細川頼春 | ほそかわ・よりはる | 1352(嘉元2)?-1352(文和元/正平7)
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親族 | 父:細川公頼 兄弟:細川和氏・細川師氏
子:細川頼之・細川頼有・細川頼元・細川詮春・細川満之・守慶・守格・守明・頼雲 |
官職 | 蔵人、刑部少輔、讃岐守 |
官位
| 従四位下
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幕府 | 阿波・備後・伊予(?)・越前・讃岐(?)守護、引付頭人、侍所頭人 |
生 涯 |
―文武両道の名将―
細川公頼の長子で、通称「九郎(源九郎とも)」。南北朝動乱で活躍した細川一族の第一世代で、兄和氏、弟師氏と共に足利高氏(尊氏)挙兵以来の功臣である。
元弘3年(正慶2、1333)4月、足利高氏は丹波・篠村で討幕の挙兵をする。このとき細川和氏・頼春・師氏の三兄弟も同行している。そして六波羅陥落後ただちに三兄弟そろって関東に派遣され、陥落後の鎌倉の支配をめぐって新田義貞と争い、これを追い出したとされている(「梅松論」)。
建武政権が成立すると、功績により蔵人に任じられた。建武元年(1334)春、後醍醐天皇の宮中の馬場殿で行われた射礼(じゃらい。弓矢の競技)の催しで見事な腕前を披露し、後醍醐みずからこれを称えて衣装を恩賞として与えている。細川家の史料によるとこのとき頼春は昇殿してこれを受け取り、そのときに「あづさ弓 家に伝えて 青柳の いともかしこき ならひにぞひく」(我が家が代々伝えてきた弓矢の腕前をこの春に帝の目の前で披露することができました)と一首歌を詠んで、後醍醐からますます褒められたという。この一件は尊氏もよほどうれしかったのか、恩賞として日向国の領地を頼春に与えている。
建武2年(1335)7月に中先代の乱が起こり、尊氏はこれを平定するため出陣し、そのまま鎌倉に居座って幕府政治復活の既成事実を作ろうとした。これに対して後醍醐は新田義貞を司令官とする追討軍を派遣した。これを聞いた尊氏は「帝にそむく気はない」として浄光明寺にひきこもって出家・遁世の意思をしめしたが、このとき尊氏の近習以外で一緒に寺まで同行したのは頼春だけだった(「梅松論」)。他にも大勢家臣がいるはずだが、そのなかでわざわざ選ばれているあたり、頼春が尊氏から深く信頼されていたことがうかがえる。
その後尊氏は出陣を決意し、箱根・竹之下の戦いで新田軍を撃破し、京へと攻めのぼった。京都をめぐる攻防戦では頼春もよく戦い、建武3年(1336)2月11日に摂津・瀬川河原で行われた戦いでは重傷を負う奮戦を見せたことが「梅松論」に書かれている。
いったん敗れて九州まで落ち延びた尊氏は、その途中の室泊の軍議で細川一族を四国に配置して巻き返しに備えた。細川一族は四国勢を率いて湊川の戦い、それに続く京での再度の攻防戦で活躍し、頼春は6月30日の戦闘で内野(大内裏跡の空き地)に布陣していたところをわざわざ選抜されて、宇治方面から進んできた敵軍を撃退している(「梅松論」)。
11月にひとまず尊氏と後醍醐が和睦し、恒良親王を奉じた義貞が越前・金ヶ崎城に移ると、翌建武4年(延元2、1337)正月から頼春は高師泰らと共に金ヶ崎城攻略にあたり、3月にはここを陥落させている。
数々の戦功により刑部少輔の官職を授かり、建武4年(1337)8月には淡路守護の兄・和氏に代わって淡路国内の南朝方討伐を命じている(兄・和氏がこのころ引退を決めたのでその代行らしい)。翌建武5年(延元3、1338)5月には高師直・師泰、そして従兄弟の細川顕氏らと協力して北畠顕家ひきいる奥州軍を石津の戦いで壊滅させ、その別動隊の春日顕国がこもる男山八幡の攻略にも参加している。
兄・和氏の隠居にともない、阿波守護職を引き継ぎ、さらに備後守護職も任されて、四国と瀬戸内方面に活発に活動していた南朝軍の鎮圧にあたった。康永元年(興国3、1340)5月にこの地の南朝軍の総帥として迎えられたばかりの脇屋義助(義貞の弟)が伊予・今治で急病のため死去すると、頼春はチャンスを逃さず伊予に侵攻、義助のあと伊予の南朝軍を率いていた大館氏明を世田城に攻めて戦死させた。このころ伊予守護ともなってこの地の支配を推し進めたが、従来この地に根を張る河野氏がこれに抵抗し、これ以後、阿波細川氏と伊予河野氏は戦国時代まで続く因縁の間柄となる。
―壮烈な戦死―
南朝に対して圧倒的優勢に立った足利幕府だったが、今度は幕府内における直義派・師直派の対立が激化、「観応の擾乱」へと突入してゆく。頼春はもともと尊氏の側近の立場であったから一貫して尊氏・師直派に属していたが、これは従兄弟の顕氏が直義の腹心となっており、細川一族の中でも惣領の地位をめぐる抗争があったことも一因のようだ。
貞和5年(正平4、1349)8月に師直派がクーデターを起こし、直義を失脚に追い込んだ。翌観応元年(正平5、1350)11月、尊氏・師直は直義の養子・直冬を討つため九州に向けて出陣するが、その直後に直義が南朝と手を結んで挙兵した。尊氏軍に同行していた細川顕氏も直義と呼応して讃岐に逃亡し、慌てた尊氏は同族の頼春と清氏(和氏の子)に顕氏の討伐を命じている。だが頼春があまり乗り気でなかったのか、あるいはその暇もなかったのか、すぐに引き返している。
年が明けて観応2年(正平6、1351)正月14日、京都で尊氏・直義両軍の激しい戦いが行われ、頼春は尊氏派武将として戦い、敗れて自邸に火をつけて京から没落している(「観応二年日次記」)。これとほぼ同時に畿内と守護国の阿波との連絡をとる海路を確保するためか、紀伊の安宅水軍に阿波国の領地を安堵する書状も出している(正月7日付)。しかし2月に戦いは直義派の勝利に終わり、2月26日に師直・師泰らは殺害され、尊氏はひとまず直義と和解して京に戻った。頼春もこれに同行したものと思われる。
だが7月に尊氏・直義は決裂、尊氏派の武将達は一斉に京を離れ、その直後に尊氏・義詮も京を離れた。これは周囲から京にいる直義一派を挟撃する謀略だったのだが、このとき頼春も7月21日に京を離れて拠点の阿波に帰ったことが確認できる。こののち紆余曲折があって直義は関東へと逃亡、尊氏は南朝と手を結んで(正平の一統)直義を討つべく関東へと出陣する。このとき頼春は尊氏の嫡子・義詮を守って京に残る留守部隊となった。尊氏と直義の戦いは翌文和元年(正平7、1352)2月26日に直義が鎌倉で急死したことにより一応の決着がつく。
ところがその直後、京・鎌倉を同時奪回する機会をうかがっていた南朝軍が動いた。南朝の後村上天皇は京の近くの男山八幡に進出、閏2月20日に突然北畠顕能・楠木正儀率いる南朝軍が京へ突入したのである。
急報を受けた頼春は鎧もつけず、鞍も置かずに馬に飛び乗り、小勢を率いて迎撃に出た。四条大宮(あるいは六条大宮)で楠木・和田軍と戦闘になり、ここで壮絶な戦死を遂げた。「太平記」では落馬しながらもなお敵兵二人を斬って捨てたが、槍で貫かれて死んだといい、細川家の史料では家臣四人を討たれてもなお単騎で駆け回り、周囲から矢を射かけられて死んだと伝える。
頼春の嫡子が、南北朝動乱を終息させる名宰相・細川頼之である。頼之は後年弟の頼有にあてた書状のなかで、父・頼春から口伝で教えられた出陣作法について記しており、頼春がその方面でも造詣が深かったことをうかがわせている。
また、こののち室町時代、戦国時代、江戸時代、そして近代まで脈々と続いた奇跡の大名・細川家の直接的ルーツはこの頼春ということになる。
参考文献
小川信「細川頼之」(吉川弘文館・人物叢書)
佐藤進一「南北朝の動乱」(中公文庫)ほか
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大河ドラマ「太平記」 | ドラマ中盤、建武政権期から幕府成立期にかけて合計6回登場。演じたのは「太平記」出演者に多い「たけし軍団」の一員・芹沢名人だが、特に目立たず「足利家臣一同」の中に紛れ込んでいるだけである。 |
その他の映像・舞台 | 1964年の歌舞伎「私本太平記」で「○○延録」(下の名前のみ確認)が演じた。1991年の歌舞伎「私本太平記 尊氏と正成」では市川右之助(三代目)が演じた。 |
歴史小説では | 兄の和氏と共に名前だけなら時々出てくる。なお、当サイトに掲載されている仮想大河ドラマ「室町太平記」では主人公の父親ということもあり、第1回から戦死する第6回まで重要キャラとして登場している。
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PCエンジンCD版 | 北朝側武将として和氏・顕氏とともに讃岐阿波に登場する。初登場時の能力は統率79・戦闘84・忠誠89・婆沙羅35。
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メガドライブ版 | 竹之下合戦や湊川合戦のシナリオで足利軍武将として登場。能力は体力79・武力89・智力112・人徳90・攻撃力70。 |
SSボードゲーム版 | 細川定禅のユニット裏で登場。武家方の「武将」クラスで、勢力地域は「四国」。合戦能力1・采配能力4。 |