賢俊
| けんしゅん | 1299(正安元)-1357(延文2/正平12) |
親族 | 父:日野俊光 兄弟:日野資名・日野資朝・日野(柳原)資明・律師浄俊 |
生 涯 |
足利尊氏の護持僧となり、絶大な権勢を誇った政僧。その存在は後醍醐天皇の護持僧・文観と比較され、同時代の宗教界のライバルとみなされる。
―日野家出身の真言僧―
父は持明院統派に属する公家・日野俊光。その子資名・資明も持明院統―北朝系に属したが、兄弟のうち日野資朝は大覚寺統の後醍醐の側近になってしまい父から勘当され、律師浄俊も護良親王の側近となるなど、それぞれ多様な運命をたどった兄弟である。賢俊はそんな兄二人をもって生まれ、はじめ俗名を「賢俊(かたとし)」といったという。法名「賢俊(けんしゅん)」はそれをそのまま使ったことになる。
賢俊は真言宗・醍醐寺三宝院の賢助(洞院公守の子)の弟子となり、真言密教を学んだ。文保3年(1318)2月に賢助の使者として二十歳の賢俊が洞院公敏(賢助の甥)の屋敷を訪問していることが公敏の日記で確認される。元応2年(1320)12月今熊野において22歳で受戒。正中3年(1326)3月の賢助による宮中での修法に参加、嘉暦三年(1328)に師の賢助が東寺長者となるとその片腕となり、翌年正月の賢助による宮中での後七日修法でも重要な役割を演じた。だがこれ以後しばらく賢俊は後七日修法に名を見せなくなる。
このころ醍醐寺は大きく二派に分かれて長い争いが続いており、これは皇室の持明院統・大覚寺統の争いとリンクしていた。賢助―賢俊の系統は持明院統、道順―文観の系統は大覚寺統とそれぞれ結びついており、とくに文観は後醍醐天皇の腹心となって絶大な信任を得ており、後醍醐時代は賢俊にとっては不遇な時期でもあった。文観が後醍醐のために幕府を呪詛する祈祷を行っていたというのもこのころのことである。
元徳3年(元弘元、1331)に後醍醐天皇の倒幕計画が発覚し、文観は捕えられて硫黄島(鹿児島県)に流された。直後の8月に後醍醐は倒幕の挙兵をした。持明院統の皇族は六波羅探題・北条仲時邸に避難したが、このときここで賢助により行われた五壇法修法に賢俊はやはり参加している。後醍醐の挙兵は失敗に終わり、持明院統の光厳天皇が即位したことで醍醐寺三宝院でも政権交代が起きて賢助・賢俊が復権した。正慶2年(元弘3、1333)正月の宮中での五壇法修法は賢俊が執り行った。この年に師の賢助が亡くなり、賢俊はその後継者となる。
ところがこの年5月に鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐が都に凱旋。文観も流刑先から舞い戻って来てしまい、やがて東寺長者、醍醐寺座主となって密教界に君臨した。賢俊はまたも雌伏の時を迎えることになった。
―尊氏に院宣をもたらす―
醍醐寺が保管する文書の中に「永仁三年」の日付がある賢助から賢俊を後継者に指名する内容のものがある。永仁3年(1295)には賢俊は生まれてもいないので年号は明らかにウソなのであるが、その裏に「元弘三年」の張り紙があり、「源朝臣」の署名と共に足利尊氏の花押(サイン)がある。この文書の意味は謎に包まれているが、幕府が滅んだ元弘3年(1333)の段階(「元弘」の年号があるので幕府滅亡後である)で賢俊と尊氏が早くも接触していた証拠とも考えられる。
建武2年(1335)秋、足利尊氏は建武政権に反旗を翻した。翌建武3年(延元元、1336)正月に足利軍は一度は京を占領したが、後醍醐方の反撃に遭い、2月には九州への敗走を余儀なくされた。このとき赤松円心の提案で尊氏は光厳上皇の院宣を得て「賊軍」の汚名を晴らそうと図り、使者を送って光厳側へ接触を図った。「太平記」では尊氏は日野資明あてに連絡をとったことになっており、この仲介にあたったのが賢俊その人であった可能性も高い(元弘3年段階で接触しているとすればますますその可能性が高い)。
光厳は尊氏の求めに応じて「新田義貞を討伐せよ」との院宣を下し、これを賢俊自身が尊氏のもとへ持参して行った。この状況下で敗軍の尊氏と合流するのはかなりの危険があったと思われ賢俊がどのような旅をしたのか興味のあるところだが、「密宗血脈抄」という本に「賢俊は乞食修行者の姿になって九州に往来した」との記述があり、これがこの時の話ではないかと言われる(田中義成「南北朝時代史」)。ともかく賢俊は2月20日ごろに備後・鞆において院宣を尊氏に手渡し、一世一代の大任を果たした。
この院宣により尊氏は後醍醐に対抗して「官軍」を名乗る大義名分を得て九州に上陸、多々良浜の戦いに勝利して九州を平定し、そこから西上して5月25日の湊川の戦いに勝利して足利の天下取りをほぼ決定づける。直後の6月3日に賢俊は文観に代わって第65代醍醐寺座主となる。以後、賢俊は尊氏の絶大な信任を受けて真言密教界に君臨することとなる。
賢俊が尊氏の護持僧となったのは建武5年(1338)4月であった。「護持僧」とは天皇や将軍など有力者のそばに常にあってその平穏無事を祈る、いわば宗教的ボディガードである。尊氏には五人の護持僧がおり、このときその末席に連なった賢俊は「すこぶる面目の至り」と喜んだという(「五八記」)。賢俊は光明・崇光ら北朝天皇の護持僧もつとめ、後醍醐の護持僧として吉野までついていった文観とはそれぞれ南北の「天皇の守護者」として戦ったことになる。暦応3年(興国元、1340)には東寺長者にのぼりつめた。
―「将軍門跡」とよばれて―
観応元年(正平5、1350)10月、折からの幕府の内戦「観応の擾乱」で尊氏は弟・直義と争い、自らの子で直義の養子となった直冬を討つべく九州へと出陣する。このとき賢俊も尊氏の護持僧として同行するが、戦争に同行することについて「釈門の儀にあらず(僧侶としてふさわしくない)」「一流の恥」と心の葛藤を吐露したような言葉を遺言のように残し、一時的に東寺長者の地位を辞している。
ところが翌観応2年(正平6、1351)11月、いったん和解した直義と戦う必要から尊氏は北朝を放り出して南朝に降伏、南朝の後村上天皇が唯一正統の天皇となってしまった。南朝はただちに北朝が持っていた神器を接収し(南朝は偽物と断じていたが「二代にわたって神器として使われたから」という奇怪な理由で接収した)、南朝につき従っていた文観がまた東寺長者に返り咲いて京に入り、翌年正月の後七日修法を執り行っている。賢俊にはまさかの逆転劇であった。
観応3年(正平7、1352)閏2月、後村上天皇は男山八幡まで進出し、南朝軍は京を占領して北朝皇族をまとめて拉致した。5月に男山八幡は陥落して後村上はほうほうの体で逃げ去って行ったが、それより前に北朝皇族はまとめて賀名生へと連行してしまった。東寺長者に返り咲いた賢俊は南朝軍が立ち去った直後の男山八幡に入り神器の回収を試みたが、さすがに神器は後村上自らが抱えて持ち去られていたものの神器のうち鏡が入っていた小唐櫃の回収に成功する。幕府は南朝の拉致をまぬがれていた弥仁親王を、その祖母・広義門院(西園寺寧子)を「女治天」として院宣により新天皇(後光厳天皇)に践祚させるという異例の措置をとるが、このとき賢俊が回収してきた唐櫃が神器の代用とされている。単に神器の代用を持ちかえったというだけでなく、後光厳の即位には賢俊の力がかなり大きかったらしく、以後賢俊の立場はますます強くなる。尊氏と深く結び付いて絶大な権勢を誇った彼を人は「将軍門跡」と呼んだという。
尊氏が鎌倉に下っているあいだの文和2年(正平8、1353)正月に、義詮を支えて京の留守を守っていた幕府の重鎮・佐々木道誉が饗庭氏直の讒言に激怒して出奔、近江の居城にこもって抗議のストライキを起こすという事件があった。このとき義詮が道誉を呼び戻す説得役に賢俊と粟飯原清胤を選んでいる。このとき賢俊は再三断り、さんざん渋った末に出かけたが、結局道誉に会うこともできず追い返されている。だが結局翌月には道誉は幕政復帰しており、ある程度賢俊の出馬の効き目があったようにもみえる。
ところで賢俊が座主をつとめた醍醐寺には北畠顕家が後醍醐天皇を諌めた文書や、吉田定房がやはり後醍醐を諌めた文書など、貴重には違いないがどうしてこの寺にあるのかよくわからない文書が多く保管されている。これは南朝、ひいてはライバル文観を否定するための政治的材料として賢俊自身が収拾したものではないかとの意見がある(佐藤進一・網野善彦・笠松宏至『日本中世を見直す』鼎談)。
延文2年(正平12、1357)2月10日、賢俊は石清水八幡宮に願文を収めている。このころ尊氏は健康を害して何度も重態に陥っており、このときもかなり重くなっていたらしい。賢俊はこの願文で「この賢俊は将軍(尊氏)と長年の深いよしみがあり、多くの御恩をいただいてきました。ですからその恩に報いるために、この我が身をもって将軍の命に代えさせていただきたい」と祈りを込めた。その願いが届いたのか、尊氏がひとまず健康を取り戻した一方で、賢俊はこの年の閏7月16日に死去した。享年59歳。尊氏は賢俊の四十九日に般若理趣経一巻を写経して自らの身代わりとなった賢俊の供養をした。もっとも尊氏も翌年4月末に亡くなっている。ライバル文観も賢俊より3ヶ月遅れて同年10月9日に世を去った。
賢俊は醍醐寺座主を22年、東寺長者を15年と異例の長期間つとめ、さらに若宮八幡宮別当、紀伊根来寺座主もつとめた。洞院公賢は日記『園太暦』で賢俊の死を記し「栄耀至極、公家武家権勢比肩の人なし」とその権勢ぶりを伝えているが、同時に「話に聞くところでは賢俊のせいで一生を台無しにした者も多いそうだ。私も彼の讒言のせいでいろいろ不信を買った」と悪口も書いており、賢俊の「政僧」ぶりもうかがえる。賢俊は死後「菩提寺大僧正」と追称された。
賢俊と尊氏の縁が、それまで中級公家にすぎなかった日野家の地位を上昇させる。足利義満以降、日野家から将軍正室が選ばれる慣習ができたのも元はと言えば賢俊の活躍のおかげなのである。
参考文献
森茂暁『太平記の群像・軍記物語の虚構と真実』(角川選書)
佐藤進一『南北朝の動乱』(中公文庫)
佐藤進一・網野善彦・笠松宏至『日本中世を見直す』(平凡社ライブラリー)
小川信監修『南北朝史100話』(立風書店)
高柳光寿『足利尊氏』(春秋社)
田中義成『南北朝時代史』ほか
|
大河ドラマ「太平記」 | 「三宝院賢俊」として第37回のみの登場(演:川島正人)。クレジットはされているのだがどこに出てるのか発見困難。尊氏が男山八幡に光厳・光明の二人を招いて諸将と共に一礼している場面で右端に小さく頭巾をかぶった僧らしき人物が映っており、どうやらこれが賢俊。出演者がクレジットされてるところをみると本来はセリフの一つもあったと思われる。 |
その他の映像・舞台 | アニメ「まんが日本史」(1983)で光厳上皇から院宣を預かるシーンがあり、ちゃんと「賢俊」のテロップも出る。 |
歴史小説では | とくに印象には残らないが、尊氏に院宣を持ってきたため登場例は多い。
小説中のキャラクターとしてちゃんと登場する例としては、松本利昭による南北朝伝奇小説『虚器南北朝』がある。これは「本物の神器」の争奪戦がテーマになっており、賢俊もその中で活動する一人である。 |
漫画作品では | やはり尊氏に院宣を持ってきた張本人のため、意外に登場例は多い。ただし「賢俊」と名前が紹介されることはめったになく、小学館版「少年少女日本の歴史」のように尊氏に院宣を持ってくる人がちゃんと僧侶に描かれていればそれは賢俊である。 |