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けにん〜けんちゅうけいみつ

家人けにん
 大河ドラマ「太平記」の第26回に登場する人々。建武政権が成立したあとに「ましらの石」日野俊基から与えると約束された和泉の土地へ行ってみると、すでにその土地はすでに別の公家(俊基よりずっと高い身分らしい)の所領となっており、その家人たちが石を追い返してしまう。家人の頭を演じたのは太平サブローで、このドラマで珍しく大阪弁が聞ける場面である。

玄恵(玄慧)げんえ?-1350(観応元/正平5)
生 涯
―「建武式目」「太平記」にも関与した?最高知識人―

 鎌倉末〜南北朝時代を代表する文化人・知識僧の一人。「健叟」あるいは「独清軒」の号を用いた。京の生まれと言われ、『元亨釈書』の作者として知られる虎関師錬の弟とする説がある。比叡山延暦寺で学び、法印権大僧都までのぼり、その博識と名文で名をはせた。
 禅宗にも通じ、儒学ことに当時最新流行の説である「宋学」にもよく通じて公家社会にそれを広めた立役者の一人とみられ、玄恵を講師とする宋学勉強会には日野資朝日野俊基北畠親房ら、後醍醐天皇の側近らが多く含まれた。「宋学」は後醍醐一派の革命理論にもなったとされるが、玄恵自身が彼らに深く関わることはなかったらしく、『太平記』では資朝らが倒幕の密議をカモフラージュするために「無礼講」だけでは怪しまれると玄恵を講師に招いて文学講座を開くも、左遷させられた詩人・韓愈をとりあげたために「不吉」として中止させられたことが書かれているのみである。

 建武政権が打倒されて足利幕府が発足すると、建武3年(延元元、1333)11月7日にその施政方針を示す「建武式目」が制定された。その制定の諮問委員会メンバー8人のうちの一人が玄恵であった。この式目の内容は足利直義の意向を強く反映したものと言われ、このころから玄恵は直義の側近といっていい立場になっていたと思われる。
 今川了俊『難太平記』では足利直義のもとに法勝寺の円観恵珍が『太平記』を持ち込み、直義はそれを玄恵に読ませたうえで内容に誤りが多いと言った、という逸話を書いている。ここでは玄恵は単なる内容チェック役だが、玄恵はほぼ同時期と思われる貞和3年(正平2、1347)に編纂された『後三年合戦絵詞』の本文監修を担当するなど、当時にあってまぎれもなく最高の文人であり、この時の『太平記』本文も実は玄恵が関与しているのでは、との見方は強い。実際に『太平記』古本の一つである神宮徴古館本の巻末には「独清が校正・清書した」ととれる一文が入っており、これは玄恵の号「独清軒」のこととして玄恵を『太平記』作者の一人と見なす説の根拠となっている。もちろん『太平記』は長い時間をかけ複数の作者が関わっているとみられるので、玄恵一人が書いたというわけではない。

 そもそも『太平記』では玄恵の死が語られている。貞和5年(正平4、1349)8月に高師直一派のクーデターにより直義が失脚、年末に出家して世捨て人同然に暮らし始めると、許しを得て彼のもとを訪れるのは玄恵しかいなかった。玄恵は外国や日本のさまざまな昔話などをして直義の無聊をなぐさめたが、間もなく病に倒れて行けなくなった。直義が玄恵に薬を和歌一首と共に贈ると、玄恵は漢詩を書いてこれに応じたという。それから間もない観応元年(正平5、1350)3月2日に死去した。
 玄恵はあまりにも文才が有名であったため、彼を作者と伝える作品は多い。中でも手紙の書き方の教科書的存在である『庭訓往来』がその代表として有名だが、本当に玄恵の作であるか確証はない。

玄基げんき
生没年不詳
生 涯
―無礼講の討幕密議に参加―

 『太平記』のみで言及される人物。正中の変に先立って後醍醐天皇側近たちが行った「無礼講」の密議の参加者の中に「聖護院の法眼・玄基」という名がある。それ以上の情報はないうえにそれ以後まったく登場していないので、彼の素性については追及しようがない。
 聖護院(三千院)が当時多くの皇族出身僧侶を受け入れていた寺であり、後醍醐が寺社勢力を味方につけようと積極的に近親者をこの寺に送り込んでいたことと関係がある人物かもしれない。聖護院に入った後醍醐の近親者としては尊親法親王静尊法親王らがいる。

兼好
けんこう
生没年不詳
親族父:卜部兼顕? 母:倉栖氏?
兄弟:卜部兼雄? 慈遍?
官職
蔵人・左衛門佐?
位階 従六位→従五位下?
生 涯
 鎌倉末期から南北朝時代に活躍した歌人、文人。その随筆『徒然草』は後世に名高く、当時を知る貴重な史料ともなっている。

―謎の多い出自―


 通説では俗名は卜部兼好(うらべ・かねよし)といい、吉田社の神官の家の出身とされる。父は卜部兼顕、母は金沢貞顕の執事・倉栖氏の娘とされるが確証はない。また兼好の出自とされる卜部氏の嫡流が足利義満時代に「吉田家」を称するため「吉田兼好」という呼び名も広く使われるが、この呼称は江戸時代以後のものであるという。その吉田家で戦国初期に「吉田神道」を起こした吉田兼俱が兼好と卜部=吉田家を結ぶ系譜を記述していてこれが通説扱いされてきたが、そもそも『徒然草』と兼好の名声が上がったのちのことなので吉田家が「拍付け」に使った可能性もあり、同時代史料では全く確認できないことから全て虚構とする説も提唱されている。
 『法金剛院過去帳』に兼好が観応元年(正平7、1352)に68歳で死んだとする記事があることから逆算して弘安6年(1283)生まれとされていたが、観応元年以後も生存していた証拠があるためこの記事の信憑性も疑われる。おおむねそのころの生まれとは考えられているが確たるものではない。

 通説では二十代のころに堀川家の家司になったとされ、堀川家出身の後宇多天皇妃・基子後二条天皇を生んだことが縁で後宇多上皇の周囲を守る「北面の武士」になったとされる。ただし室町期の史料『正徹物語』に兼好が滝口の武士(清涼殿の警護にあたる)であったと記されていて、こちらを採る意見もある。徳治元年(1306)ごろに鎌倉に下って金沢の地に一時居住したとされ、この時期に六波羅探題をつとめている金沢貞顕と深い関係があるとの見方もある。貞顕が書状のなかで「兼好」と呼び捨てにしている例があり、堀川家の家人をそのように呼ぶことはありえないことから貞顕周辺に別人の「兼好」がいたとの見解もあるが、そもそも通説の堀川家家人説の方が怪しく、実際には貞顕から呼び捨てにされるレベルの武士だったとすれば矛盾しない、との説も出されている。
 延慶元年(1308)ごろに帰京し、この年の自筆書状によるとまだ出家していないが、五年後の正和2年(1313)に六条有忠から山城国小野荘に土地を購入した時の売券に「兼好御房」とあることからこの間に出家したと確認できる。このとき兼好は推定三十歳前後で、出家の理由については『正徹物語』に後宇多上皇の死をきっかけとしているが年代が10年は合わず、むしろ延慶元年に後二条天皇が24歳の若さで亡くなっていることをはかなんで、とする見解もある。

―和歌の「四天王」として活躍―

 後醍醐天皇が即位した文保2年(1318)ごろ、ふたたび鎌倉にくだり、金沢貞顕と交流している。帰京後に「二条派」の主導者である二条為世に師事して和歌を学んで頭角を現し、頓阿慶運浄弁と並んで為世門下の「四天王」の一人に数えられるようになる。鎌倉末期に編纂された『新千載和歌集』『続後拾遺和歌集』および南北朝期の『風雅和歌集』に合計18首が入選している。私家集として『兼好法師集』も編纂された。

 歌人としての活動のほか古典の書写校合を行い、故実家として知られる一面もあった。なんといっても彼の名を不朽にしたのは随筆『徒然草』であるが、その執筆時期には諸説ある。鎌倉時代末期の元徳2年(1330)ころからまとめられた、とする説が主流で、本文中で言及される実在人物に関する話題も鎌倉末期までに限られる。中でも後醍醐の側近で佐渡に流されて刑死した日野資朝の奇抜な性格を語るエピソードは有名である。

 南北朝動乱期には京都周辺で隠棲生活を送っていたとみられるが、後年想像されるほど世捨て人だったわけではなく、北朝の公家・武家社会の歌会にはよく出入りしており、歌人武将として著名な今川了俊も若き日に兼好と交流していた事実がある。了俊はのちに兼好の弟子・命松丸を引き取っており、『徒然草』編纂に了俊が関与したのではと考えられるようにもなった。ただし『徒然草』は兼好の生前はもちろん、没後百年は存在自体を知られておらず、広く知られて評判になったのは室町中期以降のことである。了俊と命松丸が兼好没後に彼が書き散らして壁に貼り付けるなどしていたものを集めて『徒然草』にした、という逸話も、それが評判になってから書かれた伝説であってそのまま事実と認められるものではない。

 南北朝期の兼好の活動として有名なのは、幕府の執事にして名将として知られる高師直「恋文代筆事件」である。これは『太平記』で語られる逸話で、暦応4年(興国2、1341)に高師直が塩冶高貞の妻の美貌を聞きつけ、「侍従」と呼ばれる女性を通して言い寄るが見向きもされなかったので、「兼好といいける能書(文章家)の遁世者」を呼び寄せて恋文を代筆させ、それを高貞の妻のもとへ送った。しかし高貞の妻は恋文を開きもせず庭に捨ててしまい、それを聞いた師直は「いやいや、文章家などというものは何の役にも立たんな。今日からその兼好法師とかいうやつ、近づけさせるでないぞ」と怒ったという。
 たったこれだけの登場であるが、あの有名な兼好法師が絡んでくるだけにこの逸話は古くから注目されてきた。江戸時代には南朝人気と徒然草人気があいまって「兼好は南朝寄り」説が広まり、この師直の恋文の一件も南朝に味方する兼好の「計略」とする説まで出た。近代以降はこの横恋慕話自体が創作とする見方が強くなり、兼好はその知名度から物語の色付けに使われただけとも言われるようになる。一方で洞院公賢の日記『園太暦』では、兼好が師直の使者として公賢を訪ねて来て狩衣のことなどを質問していった、という記事があり、兼好が師直と深い関係にあったことは否定できないようである。

―終焉も謎だらけ―
 
 前述のように、兼好の没年については観応元年(正平7、1350)4月8日に68歳で死去とする史料が存在するが、観応3=文和元年(正平7、1352)8月28日付の二条良基の歌集『後普光園院御百首』に、「四天王」仲間の頓阿・慶運とともに兼好が採点を加えていることから観応元年死去説は否定されている。没年は早くてもこれ以後、ということしかわからない。
 兼好が晩年に伊賀に庵を結んでその地で死去したとする伝承が室町中期にはすでにあったらしいが、同時代史料でそれを確認できるものはない。この伝承と結びつく形で、後世には南朝の説話を集めた『吉野拾遺』に兼好が登場したり、兼好が観応元年2月15日に伊賀国名張郡国見山で死去したとする『園太暦』の記事なるものが広く信じられたりして(「園太暦」にそんな記事はなく明らかな偽造史料である)、兼好の伊賀死亡説は近代まで尾を引いた。しかし当時の状況から考えれば北朝や幕府の上流社会に出入りしている兼好が南朝勢力圏の伊賀に出向くのは不自然で、南朝人気と徒然草人気の組み合わさって江戸時代に生まれた伝説とみなすべきであろう。

参考文献
川平敏文『兼好法師の虚像 偽伝の近世史』(平凡社選書)
永井晋『金沢貞顕』(吉川弘文館・人物叢書)ほか
その他の映像・舞台師直と塩冶高貞の妻の逸話をもとにした谷崎潤一郎の戯曲「顔世」を映画化した、新藤兼人監督「悪党」では宇野重吉が兼好を演じている。
歴史小説では有名人なので登場例は多い。それでも吉川英治が「私本太平記」に主要人物の一人として登場させたところ「この時代の人とは知らなかった』という反応が多かったという(原作とした大河ドラマでは登場は一切しなかった)。森村誠一「太平記」や安部龍太郎「義貞の旗」にも登場しており、有名な二条河原の落書の作者に設定されている。
漫画作品では『徒然草』を紹介する学習漫画系で登場例は多い。

賢俊
けんしゅん1299(正安元)-1357(延文2/正平12)
親族父:日野俊光 兄弟:日野資名・日野資朝・日野(柳原)資明・律師浄俊
生 涯
 足利尊氏の護持僧となり、絶大な権勢を誇った政僧。その存在は後醍醐天皇の護持僧・文観と比較され、同時代の宗教界のライバルとみなされる。

―日野家出身の真言僧―


 父は持明院統派に属する公家・日野俊光。その子資名資明も持明院統―北朝系に属したが、兄弟のうち日野資朝は大覚寺統の後醍醐の側近になってしまい父から勘当され、律師浄俊も護良親王の側近となるなど、それぞれ多様な運命をたどった兄弟である。賢俊はそんな兄二人をもって生まれ、はじめ俗名を「賢俊(かたとし)」といったという。法名「賢俊(けんしゅん)」はそれをそのまま使ったことになる。
 賢俊は真言宗・醍醐寺三宝院の賢助(洞院公守の子)の弟子となり、真言密教を学んだ。文保3年(1318)2月に賢助の使者として二十歳の賢俊が洞院公敏(賢助の甥)の屋敷を訪問していることが公敏の日記で確認される。元応2年(1320)12月今熊野において22歳で受戒。正中3年(1326)3月の賢助による宮中での修法に参加、嘉暦三年(1328)に師の賢助が東寺長者となるとその片腕となり、翌年正月の賢助による宮中での後七日修法でも重要な役割を演じた。だがこれ以後しばらく賢俊は後七日修法に名を見せなくなる。

 このころ醍醐寺は大きく二派に分かれて長い争いが続いており、これは皇室の持明院統・大覚寺統の争いとリンクしていた。賢助―賢俊の系統は持明院統、道順―文観の系統は大覚寺統とそれぞれ結びついており、とくに文観は後醍醐天皇の腹心となって絶大な信任を得ており、後醍醐時代は賢俊にとっては不遇な時期でもあった。文観が後醍醐のために幕府を呪詛する祈祷を行っていたというのもこのころのことである。
 元徳3年(元弘元、1331)に後醍醐天皇の倒幕計画が発覚し、文観は捕えられて硫黄島(鹿児島県)に流された。直後の8月に後醍醐は倒幕の挙兵をした。持明院統の皇族は六波羅探題・北条仲時邸に避難したが、このときここで賢助により行われた五壇法修法に賢俊はやはり参加している。後醍醐の挙兵は失敗に終わり、持明院統の光厳天皇が即位したことで醍醐寺三宝院でも政権交代が起きて賢助・賢俊が復権した。正慶2年(元弘3、1333)正月の宮中での五壇法修法は賢俊が執り行った。この年に師の賢助が亡くなり、賢俊はその後継者となる。
 ところがこの年5月に鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐が都に凱旋。文観も流刑先から舞い戻って来てしまい、やがて東寺長者、醍醐寺座主となって密教界に君臨した。賢俊はまたも雌伏の時を迎えることになった。

―尊氏に院宣をもたらす―

 醍醐寺が保管する文書の中に「永仁三年」の日付がある賢助から賢俊を後継者に指名する内容のものがある。永仁3年(1295)には賢俊は生まれてもいないので年号は明らかにウソなのであるが、その裏に「元弘三年」の張り紙があり、「源朝臣」の署名と共に足利尊氏の花押(サイン)がある。この文書の意味は謎に包まれているが、幕府が滅んだ元弘3年(1333)の段階(「元弘」の年号があるので幕府滅亡後である)で賢俊と尊氏が早くも接触していた証拠とも考えられる。

 建武2年(1335)秋、足利尊氏は建武政権に反旗を翻した。翌建武3年(延元元、1336)正月に足利軍は一度は京を占領したが、後醍醐方の反撃に遭い、2月には九州への敗走を余儀なくされた。このとき赤松円心の提案で尊氏は光厳上皇の院宣を得て「賊軍」の汚名を晴らそうと図り、使者を送って光厳側へ接触を図った。「太平記」では尊氏は日野資明あてに連絡をとったことになっており、この仲介にあたったのが賢俊その人であった可能性も高い(元弘3年段階で接触しているとすればますますその可能性が高い)
 光厳は尊氏の求めに応じて「新田義貞を討伐せよ」との院宣を下し、これを賢俊自身が尊氏のもとへ持参して行った。この状況下で敗軍の尊氏と合流するのはかなりの危険があったと思われ賢俊がどのような旅をしたのか興味のあるところだが、「密宗血脈抄」という本に「賢俊は乞食修行者の姿になって九州に往来した」との記述があり、これがこの時の話ではないかと言われる(田中義成「南北朝時代史」)。ともかく賢俊は2月20日ごろに備後・鞆において院宣を尊氏に手渡し、一世一代の大任を果たした。
 この院宣により尊氏は後醍醐に対抗して「官軍」を名乗る大義名分を得て九州に上陸、多々良浜の戦いに勝利して九州を平定し、そこから西上して5月25日の湊川の戦いに勝利して足利の天下取りをほぼ決定づける。直後の6月3日に賢俊は文観に代わって第65代醍醐寺座主となる。以後、賢俊は尊氏の絶大な信任を受けて真言密教界に君臨することとなる。

 賢俊が尊氏の護持僧となったのは建武5年(1338)4月であった。「護持僧」とは天皇や将軍など有力者のそばに常にあってその平穏無事を祈る、いわば宗教的ボディガードである。尊氏には五人の護持僧がおり、このときその末席に連なった賢俊は「すこぶる面目の至り」と喜んだという(「五八記」)。賢俊は光明・崇光ら北朝天皇の護持僧もつとめ、後醍醐の護持僧として吉野までついていった文観とはそれぞれ南北の「天皇の守護者」として戦ったことになる。暦応3年(興国元、1340)には東寺長者にのぼりつめた。

―「将軍門跡」とよばれて―
 
 観応元年(正平5、1350)10月、折からの幕府の内戦「観応の擾乱」で尊氏は弟・直義と争い、自らの子で直義の養子となった直冬を討つべく九州へと出陣する。このとき賢俊も尊氏の護持僧として同行するが、戦争に同行することについて「釈門の儀にあらず(僧侶としてふさわしくない)」「一流の恥」と心の葛藤を吐露したような言葉を遺言のように残し、一時的に東寺長者の地位を辞している。 
 ところが翌観応2年(正平6、1351)11月、いったん和解した直義と戦う必要から尊氏は北朝を放り出して南朝に降伏、南朝の後村上天皇が唯一正統の天皇となってしまった。南朝はただちに北朝が持っていた神器を接収し(南朝は偽物と断じていたが「二代にわたって神器として使われたから」という奇怪な理由で接収した)、南朝につき従っていた文観がまた東寺長者に返り咲いて京に入り、翌年正月の後七日修法を執り行っている。賢俊にはまさかの逆転劇であった。
 観応3年(正平7、1352)閏2月、後村上天皇は男山八幡まで進出し、南朝軍は京を占領して北朝皇族をまとめて拉致した。5月に男山八幡は陥落して後村上はほうほうの体で逃げ去って行ったが、それより前に北朝皇族はまとめて賀名生へと連行してしまった。東寺長者に返り咲いた賢俊は南朝軍が立ち去った直後の男山八幡に入り神器の回収を試みたが、さすがに神器は後村上自らが抱えて持ち去られていたものの神器のうち鏡が入っていた小唐櫃の回収に成功する。幕府は南朝の拉致をまぬがれていた弥仁親王を、その祖母・広義門院(西園寺寧子)を「女治天」として院宣により新天皇(後光厳天皇)に践祚させるという異例の措置をとるが、このとき賢俊が回収してきた唐櫃が神器の代用とされている。単に神器の代用を持ちかえったというだけでなく、後光厳の即位には賢俊の力がかなり大きかったらしく、以後賢俊の立場はますます強くなる。尊氏と深く結び付いて絶大な権勢を誇った彼を人は「将軍門跡」と呼んだという。

 尊氏が鎌倉に下っているあいだの文和2年(正平8、1353)正月に、義詮を支えて京の留守を守っていた幕府の重鎮・佐々木道誉饗庭氏直の讒言に激怒して出奔、近江の居城にこもって抗議のストライキを起こすという事件があった。このとき義詮が道誉を呼び戻す説得役に賢俊と粟飯原清胤を選んでいる。このとき賢俊は再三断り、さんざん渋った末に出かけたが、結局道誉に会うこともできず追い返されている。だが結局翌月には道誉は幕政復帰しており、ある程度賢俊の出馬の効き目があったようにもみえる。
 ところで賢俊が座主をつとめた醍醐寺には北畠顕家が後醍醐天皇を諌めた文書や、吉田定房がやはり後醍醐を諌めた文書など、貴重には違いないがどうしてこの寺にあるのかよくわからない文書が多く保管されている。これは南朝、ひいてはライバル文観を否定するための政治的材料として賢俊自身が収拾したものではないかとの意見がある(佐藤進一・網野善彦・笠松宏至『日本中世を見直す』鼎談)

 延文2年(正平12、1357)2月10日、賢俊は石清水八幡宮に願文を収めている。このころ尊氏は健康を害して何度も重態に陥っており、このときもかなり重くなっていたらしい。賢俊はこの願文で「この賢俊は将軍(尊氏)と長年の深いよしみがあり、多くの御恩をいただいてきました。ですからその恩に報いるために、この我が身をもって将軍の命に代えさせていただきたい」と祈りを込めた。その願いが届いたのか、尊氏がひとまず健康を取り戻した一方で、賢俊はこの年の閏7月16日に死去した。享年59歳。尊氏は賢俊の四十九日に般若理趣経一巻を写経して自らの身代わりとなった賢俊の供養をした。もっとも尊氏も翌年4月末に亡くなっている。ライバル文観も賢俊より3ヶ月遅れて同年10月9日に世を去った。
 賢俊は醍醐寺座主を22年、東寺長者を15年と異例の長期間つとめ、さらに若宮八幡宮別当、紀伊根来寺座主もつとめた。洞院公賢は日記『園太暦』で賢俊の死を記し「栄耀至極、公家武家権勢比肩の人なし」とその権勢ぶりを伝えているが、同時に「話に聞くところでは賢俊のせいで一生を台無しにした者も多いそうだ。私も彼の讒言のせいでいろいろ不信を買った」と悪口も書いており、賢俊の「政僧」ぶりもうかがえる。賢俊は死後「菩提寺大僧正」と追称された。
 賢俊と尊氏の縁が、それまで中級公家にすぎなかった日野家の地位を上昇させる。足利義満以降、日野家から将軍正室が選ばれる慣習ができたのも元はと言えば賢俊の活躍のおかげなのである。

参考文献
森茂暁『太平記の群像・軍記物語の虚構と真実』(角川選書)
佐藤進一『南北朝の動乱』(中公文庫)
佐藤進一・網野善彦・笠松宏至『日本中世を見直す』(平凡社ライブラリー)
小川信監修『南北朝史100話』(立風書店)
高柳光寿『足利尊氏』(春秋社)
田中義成『南北朝時代史』ほか
大河ドラマ「太平記」「三宝院賢俊」として第37回のみの登場(演:川島正人)。クレジットはされているのだがどこに出てるのか発見困難。尊氏が男山八幡に光厳・光明の二人を招いて諸将と共に一礼している場面で右端に小さく頭巾をかぶった僧らしき人物が映っており、どうやらこれが賢俊。出演者がクレジットされてるところをみると本来はセリフの一つもあったと思われる。
その他の映像・舞台アニメ「まんが日本史」(1983)で光厳上皇から院宣を預かるシーンがあり、ちゃんと「賢俊」のテロップも出る。
歴史小説ではとくに印象には残らないが、尊氏に院宣を持ってきたため登場例は多い。
小説中のキャラクターとしてちゃんと登場する例としては、松本利昭による南北朝伝奇小説『虚器南北朝』がある。これは「本物の神器」の争奪戦がテーマになっており、賢俊もその中で活動する一人である。
漫画作品ではやはり尊氏に院宣を持ってきた張本人のため、意外に登場例は多い。ただし「賢俊」と名前が紹介されることはめったになく、小学館版「少年少女日本の歴史」のように尊氏に院宣を持ってくる人がちゃんと僧侶に描かれていればそれは賢俊である。

玄尊げんそん生没年不詳
生 涯
―比叡山の悪僧―

 比叡山延暦寺の「妙光坊」に属した僧。『太平記』では「阿闍梨玄尊」と記している。元弘元年(元徳3、1331)8月に後醍醐天皇が倒幕の挙兵を決意、護良親王らのいる比叡山がこれに呼応して六波羅探題の軍と戦闘を始めた際に兵を率いて馳せ参じた僧たちの一人であるが、詳細は不明。

源存げんそん生没年不詳
生 涯
―護良親王に従う―

 比叡山延暦寺の「光林坊(光輪坊)」に属した僧。『太平記』西源院本では「光林坊源存律師」あるいは「光輪房源尊」と記している。『太平記』流布本に「玄尊」と表記しているところがあり巻二に登場する比叡山の悪僧「妙光坊阿闍梨玄尊」と同一人物という見方もあるが、「阿闍梨:と「律師」の違い、所属の坊の違いから別人とみるのが妥当と思われる。
 元弘元年(元徳3、1331)8月に後醍醐天皇が倒幕の兵を挙げ、護良親王らのいる比叡山がこれに呼応して六波羅探題軍と合戦に及ぶが、比叡山に登ったとされた後醍醐が実は別人と判明したため衆徒たちが失望、心変わりしてしまった。このとき護良・宗良両親王のもとに駆け付けた悪僧は三、四人ほどで、そぼ中に源存が含まれていた。
 その後、護良親王は吉野・十津川へと潜行するが、このとき源存も赤松則祐村上義光らと共に護良に付き従っている。その後の動向は不明。

堅中圭密けんちゅう・けいみつ生没年不詳
生 涯
―たびたび渡海した遣明僧―

 詳細な経歴は不明だが、若いころに明に留学した経験を持ち、その言葉にも通じていたというから、当時少なからずいた渡海禅僧の一人であり、絶海中津らと近い関係にあったとみられる。天竜寺に属し、のちに南禅寺内の塔頭・続宗軒にあった。
 応永8年(1401)に足利義満は明に対して最初の公式使節として祖阿肥富を派遣、彼らは翌年明使を伴って帰国し、義満を「日本国王」に冊封する明の建文帝の国書を持参した。そして翌応永10年(1403)に帰国する明使に同行する形で第二回の遣明使が派遣されるが、その正使に任じられたのが天竜寺の堅中圭密であった。恐らくその留学経験・言語能力を買われたのだろう。堅中の他に祥庵梵雲明空志玉の僧侶二人、通事として徐本元なる者が同行し、総勢300人余りという大所帯であった。
 ちょうどこの時、明では建文帝とその叔父・燕王朱棣(のちの永楽帝)の間で内戦(靖難の変)が起こっており、その情報は義満にも伝えられていた。このため遣明使が明に到着した際に誰が皇帝になっているか分からず、どちらが勝ってもいいように義満は国書を二通作成して堅中に持たせた。堅中らは応永10年の2月に出発、3月に兵庫を出港し、明に入国するとすでに永楽帝が皇帝となっていた。永楽帝は即位するとすぐに日本への遣使の用意を進めており、向こうから先にやってきた(しかも外国ではほぼ一番乗り)ことに大いに喜んだという。

 明側の記録『太宗実録』によると応永13年=永楽4年(1406)、応永14年(1407)、応永15年(1408)と堅中は毎年のように明に派遣されている。応永15年の派遣では明側の記録によると堅中らは5月5日には確実に北京に入って明宮廷と交流しており、日本への帰国は6月以降であったと推測される。この間の5月6日に足利義満は急死しており、あとを継いだ将軍・足利義持は明に「日本国王」義満の死を知らせるべくその年の11月には明に使者を派遣している。このときの使者が誰であったのか不明だが、堅中であった可能性もある。永楽帝は義満の死を知って弔問の使者として中官の周全を派遣した。周全は翌々年の応永17年(1410)4月に明に帰国するが、義持はそれに同行させる形で堅中を答礼の使者として明に派遣している。
 永楽帝はその翌年の応永18年(1411)に王進を日本に派遣したが、義持は彼を兵庫に留めて都に入れさせぬまま追い返した。以後義持時代の間は公的な日明交渉は断絶する。堅中もこのために活躍の場を失い、歴史の表舞台から消えてしまう。
その他の映像・舞台中国で2005年に放送されたテレビドラマ「鄭和下西洋」の第十九回に日本の使者として堅中圭密が登場する。筆者は未見だが、ネット上で見た内容のダイジェスト紹介によるとドラマ中で堅中は永楽帝に面会して日本近海の倭寇勢力の掃討を報告、生き残った者、特に大物の明人・陳祖義が明に逃げているのでこれを討ってほしいと要請、永楽帝が鄭和に命じて彼を捕えさせるというストーリーになっているという。



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