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めいしょうまる〜

命松丸 めいしょうまる(みょうしょうまる) 生没年不詳
生 涯
 『徒然草』の作者・吉田兼好の弟子。その実在が明確にわかるのは今川了俊の著『落書露顕』で、「二条家の門弟、兼好法師が弟子命松丸とて童形のはべりしかば歌よみにてはべりしが」と書かれたくだりである。この文から命松丸が少年期から兼好法師のそばに仕えていた(いわゆる「稚児」なのかもしれない)こと、二条派の歌詠みとして一定の名声があったことなどがうかがえる。後世の書物にその出自まで明記したもの(下野守貞吉の甥など)があるが、まず信用できない。

 『落書露顕』によるとその後出家し、今川了俊の庇護をうけるようになった。了俊が九州探題に任じられて九州にくだった際にも同行しており、了俊の文学談義のよき話し相手になっていたらしい。了俊は九州武士たちに求められるままに和歌の古典についての解説をおしげなく教授していたが、命松丸が「そのような秘説を簡単に人におっしゃるのはもったいないではありませんか」と意見した。これに対し了俊は「和歌を志す人に秘すべきではない」と答え、先例も挙げて反論している。命松丸の言動で信用できる史料上に確認できるのはこの一件のみである。

 命松丸は兼好と了俊を結ぶ存在であるため、古くから『徒然草』編集に深くかかわったのではないかと推測されている。戦国期の公家・三条西実枝が記した『崑玉集』に『徒然草』の成立秘話が伝えられていて、了俊が命松丸に「兼好の書いた歌や物語などは残っていないか」と聞いたところ、命松丸が「書き捨てられた文章や歌などの多くが庵の壁に貼ってあるが、大切なものは私が保管している」と答えたので、了俊は命松丸らに命じてそれらを集めさせ、編集したことになっている。「いかにも」な話ではあり、しばしば引き合いに出されるのだが、この話では兼好の庵が伊賀にあることになっていて、兼好の伊賀隠居説が室町期に生まれた創作であることが確定している今日ではそのまま全面的に信じることはできない。
歴史小説では
吉川英治『私本太平記』では兼好と共に重要なレギュラーキャラクターとして登場しており、雀を飼う愛らしい少年として描かれ、建武政権期まで随所で活躍する。エピローグ部分で『崑玉集』の話をもとにした『徒然草』誕生秘話も語られている。


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