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へきたんしゅうこう〜

碧潭周皎 へきたんしゅうこう 1291(正応4)-1374(応安7/文中3)
生 涯
―細川頼之と深く関わった禅僧―

 土佐国出身で、系譜不明ながら北条一族の出と伝えられる。はじめは仁和寺の禅助に師事して密教を学び、灌頂を受けて大阿闍梨まで進んだが、その後禅宗に転向して天竜寺の夢窓疎石に師事した。碧潭はもともと密教を学んでいたこともあって夢窓の直接の門下の中では純粋な臨済禅ではなく、他宗の教義を混淆した、よく言えばオールマイティな禅であったらしい。密教を学んでいたことから幕府より雨乞いの祈祷を命じられてたちまち効果を現したこともあったという。また「地蔵の生まれ変わり」と呼ばれたとも言い、純粋禅の高僧たちより近寄りやすさ、親しみやすさがあったのかもしれない。

 康永元年(興国3、1342)に洛西にある禅寺・西芳寺の住持となる。康安元年(正平16、1361)10月には大覚寺で「十八道次第」「金剛界次第」などを書写。貞治6年(正平22、1367)4月に将軍・足利義詮の名を受けて天下安泰を祈って大般若経を転読している。この年の9月に細川頼之が四国から上洛し、やがて義詮から後事を託され管領に任じられることとなるが、このころ西芳寺の檀越で幕府の有力官僚であった摂津能秀の仲介で碧潭は頼之と結びつき、深い帰依を受けることになった。
 碧潭の伝記である『宗鏡禅師伝』によれば、頼之は政務の合間に碧潭のもとを訪ねて問答し、得るところが多かったために西芳寺に隣接する衣笠山の土地を買い取って碧潭のために「地蔵院」を創建した。頼之は碧潭に開山となってくれるよう頼んだが碧潭は形式的に師の夢窓を開山とし、自身は第二世住持となった(とっくに故人である夢窓を形式的な開山とするケースはこの時代非常に多い)。寺伝などでは地蔵院創建は貞治6年10月とされるがこの時頼之はまだ上洛直後であり、土地売買の記録が一年のちの応安元年(正平23、1368)10月であることから、実際の創建は応安元年ではないかとする意見もある。
 頼之の碧潭への傾斜はかなりのものだったようで、一説に同じ夢窓門下の春屋妙葩との対立していたことから、春屋とは一線を画す碧潭に精神的救いを求めたとも言われる。応安3年(建徳元、1370)に頼之は自らの四十二歳の寿像(その時の実年齢の姿の彫像)と地蔵菩薩像を地蔵院に納め、碧潭は師の夢窓から授かった宝珠の一粒を地蔵像の胸に安置している。

 応安7年(文中3、1374)正月5日に碧潭は八十四歳の高齢で没した。翌月に後円融天皇から「宗鏡禅師」の諡号が贈られたが、当然これは管領・細川頼之の運動によるところが大きかったであろう。碧潭の墓は地蔵院に作られたが、のちに頼之も遺言によって自らの墓を碧潭の隣に作らせ、今日でも地蔵院には碧潭と頼之の墓が仲良く並んで建っている。

参考文献
小川信『細川頼之』(吉川弘文館人物叢書)ほか


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