は「直義は政道に私心がないから捨てがたい。尊氏は弓矢の将軍でさらに私曲がなく、これまた捨てがたい」と悩んだという。結果的に多くの人は人間的に親しみやすい尊氏についていってしまうのだが、冷徹で論理的でクソまじめで付き合いにくい直義の誠実さ、私心のなさは誰もが認めるところであったようだ。そして基氏のように尊氏の実子でありながら直義を強く敬愛した例もあり、尊氏を敵に回した人物でありながらも、その後の室町幕府にあって直義は「創始者」として敬慕の対象であり続けた気配がある。少なくとも了俊は直義のことをそうとらえている。

 その了俊が証言していることだが、南北朝動乱を描く軍記物語「太平記」そのものの編集に直義が深く関わっている。「難太平記」によれば「むかし」(康永年間?1340年代)に等持寺で法勝寺の円観慧鎮が「太平記」三十余巻を直義のもとに持ち込み、直義が玄恵に命じてそれを読み語らせ、直義はその内容に「誤りが多い」として訂正を命じた、という話が書かれている。むろん直義存命中のことであるからこの時点の「太平記」が現在読めるものと同じものであるはずはないが、恐らく後醍醐天皇の死去までを描く内容(「太平記」研究でいう第二部まで)だったと思われる。この記述から直義は「太平記」編纂に深く関与したと推測され、了俊の書きぶりだとその後も「太平記」は室町幕府のチェックを受け続け、事実上の「公式史書」の地位にあったようだ。
 後年「南朝正統」「足利逆賊」論の根拠とされてしまう「太平記」だが、確かによく読めば北条氏、後醍醐の失政を論じ、足利幕府成立が必然の過程として描かれている。ただ記述に政治介入したという割には尊氏や直義にとっては都合の悪そうな話もかなり残っており、これもまた直義の生真面目な性格がそのようにさせたのではないかとの見方がある。「太平記」の内容は直義の死後もリアルタイムで書き継がれ、最終的に細川頼之の手によりまとめられた可能性が高いが、この頼之もまた直義の政治姿勢を目標としていたフシがある。

 後年、直義の存在は兄・尊氏の陰に隠れたせいもあるのかあまり強くは意識されなかったようだ。ただ江戸時代の「仮名手本忠臣蔵」は赤穂事件を「太平記」の世界に置き換えた芝居だったので、高師直ともども足利直義もその冒頭にだけ登場している。「将軍」そのものを出すのを避けるために直義を登場させたのかもしれない。
 直義を室町幕府体制の実質的な創設者として高く評価したのは南北朝の大家・佐藤進一氏で、網野善彦・笠松宏至両氏との三者鼎談(平凡社ライブラリー「日本中世史を見直す」所収)「佐藤先生の直義びいきは誰の目にも明らか」とまで言われている。この鼎談でも直義は北条泰時の幕府政治を理想としてあまりに真面目に動き回り、それが「(後醍醐、師直などの)時代を変えようって人間にとっては、邪魔者でしかないわけですよ」(佐藤氏)「そうなると、直義は非常に保守的な存在になってしまう」(網野氏)と評されている。佐藤氏は「少なくとも泰時と同じ頃に生まれていればね、まだまだ直義もやりがいがあったかもしれませんね」とも表現し、その悲劇性を指摘してもいる(もちろん、頑固に保守的な人物でもなかったともフォローしている)

 ところで、1995年に美術史家の米倉迪夫氏により京都・神護寺にある三つの肖像画のうち、従来「源頼朝像」とされていた肖像画は実は「足利直義像」である、というショッキングな新説が発表された。歴史教科書にも定番で載り、恐らく日本史上もっとも有名な肖像画といっていい、あの傑作肖像画である。あれが実は「直義」だったというのだ。
 神護寺の記録「神護寺略記」には平安末期に生きた藤原隆信の手による後白河法皇・平重盛・源頼朝・藤原光能・平業房の五人の肖像画があると書かれている。神護寺に現在あるのはそのうち三像だが、実はどの絵が誰を描いたものかは明記がない。はっきり言ってしまえば「なんとなくあの人っぽい」ということでその三像が「源頼朝」「平重盛」「藤原光能」とされてきただけの話なのだ。特に「頼朝像」はこれを模したと思われる肖像画が大英博物館にあり、そこに「頼朝像」の明記があるので「確定」されていた。そして威厳に満ち、冷徹な性格を感じさせるその顔だちが人々の「頼朝イメージ」を完璧に結びつき、教科書等に載ることで再生産されてきた。
 しかし米倉氏はこの「頼朝像」の等身大肖像画という特異性、身につけている衣装の考察、そして画像技法の考察から制作時期を南北朝時代、その時代に生きた人物の寿像(存命の人物のその年齢の姿を描いた絵)と推定した。そして康永4年(興国6、1345)4月23日付で直義が神護寺に収めた願文のなかに「征夷将軍(尊氏)ならびに予(直義)の影像(肖像画)をここに安置する」と明記していることに注目し、左を向いている「重盛像」を「尊氏像」、右を向いている「頼朝像」を「直義像」と断定した(残りの一枚は後から追加された「義詮像」とする)。この康永4年という年は軍事的に足利幕府が南朝をほぼ完全に制圧し、観応の擾乱が始まるまでの安定期にあたり、足利兄弟による支配確立を誇示し、その安泰を祈願する意味があったのではないかと推測している。
 この説が発表されると、歴史学界、美術史学界に大きな波紋を呼んだ。傾向として歴史学者は「直義説」を支持する方向にあり、政治史的にこの説を裏付ける意見も出ている。一方で美術史方面ではとくに古参の学者の間では批判も強く、制作年代を鎌倉時代までさかのぼらせる反論も出ている。だが、いずれにしても「頼朝像」とする根拠がはなはだ薄弱なものであったことは明らかにされた。

 直義は肖像をほかに全く残していないので証明のしようがないのだが、残り二つの肖像画は「尊氏」「義詮」とされる他の肖像と比較すると似てると言えば似ており、直義像の可能性はやはり高いとみるべきではないか。
 あの「頼朝像」は、伝えられる頼朝のイメージによくマッチしていたからこそ「頼朝」と信じられてきた。だが、あの肖像を「直義」と言われてみると、確かに直義のイメージにもよくマッチしてくる。冷徹で、威厳のあるその姿は「副将軍」として幕府を切りまわしていた絶頂期の直義の姿を写したものであったのかもしれない。仮にこれが本当に直義像なら、自身の肖像が後世に彼自身も尊敬したであろう「頼朝」とされてしまったことに、直義も地下で恐れ入りつつ苦笑していたかもしれない。
 歴史人物としては決して知名度は高くない直義だが、実はもっとも顔をよく知られた歴史人物だった、という大逆転になるのかも…。

参考文献
高柳光寿「足利尊氏」(春秋社)
佐藤進一「南北朝の動乱」(中公文庫)
森茂暁「太平記の群像・軍記物語の虚構と真実」(角川選書)
佐藤進一・網野善彦・笠松宏至「日本中世史を見直す」(平凡社ライブラリー)
米倉迪夫「源頼朝像・沈黙の肖像画」(平凡社ライブラリー)
田辺久子「関東公方四代」(吉川弘文館)
櫻井彦・樋口州男・錦昭江編「足利尊氏のすべて」(新人物往来社)
峰岸純夫「足利尊氏と直義・京の夢、鎌倉の夢」(吉川弘文館・歴史文化ライブラリー)
黒田日出男「国宝神護寺三像とは何か」(角川選書)
大河ドラマ「太平記」  3、14、29、30回以外の全ての回に登場し、主人公の尊氏を除くと最多の登場数を誇る。演じたのは高嶋政伸で、血気盛んな若武者時代から幕府首脳時代、尊氏に毒殺される最終回までを熱演した。謹厳実直かつ潔癖ぶりも描かれたが、尊氏と比較して武人らしい熱血タイプに描かれためか、直義ファンを公言する歴史家・佐藤進一氏は放送時「大変不満でね。直義があんな男であるわけがないという…」と切って捨てていた(網野善彦も「ミスキャスト」と同意したが熱演は認めている)。だが「幕府はわしが作った!兄上はわしがいなければ何もできなかったではないか!」と引退を迫る尊氏に対して絶叫するシーンや、最終回の「よくご決断なされた。兄上は大将軍じゃ…」と言い残す壮絶な毒殺シーンは大河ドラマ史上の名場面としてファンの間では語り草になっている。
 「当初は緒形直人の予定だった」との情報もあるが未確定。緒形直人は「太平記」の翌年の「信長」で主演している。
その他の映像・舞台  1933年製作の映画「楠正成」丹下知嘉が演じている。しかしどういう形での登場かは不明。
 昭和34年(1959)のTVドラマ「大楠公」では末広憲治、昭和41年(1966)のTVドラマ「怒涛日本史 足利尊氏」では仲谷昇が演じている。
 舞台では昭和3年(1928)の自由劇場「足利尊氏」で市川猿之助(二代目)が直義を演じた(尊氏役は市川左団次(二代目))のが最古の例と思われる。1961年の舞台「幻影の城」では日下武史、同舞台の1969年公演では浜畑賢吉が演じている。
 なお、「仮名手本忠臣蔵」は赤穂浪士の討ち入りを「太平記」の時代に移した内容で、足利直義は幕閣(老中?)にあたる役どころで登場しており、それを含めれば演じた俳優はかなり多い。「忠臣蔵」から離れた南北朝もの歌舞伎としては大河と同じ平成3年(1991)の歌舞伎「私本太平記 尊氏と正成」があり、そこでは松本錦弥(三代目)が直義を演じた。
 昭和58年(1983)のアニメ「まんが日本史」では第22〜25回に登場、池田勝が直義の声を演じた。
歴史小説では 南北朝時代を描く作品なら当然ほぼ確実に重要人物として登場する。ただ尊氏とセットで語られることが多く、その個性が描かれることはあまり多くない。現時点で直義だけを主人公にした作品はないはずである。
吉川英治「私本太平記」では主役が尊氏ということもあって全編を通して重要人物で、祖父・家時の置文とからめて兄弟の愛憎が描かれた。ただ湊川の戦い以降がダイジェストになっているため、兄弟の確執の過程は詳しくは描かれない。吉川英治の直弟子である杉本苑子の「風の群像・小説足利尊氏」では直義にかなり焦点があてられており、直義ファンからの評価が高い。この小説では直義は尊氏の手ではなく南朝の策謀によって死に至らされる。林青悟「足利尊氏」も尊氏による直義毒殺を否定する。
桜田晋也「足利高氏(文庫版は「尊氏」)」は「高氏」を徹底的に悪者として描く作品だが、ここでは直義は高氏に忠実に動くだけでやがてその兄に裏切られる気の毒な人という描かれ方になっている。安部龍太郎「道誉と正成」では尊氏を善人に描くぶん直義が悪者扱いされる傾向が強く、正成はもちろん道誉にまで嫌われるキャラクターに描かれた。
漫画作品では  学習漫画系の南北朝時代・太平記漫画版などでは当然皆勤状態。古くは昭和40年代の集英社版「学習漫画・日本の歴史」に登場、ここではなぜか最終的に尊氏と和解してしまい、毒殺がないどころかいっしょに南朝に逆襲してくるという完全に史実にもとる展開が描かれていた。小学館版「少年少女日本の歴史」では最初「王貞治」の似顔絵みたいな顔で登場するが、なぜか途中から顔が変化している。学校図書「コミックストーリーわたしたちの古典14・太平記」(漫画:千明初美)では冒頭で直義が慧鎮から初版「太平記」を読まされ、「誤りが多い」と怒る場面がある。
 石ノ森章太郎「萬画・日本の歴史」では観応の擾乱の果てに鎌倉で尊氏と直義が「鎌倉は16年ぶりか…そなたと共に鎌倉の空を見るのは…お前がいなかったらおれはここまでやれなかっただろう。本当のところ将軍はお前のほうだったかもしれん」「いえ、武士たちは結局兄者をとった…」と語り合う場面が印象的。「毒殺」については「太平記」を引用する形でぼかされており、椿の花が雪の上に落ちるカットで表現される。
 一般の漫画ではなんといっても湯口聖子「風の墓標」を挙げねばならない。北条氏びいきのこの作家のシリーズの最終章にあたる作品だが、主人公となるのは赤橋四郎(守時の弟の設定)・北条仲時そして足利直義の三人である。この三人の熱い友情が物語の軸となるが、やがて直義は苦悩のうちに討幕側にまわる。メインヒロインの章子(赤橋四郎の妹)と直義のラブストーリーも主軸となっていて、物語の最後、後日談部分で直義毒殺も描かれている。「続・風の墓標」という仲時の遺児を描く中編でも直義が再登場する。直義の養子・直冬を描く「北天の星」でも直義が回想としてチラッと出ており、作者の直義に対する思い入れをうかがわせる。なお、作者は大河ドラマで高嶋政伸のキャスティングを聞いて「三の線だった」とガッカリしている(笑)。この作品で直義が「苦悩の美青年」と描かれたこともあって女性の直義ファンが急増したらしく、他にも少女漫画系でいくつか直義が登場するものが存在する。
 例えば河村恵利の「時代ロマンシリーズ」の第1巻と第2巻には直義を主人公とする短編が合計3作存在する。第1巻収録の「雨の糸」「火炎」の二作は倒幕から建武政権打倒にかけての直義を追い、人の好い兄を支えて非情な謀略をめぐらす美青年という役どころ。第2巻収録の「春宵」はそんな直義の恋物語で、妻となる渋川氏との馴れ初めがミステリ風味に語られる。
 さらに市川ジュン「鬼国幻想」がある。阿野廉子の異母妹・緋和(架空人物)を主人公に南北朝ドラマを描く作品で、物語の前半、緋和は護良と恋人関係にあるのだがその時点から直義とも微妙な関係をもつ。直義が護良を殺してしまうので緋和は直義を激しく憎悪して復讐を誓うが、「憎悪は恋愛と同じ」というわけで物語の後半は緋和と直義のラブストーリーである。ラストの直義の死は真相をぼかした描き方だが、尊氏は関与せず自殺であったことをほのめかす描写になっている。
 十川誠志・原作/あきやま耕輝・画「劇画・楠木正成」では回想部分で建武政権期に町中で偶然会った正成と直義が政治論を戦わせるという珍しい場面があり、湊川合戦で正成が直義にあと一歩まで迫るシーンもある。
PCエンジンCD版  北朝方武将として尊氏と同じ相模伊豆に登場。初登場時の能力は統率83・戦闘93・忠誠99・婆沙羅38で、大軍を率いられる上に戦闘も強力。兄・尊氏とコンビを組ませるとほとんど無敵。政治要素のないこのゲームでは全く個性が生かせないのが残念。
 オープニングのビジュアルシーンにも登場し、家時の置文を尊氏と見る場面がある。声は水内清光
PCエンジンHu版 シナリオ2「南北朝の動乱」で幕府方武将として山城・延暦寺に登場。シナリオ2ではプレイヤーは南朝側を操作するので、直義はクリアのために倒さなければならないラスボスである。能力は「長刀4」
メガドライブ版 足利軍武将の一員として多くのシナリオに登場。能力は体力104・武力144・智力103・人徳85・攻撃力129で、ゲーム中でも屈指の強力武将。
SSボードゲーム版 武家方の「総大将」クラスで勢力地域は「全国」。合戦能力1・采配能力6と兄・尊氏にはやや劣る。ユニット裏は養子の足利直冬。

足利如意丸 あしかが・にょいまる 1347(貞和3/正平2)-1351(観応2/正平6)
親族 父:足利直義 母:渋川貞頼の娘(本光院殿)
生 涯
―夭折した直義の実子―

 足利直義と、その妻・本光院殿(渋川貞頼の娘)の間に生まれた実子。直義夫妻には長く子がなく、兄・尊氏の庶子・直冬を養子としているほか、尊氏の四男である基氏も一時養子としてひきとっていたと伝えられる。ところが夫婦ともに四十を過ぎた時点で直義の妻が初めて懐妊、周囲も驚くなか貞和3年(正平2、1347)6月8日に吉良満義の館で無事に男児が生まれた。この子は如意丸と名付けられ、当時直義が幕政を取り仕切る実力者であったこともあり、直義と懇意であった光厳上皇から太刀が贈られたほか、公家・武家ともにこぞって馬や太刀を贈って祝ったという。

 四十を過ぎてからの後継ぎ誕生は直義夫妻にとって望外の喜びであっただろう。だがこの如意丸の誕生が当時くすぶり始めていた足利家・幕府内の対立に一つの火種を投げ込んだかもしれない。このとき直義は将軍・尊氏から政務一切を任されていたが、直義に実子の後継ぎができたとなると、次代の足利家および幕府の執政は尊氏―義詮のラインではなく直義―如意丸のラインで引き継がれる可能性が出ることになる。直義にそのつもりがあったかどうかはともかく、尊氏周辺、とくに尊氏の正室赤橋登子などは実際に警戒したのではないか。事実として幕府の内紛が激化し、「観応の擾乱」につながってゆくのは如意丸誕生後の流れなのである。『太平記』が如意丸誕生を動乱を巻き起こそうとする南朝の怨霊の仕業(如意丸は護良親王の転生)として描くのは、そうした史実を婉曲に表現したものかもしれない。

 その後直義は高師直らのクーデターで失脚、南朝と結んで尊氏と戦った。観応2年(正平6、1351)2月17日の打出浜の戦いで直義軍は尊氏軍に圧勝、21日には直義が幕政に復帰し高師直らは出家引退する(実際には直後に殺害される)という条件で講和が成った。直義にとって先行き明るい見通しができた時期であったが、どうやら如意丸はこのとき病にかかっていたらしい。直義がこの幼児をわざわざ八幡の陣中に連れて来ていたのは、その容体が心配だったからではあるまいか。
 結局2月25日、如意丸は八幡の陣中で死んだ(「太平記」は26日とし、数え年も一つ少ない四歳とする)。「太平記」は「母儀をはじめたてまつり、上下万人泣き悲しむこと限りなし」と記していて、如意丸の母も陣中に付き添っていたことをうかがわせる。そして父の直義もこの一年後に非業の最期を遂げることになる。

参考文献
高柳光寿「足利尊氏」(春秋社)

足利満詮 あしかが・みつあき 1364(貞治3/正平19)-1418(応永25)
親族 父:足利義詮 母:紀良子 妻:藤原誠子
兄弟:千寿王・柏庭清祖・足利義満・廷用宗器
子:増詮、持円、持弁、義賢、安禅寺比丘尼
官職 左馬頭・左兵衛督・参議・権中納言・権大納言・贈左大臣
位階 従五位下→従五位上→従四位下→従三位→従二位→贈従一位
生 涯
―ひたすら地味だった義満の弟―

 二代将軍・足利義詮と側室・紀良子の間に生まれた足利義満の同母弟。貞治3年(正平19、1364)5月29日生まれの義満より六歳年下で、同じ両親をもつ兄弟ながら公私ともに派手で華やかな人生を送った義満とは対照的に、ひたすら地味で控え目な人生を歩んだ。幼名は乙若丸という。

 貞治6年(正平22、1367)12月、乙若が3歳の時に父・義詮が病死し、兄・義満が三代将軍となった。永和元(天授元、1375)11月19日に元服、翌年に従五位下に叙され、永和4年(天授4、1378)12月に義満が紀伊方面の南朝勢との戦いを鼓舞するべく将軍自ら東寺まで出陣した際、満詮は兄とそろいの錦の直垂で身を飾り、数百の兵士と共にこれに同行した。これが満詮のほぼ唯一の軍事行動である。

 義満が武家・公家において絶対的な権勢を握っていったのに対し、満詮はひたすら控えめで表立った政治活動も見当たらない。義満が放置しがちであった生母・良子(実際に出奔騒動も起こしている)を満詮が引き受け、共に武者小路小川邸に暮らしたため満詮は「小川殿」の別称で呼ばれている。
 応永9年(1402)に参議、従三位に昇り、翌応永10年(1403)には従二位、12月3日に権大納言となるが、わずか4日後の12月7日に小川邸にて兄・義満の剃髪を受けて出家してしまい、権大納言への叙位は出家後に沙汰されたという。出家の動機は不明であるが、これ以上の官位上昇をきらったものか、あるいはやはり太政大臣になりながら直後に出家した義満の意向があったのだろうか。出家後の法名は「勝山道智」という。

 満詮には誠子という妻がいて、満詮の子の持円持弁は彼女が生んだとみられる。ところが誠子は義満の召しを受けてその側室の一人となり、応永13年(1406)に義満の子・義承を生んでいる。多くの女性を側室に持ち、中には他人の妻を奪い取った例もある義満であるが、実の弟の妻を奪い取ったことには呆れてしまう。だがそれで義満と満詮の仲が険悪になった様子もない。その義満も応永15年(1408)に急死し、その5年後の応永20年(1413)には母・良子もこの世を去った。

 応永23年(1416)10月2日、前関東管領の上杉禅秀らが鎌倉公方・足利持氏に対して反乱を起こし、鎌倉を占領した(上杉禅秀の乱)。情報を知った四代将軍・足利義持は10月29日に幕府で評定を開き対応を協議したが、一同の沈黙を破って満詮が「持氏殿は将軍の烏帽子子、見放すわけにはいきますまい。また敵がすでに鎌倉を攻め落とした上は京都で謀反を起こそうとするかもしれませぬ。そのためにも持氏殿を助けるべきです」と意見し、義持以下諸大名も同意したという(「看聞日記」)。満詮の予測通り、翌日に義持の異母弟・義嗣が逐電し京は大騒ぎになった。義満に愛され後継者と目されていた義嗣は義持に不満を抱き、上杉禅秀らとひそかに連絡をとっていたらしく、満詮はあるいはそうした状況を察知していたのかもしれない。万事控えめで政治的逸話もこの一件ぐらいしかない満詮であるが、決して凡庸な人物ではなかったようである。

 応永25年(1418)5月14日に没。享年五十五。等持院で荼毘に付されたが、「諸人これを惜しむこと父の如し」であったと伝えられる。控えめな性格ながらすぐれた人物として多くの人の敬愛を集めていたことは事実のようである。その夜のうちに従一位・左大臣の贈位贈官があり、養徳院贈左府と称されることになる。子はいずれも僧籍に入っていて子孫を残さなかった。

参考文献
臼井信義「足利義満」(吉川弘文館・人物叢書)
伊藤喜良「足利義持」(吉川弘文館・人物叢書)ほか

足利満兼 あしかが・みつかね 1378(永和4/天授4)-1409(応永16)
親族 父:足利氏満 兄弟:足利満直、足利満隆、足利満貞
正室:一色範直の姉
子:足利持氏、足利持仲
官職 左兵衛佐・左馬頭・左兵衛督
位階 従五位下→従四位下
幕府 鎌倉公方(第3代)
生 涯
―野心満々の第3代鎌倉公方―

 第2代鎌倉公方・足利氏満の長子。母親は不明である。応永5年(1398)11月に父・氏満が死去し、家督を継いで第3代鎌倉公方となった。
 先の明徳年間に鎌倉公方は将軍・足利義満から奥州の直轄統治を認められていたので、翌応永6年(1399)春に満兼は弟の満直満貞を奥州南部の稲村と篠川(それぞれ福島県須賀川市と郡山市内)に派遣し、「稲村御所」「篠川御所」として奥州支配にあたらせ、満兼自身もこの年7月に陸奥白河・稲村を訪れている。しかし現実にはそれより北は伊達・大崎氏らの勢力が強く、奥州最南部まで影響を及ぼすのが限界であった。

 この応永6年(1399)11月、西国の有力大名・大内義弘が軍勢を率いて和泉の堺に上陸、足利義満に対して反乱を起こした(応永の乱)。このとき義弘は、義満に九州探題職を解かれて不満を持っていた今川了俊を通じて満兼に連絡をとって義満を東西から挟撃する戦略を立てており、満兼もこの年7月25日の段階で奈良の興福寺に対し「天命を奉じて暴乱を討ち、まさに国を鎮め民を安んぜしめんとす」として味方につくよう催促するなど早くから呼応する動きを見せていた。祖父・基氏、父・氏満と続いた鎌倉公方の京都将軍にとってかわろうとする野心は、まだ若い満兼の胸に激しく燃えあがったようである。

 10月27日に満兼は「天下の事」のためとして各地に軍勢を催促、義弘も10月28日の書状で満兼が軍を起こして京を目指すとの情報を記している。11月になって満兼は実際に軍を起こし(表向きは幕府支援を標榜した)、武蔵まで出陣した。ところが12月21日に堺は幕府軍の攻撃で陥落、大内義弘はあっけなく戦死してしまった。これを知った満兼はそれ以上西へは進軍しなかったが、あきらめきれなかったのか武蔵に在陣したまま翌年3月まで鎌倉に帰らなかった。満兼の動向は義満も気を揉んでおり、山内上杉の上杉憲定にしきりに連絡をとって情報を求めている。

 同年6月15日、満兼は三島大社に願文を納めた。その中で満兼は「誤って浅はかにも大軍を起こそうとした」が、「補佐の遠慮・諫言」(上杉憲定の意見を指すか)により軍事行動をやめたことを記し、自身の過ちを改めて罪を謝すことで京・鎌倉の和解と家門の繁栄を祈っている。この願文は義満の疑念を避けるために憲定の勧めで納められたものとみられ、表面的にせよ満兼による野望断念の表明であった(一方で野望があったことも認めたことになる)
 それでも義満の満兼に対する警戒心は消えず、翌応永8年(1401)に義満が関東調伏の祈祷を行わせた事実もある。また奥州の伊達政宗(義満の母・良子の妹を妻に迎えており、義満と縁戚関係があった)をけしかけて鎌倉府支配に抵抗させもした。これに対して満兼は応永9年(1402)5月に上杉氏憲(のちの禅秀)を派遣して伊達政宗を討ち、9月には政宗を投降させた。だがそうした状況に神経質になったためか、その間の7月に「満兼が発狂した」との風聞が京都に流れている(「吉田家日次記」)

 その後は野心を胸に秘めつつも表面的にはおとなしくしていた満兼だが、義満の死の翌年、応永16年(1409)7月22日に三十二歳の若さで死去した。法名は泰岳道安、瑞泉寺塔頭勝光院に葬られたので「勝光院殿」と称された。
 満兼の死後、嫡子の幸王丸(持氏)が4代目の鎌倉公方となった。満兼の野望は持氏にも受け継がれ、将軍・足利義教と決定的に対決を深めて「永享の乱」で鎌倉公方を滅亡に追いやることになる。

参考文献
田辺久子「関東公方足利氏四代」(吉川弘文館)ほか
漫画作品では 学習漫画での登場例がいくつかあり、旧集英社版(昭和40年代?)の「学習漫画日本の歴史」の室町時代編「たちあがる民衆」で応永の乱の際に満兼が大内義弘に呼応して挙兵する様子がコメディタッチで描かれている。小学館版「少年少女日本の歴史」の「南朝と北朝」の義満の章でも満兼が上杉憲定の制止を振り切って出陣する様子が描かれている。

足利基氏 あしかが・もとうじ 1340(暦応3/興国元)-1367(貞治6/正平22)
親族 父:足利尊氏 母:赤橋登子 養父:足利直義 兄弟:足利直冬・足利義詮・聖王ほか
妻:畠山家国の娘(清渓尼)
子:足利氏満 
官職 左馬頭・左兵衛督
位階 従五位下→従四位下→従三位
幕府 初代鎌倉公方(関東公方)
生 涯
 足利尊氏の五男。初代の鎌倉公方(関東公方)となり、その子孫は鎌倉公方、古河公方、喜連川公方となって江戸時代まで足利家を伝えた。明治になって華族となった足利氏もこの基氏の系統である(もちろん間に何度か養子が入り、血統はつながっていない)

―幼くして関東の主に―


 尊氏の正室・赤橋登子が産んだ義詮聖王に続く三番目の男子であることから、当時は尊氏の三男と認識されており、鎌倉に下ったのち「鎌倉三郎」の通名があった。誕生年は死去時に「二十八歳」という確証があることから暦応3年(興国元、1340)と分かる。基氏が京で誕生した時は、父・尊氏36歳、母・登子35歳でもっとも脂が乗った時期といえ、幕府も成立して情勢が一応安定した時期であった。一歳上の兄・聖王(ひじりおう)に続いて生まれた彼は「光王(ひかりおう)」(光王丸)と名付けられた(幼名を「亀若」とする史料もある)

 康永3年(興国5、1344)6月17日に直義の養子で実は尊氏の子である誰かが「学問始・着袴(ちゃっこ。はかまを着ける)・馬乗始・弓始」をしたとの記事が「師守記」にある。従来これは足利直冬のこととする説があったが、これらの儀式は五歳前後で行われるものであることから、これは光王が直義の養子として現在で言う七五三のような儀式を行ったものと見る方が正しいと思われる。光王(基氏)が直義の養子となっていたとする記事は他にも確認でき、その時期については意見が分かれているが、この「師守記」の記事からすると光王は3〜4歳で直義の養子にされていたと考えられる。
 直義にはなかなか男子が生まれず、一方の尊氏には三人の男子(直冬を入れれば四人だが、尊氏は直冬を実子と認めなかった)があるため、幕府の権力を分担する兄弟の絆を深める目的で一番下の光王を直義の養子にしたのだろう。もっともその後に康永4年(興国6、1345)8月に聖王が七歳で早世し、貞和3年(正平2、1347)6月に直義に待望の男子・如意丸が生まれ、このことが尊氏と直義の間に微妙な波風を呼んだ気配がある。

 貞和5年(正平4、1349)、幕府内で直義派と高師直派の対立が激化し、8月に師直がクーデターを起こして尊氏と直義を将軍邸に包囲し、直義を失脚に追い込んだ。これは尊氏が、弟の直義から嫡子の義詮に政治権力をスムーズに譲らせるために仕組んだ「芝居」であったとみられる。この事件の結果、それまで長く鎌倉に置かれていた義詮が京に迎えられることになり、その交代のために光王がわずか十歳で鎌倉に下ることとなった。9月9日に光王は京を発ったが(「武家年代記」)、よほど急な出発だったのか深夜のうちに百騎足らずの兵士に守られて旅立ったという(「園太暦」)。これ以後、彼は二度と京に戻ることはなかった。光王が鎌倉に到着するとそれと入れ替わりに義詮が10月に鎌倉から京に移動している。

 わずか十歳(満年齢なら9歳)の幼さで鎌倉に下った光王は関東の主となった。これを「鎌倉公方(関東公方)」の初代とするのが通例だが、原型は建武政権期に成良親王を奉じた直義による鎌倉ミニ幕府体制にみえ、建武の乱以後は少年時代の義詮が鎌倉から関東を治めていて、光王はそれを引き継いだ形になる。幼い光王の補佐は義詮時代に引き続き上杉憲顕(尊氏・直義の母方のいとこ)高師冬(師直のいとこ)の両名があたった。この二人はそれぞれ直義派・師直派の関東におけるリーダーでもあり、中央の情勢と連動して激しく対立していた。

―父と叔父・実父と養父のはざまで―

 中央では翌観応元年(正平5、1350)10月に直義が南朝と結んで挙兵した。これに呼応して関東でも上杉憲顕らが鎌倉を離れて上野で挙兵する。慌てた高師冬は光王を連れて鎌倉を脱出したが、12月25日に相模国毛利荘湯山で上杉側に内通した者たちが光王を奪回、12月29日に光王は憲顕に迎えられて鎌倉に帰った。この直後に師冬は甲斐で攻め滅ぼされる。幼い光王にとってはわけのわからぬ恐怖の連続の日々だったに違いない。
 この直後から光王の花押(サイン)の入った文書が発行されている。当時の武士の慣行では元服した上で15歳で「判始(はんはじめ)」、すなわち公文書発行が行えることになっていたが、このとき光王はまだ数えで12歳で元服前であり、本来彼のサインした文書は効力を持たない。だが憲顕としては非常事態のおりなので関東武士を統率するために幼い光王のサインを必要と考えたらしい。

 観応2年(正平6、1351)2月26日に師直以下の高一族は武庫川で虐殺され、「観応の擾乱」はひとまず直義一派の勝利となった。だがこの年の7月には尊氏・直義の和睦は崩れ、今度は尊氏が南朝と手を結んで直義を打ち破った。敗れた直義は北陸から関東へとのがれ、11月15日に鎌倉に入った。直義は自分が育てた養子である光王を旗頭にしようとした可能性がある。だが光王は父と叔父、実父と養父の和解を求めて直義の要求をはねつけたらしく、しばらく安房(伊豆とも)にひきこもってしまったとの話が、基氏の子孫の喜連川氏が編纂した史書「喜連川判鑑」に載る。

 12月に駿河で尊氏・直義両軍の決戦が行われ、尊氏側が勝利した。直義は伊豆の山中に逃げ込んだが、尊氏からの降伏勧告を受け入れて投降、年が明けて文和元年(正平7、1352)正月6日に尊氏・直義はそろって鎌倉に入った。この間光王は「二人の父」の和解を求めて安房にひきこもっていたが、尊氏からの呼び出しを受けて鎌倉に戻った。
 2月25日、光王の元服が父・尊氏らの立ち会いのもとで執り行われた。恐らく叔父で養父の直義も同席していたのではあるまいか。直義が急死するのはその直後のことで(25日深夜から26日早朝までの間)、直義は「わが子」である光王の元服を見届けてから「覚悟の自殺」をしたのではないかとの説もある(田辺久子「関東公方四代」)
 元服した光王は「基氏」という名乗りを授けられた。むろん父・尊氏の「氏」を受け継いだものだが、「氏」の字は鎌倉時代の足利宗家が代々引き継いだ字でもある。京の義詮の子孫たちは源氏嫡流を意識した「義」の字を継いでいくが、鎌倉の基氏の子孫たちは「氏」の字を継承していくことで「こちらこそが足利本家」という対抗意識をどこかひきずっていくことになる。

―初代鎌倉公方として―

 直義の死の直後、閏2月に南朝が和平を破って畿内と関東で同時作戦を起こした。関東では信濃から宗良親王が出陣して南朝軍の司令官となり、越後・上野にひそんでいた新田義貞の遺児・新田義興義宗らが挙兵して鎌倉奪取を目指した。以前基氏を補佐していた直義派の上杉憲顕は南朝側に寝返り、新田軍と行動を共にしている。
 尊氏はこれを迎え撃つべく武蔵に出陣した。鎌倉の留守は基氏があずかったが、その隙を突いて新田軍が鎌倉へ突入、基氏は家臣らに守られて鎌倉を脱出して父のもとへ合流した。その後の武蔵野合戦で尊氏は南朝軍を撃破し、3月12日には鎌倉も奪回した。

 こののち翌年の文和2年(正平8、1353)7月まで、およそ1年半にわたって尊氏は鎌倉に滞在した。一時重体に陥るなど病んでいたためもあったらしいが、幼い基氏に引き継がせるまで関東の平定をしっかりと行っておこうと考えたようでもある。この期間は関東の政治は尊氏の名のもとに行われており、この年8月に基氏は従五位下・左馬頭となっている。
 この時間は基氏にとっては養父・直義の死の衝撃をいやすと共に、思いがけず実父と落ち着いた交流ができたひとときでもあったようだ。このころ尊氏が自らも凝っていた雅楽の楽器「笙(しょう)」を基氏に教えていた事実がある。笙を伝える豊原家の相伝系図によると秘曲「荒序」は豊原龍秋から建武年間に尊氏に伝えられ、さらに尊氏から基氏に伝えられていて、伝授はこの時期のことと推測される。文和元年(正平7、1352)12月には尊氏自筆の書状を受けた龍秋の次男・豊原成秋が基氏の笙の師匠となるために関東に下っていることも確認でき、ここにも尊氏の子煩悩ぶりが垣間見えて面白い。あるいは実父と養父の間で苦悩した少年・基氏の心を音楽でなぐさめようとしたのだろうか。
 その後も基氏は笙を深く愛好して熱心に学び、戦陣においてもよく曲を奏でていたとの話が「源威集」に出てくる。笙は彼にとっては父・尊氏との絆を実感させるものであったのかもしれない。

 文和2年7月28日、京へ戻る直前の尊氏は14歳になった基氏を鎌倉から出して入間川(現・埼玉県狭山市)に出陣させた。依然として上野方面の南朝軍の活動は活発であり、それに対する牽制であったと見られる。これ以後基氏は、貞治元年(正平17、1362)までの9年間この入間川に在陣したまま関東の統治にあたり、「入間川殿」「入間川公方」などと呼ばれることになる。
 関東を去るにあたって、尊氏はかつて直義党で尊氏に鞍替えした畠山国清を基氏の側近として残した。やがて基氏は国清の妹(娘とする見解もある)を妻として迎えることになるが、これは尊氏が取り決めたものと考えられている。

 鎌倉を去ってから5年近く後の延文3年(正平13、1358)4月30日に尊氏は京で波乱の生涯を閉じた。尊氏の遺骨は京の等持院に葬られたが、その遺髪が鎌倉に送られて、鎌倉の北西・亀ヶ谷にある長寿寺に納められ、ここにも尊氏の墓が建てられた。それは当然息子の基氏によって執り行われただろう。長寿寺は基氏によって創建されたとする説があるのも(事実ではないとみられるが)、基氏が尊氏遺髪を長寿寺に埋葬してこの寺を整備した事実があるからだと思われる。以後、関東では尊氏のことを「長寿寺殿」と呼ぶようになった。
 基氏はこの長寿寺のほか、鎌倉五山と呼ばれる禅寺の整備にも力を注いだ。延文4年(正平14、1359)8月に基氏は夢窓疎石の後継者である春屋妙葩に弟子10人の鎌倉への派遣を要請している。これに応えて義堂周信ら夢窓門下の高僧たちが鎌倉に下り、建長寺や円覚寺に入って鎌倉の禅宗界を盛り上げている。とくに義堂周信は基氏と深い親交を結ぶことになった。

―直義に学んだ政治姿勢―

 延文3年(正平13、1358)10月、基氏と国清は謀略をもって新田義興を多摩川・矢口の渡しで殺害した。これにより関東南朝方はその最たる指導者を失い、以後二度と勢いを取り戻すことはなかった。
 翌延文4年(正平14、1359)正月に基氏は左兵衛督に昇進した。前年年末に兄の義詮は征夷大将軍となっており、基氏がなった左兵衛督はかつて叔父の直義が任じられていた官職でもあった。父・尊氏亡きあと全国の武士たちに足利家の威光を示す意味もあったのだろう、この年義詮は南朝に対する攻勢を強め、基氏もこれに協力して関東の武士に召集をかけて畿内へ向かわせ、11月には畠山国清を畿内へ出陣させている。ただ基氏自身はあまり乗り気でなかったらしく、このとき早くも「兄弟不和」との噂が流れたという。

 しかしこの攻勢は幕府内の内紛も絡んでほとんど成功を収めず、国清は翌年8月に空しく関東に帰ることになった。この出陣は長期に及んだため関東武士たちの多くが勝手に帰国してしまっており(当時の武士の出陣費用は基本的に自腹である)、国清は彼らに対して領地没収など厳罰をもって臨んだ。これに怒った関東武士たち千人以上が連判署名して基氏に国清の更迭を訴える。「太平記」ではこの場面で基氏は「下の者が上の者の更迭を要求するなど、下剋上の至りだな」と内心怒ったが、「この者たちにそむかれたら東国は一日として穏やかにはなるまい」と考えて国清の更迭を決意したことになっている。康安元年(1361)11月23日に国清は入間川から追放され、伊豆に立てこもって抵抗したが、基氏から討伐軍を送りこまれて翌年9月に降参することになる。

 国清の後任の関東管領に、基氏は高師有を任じた。高一族のうち直義派に属して生き残った高師秋の子である。そしてこの師有の妻は上杉憲顕の姉妹であり、この人事は基氏がかつての直義党の政治路線に舵を切ったことを示すものと考えられる。そしてようやく入間川から鎌倉に戻った基氏は貞治2年(正平18、1363)3月に十年間越後に潜伏していた上杉憲顕に書状を送り、関東管領への就任を要請する。憲顕はこの間に出家しており、出家した者が管領(執事)職につく前例がないことから、将軍・義詮に承諾を求めるため基氏がわざわざ上洛しようともしたらしい。結局は上洛しないまま憲顕は関東管領になり、関東政界に完全復帰した。これ以後、関東管領職は上杉家の世襲となっていく。
 憲顕はかつて直義からその政治をほめられた人物であり、政治姿勢も直義と似ていたからこそ、基氏は過去のいきさつは目をつぶってその復帰をうながしたのだと思われる。基氏が直義を尊敬し、その政治姿勢を真似ていたことは義堂周信が「基氏さまは演劇(田楽・猿楽)を好まなかった。政務のさまたげになるからである。それは直義さまがそうだったからだ」と証言していることからもうかがえる。

 当然ながら上杉憲顕の復帰には反発もあった。とくに憲顕に越後守護職を奪われた下野の宇都宮氏綱は重臣であり一門でもある芳賀禅可(高名)と結んで反乱を起こしたが、基氏みずから出陣してこれを討ち、投降させている。
 翌貞治3年(正平19、1364)7月には上総守護をつとめていた新田一族の世良田義政が突然基氏の「勘気」を受けて討伐され、兄弟三人そろって自害に追い込まれている。基氏は冷徹果断なところも直義ゆずりだったようで、彼の時代に関東の動乱はほぼ終息に向かっている。

―兄・義詮との微妙な関係―

 貞治4年(正平20、1365)5月4日に生母の登子が京で死去している。十歳で鎌倉に下って以来15年も会わぬままだった母の死に基氏がどう思ったかは手がかりがない。
 このころ同じ両親を持つ兄弟の義詮と基氏の間にはまた不穏な空気が流れていたらしい。当人同士はともかくとして、周囲に対立をあおるような動きがあったのは確かなようだ。とくに義詮は何かと失政を指摘される凡庸な人物であり、直義に学んだ堅実な政治姿勢の基氏と何かと比較する声があったと思しい。今川了俊も「難太平記」のなかで「京都を恨む者たちがしばしば関東に声をかけてきた」と記している。
 貞治5年(正平21、1366)の8月15日に義詮がどこかの八幡宮(石清水?)に「兄弟相譲り、死すとも変わらず」と記された誓文を治めていた事実があり(義堂周信が翌年じかに見ている)、これは兄弟が協力関係を続けることを誓う内容ではあるが、これは逆にわざわざ誓わねばならないほど深刻な事態が起こっていたのでは、と見る意見もある。その一方で「師守記」の11月10日には義詮が南朝との和平交渉をほとんど実現寸前まで進めたが、基氏と相談のうえ話をつけたいと発言していたことが記されていて、当人同士は信頼関係があったとする見方もある。
 今川了俊は、こうした情勢の中で基氏が「このままでは天下の煩いになる」として神に自らの命を縮めるよう祈り、その結果兄の義詮に先立つことになったそうだ、という伝聞を記している。もちろんこれは後年書いているものであり、了俊自身も「実説は人の知るべきにあらず(本当のことは他人には分からない)」と付け加えているが。

 翌貞治6年(正平22、1367)3月、基氏は病に倒れた。「師守記」では「はしか」であったという。基氏は病をおして政務をとり、4月2日付の書状が確認される最後のものとなった。この同じ4月2日に基氏は安藤九郎ら二十数人を殿中に呼びつけ、全て殺害したという話が「喜連川判鑑」に載っている。原因は全く不明だが、自身の死期を悟った基氏がその前に処置しておかねばならない問題があったものと思われる。
 4月15日に病身をおして円覚寺に赴いた基氏だったが、24日に重態となり、義堂周信を病床に呼んで後事を託している。いったん持ち直したが26日に死去。享年わずかに28歳だった。遺言により瑞泉寺に葬られた。鎌倉公方の地位はまだ9歳の金王(のちの氏満)に世襲され、以後その子孫が鎌倉公方を引き継いでいくことになる。基氏がどう思っていたかは分からないが、その子孫たちは京の将軍にとってかわる野心を延々と受け継いでいくことになる。
 この年の暮に兄・義詮も38歳で死去する。京・鎌倉ともに南北朝動乱の終焉を迎える三代目の時代へと移っていくのである。

参考文献
田辺久子「関東公方足利氏四代・基氏・氏満・満兼・持氏」(吉川弘文館)(基氏伝については全面的にこの本がベースになりました)
峰岸純夫「足利尊氏と直義・京の夢、鎌倉の夢」(吉川弘文館・歴史文化ライブラリー)
同「新田義貞」(吉川弘文館・人物叢書)
佐藤進一「南北朝の動乱」(中公文庫)
森茂暁「太平記の群像・軍記物語の虚構と真実」(角川選書)ほか
大河ドラマ「太平記」 第43回に十歳の少年「光王」として登場している(演:枝松拓矢)。尊氏と共に蹴鞠を遊んでいると、登子から「そなたは幸せ者。兄上と違うて父上といつも一緒じゃ」と言われて、「また兄上の話じゃ。好かん!」とすねる場面となっている。尊氏と登子の「次男」とナレーションがあるが、聖王の存在はカットしているため。義詮が上洛するカットはあるが、光王が鎌倉に下る部分は描かれなかった。
漫画では 大田明次・著/田中正雄・画「まんが太平記-乱世に生きた足利尊氏-」(学習研究社)で、観応の擾乱の末に直義を連れて鎌倉に入った尊氏に12歳の少年・基氏が「おじ上と仲直りしてください」と懇願する場面がある。尊氏は「そなたはやさしいのう」と言いつつ「わしと直義の間はもう遅いのだ」と涙して、事情を説明していた。
PCエンジンCD版 1340年になると尊氏のいる国に出現する。初登場時の能力は統率71・戦闘78・忠誠88・婆沙羅30と、0歳児とはとても思えぬ能力(笑)。

足利義詮 あしかが・よしあきら 1330(暦応3/興国元)-1367(貞治6/正平22)
親族 父:足利尊氏 母:赤橋登子 兄弟:竹若・足利直冬・足利基氏・聖王ほか
妻:渋川幸子・紀良子
子:千寿王・柏庭清祖・足利義満・足利満詮・廷用宗器・宝鏡寺殿 
官職 左馬頭・左近衛中将・権大納言・征夷大将軍・贈左大臣
位階 従五位下→従四位下→従三位→正二位→贈従一位
幕府 室町幕府第二代将軍
生 涯
 足利尊氏の三男。幼い時から尊氏の嫡子としてその分身として働き、成人後は父を助け、父の死後は二代将軍として幕府を受け継いだ。古今東西の王朝にみられる、「創業の初代」と「充実の三代目」にはさまれた「影の薄い二代目」の典型とされる。

―何度も鎌倉を逃げ出して―


 元徳2年(1330)6月18日に誕生、「千寿王」と名付けられた。母は鎌倉幕府最後の執権となった赤橋守時の妹・登子である。高氏(のちの尊氏)と登子の結婚は嘉暦2年(1327)ごろと推測される。高氏はそれ以前に加古六郎基氏の娘を妻に迎えて長男・竹若をもうけ、また越前局と伝わる謎の女性とたった一夜の関係で新熊野丸(のちの直冬)をもうけている。登子との結婚は幕府を支配する北条家と最大の御家人である足利家とを結びつける政略的な意味が強く、その登子が産んだ千寿王は当然「嫡子」とされ、上の二人はそれぞれ伊豆と東勝寺に遠ざけられた。

 元弘3年(正慶2、1333)3月、畿内で相次ぐ倒幕派の挙兵に手を焼いた幕府は足利高氏に出陣を命じた。このとき高氏はすでに討幕挙兵の意思を決めており、当初は妻子を連れて出陣しようとした。しかしこれは長崎円喜の疑いを招き、妻・登子と数え四歳(満年齢では3歳直前)の千寿王は人質として鎌倉に残されることとなった。
 高氏は京に上る途上で討幕の意思を一族に伝え、各地の武士に味方に付くよう書状を発しながら、4月29日に挙兵する。そしてその情報が鎌倉に届く直前の5月2日の夜に千寿王が鎌倉・大蔵谷の足利邸から姿を消した。高氏が挙兵の直前に脱出を指示したものとみられ、これが明らかになると鎌倉は大騒動になったという(「太平記」)。この脱出が決して簡単なものではなかったことは、異母兄の竹若が伊豆からの脱出に失敗して殺されている事実からも分かる。千寿王の母・登子もおそらく同時に脱出したものとみられ、これには執権・守時の配慮があったのではないかとも言われている。

 5月8日に新田義貞が上野・新田荘で挙兵、鎌倉を目指して進撃した。「太平記」では5月9日に紀五左衛門政綱に守られた千寿王が武蔵で新田軍に加わったと記している。しかし現存する軍忠状を調べると、千寿王はいったん上野・世良田に赴き新田一族の世良田満義に奉じられて5月12日にここで挙兵したのが事実とみられる。世良田満義や岩松経家といった新田一族と千寿王が連携していたことは間違いないが、新田軍の主力である義貞とはほとんど別行動だった可能性が高い。
 鎌倉攻撃の総司令官は間違いなく義貞だったが、「太平記」も伝えるように、鎌倉攻めに合流した武士たちの大半は源氏の棟梁・足利の御曹司である千寿王のもとに集まった。四歳の幼児とはいえ「足利」の名の威力は絶大で、千寿王は父・高氏の分身として鎌倉攻めの象徴的総司令官とされてしまったのである。一方の新田は同じ源氏直系の家系ながら鎌倉時代にはその存在をほとんど忘れ去られ、「増鏡」では「義貞は高氏の嫡子を大将にして挙兵した」とまで書かれている。足利・新田間に事前の連絡があったとみる説が有力だが、高氏が幕府滅亡後のことも考えて千寿王を出陣させ、義貞を牽制したと見る見方もほぼ定説となっている。

 鎌倉陥落後、千寿王は二階堂に御所を構えた。鎌倉に集った武士たちの多くは「総大将」とみなした千寿王のもとに軍忠状を届け、これが義貞との間に深刻な亀裂を生んだ。鎌倉の支配をめぐって新田・足利両家が合戦寸前にまでなったとされるが、高氏が派遣した細川和氏らの処理により新田一族が鎌倉を出て都に上ることで事態は処理された。これ以後鎌倉は足利家の関東支配の拠点となり、この年の末には成良親王を奉じて千寿王の叔父・直義が下向して来て、ここに一般に「鎌倉将軍府」と呼ばれるミニ幕府体制を築くことになる。

 幼い千寿王の苦労は続いた。建武2年(1335)7月に北条時行による「中先代の乱」が起こる。北条軍は各地で足利側の軍を撃破して一挙に鎌倉に迫り、千寿王は鎌倉陥落寸前に脱出している。20日後に父・尊氏が京から出陣してきて鎌倉を奪回し、その後すぐに建武政権に反旗をひるがえして京に攻め上るが、この時も千寿王は鎌倉に残された。その直後に足利軍を追って奥州から北畠顕家の軍が鎌倉に突入しているので、千寿王はまたも鎌倉を脱出するはめになったと思われる。
 尊氏が京でひとまず勝利して幕府を作ったのちも、千寿王はそのまま鎌倉に残って父の分身として関東統治の象徴となり、斯波家長が関東の執事となってその補佐をした。

 建武4年(延元2、1337)12月に再び京目指して進撃してきた北畠顕家の奥州軍が関東に侵入、新田義興や北条時行と合流して鎌倉占領を目指した。北畠軍の勢いに鎌倉の足利方ではいったん安房・上総へ落ち延びて敵をやり過ごす案も出たが、これを聞いた千寿王は「これは面々のご意見とは思えぬ。戦をすれば一方が負けるのは当たり前。戦を恐れるものではない。関東の管領として鎌倉にいながら敵が大軍だからといって一戦もせずに逃げては後で人に責められ、敵にはあざけりを受けよう。たとえ味方が少なくとも敵が攻めてきたら迎え撃ち、敗れれば討ち死すべし。もし逃れられれば安房・上総に撤退し、敵を追って上洛しよう」と迎撃を主張したという(「太平記」。ただし「太平記」はこのとき義詮が「11歳」であったとするが、実際にはまだ8歳で、とても史実とは思えない)
 この千寿王の一言で迎撃に決まったが、足利軍はあえなく敗北。家長は杉本城で自害し、千寿王はまたしても脱出してしばらく三浦に身を潜めた。義詮はこのように危険な目に何度もあいながら幼少期を過ごしたのである。

―何度も京都を逃げ出して―

 それから10年余りの間に関東における南朝勢力もひとまず平定された。千寿王は康永元年(興国3、1342)に13歳で元服して「義詮」と名乗り、正五位下・左馬頭に任じられた。
 南朝に対して圧倒的に優位に立っていた幕府だったが、今度は政務を預かる足利直義と軍事面で功績をあげる高師直との対立が深刻化した。対立は貞和5年(正平4、1349)に頂点に達し、8月に高師直一派がクーデターを起こして直義を失脚させ、その政務を義詮に譲渡することを認めさせた。これは幕府での政治力を増大させつつあった直義から、わが子・義詮に政権を移譲させようとする尊氏の意図がはたらいたものであったとみられている。尊氏にとっては直義の存在が義詮への継承の障害になると思えたのだろう。
 この政変の結果、義詮の同母弟である光王(基氏)が鎌倉に下向し、入れ替わりに義詮が上洛して直義が住んでいた三条坊門の邸宅に入り、幕府の政務を引き継ぐことになった。創設以来、足利幕府は尊氏・直義の兄弟二頭体制であったが、ここで尊氏・義詮の父子二頭体制に移行したことになる。翌観応元年(正平5、1350)に義詮は参議・左近衛中将となった。

 しかし直義の養子で義詮にとっては異母兄である直冬が九州で勢力を拡大。これを討伐するため尊氏自らが出陣することになるが、尊氏はその理由を「義詮を出陣させて兄弟同士の戦いになってはまずい」と周囲に説明していた形跡がある。ところが尊氏が京の留守を義詮に任せて出陣した直後に、直義一派が南朝と結んで挙兵する。直義党の有力武将たちが各地から京に押し寄せてきて、義詮のもとに集まる兵は減るばかり。慌てた義詮は旗頭にすべき北朝皇族たちを置き去りにしたまま京を放棄して逃げ出すという失態を演じてしまう。
 備後から引き返して義詮と合流した尊氏は、京をめぐって直義軍と激戦を繰り広げるが、自分に万一のことがあった場合に備えてであろう、その間は義詮を安全圏の丹波に待機させている。結局摂津・打出浜の戦いで敗れた尊氏は直義と和睦して京にもどり、師直らはその直後に直義派によって暗殺された。義詮も丹波から京に戻り、一応三者和睦して今後は共同で幕府の運営にあたるということで三人の会合が持たれたが、当然のように三人とも不愉快そうにしていた、と「太平記」は伝える。
 
 尊氏・直義の和睦は数ヶ月で崩れ、観応2年(正平6、1351)7月に尊氏と義詮は南朝方についた大名たちを討つと称して相次いで京を出た。これが東西から自分を挟み撃ちする作戦だと悟った直義は北陸へ脱出、以後交渉と合戦を繰り返して関東へと落ち延びて行った。なお、この慌ただしいさなかの7月27日に義詮の正室・渋川幸子が嫡子となるべき男子を産み、父親の幼名と同じ千寿王と名付けられている。
 これと前後して尊氏・義詮は敵を直義に絞るために南朝と和睦した(正平の一統)。この南朝との和睦交渉は主に佐々木道誉の補佐を受けつつ義詮が進めたとみられ、自分より安易に南朝の要求を受け入れてしまう義詮に尊氏が危機感をもち意見の対立をみたこともあったようだ(「園太暦」)。だが他に方法もなく、尊氏は南朝との交渉はほぼ義詮に丸投げして自らは直義を倒すべく関東へと出陣していった。
 尊氏が関東に去った後、南朝は北朝から三種の神器を接収して「正統政府」として振る舞い、次々と要求を義詮に突きつけてきた。相手は海千山千の謀略家となっていた北畠親房であり、若い義詮は押しまくられる一方でだった。そしてついに文和元年(正平7、1352)閏2月20日、義詮の不意を突いて楠木正儀北畠顕能らの南朝軍は京へ突入した。義詮は慌てて迎え撃ったが破れ、近江へと敗走する。この時も余裕がなかったのか、はたまたそもそも見捨てた張本人なので気に留めてもいなかったのか、義詮は北朝皇族をほったらかしにしており、南朝軍はただちに北朝の光厳上皇光明上皇崇光上皇(正平の一統成立の時点で上皇になる)そして皇太子の直仁親王の身柄を確保して八幡から河内へと連れ去ってしまった。

 3月に入って義詮は近江から巻き返して京都を奪回、南朝の後村上天皇がこもる石清水八幡を攻撃して5月にはこれを攻め落とした。しかし北朝の皇族はそろって南朝に拉致されており、奪回交渉に失敗した義詮はただちに北朝の新天皇を立てる必要に迫られた。出家する直前でどうにか南朝の拉致をまぬがれていた光厳の皇子・弥仁親王を新天皇に擁立することになったが、天皇に即位を命じる「治天」つまり院政を行う上皇が誰もいないため、義詮と道誉は光厳の母・広義門院にその役を要請した。広義門院はそもそもこの事態になったのは義詮のせいだとして彼を強く恨んで抵抗したが、結局押し切られて初の「女性治天」の役目を引き受けて孫の弥仁を即位させた(後光厳天皇)

 翌文和2年(正平8、1353)正月に義詮は南朝側に対する軍事行動に出ようとしたが、出陣した佐々木秀綱(道誉の子)のもとに思うように兵が集まらずに京へ引き返す羽目になり(幕府の威信失墜のためであったらしい)、怒った道誉が京から本拠地の近江・柏原にひきこもってしまうという騒ぎが起きている。義詮は粟飯原清胤三宝院賢俊を使者に派遣して道誉に帰京するよう説得させている。
 この年6月、山陰の山名時氏が道誉との対立から幕府にそむき、直冬を首領として南朝について直義党の石塔頼房、南朝の楠木正儀らと共に京へ進攻した。義詮はまたまた京を脱出して近江へ、さらに美濃まで逃亡するが、このときはさすがに後光厳天皇を連れ出すのを忘れなかった。翌7月にようやく関東を平定した尊氏が西上してきて美濃で義詮と合流、ただちに京を奪回している。

―二代目将軍―

 翌文和3年(正平9、1354)10月、九州・中国に勢力を張る直冬を討つため、義詮は播磨へと出陣した。補佐役の佐々木道誉もこれに同行しており、その道誉に送った書状の中で尊氏が「播磨に着いたとのことで安心した。義詮をよく助けて、早く帰れるようにしてやってくれ」と書いていて、子煩悩な父親らしく義詮のことを心配している。しかしこの出陣の直後に直冬らが山陰方面から南朝や直義派残党と組んで京に突入、尊氏は後光厳を奉じて京を脱出、義詮も播磨から引き返した。翌文和4年(正平10、1355)3月まで、尊氏・義詮は直冬らと京の争奪戦を行った末にこれを撃退する。時期は不明だが、この年に義詮の嫡子・千寿王が数え5歳で夭折している。

 以後およそ三年間大きな戦いは起こらず、南朝との和平交渉もある程度進んだようで三上皇も京に返還された。この期間の尊氏は長く病んでいたらしく、文和3年ごろから政務は主に義詮がみていたようだ。延文3年(正平13、1358)3月に尊氏は九州平定のための出陣を決定したが、その病状を案じた義詮に諌められ、結局中止している。そして4月30日、ついに尊氏は世を去った。死後50日目に後光厳天皇から尊氏に従一位・左大臣の贈位があり、その勅命を受けた義詮は「帰るべき 道しなければ 位山 上るに付て ぬるる袖かな」(父はもう帰ってくることのない高い位に上ってしまい、それを思うと涙で袖が濡れてしまう)と歌を詠んだ。「位山=暗い山」にかけて、偉大な父を失って進むべき道に迷って途方にくれる自分を歌ったこの歌は後光厳に賞賛され、勅撰和歌集「新千載和歌集」にも収録されている。
 この年の8月に義詮の側室・紀良子が男子・春王を産んだ。のちの足利義満である。

 延文3年(正平13、1358)12月に義詮は正式に征夷大将軍に任じられ、足利幕府の第二代将軍となった。これを補佐する執事には細川清氏が任じられ、宿老の佐々木道誉が若い義詮を支えた。
 将軍となった義詮は、翌延文4年(正平14、1359)末から鎌倉公方の弟・基氏にも呼びかけて畠山国清に関東の兵を率いて上京させ、義詮自らも出陣して南朝に対する軍事的攻勢に出た。この攻勢は翌年5月まで続き、義詮はひとまず京に凱旋したが南朝に決定的な打撃を与えるには至らなかった(やはり最後まで追い詰めるのではなく交渉による合体を目指したと思われる)。その間に幕府内の守護大名間の対立が激化、7月に細川清氏・畠山国清らが仁木義長を武力で排除しようと画策して、察知した義長が将軍邸を包囲して義詮を旗頭に掲げて(人質でもある)抵抗しようとした。「太平記」によれば、このとき佐々木道誉が義長に味方につくといって将軍邸を訪問、義長に酒を飲ませているうちに義詮を女房姿に変えて脱出させたという。義詮に逃げられた義長は拠点の伊勢へ逃れ、そのまま南朝方にまわる。

 康安元年(正平16、1361)9月、今度は執事の細川清氏が佐々木道誉との対立を深め、道誉の謀略により清氏は将軍になろうとする野望ありとの疑いをかけられた。義詮はこれを信じて仁木義長の二の舞を避けるために将軍邸を脱出、後光厳を奉じて新熊野の今川範国の邸宅に入って清氏を討つ態勢を取った。清氏は守護国の若狭に逃れ、そこで家臣の寝返りにあったため住吉の南朝に走り、この年の12月8日に楠木正儀ら南朝軍を率いて京都へ攻め込んだ。義詮はまたしても後光厳を奉じて近江へ逃れる(都合四度目の京都失陥)。だが南朝軍は20日ともたず12月27日に義詮に京を奪回され、清氏は翌貞治元年(正平17、1362)7月に讃岐で従兄弟の細川頼之と戦って敗れ、戦死する。

 この年7月に清氏の後任の執事(管領)職にまだ13歳の斯波義将が任じられた。実質的にはその父・斯波高経が後見として政務をみることになるのだが、斯波氏は足利一門中最高の名門で、高経はかなり後まで「足利」氏を称し、将軍の地位にも野心があったとされるほどで、当初執事職の話がもちかけられた斯波氏頼(高経の子)などは「執事職などは高・上杉・細川などの家臣筋の家がなるもの」と拒絶したという。このプライドの高い斯波氏を義詮が口説き落として幕府執事(管領)職につけたのは、足利本家の地位確立・将軍権力の強化のためで、それを画策したのは義詮の補佐役である道誉であったと見られる。

 翌貞治2年(正平18、1363)は幕府政治がようやく安定を見せ始めた年として注目される。3月に義詮は関東から上杉憲顕を呼び出して関東の執事に任じ、6月には基氏の上洛を促している。基氏の上洛は実現しなかったが、これは潜在的な独立・敵対勢力となりうる鎌倉公方を牽制し、支配下に置く動きだったとみられる。
 春には長門・周防・石見を支配する大内氏、9月には山陰を支配する山名氏と、いずれも旧直義・直冬党で南朝方についていた二大大名が義詮に投降した。投降と言っても彼らの領土はむしろ拡大したぐらいで、人々は「多く所領を得ようと思えば敵にまわることだな」と皮肉ったという。なにはともあれ、中国地方における反幕府勢力が義詮に忠誠を示したことは幕府にとって大きな前進となった。大内・山名が投降したことで事実上立場を失った異母兄・直冬も、このころ義詮に投降してその地位を保証されたとみる説もある。義詮が貞治元年(1361)に天竜寺のそばに祠を立てて直義を「大倉二位大明神」として祭り、貞治3年(正平19、1364)2月には直義十三回忌法要を等持寺で行っていることもこれら直義党の投降と連動するのではないかとみられる。

―統一は次代に託して―

 貞治4年(正平20、1365)5月4日、母の赤橋登子が60歳で死去した。その同じ月の5月22日に義詮は北条高時の三十三回忌法要を等持寺・大光明寺で執り行っている。義詮にとってこれは母方の一族である北条一族の菩提を弔うとともに、自らがその血を受け継ぐ幕府の主催者であることを再確認する儀式であったかもしれない。このころには幕府政治も安定を見せ、動乱の時代を過去のものとしようという意図も感じられる。

 貞治5年(正平21、1366)8月、幕府の実権を握っていた斯波高経・義将父子が突然失脚する。今度もまた対立する佐々木道誉の謀略にはめられての失脚だった。「太平記」は義詮が道誉の讒言を信じてその討伐を決意したと伝えるが、将軍をも上回る権勢を握り武士たちや寺社勢力の不満を集めていた斯波父子を危険視した義詮が道誉の協力を得て失脚させたというのが真相とみられる。斯波父子は本拠地の越前に逃れ、義詮はその討伐を各地に命じているが、翌年に高経が死去すると、その子・義将は許して幕政に復帰させている。義詮時代に相次いだ道誉を震源地とする政変の数々は、総じてみると足利将軍家に権力を集中して行く過程であったと見ることもできよう。
 この時期、鎌倉公方の弟・基氏との関係が微妙になっていたらしい。義詮に不満をもつ者が基氏に「兄にとって代われ」とささやくことも多かったらしく(今川了俊「難太平記」)、兄弟当人同士の気持ちはともかく周囲がそのように見ていたことは事実のようだ。この年(貞治5年)8月15日に義詮と基氏が「兄弟相譲り、死すとも変わらず」と誓う文をどこかの八幡宮(石清水?)に納めていたという義堂周信の証言があり、もしかするとこれはその直前に起きた斯波父子失脚と何か関係があったのかもしれない。

 このころ義詮は南朝との講和交渉も進めており、この年11月にもかなり現実的な進展があったらしい。「師守記」によると義詮はまだ慎重で「基氏と相談の上で話を進めたい」と語っていたことが知られる。だがその基氏は翌貞治6年(正平22、1367)4月26日に28歳の若さで急死してしまった。基氏死去の報は5月3日になって等持寺で仏事中の義詮のもとに届き、義詮は仏事を中断して将軍邸に戻っている。義詮は腹心の佐々木道誉を鎌倉に派遣して事後処理を行わせる一方、関東執事・上杉憲顕を上洛させて次代の鎌倉公方となる甥の金王(のちの氏満)への引き継ぎをさせている。

 基氏の死と同時進行で、南朝との和議も実現寸前まで進んでいた。幕府側の代表となっていたのはこれまた道誉で、南朝側の代表は楠木正儀だった。4月29日に南朝の勅使・葉室光資が京にやって来て義詮と面会するところまでこぎつけるが、彼が持参した南朝・後村上天皇の綸旨のなかに「義詮の降参を許す」という文言があったことに義詮が激怒、和議は実現寸前でぶち壊しになってしまった。義詮はよほど腹にすえかねたのか道誉を厳しく叱責したという。それでも南朝との講和の意思を捨てたわけではなく、7月には義詮の方から南朝皇居の住吉へ使者を派遣している。だがこの尊氏の息子と後醍醐の息子の「二世」同士の交渉は、間もなく二人が相次いで死ぬことにより沙汰やみとなってしまう。

 しばらく管領職は空位とされ義詮の「親政」が続いていたが、9月に道誉の推薦により四国の細川頼之が京に呼び出され、義詮から管領職を任されることになった。だがこれにはちょうど赦免されて京に戻ったばかりの斯波義将や山名時氏らが反対し、一時は合戦かという騒ぎになっている。だがその直後の10月に病に倒れた義詮が11月にいよいよ重態となったことで、幼い春王(義満)の後継と頼之の管領就任が確定することになる。
 11月25日、義詮は10歳の春王と頼之を病床に呼び寄せ、春王を指さしながら頼之に向って「われ今、汝(なんじ)のために一子を与えん」と言い、続いて頼之を指さしながら春王に「汝のために一父を与えん。その教えに違うなかれ」と遺言し、その場で足利家家督を譲り、頼之を管領に任じて後事を託した。その日のうちに諸大名が幕府に集められて足利家代替わりと新管領就任を祝い、12月3日には朝廷から義満に正五位下・左馬頭の官位がおくられた。
 一連の代替わり作業を見届け終えてから12月7日に義詮は息を引き取った。享年38。三条公忠の日記『後愚昧記』によると死の二日前に義詮は大量の鼻血を出したといい、高血圧症ではなかったか、との推理がある。

 12月12日に義詮の葬儀が執り行われ、30日に朝廷から従一位・左大臣が追贈された。その遺骨は父母の眠る等持寺や鎌倉の足利家ゆかりの寺など各地に分骨されたが、「自分が死んだら敬愛していた楠木正行の隣に葬ってくれ」との遺言に従い、京・観林寺にある正行の墓の隣に墓が建てられた(どうして義詮が正行を敬愛していたのかは全くの不明)。観林寺はその後義詮の法名「宝筐院瑞山道權」からとって「宝筐院」と改められて今日に至っている。

―人物像―

 冒頭で「影の薄い二代目」の典型と書いたが、同時代でもあまりかんばしい評判がない。古典「太平記」も「人の申すに付きやすき人(人の話に乗せられやすい人)」と評し、道誉の謀略に乗せられる凡庸な将軍として描く。同じ時代を生きている今川了俊、観応の擾乱の一時の和解時に尊氏・直義が、「義詮に言ってもなかなか改めないだろう。それでは天下を保つころは難しい。いくらか政治に誤りがあっても関東の大名が一致団結すれば日本の守護となれよう。そのために基氏を鎌倉に置こう」と密談したと伝えているし、上記に引用したように尊氏も道誉に出陣中の義詮を案じる書状を出していて、父親の目から見てもどうも政治家としては頼りないと感じられたようである。
 後年の史料だが、『鎌倉公方記』には「新将軍(義詮)は、ただ好色をこととし、大酒をもっぱらにして、歌道遊興に心を傾け、政道のことは外になし給いたれば、世の人、疎み奉りけり」とまで書かれている。もっともこれは京の足利将軍家を敵視する立場で書かれているので多少割り引いた方がよさそうだが。

 戦歴をみるとわずか4歳で総大将に担ぎ出されるなど「キャリア」は豊富なのだが、少年時代に鎌倉脱出を繰り返したのはやむを得ないとして、成人して直義のあとを引き継いで政務をみてからは何度も京を失陥し、北朝皇族を南朝に奪われる大失態も犯しているあたりは、武将としての能力は低かったと言われても仕方がない。
 だが一方で、義詮が将軍をつとめていた10年間は南北朝動乱が確実に終息してゆき、足利幕府の政治機構も確立されて、将軍権威が強化されていった時期でもある。「太平記」は義詮が道誉に乗せられて次々と道誉の政敵を失脚させていったように描くが、実際には義詮自身が意識して将軍権力集中の邪魔になる有力者を排除し、独裁体制を固めていったのではないかと見ることも可能だ。名門に生まれて何不自由なく育ったお坊ちゃんながら、幼児から危機をくぐりぬけて苦労しているだけに、警戒心が強くしたたかに動き回ったとみるべきかもしれない。彼の短い治世に築かれたものが子の義満の強大な権力を生み出すわけで、その意味からも義詮を再評価すべきとの声もある。少なくとも死の間際に細川頼之を管領に抜擢して後事を託したことが彼の最大の功績であることは衆目の一致するところである。

 等持院には足利歴代将軍の木像があり、義詮のものもそこにある。また神護寺にある三つの肖像画のうち、これまで「藤原光頼像」とされていたものは実は「足利義詮像」ではないかとの新説が米倉迪夫氏によって提示され、その根拠にこの肖像画が等持院の義詮木像の顔と酷似していることが挙げられている。父の尊氏・子の義満が「たれ目」の特徴をもつのに対し、義詮はやや「つり目」ぎみである。

参考文献
高柳光寿「足利尊氏」(春秋社)
佐藤進一「南北朝の動乱」(中公文庫)
臼井信義「足利義満」(吉川弘文館・人物叢書)
小川信「細川頼之」(吉川弘文館・人物叢書)
後藤成「足利義詮」(学習研究社・歴史群像シリーズ「戦乱南北朝」)
森茂暁「太平記の群像・軍記物語の虚構と真実」(角川選書)
森茂暁「佐々木道誉」(吉川弘文館・人物叢書)
田辺久子「関東公方足利氏四代・基氏・氏満・満兼・持氏」(吉川弘文館)ほか
大河ドラマ「太平記」 第10回で乳児として初登場。第16・17回では稲葉洋介が演じ、第19〜38回は森田祐介が演じた。第44回で成人となり、以後最終回まで片岡孝太郎が演じた(つまり後醍醐役の息子が尊氏の息子を演じたわけである)。かなり凡庸、というより愚鈍な武将として描かれ、直義には「あのバカ者」と言われてしまい、観応の擾乱でも上皇を置いてくる失態や勝手に桃井直常を襲わせるなど愚行が目立ち、尊氏に叱られていた。ドラマでは異母兄の直冬が対比されて優れた武将に描かれ、義詮がそれにコンプレックスを抱く展開にもなっていた。最終回ではさすがにちょっと頼もしく成長したように描かれた。
その他の映像・舞台 舞台「幻影の城」の1961年版で清宮貴夫、1969年版で荻島真一が演じている。
1983年放送のアニメ「まんが日本史」では田中秀幸が義詮の声を演じた。
歴史小説では 義詮としてよりも、鎌倉攻めの大将とされた尊氏の幼児・千寿王としての登場の方が多い。
漫画では  学習漫画ではおおむね皆勤。尊氏と義満の間にはさまって影が薄いが、尊氏からの引き継ぎ、義満への引き継ぎの場面が描かれることが多い。
 鎌倉末期の動乱を描く少年漫画・沢田ひろふみ「山賊王」では千寿王として可愛らしく登場、主人公たちと共に鎌倉を脱出し、半ば神秘性を帯びた賢い幼児として描かれている。
PCエンジンCD版 1337年になると尊氏のいる国に出現する。初登場時の能力は統率82・戦闘78・忠誠91・婆沙羅26と、7歳児ながらなかなかの能力(笑)。
メガドライブ版 足利帖でプレイすると「中先代の乱」のシナリオで「千寿王」として登場。体力2・武力7・智力9・人徳20・攻撃力0と極端に非力(満5歳児だから当然)。このシナリオは千寿王を無事逃がすのがクリア条件となっている。
SSボードゲーム版 足利尊氏のユニット裏で登場。武家方の「総大将」クラスで勢力地域は全国。合戦能力1・采配能力6でまずまず。

足利義満 あしかが・よしみつ 1358(延文3/正平13)-1408(応永15)
親族 父:足利義詮 母:紀良子 兄弟:千寿王(夭折)・柏庭清祖・足利満詮・廷用宗器・宝鏡寺殿
妻:日野業子・日野康子・藤原慶子・藤原量子・加賀局・春日局・藤原誠子・高橋殿・池尻殿ほか
子:足利義持・足利義嗣・足利義教・友山清師・虎山永隆・法尊・義昭・義承・聖久・聖紹・聖仙・尊順・尊久・宝鏡寺主・摂取院主ほか
官職 左馬頭・征夷大将軍・参議・左近衛中将・権大納言・右近衛中将・右馬寮御監・内大臣・左大臣・院別当・太政大臣・贈太上法皇(辞退)
位階 従五位下→正五位下→従四位下→従三位→従二位→従一位
幕府 室町幕府第三代将軍
生 涯
 足利尊氏の孫、足利義詮の子で室町幕府第三代将軍。幼くして将軍となりながら六十年以上続いた南北朝動乱を終結させて室町幕府の体制を確立、武家のみならず公家としても頂点を極め、周辺国に対して「日本国王」として振る舞うなど、日本史上まれにみる絶対権力者となった人物である。

―生い立ち〜将軍就任まで―


 足利義満が生まれたのは延文3年(正平13、1358)8月22日のこと。生母は義詮の側室となった石清水八幡宮の社務・善法寺通清の娘・紀良子である。義満誕生のおよそ4か月前の同年4月30日に祖父・尊氏が死去しており、足利家および幕府にとっては重大な節目の年となった。なお、義満には母親違いの兄(柏庭清祖)がいたと見られるが、彼がなぜ出家のまま生涯を終えたかは不明である。
 義満はのちに政所執事となる伊勢貞継の屋敷で生まれ、幼名は「春王」と名付けられた。のちに義満の親代わりともなる細川頼之妻(持明院保世の娘)が義満の乳母をつとめたとされる。結果的に三代将軍となる義満だが、幼少の時点ではあくまで側室の子(庶子)であり、義詮の正室・渋川幸子の影響力も強かったため、格別な扱いは受けなかった可能性もある。

 二代将軍・義詮の時代はまだ幕府の体制も固まらず、不安定な情勢が続いた。とくに康安元年(正平16、1361)10月に幕府の執事を務めていた細川清氏が反乱を起こし、12月には楠木正儀ら南朝軍と共に京都へ攻め込む事態となった。このとき義詮は後光厳天皇と共に近江に逃れたが、当時まだ四歳(数え歳)の春王はそれとは別に家臣らに守られて建仁寺大竜庵の蘭洲良芳にかくまわれ難を逃れた。さらに蘭洲に帰依していた北野行綱という武士と共に商人姿に身をやつし、播磨の赤松則祐の居城・白旗城へ落ちのびるという、かなりの冒険行をも体験したと伝えられる(「翠竹真如集」)。将軍の子でありながら、このような危ない橋を渡ったのは混乱もさることながら、やはりまだ「庶子」扱いであったからかもしれない。

 春王が白旗城に滞在するうちに正月となり、赤松則祐は幼い春王を喜ばせようと家臣たちに「松囃子(ばやし)」を演じさせた。これが吉例となり、毎年正月十三日に足利将軍が赤松邸を訪問し「松囃子」を観賞する行事が生まれることとなった。またこの白旗城滞在中、昼寝から目覚めた義満が壁に掛けられた祖父尊氏作の地蔵尊の絵を見て「この人が、私はお前から永久に離れまい、と言った」と言い出し、それを聞いた則祐は「本願経に、もし人が地蔵尊を描いて礼拝すれば、この人は三十三天に生まれ、天福尽きて人間と生まれても、なお国王となる、とある」と喜んだ、という逸話もある。これが縁で後に則祐は春王の育ての親、「養君」とみなされるようになる。
 やがて義詮は南朝軍を追って京都を奪回、落ち着いたところで春王は白旗城から京へと戻った。その途中通りかかった摂津国琵琶塚の風景を春王は大いに気に入って、家臣らに「お前たち、この地をかついで京都まで持って行け」と命じ、その幼いながらスケールの大きい発言に周囲の者は大いに驚いたという(「翰林胡蘆全集」)

 貞治4年(正平20、1365)5月3日、8歳となった義満はモズを射て「矢開きの儀」(武士の子供の通過儀礼)を執り行い、これにより春王こそが義詮の後継者であることが公式に示されることとなった。さらに貞治5年(正平21、1366)12月7日に9歳の春王は後光厳天皇から「義満」の名を賜り、従五位下に叙せられた。まだ元服前であるが次代将軍予定者であることを天下に示すために義詮から朝廷に命名を要請したのである。朝廷では「義満」「尊義」の二案が示され(「義満」を提案したのは柳原忠光)、幕府側が「義満」を選択、天皇自ら筆をとってその名をしたため関白二条良基がそれを伝達するという重々しい手続きがとられている。

 翌貞治6年(正平22、1367)11月、風邪をこじらせた義詮は重態に陥り、20日に義満は青蓮院に赴いて父の回復を祈る祈祷に立ち会っている。このとき義満には細川頼之以下諸大名がずらりとつき従ったといい、早くも「将軍」としての威容を示すデモンストレーションとなった。そして11月25日に義詮は枕元に義満と頼之を呼び寄せ、頼之に「汝に一子を与える」、義満に「汝に一父を与える。その教えに違うてはならぬ」と言い渡して足利家家督を十歳の義満に譲り、同時に執事(管領)職を頼之に任せて義満の父親代わりを命じた。12月3日に朝廷は義満を正五位下に叙し左馬頭に任じ、12月7日に義詮は38歳でこの世を去った。
 義詮の葬儀は頼之が取り仕切って等持院で執り行われたが、その時の義満の様子を述べたかと思われる法語(翌年の仏事の際のもの)が残っている。「年わずかに十歳ながら容貌端厳にして慈あり威あり、あたかも鳳凰児のまさに羽儀を整えたるがごとく、獅子児の哮咆せんと欲するごとし」というもので、むろん三代将軍たる義満への御世辞も多分にあろうが、幼いながらも立派に「将軍」の威容を放っていたことも想像させる。

 翌応安元年(正平23、1368)4月15日に11歳の義満の元服の儀式が執り行われ、父親代わりの頼之が加冠(烏帽子親)を務めた。4月27日に幕府評定始が開かれて義満がこれに出席、形式的ではあるが幕府の長として最初の政治活動を開始している。そしてこの年の12月30日に朝廷は義満を征夷大将軍に任じる宣旨を発し、義満は公式に足利幕府の第三代将軍となったのである。

―頼之補佐時代―

 義満が成人するまでのおよそ十年間は、管領である細川頼之が幕府の執政をつとめた。頼之は同時に義満の父親代わりとしてその「帝王教育」にも力を入れていたようで、学問の師に博学の有名人ではなく奈良の遁世僧や細川家の隠士をつけたとか、「佞坊」と呼ばれる法師たちを義満の周囲にうろつかせてわざと人にこびへつらう様を見せて「反面教師」にさせたとか、頼之がわざと諸大名の前で義満に諫言して怒りを買うことで将軍の権威を示そうとしたといった面白い逸話が『細川頼之記』という史料に伝えられているが、おおかた後世の作り話とみられている。
 ともあれ細川頼之が幕府政治を刷新し、将軍の権威を高めていったことは間違いなく、南北朝動乱をつづった『太平記』も細川頼之の登板をもって大長編の幕をおろしている。義満が将軍となったころ南朝でも後村上天皇が死去して主戦派の長慶天皇に代替わりしており、和平派の楠木正儀が居場所を失って北朝に鞍替えし、応安2年(正平24、1369)4月3日に義満に対面するなど新しい動きも起きていた。頼之は盟友の今川了俊を九州探題に任命して南朝の懐良親王が支配する九州の平定を任せると同時に、楠木正儀を支援して畿内の南朝勢力への攻勢をかけた。
 しかしこうした頼之の独断専制の姿勢に不満を持ちサボタージュを起こす大名も多く、応安4年(建徳2、1371)5月に怒った頼之が突然管領職を投げ出して西芳寺に駆けこみ、出家・遁世の意思を示す騒ぎも起きた。このときは義満自身が赤松則祐と共に西芳寺に駆けつけて頼之を説得し翻意させた。頼之は翌応安5年9月にも辞任を申し出て自宅にこもる騒ぎを起こしており、このときも義満自ら彼の邸宅を訪れて翻意させている。

 応安5年(文中元、1372)11月22日、15歳となった義満は自ら公式文書に花押(サイン)をすえる「判始の儀」を行い、頼之の補佐を受けつつではあるが自ら将軍としての公式活動を開始した。
 翌応安6年(文中2、1373)8月29日、義満は明の使者仲猷祖闡無逸克勤に対面した。彼らは前年に明・洪武帝の命を受け九州の懐良親王を「日本国王」に冊封すべく来日したところを、九州平定を勧める今川了俊に引きとめられてこの年6月に京へ送られてきたのだった。明使二人と対面した少年義満は明との交渉に強い関心を抱いたらしく、帰国する明使に聞渓円宣子建浄業喜春ら僧侶を同行させ、国書に献上品も添えて洪武帝のもとへ送ることとした。幕府が明帝国と公式に交渉をもとうとしたのはこれが最初だが、これは九州の懐良親王が洪武帝から「日本国王」に公認され、明から支援を受けることを恐れたためとも言われる。しかしこの義満最初の外交使節は翌年5月に明の首都・南京まで赴いたものの、「日本国王・良懐」の使者ではないこと、北朝天皇の家臣という立場で明皇帝と交渉する権限はないことなどを理由に国書と献上品の受け取りを拒否されている。
 応安6年の11月25日、義満は参議に任じられ左中将を兼ね、従四位下に叙せられている。

 応安7年(文中3、1374)6月16日、義満の生母・紀良子(北向禅尼)が突然自宅を飛び出し、母親の智泉尼が住む清水坂の草庵に隠棲してしまった。慌てた義満は頼之と共に草庵に押しかけ母を連れ帰ったが、このとき京の市民たちは「将軍と管領が京から逃げ出した」と大騒ぎしたという(『後愚昧記』)。紀良子が出奔騒動を起こした原因は不明だが、義詮の正室で義満にとっては義母であり、幕政にも影響力を持っていた女傑である渋川幸子との確執があった可能性もある。

 翌永和元年(天授元、1375)3月27日、18歳となった義満は石清水八幡宮への参詣始を行った。管領の頼之以下諸大名が数百騎の兵を従えて付き従い、義満自身は豪勢な八葉車に乗ってきらびやかに着飾った役人らを引き連れるという盛大な行列で、京の人々の目を奪った。4月25日にはやはり諸大名を引き連れた派手な行列を作って初めて参内し、後円融天皇に拝謁した。後円融天皇は義満と同い年、しかも母親同士が姉妹の「いとこ」であり、こののち何かと義満と確執を起こすこととなる。
 この年の11月20日に義満は従三位に叙せられ、正式に公卿の列に加わることとなった。以後も義満は加速度的に官位を上げてゆき、武家のみならず公家としてもその影響力を高めてゆく。
 なおこの年、京の新熊野(いまくまの)で観阿弥一座が猿楽興行を行い、観阿弥の当年13歳の息子の美少年ぶりが大変な評判を呼んでいた。義満はこの猿楽を自ら鑑賞して激賞し、観阿弥一座に保護を与えたほか、その息子・藤若、のちの世阿弥を寵愛して常にそばに置くほどになる。

 このころ義満は後光厳天皇の寵妃であった日野宣子の仲介で、宣子の姪で禁裏の典侍であった日野業子を正室に迎えている。これが足利将軍と日野家の代々の縁組の始まりとなるのだが、義満はこの七歳年上の妻を溺愛したらしく、永和3年(天授3、1377)正月に業子が出産する際には自らその産所へ押しかけて同宿し、異例のことと人々に驚かれている。しかしこのとき業子が産んだ娘は出産後すぐに死んでしまい、男子誕生を期待して祝いの品を用意して待ち受けていた諸大名を落胆させている。
 この不幸を振り払うためだろうか、この年の3月に北大路室町の旧崇光上皇邸が焼失すると、義満はその跡地および隣接地を朝廷から譲り受けて、ここに広大壮麗な将軍新邸を建設し始める。新邸には賀茂川から水を引いて庭に大きな池をもうけ、庭一面に四季の花々を植えさせたが、義満は近衛家の庭にあった糸桜や銀杏の木を半ば強引に所望して「花の御所」へ運ばせ、これにならって他の公家・武家も名花珍木を義満に差し出すこととなった。こうした花々に飾られた将軍邸は「花の御所」の美名で呼ばれることになり(それ以前にあった屋敷にすでに「花亭」の異名があったとの説もある)、またその住所が室町であることから将軍を「室町殿」と呼ぶ習慣も生まれる。後世足利家の幕府が「室町幕府」と呼ばれるのもこれに由来する。義満が三条坊門の旧邸から、まだ完成途上の「花の御所」に移り住んだのは永和4年(天授4、1378)3月10日のことである。
 この年、義満は3月に権大納言・右近衛大将に任じられ、12月には従二位、右馬寮御監に任じられた。そして12月15日には紀伊方面での南朝軍との戦闘を鼓舞すべく、弟の足利満詮と共に甲冑に身を固めて東寺まで出陣、23日に花の御所に帰っている。直接戦場に出たわけではないが、これが義満の「将軍」としての初の軍事行動となる。
 
 翌康暦元年(天授5、1379)、2月に大和へ出陣していた斯波義将佐々木(京極)高秀土岐頼康ら反頼之派の大名たちが大軍を構えたまま動かず、不穏な情勢となった。義満は彼らに京への帰還を命じたが、高秀・頼康はそれぞれ領国に帰って挙兵、義満が彼らの討伐を命じる事態となる。これと連動するかのように、義満のいとこで鎌倉公方の足利氏満も兵を起こして将軍位を狙おうとし、関東管領の上杉憲春が死をもって諌め、思いとどまらせるという事件が起きている。自らの立場も危うくなってきた義満は高秀・頼康を赦免し事態の収束を図ろうとした。
 しかし閏4月14日、佐々木氏・土岐氏を主力とする反頼之派の大名たちの大軍が「花の御所」を包囲、実力で頼之の罷免を要求した。義満はやむなく要求を受け入れて頼之を管領職から解任、領国の四国への下向を命じた。頼之はその日のうちに屋敷に火を放って四国へと向かった。諸将の要請により新管領に任じられたのは反頼之派の首領である斯波義将だった。この事件は「康暦の政変」と呼ばれるが、青年義満にとっては将軍権力の弱さを思い知らされる屈辱的な体験であったと思われる(一方で成人した義満がすでに頼之の存在を邪魔に思っており、すすんで彼を解任したとの見方もないわけではない)

―武家と公家の頂点へ―

 頼之の補佐時代から、義満は公家の世界へも深く足を踏み入れていた。当時一流の文化人である二条良基が義満の教師役となって公家文化を指導、朝廷との連絡役も担当して義満の朝廷における地位を向上させていた。康暦2年(天授6、1380)正月に義満は従一位に昇り詰め、翌永徳元年(弘和元、1381)3月には前年に完成した「花の御所」に後円融天皇の行幸を仰ぎ、6日間にわたって宴・舞・蹴鞠・管弦・歌会・舟遊びなど豪華絢爛なイベントを挙行、最終日には臨時の叙位が行われ、義母の渋川幸子に従一位、生母の紀良子と妻の日野業子に従二位が授けられた。この壮大なイベントは義満自身の派手好みもさることながら、足利氏の力を天皇や公家たちに見せつけ、同時に大名らに対しては天皇の権威をバックに将軍の地位を高める効果を狙ったものとみられる。
 こうしたイベントで自信を持ったか、義満は細川頼之の弟・頼基(元)を京へ呼んで、細川氏の復権を図った。これに怒った斯波義将が管領辞任を言い出し、義満が自らその屋敷へ赴いて慰留するという事件も起きたが、義満は斯波と細川の両家のバランスを巧みにとりつつ将軍権力を強めていったのである。

 この年6月26日に義満は内大臣に任じられ、祖父尊氏・父義詮の生前の地位を超えた。このころから義満は「義」の字をもとにデザインした公家様の花押をつくり、しばらくは武家様と公家様の二つの花押を使い分けるようになる。このころには義満の公家界における影響力は絶大なものとなり、義満の好き嫌いで朝廷・寺社の人事が決まるという有様になる。公家たちの多くは内心面白くなかったが義満に追従するほかはなく、中には自分の妻や愛人まで義満に差し出して地位を得ようとする者まで現れた。
 永徳元年(弘和元、1381)9月、後円融天皇が寵妃の三条厳子に「今後はお前を呼ぶこともないし顔も見たくない」と怒る事件が起こる。厳子の父・三条公忠が義満に取りいって土地を手に入れたことに怒ったとされ、公忠が入手した土地を返上、後円融がその埋め合わせの土地を与えることで一件落着したが、この事件の背景には京都市内の土地裁判権など本来朝廷が持つ権限を次々と幕府が接収していることへの警戒があったとみられている。また後円融自身、同い年のいとこである義満に強いコンプレックスを抱いていた可能性も高い。
 この事件から間もなく後円融は譲位を決断し、翌永徳2年(弘和2、1382)4月8日に厳子の産んだ皇子でまだ6歳の幹仁親王が践祚した(後小松天皇)。この践祚の儀にあたって義満は内弁の役をつとめ、土御門御所まで幼い後小松と同じ牛車に乗り、土御門御所につくと自ら幼い天皇を抱いて御所まで入っている。後円融は実質的君主の「治天」となり、義満はその治天の院政を助ける「院別当」となったが、後小松の即位式の日程を義満が勝手に決めたとして後円融が激怒するという事態が起こっている。
 翌年永徳3年(弘和3、1383)正月に義満は従来久我家がつとめていた「源氏長者」の地位も獲得、この年の白馬節会での公家たちの弱冠25歳の義満に対する態度は「君臣のごとし」近衛道嗣が日記に記すほどであった。逆にこの正月29日に後円融が父・後光厳の仏事を催したところ、公卿たちは誰も参列しなかった。後円融と義満の仲がうまくいってないことを知っていた公卿たちは上皇よりも義満ににらまれることを恐れたのである。この事件が後円融の心理をさらに追いつめてしまう。

 直後の2月1日、前年末に出産のため実家に戻り、なぜか帰参をずるずると延ばしていた寵妃・厳子がこの日ようやく帰って来たので、後円融上皇は早速彼女を寝所に呼び出した。ところが厳子は「急のお召しで袴や湯巻の用意ができない」とこれを拒絶した。激怒した後円融は太刀を手に厳子の部屋に乗り込み、峰打ちで厳子の背中を激しく何度も打ちすえ、重傷を負った厳子は実家にかつぎこまれた。
 この直後の2月11日にはやはり後円融の愛妾である按察局が、後円融の怒りに触れて後宮を追われ、出家するという事件が起きた。これは後円融が彼女が義満と密通したと疑ったためと噂されており、義満は弁明のため日野資康広橋仲光の二人を上皇のもとへ派遣した。これを自分を流刑にするためだと恐れた後円融は(実際そういう風説が流れていた)持仏堂に飛びこみ、「切腹する」と騒いだ。結局生母の崇賢門院(仲子)がなだめて事なきを得たが、一連の事件は形式上最高君主である「治天」であるはずの後円融の権威を失墜させ、義満の権勢がそれをも上回ることを見せつけたものであった。この事件について後円融が神経衰弱気味であったことは間違いないが、厳子に対する態度から「実は後小松天皇は義満の子だったのではないか」との憶測もある(さすがに学術レベルではほのめかす程度で明言はないが、作家・海音寺潮五郎らは著書で断定している)。のちに義満が後小松の「義父」、「治天」のように振る舞い始めること、本人もその周囲の公家たちも義満を「光源氏」と重ね合わせて意識していたらしきことなども、この疑惑と対応している。
 この事件と直接的関係があるかはともかく、この年の6月に義満は武士として、および左大臣の地位にある者として初めて准三宮(太皇太后・皇太后・皇后に准じる地位)を与えられている。前例のない事態に公家たちは眉をひそめたが三条公忠は「近ごろの武家は前例など省みない」と日記で嘆じている。

―有力大名つぶし―

 その後しばらく世の中は平穏が続き、義満の権勢と幕府の実力はますます高まっていった。そんななか至徳3年(元中3、1386)2月12日に義満の嫡子となる足利義持が生まれている(生母は側室の藤原慶子)。その前年に義満は奈良の春日大社を参拝したのを皮切りに各地を旅行するようになり、この年10月に丹後の天橋立を訪問する。嘉慶2年(元中5、1388)9月には駿河まで下って富士遊覧の旅を楽しんだが、これは潜在的ライバルである鎌倉公方・足利氏満を牽制するデモンストレーションであったと見られる。
 翌康応元年(元中6、1389)3月には九州探題の今川了俊や細川頼元ら諸大名を引き連れ、百艘もの大船団に分乗して海路で安芸・厳島神社への参詣旅行を敢行する。この途中で讃岐・宇多津に立ち寄り、細川頼之を一行に合流させたことは頼之の中央政界復帰へのステップでもあった。厳島神社では周防の大名・大内義弘が出迎えに来て義満は周防へ進み、さらに九州上陸を果たそうとしたが嵐のために実現できなかった。この西国旅行も大内氏、そして九州の了俊に対する牽制の狙いがあったとみられている。この年の9月には高野山まで詣でており、かつて南朝勢力であった地域に自ら踏み込んで威勢を示したようである。

 こうした牽制・威嚇の旅行と同時に、義満は有力大名の切り崩し策を進めていた。美濃・尾張・伊勢の守護・土岐頼康が死ぬと、義満はわざと守護国を分割相続させて内紛を引き起こさせ、康応元年(元中6、1389)4月に当主の土岐康行を討伐して土岐氏の勢力を大きく減退させることに成功する。
 その直後の5月、11カ国の守護をつとめ「六分一衆」と呼ばれた山名一族の当主・山名時義が死去した。山名一族も内紛の種を抱えており、義満はそれをさっそく利用して策謀を開始する。翌明徳元年(元中7、1390)3月に義満は時義の子・時熙氏幸の討伐を、対立する同族の満幸氏清に命じ、これを敗走させる。
 さらに9月、義満は越前敦賀の気比神社を参拝した。越前は管領・斯波義将の守護国であり、その本拠に将軍自身が乗り込んだのは斯波氏に対する威嚇の意味があったとみられる。かつて斯波義将と共に「康暦の政変」を起こした土岐・山名といった大名は力を削がれる一方、細川氏は復権の勢いを明らかにしており、義満の狙いは明白だった。ついに明徳2年(元中8、1391)3月12日に斯波義将は管領を辞職、逃げるように越前に去ってしまう。義満はすぐさま細川頼之を都に呼び出し、その弟・頼元を管領に任じて実質的に頼之を幕政に復帰させた。

 その明徳2年10月、前年に逃亡していた山名時熙と氏幸が義満に赦免を願い出ると、義満はあっさりこれを許してしまう。10月11日に義満は諸大名を引き連れて宇治の山名氏清の別邸に紅葉狩りに赴いたが、主催者として和泉から参加するつもりであった氏清は甥の満幸から時熙・氏幸赦免の話を聞いて病を口実に和泉に引き返した。
 直後の11月8日、義満は満幸が上皇領を横領しているとの難癖をつけて出雲守護職を取り上げ、京を離れて丹波へ下向するよう命じた。これは明らかに挑発であり、満幸は氏清のもとに走って「将軍の真意は山名を滅ぼすことにある」と山名一族あげての挙兵をうながした。氏清も挙兵を決断、兄で一族の長老格である紀伊守護・山名義理を説得して挙兵に参加させた。12月24日に山名勢は丹波・和泉方面から京へと進撃を開始する。
 山名一族の領国の多さとその兵の勇猛ぶりはつとに知られており、幕府内でもそれを恐れて和睦を望む声も少なくなかった。しかし義満は「山名は天下を狙っている。ここで彼らをなだめたところでまた様々な要求をするであろう。遅かれ早かれ討伐せねばならぬ」と和睦案を退け、「しからば当家の運と山名の一家の運とを天のご照覧に任すべし」と決戦の断を下した。義満はかねて増強を進めていた将軍直属軍団「奉公衆」三千騎を引き連れて出陣したが、定番の「逆賊を討て」との天皇・上皇の命を受けることもせず、あくまで「主人が家臣を懲罰する」という姿勢をとって軽武装での出陣であった。
 12月30日、山名軍は京へ迫り、内野(かつての大内裏の跡地)で決戦が行われた。一時は義満自ら太刀をふるって奉公衆三千を率いて進撃する一幕もあったという。激戦の末に山名氏清は戦死、満幸は逃亡(のちに捕えられ処刑)、義理も大内義弘に攻められて紀伊から没落した。この「明徳の乱」と呼ばれる戦いの結果、山名一族のうち義満側についた時熙らに但馬・因幡・伯耆の3国が与えられたのみで、残りの領国は戦功のあった大名らに分配されて、「六分一衆」と呼ばれた山名の勢力は大きく減退した。
 この乱のとき、鎌倉公方の氏満が義満を応援するため兵を出そうとする動きがあった。結局乱が一日で決着したので取りやめとなっているが、これは氏満が山名勢と示し合わせて将軍位を狙おうとした疑いがある。義満は直後に陸奥・出羽の東北全域を鎌倉公方の直轄とすることを認めており、これは氏満を懐柔するためであったとみられる。

 乱から間もない明徳3年(元中9、1392)3月2日、細川頼之が64歳で没した。父代わりでありその晩年まで最高の補佐役をつとめた頼之の死を義満は大いに悲しみ、三日後の墓への葬送も嵯峨まで見送り、涙にくれたという。この年の6月25日には義満の義母で、義満も生涯頭が上がらなかったと言われる渋川幸子も死去している。

―南北朝合体〜出家―

 明確な証拠はないが明徳の乱の際に山名軍が南朝勢力と連携していた可能性が高い。すでに弱体化いちじるしい南朝であったが反幕府勢力が旗印に担ぎ出すだけの価値は持っていた。義満は明徳の乱終息後をチャンスと見て、長年の懸案であった「南北朝合体」の工作を開始する。仲介役は紀伊・和泉の守護となった大内義弘と、吉田社社務で北朝南朝ともに顔が利く吉田兼熙であった。
 講和条件は「三種の神器を京に戻すにあたっては譲国の儀式によること」「今後は持明院統と大覚寺統が交互に皇位につくこと」「諸国の国衙領は大覚寺統の所有とすること」「諸国の長講院領は持明院統の所有とすること」というものであった。すでに衰退著しい南朝としては形だけでも「対等合併」である講和に乗るほかはなく、南朝の後亀山天皇は帰京して三種の神器を引き渡すことに同意した。
 そして10月28日に後亀山は神器と共に吉野を出発、閏10月2日に京・大覚寺に入った。5日に大覚寺にやってきた北朝側公家らに神器が引き渡され、後小松の皇居へと運ばれた。結局南朝側が要求していた後亀山から後小松への「譲国」の形式による引き渡しは行われなかったが、これは南朝側も覚悟のことではあったらしい。ともあれ、ここに57年に及んだ南北朝分裂の状態は幕を下ろしたのである。

 南北朝合体の実現には北朝朝廷はほとんど蚊帳の外に置かれ、ほぼ義満とその周辺だけで進められていたため、北朝側は講和条件など知ったことではなかったようだ。ようやく応永元年(1394)2月6日に義満は天竜寺で後亀山と元東宮(皇太子)、弟宮に面会、2月23日に後亀山に対して「太上天皇(上皇)」の尊号が奉られることになったが、北朝側はそもそも南朝の存在自体を否定しているのでこれにはかなり難色を示していた。義満から尊号問題の先例の諮問を受けていた北朝の公家・一条経嗣は激しく抵抗したようで、日記『荒暦』に「このような大問題を天皇にもうかがわず朝廷の会議も開かずに決定してしまうとは言語道断である」と義満への怒りを記している。結局義満は光明天皇後醍醐天皇に尊号を贈った例を持ち出して半ば強引に尊号問題を処理してしまった。
 後年「大覚寺統と持明院統の交互即位」の約束も反故にされるため、義満は最初から南朝をだまして合体を実現した、との見方が古来広まっているが、実態としては義満はかなり南朝側に気を使っており、むしろ冷たい態度の北朝側を無視して極力講和条件の履行につとめていたと思しい。その後も義満は後亀山を何度も訪問して優遇しており、交互即位の約束もある程度守るつもりだったとの見解もある。
 後小松によって北朝系のみの皇位継承が実行されるのは義満死後のことで、そのことは後の南朝復興運動「後南朝」の問題を引き起こすことになる。

 南北朝合体が実現すると義満は幕府の陣容も変えた。明徳4年(1393)6月に管領の細川頼元を辞めさせ、斯波義将を再び管領に任じている。幕府内各派のバランスをとり、その上に君臨することで将軍権力の安定を狙ったものとみられる。またこの年の4月に後円融上皇が亡くなると、義満は後小松の父の役割を後円融からそのまま引き継ぎ、実質的な「治天」として政治活動を行うようになる。
 応永元年(1394)12月17日、義満は征夷大将軍の地位を息子の義持(9歳)に譲り、自らは25日に太政大臣に任じられてついに位人臣を極めた。翌応永2年(1395)の正月に義満が新任の拝賀のため参内するときには関白一条経嗣以下公家たちがまず室町の花の御所に駆けつけ、上皇への拝礼に准じて庭に立って拝礼、そのまま義満につき従って内裏に赴き、義満が儀式の途中で早退して帰ってしまうとまた公家たちもこれに従って花の御所で押しかけるという有様であったという。これも義満が朝廷の人事権を完全に掌握してしまったためで、京極実敦などは本来参内して天皇の前で行う叙位任官の謝礼の舞踏(拝賀奏慶)を花の御所に赴いて義満の前で舞ったという。この時点ですでに義満は上皇・天皇に匹敵する権威を現実に手にしつつあった。

 ところが6月3日に義満は太政大臣職を突然辞任、後小松からの再三の慰留も無視して、20日に出家してしまう。法名ははじめ「道有」、のちに「道義」と改め、「天山」の道号を称した。義満の出家を見て、管領の義将はじめ多くの大名が義満にならって出家し、その多くが義満自らの手で剃髪された。公家たちも競い合うように後追い出家したが、右大臣花山院通定のように現職の大臣でまだ若いにも関わらず慌てて出家したためかえって義満の不興を買って謹慎させられる者もいたし、常盤井宮満仁親王のように出家する気もなかったのに義満から「法名を何にするのか」と聞かれて慌てて出家する者も出るなど、武家公家ともに坊主頭続出という珍事になってしまったのだ。

 このとき義満は38歳、もちろん出家しても隠居する気は毛頭なかった。後小松からの慰留に対しても「政務はこれまで通りみる」と答えており、実際その政治活動は出家後もまったく変わらなかった。幼い息子に将軍位を譲っても政治実務は自身がみるという方式はまさに「院政」であり、出家後の義満は東大寺や延暦寺などにおける宗教儀式で法皇の前例に倣うようになる。出家の狙いは自らを官位の枠から自由にし、実質的な日本の君主「治天」としてふるまうためであったとみられる。

―応永の乱〜動乱の終結―

 応永2年(1395)8月、義満は九州探題・今川了俊を突然京都に呼び戻して解任し、遠江への下向を命じた。九州を平定しその支配者として力を持ちつつあった了俊を警戒したためと見られるが、同時に九州をおさえることで明や朝鮮といった外国との交渉を我が手に握る狙いもあったと考えられる。義満が次に警戒したのは周防など六カ国の守護大名で朝鮮とも独自の交渉を行い、南北朝合体の功績で足利一門に准じる扱いも受けていた大内義弘であった。
 今川了俊の回想録『難太平記』によると、義弘は了俊に「今の御所(義満)のやり方を見ていると、弱き者は罪が少なくても難癖をつけて罰せられ、強き者はご意向に逆らっていても放っておかれる。これはみんな知っていることだ」と言い、幕府への反抗を誘ったという。了俊がこれに応じなかったために義弘から義満に讒言され、斯波義将の意向もあって了俊の解任に至ったのだと了俊本人は語っている。相手が強いうちは手を出さないが、策謀により弱体化させてから一気に叩きのめす義満のやり方を土岐氏、山名氏の例で思い知っていた義弘は、早い段階から義満の次の狙いが自分にあることを察知していたようだ。

 応永3年(1396)4月、義満は西園寺家の別荘「北山山荘」を譲り受け(河内の領地と引き換えに事実上奪い取った)、ここに壮大な邸宅「北山第」の建設を開始する。義満の別荘、などとも表現されるが実態としては「宮殿」といってよいほどの規模であり、その後も残された金閣(舎利殿)のほかにも内裏のように紫宸殿(寝殿の誤りとの見解あり)までが建てられていたと伝えられる。
 この工事には諸大名が労役に従事させられたが、大内義弘は「武士は弓矢をもって奉公するもの。我が兵は土木工事などせぬ」と拒絶して義満の不興を買った。さらに了俊の後任の九州探題に任じられた渋川満頼が九州で少弐氏相手に苦戦していると、義満は義弘にその救援を命じた。この戦いで義弘の弟・満弘が戦死した上に、敵方の少弐・菊池に義満から義弘を戦死させよとの密命が下っているとの風聞もあって、義弘はますます義満への恨みを強めた。九州が落ち着くと義満は義弘に対してたびたび京への帰還を命じたが、すでに反乱の意図を固めていた義弘は「上洛すれば殺される」と応じず、ひそかに今川了俊を通じて鎌倉公方の足利満兼と連絡をとり、土岐・山名・京極など義満に恨みをもつ勢力、楠木ら南朝残存勢力などにも呼応を呼びかけ、義満を包囲攻撃する準備を整えていた。

 応永6年(1399)10月13日、大内義弘は九州・中国の兵五千を率いて和泉・堺に上陸、堺の町を要塞化してそのままそこにこもって義満を威嚇した。義満は側近の禅僧・絶海中津を義弘のもとへ派遣して説得を試みたが、義弘は「ご政道を正そうと鎌倉殿と約束したから違うことはできない。来月二日に鎌倉殿と共に上洛することになろう」と言い放って追い返した。これを聞いた義満は義弘討伐を決断、11月8日に東寺、14日に男山八幡まで自ら出陣し、諸大名の軍勢三万で堺を包囲する。11月21日に義弘と示し合わせた足利満兼が関東で兵を起こして義満方の小山氏を牽制すべく北上を開始、東西同時の行動に早期決着を迫られた義満は11月29日から堺への総攻撃にとりかかった。
 大内義弘は鎌倉との呼応を企図して初めから長期籠城戦を覚悟しており、堺を町ぐるみ要塞化し海路の補給も確保していた。29日の攻撃は大内軍の奮闘もあって幕府軍に多数の死者を出して失敗に終わる。戦況は膠着化するかと思われたが、12月21日の強風の日に幕府軍は大量の左義長(正月飾りを焼くために木や竹を組んだもの)に火をつけて堺の要塞を火攻めにした。大内軍は突撃を余儀なくされ、義弘は奮戦の末に畠山満家の軍に討ちとられた。この戦いの結果、大内氏は義弘の弟・弘茂が許されて存続するものの、周防・長門二国に押し込められることとなった。義弘の戦死を知った足利満兼は鎌倉に引き上げて義満に恭順を示し、義弘と満兼を仲介した今川了俊はかろうじて命は助けられたものの政治生命を断たれた。
 この「応永の乱」の勝利をもって、義満に対抗しうる勢力は完全に消滅した。鎌倉幕府の滅亡に始まる南北朝の動乱はこれをもって終結し、室町幕府の安定期が始まる。そして瀬戸内海から九州へのルートを確保した義満は、いよいよ海外との交渉に乗り出す。

―「日本国王」として―

 もともと義満は若いころから海外との交渉に強い関心を抱いていた。彼の周囲には明からの亡命者である陳外郎(ちんういろう)や明から倭寇に拉致され朝鮮で学んだという魏天、さらにはインド人とも東南アジアのイスラム商人ともささやかれる「天竺聖(てんじくひじり)」なる人物(楠葉西忍の父)など外国人が多数いたし、絶海中津ら中国留学経験のある多くの禅僧が外交ブレーンとなっていて、「国際色」のかなり高い環境に身を置いていた。「応永」に改元した際(1394)にも義満は明の「洪武」にちなんで「洪徳」を強く推したこともあった(結局果たせず、その腹いせか「応永」を35年も改元させなかった)
 応永8年(1401)5月、義満は博多商人の肥富(こいづみ。非日本人説もある)の勧めに従って、肥富と僧・祖阿を明への公式使節として派遣した。使節は儒学者の東坊城秀長が起草、書家の世尊寺行俊が清書した国書を持参しており、その冒頭には「日本准三后・道義、書を大明皇帝陛下に上す」とあった。義満は金千両・馬十匹・鎧一領や刀・扇・屏風を献上し、さらに当時東アジアの国際問題となっていた「倭寇」に拉致された明人を送還した。明の建文帝(洪武帝・朱元璋の孫)はこの使節を正式のものとして受け入れ、「源道義」を「日本国王」に冊封する国書と大統暦を持たせた使者を肥富・祖阿に同行させ日本に向かわせた。

 明使を伴った遣明船は翌応永9年(1402)8月3日に兵庫に帰ってきた。義満は愛娘の喝食御所や側室たちを引き連れて兵庫まで出向いて船を見物する興奮ぶりであったという。9月5日に義満は明の使僧・天倫道彛一庵一如に北山第で対面したが、そこには公卿たちがこぞって装束姿で参列し、左大臣・内大臣が総門まで使者を出迎え、義満自身も四足門まで出迎えるという丁重きわまる応対がなされた。明使は建文帝の国書を北山第寝殿前の高机の上に置き、義満はこれに焼香三拝してひざまづくという卑屈なほどの態度をとって拝見した。義満が明皇帝から「日本国王」に冊封されたこと、日ごろ尊大で高姿勢な義満が明からの国書に対してこのように卑屈な低姿勢をとったことに公家・武家いずれでも批判の声が多かったのは日記や後年の証言により明らかとなっているが、それを口に出せる者は誰もいなかった。
 義満が明使と国書に対してこれほど丁重な態度をとったのは彼の中国好みの嗜好もさることながら、いわゆる「簒奪説」(後述)の立場からは天皇を超える「日本国王」の地位が国際的に承認されたことを人々に誇示する狙いがあったとの見解もある。一方で国書を迎え入れる儀式は明の典礼で規定されたものとほぼ同等であり、義満は単にそれにのっとっただけとの見方もある。

 実はこの時、明では建文帝とその叔父・燕王朱棣(後の永楽帝)の戦い(靖難の変)が始まっていた。建文帝が義満の使者を受け入れ彼を日本国王と認めたのも燕王を背後から牽制する狙いがあったらしく、国書の中にも戦乱をにおわす表現があった。義満は大陸の情勢をキャッチしており、翌応永10年(1403)2月に二度目の遣明使を送り出すにあたって建文帝と燕王のどちらが勝ってもいいように二通の国書を作成して正使・堅中圭密に持たせている。彼らが明に到着すると、すでに靖難の変は片付いて永楽帝の世となっており、使節はさっそく新帝即位を祝うために用意してあった義満の国書を差し出した。この国書(表)は絶海中津の起草とみられ、義満は「日本国王源」と自称していた。この表現は明の冊封体制に入った以上必然のものではあったが(そうしなければ相手にもされない)、国内では当時から批判も多く、「国王」はまだしも明帝に「臣」と称したことが特に批判を浴びた。
 このことは後世まで「卑屈外交」と見なされ、義満批判の大きな要素となるのだが、当時においては(それが明による一方的なものとはいえ)外交ルール、国際法であったことを忘れてはならない。また現代まで「朝貢外交」と悪い意味で使われることにつながるのだが、実際の朝貢外交は明側からもたらされるものが圧倒的に多い「超黒字貿易」であり、明が「十年一貢」と定めて規制しなければならないほどだった。このとき永楽帝から勘合符100通が義満に送られて、これを利用することにより室町幕府は対明貿易をほぼ独占し、大きな収益をあげて財政をうるおすことになる。
 こののち義満在世のうちに、応永14年(1407)まで毎年のように遣明船が送られ、明の使者が来日した。義満は明船が来日するたびに妻や娘を引き連れて兵庫へ出かけ、これは「兵庫御成(おなり)」として慣例化することになる。

 明だけではなく、義満は朝鮮に対しても強い関心を示していた。日本で南北朝合体が成り、高麗から朝鮮への王朝交代がおこった明徳3年(1392)12月に倭寇禁圧を求めて来日していた高麗使僧への返書を、義満は絶海中津に起草させている。また大内義弘を通じて朝鮮に大蔵経を求めたり、修好の意を伝えさせたこともある。応永8年(1401)9月には朝鮮船を見るために兵庫に赴き、応永10年(1403)10月には北山第で朝鮮人と対面している。義満が明から冊封され「日本国王」となったことで朝鮮も義満を公式に「日本国王」と認め、室町時代を通じて外交関係をもつこととなった。

 義満は自分の生きているうちに、海の向こうの二つの国で「革命」(王朝交代)が起こるのを目の当たりにしている。そして義満のこの二国との交渉への関心の高さは日本の前近代の為政者としては異例のものとも思える。義満は天皇家を超える地位を手に入れようとしたのではないか、との推測があるが、それはもしかすると同時代の明・朝鮮における「革命」に刺激されていたのかもしれない。

―絶頂の中の急死―

 話はややさかのぼり、 応永6年(1399)9月15、義満は自らが創建し一度焼失した相国寺(寺の名も義満が「大臣」=「相国」であったことに由来)の伽藍の再建の進めていたが、最後の仕上げとなる七重の大塔の落慶供養がこの日大々的に挙行された。これは同時に義詮の三十三回忌供養、および義満の重厄祓いも兼ねた、一日がかりの壮大な式典となったが、その大塔の高さは360尺(約110m弱)という前代未聞のものであった。それ以前の高層建築物の記録は南北朝時代に焼失した法勝寺の九重大塔(約86m)が最高で、以後ではなんと昭和4年(1929)に250mの送信鉄塔が建てられるまで破られないという歴史的な高層建築物であった。ただしその高層が災いして応永10年(1403)に落雷にあって焼失、義満はすぐさま北山第にこれを再建したが、これも応永23年(1416)にやはり焼失し、今日には伝えられていない。
 この大塔落慶供養は、相国寺が禅寺であるにもかかわらず比叡山延暦寺や東大寺、興福寺など宗派を超えて千人の僧侶が参列を命じられ、儀式進行役の導師は天台座主尊道法親王、法語を唱える呪願は仁和寺の永助法親王、そして義満自身は法要の中心となる「証誠」という役を自ら務めて文字通り式典の主役となった。式典当日には夜明け前から関白以下公卿たちが北山第に駆けつけ、出立する義満を一同がひざまづいて出迎えた。尊道・永助両法親王は自ら義満の行列につき従いたいと申し出る一幕もあり、さすがにこれは義満が辞退したものの、義満が武家・公家のみならず宗教界全体の上にも君臨したことを象徴する事件であった。このころには義満の法要における格式は完全に「法皇」のそれに准じるものと定まっていた。

 応永12年(1405)4月に後円融天皇十三回忌の法事「法華八講」が内裏で催された際には、義満の参内のための「出立地」として通陽門院(厳子)の御所が使われ、ここを「御里(おんさと)」と呼ぶこととなった。「御里」とは「里内裏」(大内裏以外の仮皇居のことだが平安末期以降は実質皇居)のことであり、ここから義満は公卿たちをつき従えて参内し、内裏では義満の座の前に「三衣の筥(さんえのはこ)」が置かれた。「三衣の筥」とは三種の法衣を入れた箱だが、これを座の前に用意するのは法皇が天皇と対面する時の儀礼であった。つまり内裏の中で義満は完全に「上皇」「法皇」の扱いを受けることとなったのである。それも関白一条経嗣の日記によれば義満の要求によるものではなく経嗣が自発的に申し出たものであったという。

 翌応永13年(1406)12月26日、おりから危篤に陥っていた後小松天皇の生母・通陽門院厳子を見舞った義満は、厳子が助からないと見定めると「このままでは帝は一代のうちに二度の諒闇(りょうあん)を行うことになり不吉」と関白一条経嗣に提案した。「諒闇」とは親を亡くした天皇が一年の服喪をすることで、院政確立により若くして退位することが常態化して以来は在位中に二度の諒闇は非常に珍しいこととなっていた。義満は「二度の諒闇」の先例が四条天皇(12歳で転倒により急死)と後醍醐天皇といずれも不吉なものであると主張し(一条天皇の吉例があるのだが意図的に無視)、これを避けるために後小松に代理の母「准母」を立てるべき、と意見したのである。はじめこの意見を聞いた公家の日野重光らは義満の叔母であり後円融の生母である崇賢門院仲子を准母に立てることを提案したが、義満は仲子が後小松の祖母であることを理由に却下した。義満の意向が彼の妻・日野康子(業子の姪で、業子の死後正室となった)を准母に、というものであるのは明らかで、一条経嗣は苦々しく思いながらも逆らえず、翌日義満に対面して自分の口から康子を准母とすることを提案して義満を満足させた(せめてのもの抵抗に、日記に「悲しいかな、悲しいかな」と記した)
 12月27日に厳子は息を引き取り、その夜のうちに日野康子を准三后・准母とする宣下が出された。これにより康子は天皇の「母」となり、その夫である義満は天皇の「父」とみなされることとなったのである(後年つくられた「塵塚物語」では義満が後小松を猶子=養子としたのと記述がある)。翌年3月に康子には「北山院」の院号が下された。この院号も義満の意向を強く受けたものであったという。

 応永14年(1407)は特に大きな事件もなく、義満は「国母・北山院」となった妻・康子や愛娘の喝食御所らを引き連れて奈良や伊勢神宮、丹後など各地で旅を楽しんでいる。この年も遣明船が明使を伴って帰国し、二十万貫という莫大な利益を持ち帰った。義満はそこから銭十万疋を内裏に献上し、10月には明使を伴って常在光院に紅葉見物に繰り出している。このときは義満自身も明服を身にまとって明風の輿に乗り、明人たちにそれをかつがせるという異国情緒たっぷりのパフォーマンスを行っている。

 このころ、義満は僧とするべく梶井門跡に入れていた息子の一人を寺から連れ戻した。応永元年に側室・春日局が生んだ子で、なぜか義満はこの子を溺愛していたらしく、応永15年(1408)2月27日に義満はこの子を同じ牛車に乗せて内裏へ連れてゆき「童殿上(わらわでんじょう)」を遂げさせた。この子は東坊城秀長に字を選ばれて「義嗣」と名乗り、3月4日に元服前ながら従五位下に叙せられることとなった。「嗣」という字をわざわざ選んでいるのは、自らの後継者をこの子にしようという義満の意図があるとみる声もある。
 嫡男でありすでに征夷大将軍となっている義持も位階については義満の意向で順調に昇進しており、義満がとくに嫌った形跡はないのだが、応永13年(1406)3月に義満の激怒を買った義持が日野重光のところへ駆け込んで助けを求めるという事件が起きており、親子関係がしっくりいっていなかった気配はある。義持の生母・藤原慶子は応永6年(1399)に病死したが、このときも義満はその死をほとんど無視する態度をとったとされ、義満と慶子の関係がそのまま親子の冷たい関係につながったのかもしれない。その慶子の産んだもう一人の男児が、義嗣への叙位があった同日に出家させられていることもそれを裏付けている。この男児が青蓮院義円、のちにくじ引きで第六代将軍となった足利義教である。

 3月8日、義満は新装を終えた北山第に後小松天皇の行幸を仰いだ。このときも義満の座の前には「三衣の筥」が置かれ、義満は天皇と同じく繧繝縁(うんげんべり)の畳に座った。天皇が父の上皇・法皇を訪問する「朝勤行幸」に准じた格式がとられたのである。この「北山行幸」は二十日間にわたりあらゆる趣向を凝らして盛大に行われ、義満が実質的に「天皇の父」となったことを人々に見せつけるイベントとなった。
 同時にこの北山行幸は義満の愛児・義嗣を人々に披露する場でもあった。8日に後小松から義嗣に天盃(てんぱい。天皇から授かる酒)が授けられ、義嗣は笏を手に後小松の前で舞った。いずれも元服前の児童としてはまったく先例のないもので、その間関白以下公卿たちは庭に蹲踞していたという。この北山行幸の間に義嗣は正五位下左馬頭、さらに従四位下に昇進、後小松が内裏に帰った翌日に左近衛中将に任じられるという異常な速度の出世が行われている。
 そして4月25日、内裏の中で義嗣の元服式が執り行われた。内裏で、というのも異例だが、義嗣の元服は親王の元服に準拠した形式で進められた。この時点では後小松の次の天皇となる皇太子は立てられておらず(南朝系と交互迭立の約束があったため)、この元服は義嗣を実質的に「皇太子」に立てたものであり、義満の真意は義嗣を天皇として、足利氏による「皇位簒奪」を行うことにあったのではないか――とみる説が古くからある。だが仮にそれが事実であったとしても義満周囲の人物はまったく気づいていないか気づかぬふりをしていたと思われ、史料的にはまったく確認できない。義満は義嗣を天皇にまでする気はなく、それを超える「日本国王」とでも呼べる地位を引き継がせるつもりだったとの見方もあるし、一方で初めからとくに深い意図はなかったとみる意見もある。いずれにしても真相は義満本人しか知らないものだった。そしてこの直後に義満が急死するために全ては謎のままとなるのである。

 4月27日、義満は義嗣の従者である山科嗣教の元服の儀を北山第で行い、自身でその加冠をつとめた。しかしこの日から体調を崩したらしく、翌28日には病のため人と対面しなかった。医師の診察を受け翌29日にやや快方に向かったが、翌5月1日には病状が悪化、幕府・朝廷の命により各地の寺社で回復祈願の祈祷が始まっている。しかし4日に危篤となり、昼ごろついに息をひきとったと一度は発表されたが夕方に息を吹き返した。翌5日は落ち着いていたが6日に再び悪化、この日の申の刻すぎの酉の刻近く(午後5時ごろ)に義満はついに絶命した。享年51歳。
 死因は咳気とも流布の病とも伝えられ、その病状の推移から風邪をこじらせて急性肺炎になったものとする見解が有力である。いわゆる「簒奪説」をとる一部の人々からは、簒奪のゴール目前の急死に「簒奪阻止のための毒殺」との主張もよく唱えられるが、「簒奪」同様に当時の日記記録等にそれをにおわせるものすらなく、病状の推移からも毒物による死とは考えにくいのが実態である。ただ義満が法皇同然にふるまいだしたことから不満分子によると思われる放火事件が何度か起こっており、義満を亡き者にしたいと思っていた人がいたことは否定できない。また当時はすっかり義満に従順になっていた朝廷関係者よりも、義嗣への後継を恐れた義持と幕府関係者の方が「暗殺」を企図する可能性が高い、との意見もある。

 5月8日、朝廷は義満に対して「太上法皇(あるいは太上天皇)」の尊号を贈ることを決定した。義満は生前に太政大臣・准三后まで位人臣をきわめていたため、その死後に贈られる地位はそれより上となると「上皇」しかない。皇族ではない者に上皇の尊号を贈った例はないが義満は実質的に後小松の「父」であり、すでに法皇・上皇の格式でふるまっていたから、公家たちにとっては自然な決定であったようだ(むろん異論も一定数あった)。だがこの尊号授与を遺児である将軍義持は辞退した。幕府首脳、とくに斯波義将が強く反対したためと言われる。辞退の理由は「あまりに恐れ多い」ということでもあったが、幕府内には朝廷と一定の距離をおきたい、あるいは足利将軍家の権力が突出してほしくないという守護大名らの空気もあったとされ、また義持自身が亡父に対してわだかまりを抱いていたことも原因とみられる。
 この「法皇・上皇」尊号については公式の記録にないため実際には贈られなかったとする説もあるが、朝廷で一度は決定し幕府に内々で連絡したところ辞退されたため正式な宣下はなかったというあたりが真相のようである。だが義満の百日忌の法要では願文等で北山第を「大王の故居」と呼んだり、義満の居場所を「玉座」と表現するなどしており、相国寺鹿苑院過去帳には「鹿苑院太上天皇」、臨川寺の義満位牌には「鹿苑院太上法皇」とあるなど、義満が上皇・法皇となったとする認識は当時からあり、のちのちまで引き継がれることになる。

 義満の死はあまりに急であったため、後継者に関する遺言は残されなかった。義満の死の直後、公家たちはその後継者が義嗣になるものと見ていたらしい。だが幕府では将軍義持を後継とすることで早期にまとまっており、6月26日に義持は北山第に居を移して義満の後継者となったことを天下に示した。もっともやがて義持は北山第を離れ、金閣以外の建物を破壊させてしまうことになる。義嗣は不遇の身のままに置かれ、幽閉ののち応永25年(1418)に義持から謀反の疑いをかけられて殺害された。
 義持は父への不満を晴らそうとするかのように、父の政策の多くをくつがえしていった。朝廷との関わりも一定の距離を置くようになり、義満が決めた守護の人事も変更させた。そして帰国する明使に堅中圭密を同行させて永楽帝に義満の死を伝えさせながらも、翌年明から義満に「恭献」の謚(おくりな)を贈り、次代の「日本国王」である義持を慰問する使者が来日すると、義持はこれ兵庫で追い返し、自分の治世の間は日明交流を停止している(義教の代に復活)。その一方で義満時代に築かれた将軍の権威・権力については義持は大いにそれを引き継ぎ、義満時代以上に長期安定を維持した室町幕府の最盛期を現出することになる。

―その人物と評価―

 義満が室町幕府の体制を固めてその最盛期を現出し、そして長く続いた南北朝動乱を終わらせるなど、多くの業績を残した一流の政治家であったことに異論は出るまい。またその武家・公家・宗教界にまたがって君臨した絶大な権勢は日本歴史上でも他に匹敵する例が見当たらず、まさに空前絶後のものであった。またその積極的な外交政策、海外への関心の強さも日本の為政者としては異例のものといえる。ともすれば集団指導体制になりやすく独裁者を産む土壌がないとされる日本にあってはかなり珍しいタイプの政治家であったともいえよう。強いて他の例を挙げれば短期に終わったとはいえ後醍醐天皇がそれに近く、実際義満と後醍醐の共通性を指摘する声は少なくない。
 後醍醐もそうだったが、その独裁的な行動は当時から強く批判されている。義満在世中は表立って批判の声は出なかったものの公家たちは日記にその憤懣をぶつけていたし、義満死後にその政策の多くがくつがえされたのをみれば幕府内でも批判が多かったことがうかがえる。また今川了俊が指摘するように義満個人の政治的姿勢が「強いものには徹底して卑屈に、弱いものには徹底して高圧的に」というものであり、自分に媚びる者を重んじ、自分にへりくだらない硬骨漢を排除するといった露骨な好き嫌い人事を行ったことも否定できない事実だ。義満への批判・不満を記しているのが彼に権力を奪われてゆく公家や、排除された武士たちであることは多少考慮せねばならないが、同時代でも特に絶賛する声もないようなので、「横暴な君主」と見られていたことは確かなようだ。

 後世の義満評価として有名なのは江戸時代に新井白石が『読史余論』に書いたものだ。それを簡潔にまとめると、まず「(1)南北朝を統一して幕府の権威を高めた」「(2)太政大臣となり死後に法皇の尊号を贈られるなど、武士の栄光を示した」「(3)国内だけでなく明から日本国王とされるなど外国にまで名をとどろかせた」「(4)武家の礼法を定めて後の幕府の例となった」「(5)三管領四職を定め功績のあった者に領国を与え恩を施した」と世間が賞賛する五つの「功」を挙げたうえで、「南北朝統一といいながらも交互即位の約束を破って信用を失った」「苦労して太政大臣になったわけでもなく、彼の権勢をもって手に入れただけで、しかも君臣の礼をわきまえなかった」「彼が定めた礼法はちゃんとしたものではなく弊害を残した」「三管領四職を定め領国を分け与えたことで守護大名の力を増し将軍家の衰退を招いた」と一つ一つ論難し、晩年に義嗣を溺愛して結果的にその悲劇的末路を招いたことも挙げて、「わがままで信義にもとる人物」と評して今川了俊の義満評に同調している。白石のこの文章からすると、白石自身は儒教的観点から義満に批判的だが、義満を江戸幕府につながる武家政権のルーツとして評価する声が彼の時代でも多かったようである。なおこの文で白石が「日本国王」号についての批判をとくにしていないのは、白石自身が対朝鮮外交で将軍を「日本国王」にしていたこととつながるようである。

 江戸時代を下るに従い、尊王論、南朝正統の水戸史観が広まって来ると、祖父の尊氏が「逆賊」扱いされるのと連動して孫の義満も強い批判を受けるようになった。特に義満の場合は明にへりくだって「日本国王」に冊封されたこと、臣下の身でありながら自らを法皇に擬したこと、そして「簒奪」を意図したのではないかとみなされる行動から尊氏並みの悪者扱いをされるようになる。幕末には等持院にある尊氏・義詮・義満の木像の首がさらしものにされる事件も起きている。
 明治以後も基本的にそのイメージが維持され、戦後において皇国史観のくびきからは解き放たれたものの、絶大な権力者であった義満に人気が出る様子はない。壮麗な金閣の創建者であり、日本史上の最重要人物の一人として誰もが名前を知る存在ではあるのだが、その知名度の割に研究書・伝記も多くはなく、彼を主役にすえた歴史小説のたぐいもごくわずか、まして映画やドラマも全くないという状況が続いている。南北朝・室町全体がそういう扱いではあるのだが、とくに義満は目立った存在ながら天皇がからむために非常に扱いにくいと思われているようでもある。
 また義満の外交政策はともすれば「卑屈」とみなされ長年にわたり批判されてきたが、近年のグローバリズム進行を背景にした国際関係史研究のなかで義満の国際情勢への精通ぶりや保守的思考に流されない先見性・実行力を評価する声も出てきている。

 先例にとらわれない先見性、ということでは彼が北山文化のパトロンとなったことも挙げられるだろう。特に当時の上流階級においてはまだまだ「乞食の所行」と低く見られがちだった大衆芸能である「猿楽」を保護し、舞台芸術「能楽」へと花開かせたのは、観阿弥・世阿弥といった当事者の努力はもちろんだが、保護者である義満の力が大きかったことは間違いない。
 その世阿弥もそうだったと言われるが、義満は多くの美少年を「寵童」として常に身の回りに置いていた。公家や武家の子弟も多く、中には六角満高のように義満との結びつきにより力を得た大名もいる。当時は武家・公家・仏教界を問わず上流階級では美少年を稚児として侍らすことは珍しいことではないが、義満の場合はその数も多く、また寵童たちを優美に着飾ってイベントに参加させ、その美しさを周囲がほめそやすことで自身の権勢を見せつける道具としていたという面もあるようだ。
 美少年ばかりではなく、義満は女性方面でも積極的で、正室とした日野業子・康子以外に側室の数は相当数が知られている。日野業子をはじめとしてもともと宮中に仕えていた女性が多いのも特徴で、上記のように後円融の後宮の女性たちと密通していた可能性も高いとされる(ただしこれは義満に限ったことではなく、この手のスキャンダルは前後の時代にもまま見られる)。また実の弟の満詮の妻だった藤原誠子中山親雅の妻だった加賀局など他人の妻(いずれも前夫との間に子がいる)を取り上げて側室にした例もみられ、叔母と姪、姉妹、さらには母娘そろって義満の愛妾となった例もある。また高橋殿と呼ばれた側室はもともと東洞院の遊女であったというが、その才気と心遣いを義満に買われて深い寵愛を受け、義満死後もその才能によりながく権勢を保ったという(世阿弥が「申楽談義」で証言している)。彼女などは世阿弥同様に義満がその出自を問わず才能を見出して出世させた例と言えよう。
 義満の子女は夭折した者も含めて確認されているだけで21人に上るという。将軍になった者を除くと、その大半は僧籍に入り、それまで公家や皇族の子弟が占めていた有力寺院の長におさまり、足利家が宗教界をも支配する足固めとなった。

 義満の姿を今日に伝える木像・肖像画は数多い。なかでも等持院にある歴代足利将軍木像のうちの俗体の義満像は、他の木像を圧倒する豪快な存在感を見る者に与える。かつて金閣の中にも義満の法体の木像が安置され国宝に指定されていたが、金閣とともに焼失している。肖像画は法体のものが大半で、鹿苑寺所蔵のものが特に有名だが、いずれも「王者」にふさわしく恰幅のよい彼の生前の姿を伝えている。

参考文献

臼井信義「足利義満」(吉川弘文館・人物叢書)
佐藤進一「南北朝の動乱」(中公文庫)
佐藤進一「足利義満・中世王権への挑戦」(平凡社ライブラリー)
小川信「細川頼之」(吉川弘文館・人物叢書)
伊藤喜良「足利義持」(吉川弘文館・人物叢書)
今谷明「室町の王権」(中公新書)
桜井英治「室町人の精神」(講談社「日本の歴史」12、講談社学術文庫)
早島大祐「室町幕府論」(講談社選書メチエ)ほか
大河ドラマ「太平記」 ドラマ中への登場はなかったが、最終回「尊氏の死」で、母の胎内にいることが言及され、義詮にせっつかれた尊氏が「まだ見ぬ孫の元服ときたものじゃ」と苦笑しつつ、「満願かなう」から字をとって「義満」の名を決定する場面がある。それは良き名と喜んだ佐々木道誉も「いずれ義詮殿から義満殿へ寝返りいたそうよ」と名セリフを吐いた。尊氏の宿願を孫の義満が果たしたという形で金閣を映してドラマを締めくくっているのだが、「義満は尊氏の初孫」とするセリフは明らかに誤りである。
その他の映像・舞台 映像作品の例は非常に少ない。アニメ「一休さん」における「将軍様」(声:キートン山田)がもっともよく知られた登場例だが、一休の少年時代には義満はすでに出家しており「将軍」ではなかった(もちろん作り手は百も承知でやったようである)
2012年にこのアニメを原作として製作されたTVスペシャルドラマ「一休さん」では東山紀之が俗体のままで義満を演じた。一休と知恵比べをしてやりこめられるあたりはアニメ同様だが、疫病から人々を救うために反対を押し切って明との交易をおこなうなど度量の広い名君というイメージで描かれたことは画期的である。
歴史小説では 本文中にもあるように、その知名度に比べて義満をとりあげた歴史小説は非常に少ない。主人公にしたものでは平岩弓枝「獅子の座」、黒須紀一郎「日本国王抹殺」ぐらいしか見当たらない。脇役の重要人物として出てくるものでは杉本苑子「華の碑文」(世阿弥が主人公)、山田風太郎「婆沙羅」(佐々木道誉が主人公)、北方謙三「陽炎の旗」(「武王の門」の続編で懐良の孫が主役)などが挙げられる。
漫画では  学習漫画では最重要人物として当然皆勤。古い例では昭和40年代の集英社旧版「南北朝の争い」「たちあがる民衆」の2巻にわたって登場しているが、前者では美少年から美青年風、後者では権力にとりつかれた悪者風に描かれるという極端な描き分けがあった。
 義満個人をとりあげたものとして「学研まんが人物日本史」の広岡ゆうえい「足利義満・花の御所と金閣寺」、集英社版「学習漫画日本の伝記」の荘司としお「足利義満・金閣を建てた実力者」がある。広岡版は架空キャラ「天兵」の視点から次第に傲慢な権力者となってゆく義満を描き、荘司版は世阿弥の視点から現実主義者の大政治家としての義満を描いていた。
 石ノ森章太郎「萬画日本の歴史」では第20巻の一冊全体が義満に割かれており、今谷説をベースにした「皇位簒奪計画」に焦点を絞った描かれ方をされている。
 学習漫画系以外では、河村恵利「時代ロマンシリーズ」第8巻収録の「葉隠れー将軍義満の恋」がある。義満と密通したとの見方もある、後円融の妃・厳子と義満が「猫」を通して夢かうつつか、幻想的な恋をするストーリー。


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