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もくさい〜もんけいえんせん

木斎もくさい
 NHK大河ドラマ「太平記」の前半に登場する架空人物(演:丹治靖之)花夜叉(実は楠木正成の妹)が率いる田楽一座の一員で、人形使い。話す時にしばしば人形を使った腹話術を使っている。一座の中では機転の利く方で花夜叉の参謀格。実は一座そろって忍術(?)の心得があり、いざとなるとその能力を発揮、正成との密使役も務めている。脚本の設定では初登場時の1316年の時点で26歳。

木助もくすけ
 NHK大河ドラマ「太平記」に第32回のみに登場する架空人物(演:奥村公延)ましらの石が代官となった村の農民で、藤夜叉が武士に斬られて重傷を負うと薬草で応急処置をした上で「宋の国の華佗(かだ)の術でなければ治せぬ」と石に告げる。

桃井直常もものい・なおつね(ただつね)生没年不詳
親族父:桃井直頼 弟:桃井直信 子:桃井直和
官職播磨守・駿河守・刑部少輔・右馬権守
幕府若狭・伊賀・越中守護、引付頭人
生 涯
―猪突猛進の勇将―

 桃井氏は足利一門。足利義胤が上野国群馬郡桃井(現・群馬県群馬郡榛東村)に住んでこの地名を名字とした。場所が近いせいか、桃井一族は元弘3年(正慶2、1333)5月の新田義貞の鎌倉攻めの挙兵に参加しており、『太平記』でも「桃井次郎尚義」が義貞軍に加わっている。これと同一人物かは判然としないが、「尊卑分脈」では鎌倉攻めで「桃井弥次郎」なる者が戦死したと記している。あくまで推測であるが、直常もこの鎌倉攻めに参加したのではないかと言われている。その後は足利軍に加わっていたものと思われるが、情報はない。ただ「太平記」では新田軍の中にも足利軍の中にも「桃井」姓の武将が複数名を連ねており、一族の中で敵味方に分かれる複雑な事情を抱えていた可能性がある。

 桃井直常の名前が初めて「太平記」に登場するのは建武3年(延元2、1337)12月、奥州から京を目指して二度目の大遠征を開始した北畠顕家軍が鎌倉に迫った時で、鎌倉で足利義詮を守る武将の一人として「桃井播磨守直常」が出てくる。この時は北畠軍に鎌倉を奪われるのだが、年が明けて京目指して西へと進撃を開始した北畠軍を直常が追いかけ、美濃国青野原(関ヶ原とほぼ同じ)での会戦に参加している。「太平記」では消極的な防衛策を主張する足利方諸将を土岐頼遠が叱咤し決戦を呼び掛けると、直常が「それがしも同意見だ。おのおの方はいかがか」と発言し、一同決戦に決したという。この青野原の戦いで土岐頼遠と桃井直常は並んで戦い、ともに重傷を負う奮戦を見せた。
 今川了俊「難太平記」の中で、このときのことについて、直常は「戦というものは、お互いに退かなければ身の安全が保てない。先手を打った敵に対しては少し退き、味方の態勢を立て直して攻めかければ、敵も引き退く。その中で機会をとらえて勝利を得るのを高名(てがら)というのだ」と語ったという話を書いている。もっともこのとき一緒に戦った了俊の父・今川範国は「戦はそうセオリーどおりいくものか」と批判したという。
 戦いそのものは北畠軍の勝利に終わるが、この戦いで北畠軍のそれ以上の進撃は阻止され、伊勢へと方向転換することになる。

 北畠軍は伊勢から伊賀を経由して奈良に入り、ここから北上して京を目指した。慌てた足利尊氏が迎撃の将を決めようとすると高師直「この大敵を防ぐには桃井兄弟しかおりません」と推薦、直々のご指名に直常と弟の直信は奮起し、奈良北方の般若坂の戦い(2月28日)で奮戦して顕家軍の北上を阻止した。意気揚揚と都に帰ったが、全く期待した恩賞にあずかれなかったので大いに不満をもち、以後の呼び出しに応じなくなった。と、「太平記」は記すのだが、実際にはこの般若坂の戦いには師直自身が参加して活躍しており、真相はもう少し違ったものだったかもしれない。
 だがやがて顕家は和泉で態勢を立て直し、弟の春日顕国を京の近くの男山八幡まで進出させた。足利方はこれを攻めあぐね、京に危機が迫ると桃井兄弟は「不満を持つのは私事だ。逃げているわけにもいくまい」と再び出陣し、いきなり少ない手勢を率いて味方と連絡もとらずに単独で攻撃をかけた。一日一夜奮戦して結局敗北して退却することになるのだが、その勇猛ぶりは評判になったようで、京童(きょうわらんべ)たちはその奮戦の地を「桃井塚」と名付けたという(「太平記」)。「太平記」の伝える桃井直常のイメージは、一貫して猪突猛進の武闘派タイプである。

―直義派の最右翼として―

 暦応4年(興国2、1341)3月24日、出雲守護・塩冶高貞が突然京から出奔した。「太平記」では高師直が讒言したことになっているが、実際に南朝と呼応した謀反の動きがあったのではないかと言われている。足利直義はただちに桃井直常・山名時氏の両名に高貞の追跡を命じ、自害に追い込ませている。直常と時氏は後に直義の養子・直冬を擁立して共闘することになるが、このころから直義に近い立場だったのかもしれない。

 貞和5年(正平4、1349)に幕府内における師直派と直義派の対立が激化、ついに8月には師直がクーデターを起こして直義を失脚に追い込む。このとき師直は直義当人については一応のメンツが立つ処置をとっているが、それは直義の腹心で強力な軍を抱える直常が都を離れて守護国の越中にいたからではないかとの推測がある。
 そして翌観応元年(正平5、1350)10月に直義が京を脱出して南朝と結び、尊氏との全面対決「観応の擾乱」を勃発させると、桃井直常は直義に呼応して越中から北陸地方の兵を率いて上洛、観応2年(正平6、1351)正月に比叡山東坂本に押し寄せた。「太平記」によると直常は夜に京を挟んで男山八幡の直義軍とかがり火をたいて合図を交わし、これを見て恐れた足利義詮は京から逃亡、直常はただちにがら空きになった京に突入してこれを占領した。「太平記」はこの直常のいきなりの京都突入について京の人々の間で賛否両論があったことを記しており、どうも直常という武将は当時の京童たち(当時の軍事マニア?)にとって戦下手か上手かで議論の対象にされていたようでもある。その後の尊氏軍との京都市街戦でも直常・直信兄弟が「運は天にあり。一兵残らず討ち死にせよ」と叱咤して奮戦する様子が描かれている。

 2月に打出浜の合戦があり、直義派が勝利した。直後に和議が成立するも師直一族も殺害されて、擾乱は直義派の圧勝で終わったかに見えた。直義は幕府の人事で論功行賞を行い、直常を引付頭人に抜擢している(なお、前任者は尊氏についた佐々木道誉だった)。しかし尊氏派の逆襲も始まり、3月末に直義の腹心だった斎藤利泰が深夜の路上で何者かに暗殺され、5月4日には直常が直義邸からの帰りに何者かの襲撃を受けている。不穏な情勢のまま時が流れて、8月1日に危険を感じた直義は直常ら腹心を率いて京を脱出して北陸へと向かった。
 8月6日に尊氏は越前・金ヶ崎城にいる直義のもとに細川顕氏を使者として派遣し、和解を提案している。このとき尊氏が示した条件の一つが「桃井直常と手を切れ」というものだった。直義はこれを拒絶するのだが、直義派の中で直常がかなり重要な位置を占める「反尊氏最右翼」であったことがこれでわかる。
 9月に近江で尊氏・直義両軍の戦いがあり、今度は尊氏が勝利した。尊氏・直義の直接会談で一度は和睦が成立しかけたが、桃井直常が強硬な姿勢を崩さなかったため和睦はすぐ決裂して、直義は直常の勧めで北陸から関東へと向かった。

 尊氏は10月に南朝に降伏し(正平の一統)、敵を直義に絞って関東へと向かった。12月に駿河で尊氏・直義両軍の決戦(薩タ山の戦い)が行われるが、直常はこのとき尊氏側について直義の背後を突こうとしていた宇都宮軍に立ち向かっている。しかし戦況は直義の一方的な敗北に終わり、翌観応3年(正平7、1352)正月に尊氏は直義を下して鎌倉に入り、2月26日に直義は鎌倉で急死する。主を失った直義派の主力の上杉憲顕や桃井直常らは、その直後に尊氏と決裂した南朝側に身を投じるほかなかった。

―最後までしぶとく抵抗―

 直常は守護国の越中に戻って兵を養い、再起のチャンスを待った。直義が死んだ後の直義派が仰ぐ首領は、直義の養子で尊氏の庶子の足利直冬だった。
 文和3年(正平9、1354)の暮れに、南朝と手を結んだ直冬は山名時氏らと共に京に迫った。越中から桃井直常もこれに呼応して北陸から京に迫り、翌年の正月には京占領に成功する。尊氏も関東から戻って来て、2月には南朝・北朝両軍が激しい京都争奪戦を展開する。
 2月8日、京の四条大宮付近の戦闘で、尊氏側の勇将・細川清氏の前に「我こそは桃井直常なり」と名乗る武将が現れ、清氏に一騎打ちを申し込んだ。清氏も直常同様に勇猛で知られる武将であったから、大喜びでこれに応じ、あっさりと「直常」を討ち取り首をとった。しかしこれは二宮兵庫助という越中の武士で、名を末代まで残すために直常の名をかたって一騎打ちを申し入れたものと判明する(「太平記」)。実際に直常が登場したわけではないが、直常が最前線で一騎打ちも辞さない武将であったことを前提にした逸話といえる(対する清氏も「太平記」では似たキャラクターである)

 直冬軍が京から撤退した後、直常は越中に戻り南朝と結んで幕府に抵抗を続けた。康安元年(正平16、1361)に幕府で失脚して南朝と手を組んだ細川清氏が京へ突入した時も、南朝側が越中の桃井軍の到来を期待したことが「太平記」に描かれているが、この時は直常は動かなかった。だが翌年5月に二代将軍・義詮は直常を討伐するべく北陸方面へ派兵をしており、常に警戒される存在ではあったようだ。
 幕府は越中守護を斯波高経に任じていたが、高経の守護代・鹿草出羽守に不満を持つ越中の武士たちは直常のもとに集まった。義詮の指示を受けた加賀・能登・越前の軍勢が越中に攻め込んだが、直常はいつもの猪突猛進の突撃でこれを打ち破った。ところが戦勝後に陣に戻ってから夜中に何か用事ができたらしく誰にも言わずに一人で勝手に陣を抜け出し、井口の城(富山県砺波市)に出かけてしまう。ちょうどこのとき300人ほどの能登・加賀の武士たちが直常軍に投降してきて、面会のため大将の本陣に入ったが、直常の姿がどこにもない。直常の側近たちも行方を知らず大慌て。「さては桃井どのは逃亡したか」と勘違いした兵たちも逃亡を開始し、これを見た投降しにきた300人は「よし、それなら逃げる敵を攻めて手柄にしよう」と豹変して攻撃を開始、桃井本陣を焼き払ってしまう。井口の城に行く途中で自分の陣に火の手があがるのを見た直常は裏切りが出たかと慌て、逃げてきた武士たちが「お逃げ下さい、とてもかないません」と言うのを聞いてやむなく撤退する。例の300人は大手柄を立てて鹿草の陣に行き、「鬼神のように恐れられる桃井の軍を、我らがたった三百人で夜討ちをかけ、大戦果をあげましたぞ」とヌケヌケと言い、人々からその武勇を賞賛された(あとで真相を知った人々は「ころんでもただで起きない奴らだ」と苦笑したというオチがつくが)。このユーモラスなエピソードは「太平記」巻38に唐突に挿入されるものだが、鬼神のように恐れられた直常もこのころには笑い話のタネにされてしまっている。

 その後は関東公方の足利基氏の庇護下に入ったらしく、貞治6年(正平22、1367)4月に基氏が死去すると、直常は出家した上で幕府に帰順し、京に戻ってきた。越中守護職を争う斯波高経がこのころ失脚して幕府から追われる立場になっていたことも原因らしい。だがその直後の7月に高経が越前で死去すると、その息子の義将は許されてやがて越中守護職に任じられてしまう。これに不満をもった直常は翌応安元年(正平23、1368)2月に京から姿を消し、弟の直信がいる越中へと帰ってしまう。当然幕府は義将に命じて直常らを討伐させ、応安2年(正平24、1369)4月と9月に直常は幕府軍と戦い、一時は能登まで進出している。以後しばらく桃井兄弟は抵抗を続けたが応安3年(建徳元、1370)3月に直常の息子の直和が戦死し、翌年までに反乱はほぼ鎮圧され、直常らはいつしか消息不明となってしまう。

 直常の没年は不明だが、直常が興国年間(南朝の年号で1340-46)に創建したと伝えられる興国寺(富山市)にある開基塔には「興国寺殿仁澤宗儀大禅定門 天授二年丙辰六月二日」と刻まれている。この「興国寺殿」が直常のことだとすると南朝の天授2年(永和2、1376)6月2日に直常が死去したことになる。時期的に不自然ではないが、「興国年間」には直常はまだ南朝方に属していないためやや不審もある。この寺には直常の墓とされるものもあり、直常の館がこの寺の門前にあったとの言い伝えもあるらしい。
 大名としての桃井氏は没落したが、直常の孫と伝えられる桃井直詮(1403-1480)は「幸若舞」の創始者とされている。

参考文献
佐藤進一「南北朝の動乱」(中央公論新社)
高柳光寿「足利尊氏」(春秋社)ほか
大河ドラマ「太平記」ドラマの終盤の第41回から最終回まで出ずっぱりになる。演じたのは高橋悦史。後醍醐死去の報を受けて「敵の大将が死んだのになぜ悲しむ?」と発言する場面で初登場、以後常に直義のそばにあって強硬意見ばかりを吐いている。終盤に行くにつれ直義を突き上げて和平をブチ壊す存在になってゆき、ほとんど主役尊氏の最大の敵に見えてくる。直義死後は直冬軍の主力として顔を見せ、最後の登場は直冬が「父には勝てぬ」と撤退を言い出すのを呆然と見る場面だった。
歴史小説では吉川英治「私本太平記」では高氏の側近として六波羅攻め前の段階で姿を見せ、藤夜叉から取次ぎを頼まれる場面がある。
PCエンジンHu版シナリオ2「南北朝の動乱」で越中・神保城に北朝側武将として登場。軍略は「弓4」
メガドライブ版建武の乱における京都攻防戦・打出浜合戦のシナリオで足利軍武将として登場。能力は体力67・武力79・智力83・人徳70・攻撃力60。史実と異なり智将タイプ?
SSボードゲーム版武家方の「武将」クラス、勢力地域「北畿」で登場。合戦能力4・采配能力2で個人的戦闘能力がやたらに高い(ゲーム作者の解説からすると作者が直常好みだったように見える)。ユニット裏は弟の桃井直信。

守邦親王
もりくに・しんのう1301(正安3)-1333(正慶2/元弘3)
親族父:久明親王(第8代将軍) 母:惟康親王の娘
官職征夷大将軍(1308-1333)
生 涯
―鎌倉幕府最後の将軍―

 鎌倉幕府は「征夷大将軍」を首長とすることで成立する軍事政権である。源頼朝から頼家・実朝の三代の源氏将軍が絶えると、幕府は朝廷に「宮将軍」の下向を求めているが、これはもともと頼朝も意図していたものだったとの説がある。このときは摂関家から藤原頼経を4代将軍として迎えるが、第6代将軍として後嵯峨天皇の皇子・宗尊親王を迎えてから「宮将軍」の形式が定常化する。もちろん幕府の実権は執権をつとめる北条氏が握っており、歴代の宮将軍は形式的・象徴的な存在に過ぎず、北条氏の都合で幼児期に将軍に迎えられ、大人になって将軍らしくふるまおうとすると京へ送還されるということを繰り返していた。第8代将軍・久明親王は後深草天皇の皇子で14歳で将軍となり、33歳で解任されて京に帰されている。その久明親王の子が守邦親王で、延慶元年(1308)8月に父の解任を受けてわずか8歳で鎌倉幕府第9代征夷大将軍となった。「親王」にする宣下が行われたのはその翌月のことである。

 あくまで「象徴」であるから、ほとんど事跡を残していない。わずかに確認できるものとして、周防国・二宮神社の造営を執権・北条宗宣北条煕時に命じていること、元から渡来した禅僧・一山一寧や、その弟子夢窓疎石の京・南禅寺住持就任の後押しをしたというものがあるという。
 元徳2年(1330)に将軍御所での行事の監督にあたっていた金沢貞顕の書状を見ると、貞顕は六波羅にいる子の貞将に京都の品物を買いこんで鎌倉に送るよう命じており、将軍が京風の生活を送っていることをうかがわせる。またこの書状には「御所は茶をこのみて候」とあり、守邦はお茶が好物だということで貞顕は「上品新茶二三種を送れ」と貞将に指示している。おおむね何不自由なく平和に優雅に暮らしていたということだろう。

 守邦が将軍をつとめた時代は北条氏得宗を北条高時がつとめていた時期にあたり、幕府内は権力闘争と退廃がはびこり、京の朝廷では後醍醐天皇が登場して倒幕計画を進める激動の時代だった。幕府の象徴的首長として無関心であったとは思えないが、彼が何を思い、何をしていたかはまるっきり分からない。
 正慶2年(元弘3、1333)5月22日、新田義貞率いる倒幕軍が鎌倉に突入し、北条一門は東勝寺で集団自決、鎌倉幕府はここにあっさりと滅亡した。あくまで象徴的首長の「宮将軍」であるから彼に何らかのとがめがあったとは思えないが、けじめとしてなのか、それとも世の移ろいの激しさに無常を感じたか、守邦はその当日に将軍職を辞したうえ、出家している。

 守邦はその年の8月16日に33歳の若さで鎌倉で病死している。平和に過ごしていた「宮将軍」には幕府滅亡はかなりの精神的・肉体的なショックだったのだろうか。

参考文献
福島金治「得宗専制政治―金沢貞顕書状からみた執権高時とその周辺」(新人物往来社「北条高時のすべて」所収)
永井晋「金沢貞顕」(吉川弘文館人物叢書)
今野信雄「守邦親王」(歴史と旅・臨時増刊「太平記の100人」所収)
大河ドラマ「太平記」第1回のみの登場(演:吉川英資)。第1回の見せ場・闘犬場シーンで登場し、はしゃぐ高時の脇でつまらなそうにしている(脚本でも「ユーウツそうに見ている」と書かれている)。高時との賭けに負けて品物を渡したり、猛犬に襲われる高氏を心配そうに見ていた。このドラマでは高氏は将軍御座所の格子番を勤めている設定で、京風の御座所で京風好みの高氏がウキウキしている様子も描かれる。実はドラマ本編ではカットされているが、脚本では将軍の近習たちの蹴鞠に高氏が飛び入り参加し、守邦がその様子を微笑んで見守るシーンがあった。

護良親王
もりよし・しんのう1308(延慶元)-1335(建武2)
親族父:後醍醐天皇 母:民部卿三位局 子:興良親王・赤松宮(陸良?)ほか6名?
官職征夷大将軍、兵部卿
生 涯
 後醍醐天皇の皇子として討幕戦の総司令官として奮戦した「皇族武将」の代表。その悲劇的な最期もあって建武政権の象徴的存在となっている。

―「不思議」の天台座主―


 後醍醐天皇の第三皇子と考えられている。母は亀山上皇(後醍醐の祖父)の皇子・尊珍を産んでいる「民部卿三位局」ということでは多くの史料が一致しているのだが、これがどういう家の誰なのかについては諸説ある。皇室系図などでは北畠師親の娘・親子とされ、これが長く通説とされてきたが疑問の声もあり、森茂暁氏は諸資料を考察した上で日野経光の娘・経子との見解を出している。

 父・後醍醐が親政を開始し、ひそかに幕府転覆を構想し始めた元亨3年(1323)ごろに延暦寺梶井門跡に入室し、そこの「大塔」(法勝寺大塔の近くにあったため)に居住したことから「大塔宮(おおとうのみや)」と呼ばれるようになる。正中の変の翌年の正中2年(1325)に梶井門主、嘉暦元年に出家して「尊雲」と名乗る。嘉暦2年(1327)12月に比叡山延暦寺の頂点である天台座主となった。これは倒幕のための軍事力として比叡山の僧兵を頼ろうとする後醍醐の意図が働いていたと考えられる。このとき護良(これは還俗後の名乗りだが、混乱を避けて以下「護良」で統一)は二十歳という異例の若さの天台座主で、元徳元年(1329)に十ヶ月だけ辞したのを除いて元徳2年(1300)4月まで合計一年半ほどその地位にあった。
 
 「太平記」では比叡山での護良は学問はまったくせず、日夜武芸の稽古にあけくれていたという。「最初の天台座主である義真和尚(最澄の弟子)以来百余代(正確には護良で116代目)、このような不思議な門主はいらっしゃらなかった」と「太平記」はつづる。「増鏡」「どこで習ったのか弓引く道(武芸)にすぐれ、ご気性も勇ましい」と記しており、かなり異色の武士気質の皇子座主だったようだ。気質的には父親の血をもっとも濃厚に受け継いでしまったのだろうか。
 元徳2年(1330)3月27日の後醍醐の比叡山行幸は盛大な政治イベントとして挙行され、呪願を護良みずから執り行っている。この直後に護良は天台座主を降りるが、短期の一代を挟んで異母弟の宗良親王(尊澄法親王)が天台座主をつとめ、比叡山と後醍醐の結びつきはいっそう強まった。

―討幕戦の総司令官―

 元弘元年(1331)4月、後醍醐の側近・吉田定房の密告により後醍醐の討幕計画が再び漏れ、日野俊基文観らが逮捕された。8月になって幕府が退位を迫ろうとしていることを察知した後醍醐は京を脱出、笠置山に挙兵する。「太平記」では幕府情報をつかんで後醍醐に挙兵をうながしたのは護良ということになっている。比叡山には天皇の身代わりとして花山院師賢が向かい、護良・宗良の指揮のもとで比叡山僧兵たちが六波羅探題軍と一戦を交えたが、間もなく師賢の正体がばれてしまって僧兵たちが寝返る気配を見せたため、護良らは笠置山に移って後醍醐と合流する。
 「増鏡」によれば護良と兄の尊良は早めに笠置を出て河内の楠木正成のもとへ移ったことになっている。笠置山は9月末に落城して後醍醐らは捕えられ、護良と正成は赤坂城で幕府軍に抵抗した上で、落城前にいずこかへ姿をくらました。こののち護良と正成は畿内における倒幕活動の中心となり、この逃亡時から連携をとっていたのではないかと推測される。

 「太平記」では護良は奈良・般若寺に身を隠していたとされ、追手を逃れるため護良が経櫃(きょうびつ)の中に隠れるスリリングな名場面を描いている。これがそのまま事実とは思えないが、網野善彦は後醍醐の側近・文観がこの般若寺と関係があったことに注目し、その事実を背景にした創作ではないかと指摘している。
 「太平記」ではこのあと護良が赤松則祐小寺相模村上義光ら、少数ではあるが忠実な部下たちを引き連れて山伏に変装し、十津川から熊野まで山地をさまよい、味方を作っていく冒険譚が語られ、一種の貴種流離譚的に面白い部分になる。この部分もそのまま史実と認めることはできないが大筋の展開はその通りだったようだし、彼の部下のうち赤松則祐・小寺相模はいずれも赤松円心の関係者であることが注目される。またこの時に護良の味方についた紀伊・大和の豪族たちはのちのちまで南朝方の強い味方となってゆく。

 元弘2年(正慶元、1332)の初めごろに護良は還俗し、ここで初めて「護良」を名乗る。そして各地に討幕を呼びかける「令旨(りょうじ)」を発し始める。もっとも早いものでこの年6月に熊野大社に発したものがあり、熊野社はこの令旨に応じず六波羅探題にそのまま提出しており、花園上皇がその内容を日記に書きとめている。高野山に対しても令旨が送られたが、高野山もこの時点では協力を拒否している。この月には護良を奉じた竹原八郎宗規が兵を率いて伊勢へと攻め込んでいる。
 護良親王の隠密行動に京では不気味な噂が流れた。「京の市中に護良親王の部下たちが潜入している」というのだ。六波羅探題も警戒したようで、顔を隠せる頸帽子(くびぼうし。形態不明だが首まで届く帽子らしい)の着用を禁じる通達を出している。11月にはしばらく姿をくらましていた正成の活動も京で噂になっており、二人の連携プレーは幕府を翻弄し始めていた。

 元弘2年末には正成が赤坂城を奪回して本格的に活動を再開。幕府も12月に護良と正成を名指しして討伐対象として軍を繰り出し、元弘3年(正慶2、1333)正月には「護良を殺した者には近江麻生荘、正成を殺した者には丹後船井荘を与える」と懸賞まで付けた。護良は吉野の吉水院を頼って、ここの蔵王堂に本陣を構えて幕府軍を迎え撃つ。二階堂道蘊らが率いる幕府の大軍は吉野衆徒の幕府方の協力もあって二週間ほどで蔵王堂を攻め落としている。このとき死を覚悟した護良らが酒宴をして剣舞をしたとか、村上義光が護良のよろいをつけ身代わりとなって壮絶な自害をしたといったエピソードが「太平記」では印象深く語られている。吉野を落ち延びた護良は高野山に逃れ、高野山も情勢の変化を感じたか、今度は護良をかくまっている。

 このころ護良は現存するだけでも関東・北陸から九州まで幅広く令旨を発していて、各地でこれに応じる武士の挙兵が相次ぐようになる。腹心の部下・赤松則祐が令旨をもって父・円心のもとへゆき挙兵するのもこの1月のことである。正成がこもる千早城攻略に参加していた新田義貞も2月に護良の令旨を受けとって上野へ帰国したと「太平記」は記しており、全国的スケールで討幕の命令を発する護良はすでに討幕戦の「総司令官」といってよかった。
 護良の活躍期間は父・後醍醐が隠岐に流されていた期間とほぼ重なる。護良が隠岐の後醍醐と連絡をとっていた可能性も指摘されるが、護良の令旨が、実質的に天皇の出す「綸旨(りんじ)」と同等の効果を発揮してしまっており、護良は各地の武士に挙兵を呼び掛けつつ恩賞を勝手に約束してもいた。このことがやがて父・後醍醐との軋轢を生むことにもなる。

―つかの間の「征夷大将軍」―

 元弘3年(正慶2、1333)4月、関東から追加の大軍が京に入り、その中に足利高氏の姿があった。高氏は4月29日に丹波で反北条の兵をあげ、5月7日に六波羅探題を攻め滅ぼした。これと並行して高氏は全国の武士に味方に付くよう「御教書」を発しており、事実上新幕府の将軍、武士のリーダーとしてふるまい始めていた。それは護良と完全に重なる行動であり、護良はこれを強く意識したのか5月10日以後の令旨で「将軍宮」と明記するようになる。後醍醐から正式に任命されたわけではなく勝手に自称していたものと思われるが、討幕戦の司令官を自認する護良としては、いきなり現れた高氏に京・鎌倉の攻略という最高の戦功を奪われてしまい、かなり焦り、警戒もしたのだろう。

 鎌倉幕府が滅びた翌月の6月5日に後醍醐は入京するが、護良親王は奈良・信貴山にこもって都に帰って来なかった。後醍醐が坊門清忠を使者に送って帰京して再出家するよううながすと、護良は高氏の討伐を主張して譲らず、やむなく後醍醐は護良に高氏討伐をあきらめさせるのと引き換えに彼を征夷大将軍に任じた。後醍醐は六波羅攻撃以前の段階で護良をまた僧籍に戻すつもりだったと考えられており、護良にしてみれば高氏討伐のことよりもそれに大いに不満を抱いた可能性も高い。逆に後醍醐にしてみれば天皇親政の新時代になるというのに、幕府の首長となる「征夷大将軍」ポストを設けて武士たちを統率させることに危険を感じたかもしれない。実際、護良は自らを将軍とする幕府の設立を企図していたのではないかとみる研究者もいる。

 「征夷大将軍」となった護良は6月13日(23日説もある)に堂々の凱旋入京をした。「太平記」によれば赤松円心・殿の良忠四条隆資千種忠顕らと多くの兵を引き連れた盛大なもので、護良自身も甲冑を身につけて派手ないでたちで乗馬して入京したという(「増鏡」にも記述あり)。だがおそらくこの時が護良の絶頂期といっていい。
 後醍醐が戦後処理の重要課題である恩賞問題に取り組んだとき、討幕戦の司令官となっていた護良が味方の武士に勝手に約束した恩賞が大問題となった。8月に主だった武将たちに恩賞が与えられるが、このとき赤松円心がほとんど無視される形になったのも護良との密接な関係が原因ではないかと推測される。そして日付は確定できないが、この8月中に護良は征夷大将軍を解任されている。彼が将軍としてふるまえたのはわずかに2か月(自称も含めると3か月)にすぎなかった。

 この直後に義良親王北畠親房顕家父子と共に奥州・多賀城に派遣して「ミニ幕府」として東北支配に当たらせることが決定しているが、これは護良の提案とされていて(「保暦間記」)、関東に拠点をもつ足利氏を東北から牽制する狙いだったのではないかと考えられている。また、将軍から解任され畿内周辺の武士たちとの結びつきを弱められた護良が東北武士を軍事力にとりこもうとした可能性も指摘される。こののち護良の部下の中に南部氏や工藤氏といった奥州武士の名前が見えるためだ。
 この動きも尊氏(この年に後醍醐から諱の一字を与えられ改名)も反撃し、鎌倉に成良親王を奉じて弟の直義を配置し、こちらも関東にミニ幕府体制を築いて対抗することになる。
 
 この年の12月11日に、護良は南禅寺にいた渡来禅僧・明極楚俊に対面して「兵仏一致」の説法を聞いている。楚俊は護良のことを「深く教法に通じ、武略人に過ぐ(仏教に通じ、武勇もすば抜けている)」と評した。しかし護良の破滅は目前に迫っていた。

―転落―

 年が明けて正月23日に立太子の儀が取り行われた。太子となったのは後醍醐の寵妃・阿野廉子の産んだ11歳の恒良親王だった。後醍醐としては両統迭立を終わらせる念願の実現であったし、廉子にとっては自身の皇子を天皇にする宿願への第一歩だった。護良に自分が天皇になるという野心があったかどうかは確認できないが、討幕戦の功労者として面白くない事態であったとは想像できる。
 間もなく年号は「建武」と改められ、いわゆる「建武の新政」が本格的に進められるが、政治は混乱するばかりだった。そのなかで護良は尊氏を狙ったテロを何度か計画し、地方から無頼の者を多く集めた。彼らが町中で市民の試し切りなどの乱暴を働いたと「太平記」は伝えており、おそらく事実とみられている。だが尊氏側も警戒して隙を見せず、最大のチャンスとみられた9月の石清水八幡宮などへの行幸でも暗殺計画は未遂に終わった。足利方の立場で書かれた「梅松論」ではこの尊氏暗殺計画には新田義貞、楠木正成、名和長年らが関与し、実は後醍醐自身の意思もその背後にあったとしている。疑問視する意見もあるが、少なくとも後醍醐が「黙認」の立場をとった可能性は高いと考えられる。

 建武元年(1334)10月21日。宮中で行われる歌詠みの会合に呼び出された護良は、待ち構えていた名和長年・結城親光らの兵たちに身柄を拘束された。そして翌11月には足利方に引き渡されて、直義のいる鎌倉に送られてしまうのである。
 この拘束の理由については明確なことは分からず、「太平記」では護良が諸国に発した兵の召集の令旨を入手した尊氏が廉子を通じて「護良が帝位を狙って兵を集めている証拠」として提出したため後醍醐が捕えさせたと説明する。「保暦間記」は護良が自身の皇子(興良?)を皇位につけようと実際に陰謀をめぐらしたためとする。そして「梅松論」は尊氏暗殺計画の首謀者を後醍醐として、それを尊氏に追及された後醍醐が護良に罪をなすりつけて自身は無関係を装うためだった、とする。
 どれもそれぞれに真相の一端を示しているのではないかとみられるが、正中の変以来「自分は無関係」と配下に罪をなすりつけたり見捨てたりする常習犯の後醍醐ということから、「梅松論説」が真相に近いと見る歴史家が多い。「梅松論」では鎌倉に幽閉された護良が「武家(足利)よりも君(天皇)がうらめしい」と独り言をつぶやいたとまで伝え、文学的装飾には違いないが、そういう気分になったのではないかと当時の人が想像したことは事実なのだろう。

 護良の失脚の直後、護良一派に対する苛烈な弾圧が始まった。12月に護良の腹心だった四条隆貞日野浄俊(日野資朝・資名の弟)らや護良の配下にいた南部や工藤といった奥州武士たちも六条河原に引き出されて一斉に処刑されている。同じ頃に旧幕府首脳で建武政権に参加していた二階堂道蘊も処刑されており、何か関係があった可能性もある。討幕戦以来の盟友である楠木正成は護良逮捕のときはちょうど紀伊・飯盛山の北条残党反乱の鎮圧に出陣しており、これも正成の留守を狙った逮捕劇だったのではないかという説もある。
 この苛烈な弾圧はあくまで後醍醐の命令でなされているので、後醍醐自身も護良に対して警戒心を持っていたと見た方がいいのではないだろうか。「太平記」が伝える継母・廉子の讒言も文学的創作と否定的にみるむきもあるが、状況的には廉子からも十分警戒されたはずだ。後醍醐は尊氏と護良を両天秤にかけて意識的に競わせ、先にボロを出した方を始末した、そのように見えなくもない。むろん死に追いやるまでの気はなかったかもしれないが、護良の最大の敵にほかならない足利の手に渡している時点でそのような結末がまったく思い浮かばなかったとも思えない。

―「将軍皇子」の最期―

 鎌倉に送られた護良は直義によって鎌倉北東の東光寺に幽閉された。「土牢に入れられた」というイメージが昔から横行しているが、「太平記」原文では「土籠を塗って」であって「土牢」ではない。「月日の光もみえぬ闇室」「岩の滴りに枕」といった表現があるので誤解されたのだろうが、これは土で周囲を塗り固めた寺の一室に閉じ込めたとみるべきだろう。さすがに皇子を洞穴の中に閉じ込めたというのは無理があるし、「太平記」でも「南の御方」というおつきの女性一人がついたとあり、そんな状態で九ヶ月も幽閉というのも不自然だ。また「太平記」は後に直義が鎌倉で非業の死を遂げる伏線として文学的にその処置をことさら冷酷に描いているフシもある(そもそも「太平記」は護良の失脚の時期すら史実と大幅に違う)。現在鎌倉には「護良が幽閉された土牢」なるものが展示されているが、あれは後世の勝手な「再現」にすぎない(おそらく鎌倉の寺院に多い横穴式の墓地「やぐら」の一種だろう)

 建武2年(1335)7月、諏訪に隠れていた北条高時の遺児・時行が挙兵し、北条残党や建武政権に不満を持つ武士たちを糾合して大挙鎌倉に迫った(中先代の乱)。各地で敗退した足利直義は23日に鎌倉を放棄するが、その際に家臣の淵辺義博に護良の殺害を指示した。こっそり始末するならそれまでの九か月間にいつでもできたはずで、この時点で直義が護良殺害を実行したのは単に混乱のドサクサに乗じたというだけではなく、時行らが護良を首領にかつぎだすことを防ぐという冷徹な計算のもとに指示したのだとみる見方も有力だ。討幕戦の司令官であった護良を北条軍がかつぐだろうかと首をかしげる向きもあろうが、後に時行は南朝武将となってしまうし、「貴種」ならなんでもかついでしまうというこの時代の実例の多くからすると決して無茶な想像ではない。護良にしても「征夷大将軍」として幕府政治を構想していた可能性大なのだから。

 ともあれ、一代の風雲児、日本史上でもまれな「将軍皇子」はここに非業の最期を遂げた。享年28。「太平記」では淵辺に殺された護良の首が口に刀の切っ先を噛み切ってくわえていたという壮絶な模様を描くが、もちろんその後に続く故事引用の前振りであり、実話とはとても言えない。だが「彼ならありうる」と当時の人が思う逸話なのだろう。
 28歳で死んだ護良だが、どうやら皇子は8人もいたようで、正平6年(観応2、1351)時点でそのうち2人は早世して6人が存命だったことが確認できる(毛利家文書)。その皇子たちも南北朝動乱の中でいろいろ波乱の人生を歩んでおり、中には南朝内の分裂工作に関与したり、南朝の拠点・吉野に攻め込んだ者までいる。このあたり、父親の怨念がどこか反映しているのかも知れない。

 後世、「太平記」の流行や南朝正統論の高まりによって護良親王の英雄視が強まってゆく。明治2年(1869)に鎌倉・二階堂に護良親王を祭る鎌倉宮が創建された。ここには「土牢」や「御首所」(淵辺が首を捨てた場所)までが作られて、資料館には護良の書や着用の直垂と称するもの、さらには東郷平八郎や山本五十六が奉納した書、なぜか北朝子孫の明治天皇肖像の前に護良の肖像が据え置かれるという当人が見たら激怒しそうな展示が並んでいる(笑)。

参考文献
森茂暁「皇子たちの南北朝・後醍醐天皇の分身」(中公文庫)
村松剛「帝王後醍醐」(中公文庫)
佐藤進一「南北朝の動乱」(中公文庫)
奥富敬之「護良親王」(歴史と旅・臨時増刊「太平記の100人」所収)
大河ドラマ「太平記」前半から中盤にかけての重要キャラクターとして登場。演じたのは堤大二郎で目を血走らせ、激怒しまくる大迫力の演技で見事に「護良」を表現していた。第9回で比叡山で僧兵相手に武芸訓練をしている場面で初登場(法体ではなかったが)、笠置や赤坂でも目立って見せたが、討幕戦の部分は主役が尊氏ということもありあまり姿を見せない。だが建武政権期はまさに尊氏最大のライバルであり毎回のように尊氏憎悪の様子が描かれ、宮中で逮捕される場面も大迫力。捕えられてから尊氏と一対一で語り合うオリジナルのシーンがあり、「そちには器量がある。それゆえに殺しておきたかった。今は空しい限り」と初めて心静かに語るのが印象的。第30回「悲劇の皇子」で淵辺義博に殺害されるが、土牢ではなく寺の一室、写経の最中に踏みこまれて、覚悟を決めて静かに首を打たれる描写になっていた。
その他の映像・舞台昭和36年(1961)の舞台「幻影の城」では井関一が演じた。同じ劇の昭和44年(1969)公演では矢崎滋が演じたという。
野田秀樹
作の舞台「少年狩り」は現代の少年が鎌倉で護良と時空を超えて遭遇する話だそうで(サン・テグジュペリまで出る?)、昭和54年、56年の公演では野田秀樹自身が護良を演じている。同じ戯曲の2003年公演では小林由香が演じた。
平成2年(1990)の「流浪伝説」は後醍醐天皇を主役とする劇で大滝寛が護良役。
昭和39年(1964)の歌舞伎「私本太平記」では市村羽左衛門(17代目)が護良を演じている。大河と同じ平成3年(1991)の「私本太平記 尊氏と正成」では市川団蔵(九代目)が演じた。
1983年のアニメ「まんが日本史」では塩屋翼が声を演じた。
歴史小説では格好の主人公という気もするのだが、戦前は神格化されてやりにくかったし、戦後は南北朝そのものが忌避されたので実例は見つからない。ただ南北朝を扱った作品では当然重要キャラクターとして登場している。印象に残るのは山岡荘八「新太平記」で熊野での護良の恋愛模様だろうか。今東光「東光太平記」は正成を主役とするが、護良が捕縛された時点で歴史の展開が決まったとして話を打ち切ってしまっている。
漫画作品では南北朝・太平記を扱った学習漫画系では当然の如く皆勤状態。皇子様ということでおおむね端正な顔で描かれるが、石ノ森章太郎「萬画・日本の歴史」では珍しく太ったオジサン顔に描かれている。
変わったところでは、かみやそのこ「阿野廉子」ではなんと廉子と不倫愛の関係となり、恒良は実は護良の子だったという仰天の展開になっている。
市川ジュン「鬼国幻想」は阿野廉子の異母妹・緋和(架空人物)を主人公とする作品で、護良は「八雲王」という名にされ(護良と言う名は還俗後のものであるため)、緋和や廉子と幼馴染の端正な美青年。緋和と恋人関係から事実上の夫婦にまでなり、物語前半のメインキャラである。廉子もひそかに護良を愛していたという設定がここでも出てきて、廉子が護良を死に追いやることで緋和と愛憎ドラマを展開することになる。
沢田ひろふみの少年漫画「山賊王」では正成、尊氏、義貞、円心、長年、主人公・樹と共に倒幕に立ちあがる運命の星印を体に持つ重要キャラクター。なぜか美少女のような外見で(体格はゴツい)、女のようにみられることをひどく嫌い、すぐブチ切れる性格になっていて、かなり個性的。
内野正宏「ナギ戦記」でも美少年キャラとして登場し、倒幕の立役者になっているが、打ち切りのためにその登場はわずかである。
飴あられ『君がために・楠木正成絵巻』では出家姿・元服姿の両方で登場、いずれもイケメン美青年だがストーリーのメインには絡んでこなかった。
河部真道『バンデット』は架空の悪党・石を主役とした作品で、護良親王は序盤から重要人物として登場している。父・後醍醐とは微妙な対立関係にあり、「小中の変」の陰謀をつぶす役割をする。後半は駆け足の展開となったこともあり出番はそれほど多くない。
PCエンジンCD版ゲーム中への登場はないが、建武の乱に至る過程を説明する長いオープニングビジュアル中に登場しており、宮中で捕縛されるシーンで声も聞ける(担当声優は明記がなく不明。キートン山田のようにも聞こえる)。なおこの逮捕カットは横山まさみちのコミック版を参考にしている。
PCエンジンHu版シナリオ1「鎌倉幕府の滅亡」で登場。大和・興福寺に配置されている。能力は「長刀4」

文観もんがん(もんかん)1278(弘安元)-1357(延文2/正平12)
生 涯
 後醍醐天皇の腹心となった僧侶。邪教とされる「真言立川流」の大成者とされ、その人脈と存在感から「南北朝動乱の影の演出者」「怪僧・妖僧」とまで呼ばれる。

―播磨の少年僧から天皇側近へ―

 文観の出自は明確ではないが、恐らく播磨の生まれであると考えられる。僧としての経歴は播磨国法華山一乗寺から始まったことは確実で、弘安8年(1285)7月にこの一乗寺で律宗再興者・叡尊が授戒(戒律を授ける。正式な僧として認証する儀式で、本来は正式な「戒壇」のある寺院でしか許されないが、叡尊は独自に幅広い授戒を行った)を行っており、このときまだ8歳の文観が幼いながら叡尊と深く結びついたのではないかと推測されている。叡尊はこの5年後に亡くなるので二人の関わりはほんの数年、しかも幼少期のこととしか思えないのだが、幼い文観に叡尊は何かただならぬものを感じ取ったのかも知れない。
 その後、播磨の書写山円教寺で学び、叡尊の拠点である奈良・西大寺に移り、真言律宗を学んだ。正安4年(1302)の叡尊十三回忌の追善で建立された西大寺所蔵の文殊菩薩像の胎内文書に25歳という年齢と共に「殊音文観」の名が明記されており、これが史料上最初に確認される文観の存在である。20代の時点で叡尊教団のなかで「直弟子」的位置にいたことをうかがわせ、また叡尊がおこした文殊菩薩信仰の熱烈な信奉者であったことがその名乗りで分かる。「殊音文観」の名は「文殊」「観音」の両菩薩の名前の組み換えであることは明らかで、この名乗りだけでもただ者ではない。またこの文殊菩薩像の胎内には優れた文殊菩薩画像や着色文殊曼荼羅図が収められ、署名からこれも文観自身の作と推定されている。

 その後大和・竹林寺(生駒説と笠山説あり)の長老となり、正和5年(1316)4月に醍醐寺の道順から伝法潅頂を受け、39歳で正式に真言密教の法流に連なり、「弘真」とも名乗るようになる。この道順は大覚寺統の後宇多上皇(後醍醐の父)と深く関わる僧で、これ以前に持明院統系の隆勝と醍醐寺・三宝院流の継承をめぐって紛争しており、訴訟を有利にするため六波羅探題評定衆の伊賀兼光に働きかけていたが、その仲介を兼光と「他に異なる関係」を持っていた文観に頼み、伝法潅頂はそれに対する見返りだとする見方がある。どのように人脈を作ったかは不明だが、すでに30代の時点で文観は六波羅探題の武士や皇室に近い僧侶たちに人脈を広げ影響力をもっていたことが分かる。後醍醐天皇への接近も後宇多-道順ラインを通じてであろうと推測されている。

 文観が「真言立川流」と関わりを持つようになったのは道順を通してではなかったか、との推測がある。後年邪教として排斥されたこともあって立川流については謎に包まれた部分が多いが、伝承によると平安時代に仁寛(?-1114)が創始したとされ、密教の中にあって「男女和合」すなわちセックスによる即身成仏を教義の根幹に置いていたとされる。あくまで批判者側の文献なので全面的な信用は置けないが、『受法用心集』によると男女を交わらせ、その体液の混合をドクロに塗るといったかなりオカルトな要素を含む宗派であったらしい(もっとも真言密教じたいが多分にオカルト要素が強い)。「受法用心集」では真言密教の信徒の9割もが立川流であるとされ、かなり広まっていたもののようだ。とくに醍醐寺三宝院は当時立川流の拠点となっていたらしい。
 文観が属していた真言律宗の叡尊・忍性たちの女性への授戒や非人を含めた幅広い救済を教義に含んでおり、重なる部分が確かにあったのかもしれない。また文観が深く関わり、彼自身も生涯を終えた河内・金剛寺は「女人高野」として知られた寺であることもつながりを感じさせる。

 そしてその金剛寺は、楠木正成とも深く関わる寺だった。道順の弟子・道祐は文観から伝法潅頂を受けており、この道祐と正成につながりがあったのではないかとの推測がある。すべて推測の積み重ねなのだが、後醍醐と正成を結びつけたのが文観なのではないかとする見方は有力視されている。

―討幕の呪詛―

 『醍醐寺新要録』によると、文観は「法験無双」とあり、ほとんど「超能力」並みに祈祷能力に優れているとみられていたらしい。後醍醐に接近した文観は、後醍醐から依頼されて「関東調伏」の祈祷を開始する。
 その証拠として挙げられるのが奈良の般若寺の本尊「八髻文殊菩薩獅子像」である。元亨4年(1324)3月7日に造立されたこの木像は、その矧目(はぎめ。組み立て式の仏像の継ぎ目部分)に墨書があり、この仏像を造らせた大施主が伊賀兼光であること、その墨書銘を書き、花押(サイン)を添えたのが「金剛仏子殊音」すなわり文観その人であることが判明している。この墨書銘には「金剛聖主御願成就」と書かれていて、「金剛聖主」が後醍醐天皇、「御願成就」とは倒幕計画の成功を祈願したものと解釈されている。
 この元亨4年の9月に後醍醐の最初の討幕計画の発覚「正中の変」が起こっている。その直前に日野資朝日野俊基ら後醍醐腹心たちが「無礼講」「破仏講」と呼ばれる、半裸の女性たちをはべらせた乱痴気パーティーを開いて討幕の密議をしていたことはよく知られるが(後醍醐自身も出席したとみられる)、ここに文観の「立川流」の性的な儀式がからんでいたのではないかと見る意見もある。

 正中の変ののちも後醍醐はじっくりと討幕計画を進めていく。文観はその法術をもってそれに協力し、嘉暦元年(1326)から後醍醐の中宮・禧子の安産祈願にかこつけての関東調伏の祈祷を行っている。このときすでに「実は関東調伏の呪詛」との噂が広まったようで、この年10月に後醍醐が幕府に対してそれを否定する釈明もしている。しかしこの祈祷は元徳元年(1329)末まで四年間断続的に続けられたとみられ、文観だけでなく比叡山系の法勝寺の円観忠円も関わり、後醍醐自らも幕府を呪詛する祈祷を行ったものと考えられている。元徳2年(1330)5月7日に文観が東寺の宝蔵から「十二天屏風」を「修理の上返却する」と言って持ち出していることが確認でき(「東寺執行日記」)、これも幕府呪詛の祈祷のためだったとみられる。

 元徳3年=元弘元年(1331)4月、後醍醐側近の吉田定房が討幕計画を幕府に密告、文観らの関東呪詛が明らかとなり、5月に文観・円観・忠円らが一斉に幕府に捕縛され、鎌倉に送られた。「太平記」の伝えるところでは文観は拷問による取り調べに耐えかねて呪詛を白状したとされる。ただし「太平記」は文観を強く敵視する立場の人間によって書かれたと考えられ(一緒に捕縛され文観と対比される円観周辺が執筆した可能性が高いとされる)、ことさらに文観をおとしめようとする記述になっていることを考慮しなければならない。ともあれ、文観は幕府呪詛の罪により遠く南の果ての硫黄島(鹿児島県)に流刑となった。
 その直後の8月から、いわゆる「元弘の乱」が始まる。この乱の中で護良親王が奈良の般若寺に隠れた逸話が「太平記」にあるが、これはこの寺が文観と深い関わりがあることを背景にしているとの説がある。いったんは敗北した後醍醐側だったが2年もしないうちの元弘3年(正慶2、1333)5月22日に鎌倉幕府はあっという間に崩壊してしまった。後醍醐にとっても、そして硫黄島にいた文観にとっても「呪詛の効果」と確信させるような、急展開であった。

 六波羅探題陥落の報を受けて伯耆・船上山から上洛の途についた後醍醐は、5月27日、その途中の播磨で突然予定を変えて書写山円教寺および法華山一乗寺に立ち寄っている。「書写山行幸記」で関白・近衛経忠「文観上人が御祈祷僧だからだろうか」と記している。この記述によってこの寺が文観と深く関わっていることが確認できると同時に、後醍醐が文観の「功績」を高く評価したこともうかがえる。

―建武政権での栄華―

 幕府滅亡の直後に文観は硫黄島から呼び返された。建武元年(1334)9月までに京の東寺大勧進となり、僧正に昇格して小野随心院にいたことから「小野の僧正」と呼ばれていたことが確認できる。翌年3月には東寺一長者となり、さらに醍醐寺座主を兼ねて、律宗出身の僧でありながら真言宗において史上空前の権勢をきわめることになった。むろん、後醍醐による「論功行賞」である。

 しかしこの文観への厚遇には強い批判もあった。とくに建武2年(1335)5月に真言宗の本山・高野山金剛峯寺の衆徒たちは、満場一致の決議で文観を激しく攻撃し東寺長者罷免を求める奏上を後醍醐に送りつけた。高野山側は文観のことを「東寺の勧進聖・文観法師」と侮蔑的な表現で呼び(「乞食坊主」ぐらいのニュアンス)「もともと西大寺の律宗の僧でありながら、怪しげな占いや呪術を習って、ダキニ(荼吉尼)を祭り、怪しげな呪文のたぐいを使って僧侶の身でありながら帝に接近した。貪欲でおごりたかぶり、その行状はただごとではない。律宗僧でありながら戒律を破り、武勇や武器を好む。これはまさしく仏法を滅ぼす天魔鬼神の所行である。このような異人非器の者を長者にするわけにはいかない…」と口をきわめて悪口を並べ立てている。これもまた文観を敵視する側の書いた文なので、そのまま信じるのは危険だが、「太平記」においても文観は権勢におごりたかぶり何百人もの兵士たちを従えていたことが描かれており、実際に足利軍との交戦に出撃していることも書かれている。

 建武の新政の混乱ぶりを風刺した傑作「二条河原の落書」のなかで「追従讒人禅律僧」(帝にこびへつらって人を讒言する禅僧・律僧)というくだりがあり、この「律僧」とは文観を指しているのではないかとの見方もある。少し後年、文観没落後の史料ではあるが、観応元年(1350)に文観がいた醍醐寺報恩院から北朝朝廷に提出された訴状によると、建武年間に文観が東寺・醍醐寺において「横領」という「言語道断の行」を行ったと激しく非難されている。

 後醍醐天皇は従来の家格や権威を無視した天皇独裁体制を作り上げようとしていた。そのためその周囲にはまさに「下克上」してきた、保守的な支配層から見れば素性もはっきりしない「異類異形」の者たちが大勢いて、いずれも激しい批判を浴びているが、文観は宗教界におけるそうした存在だったのだ。網野善彦は文観に対する激しい非難の背景に、このころから強い差別の対象となりつつあった非人たちを彼が救済し(これは彼の師である叡尊・忍性から受け継がれる流れである)、周囲にそうした人々を多く従えて、その軍事力も利用していた事実があるのではないかと推測している。

―南朝と共に―

 栄華を極めた文観だったが、建武政権はわずか2年程度で崩壊した。延元元年(建武3、1336)正月に足利尊氏の軍が京に迫り、国家鎮護のための正月恒例の「後七日修法」を執り行っていた文観は10日に非常事態のため修法を中断、後醍醐に同行して比叡山に避難している。
 その後山崎に迎撃に出た後醍醐側の脇屋義助率いる一軍のなかに「文観僧正」の一隊がいたと「太平記」は記している。いざ戦いとなったら「畠水練しつる者(畑で水泳訓練、つまり実戦をまるでしてないこと)」ばかりの彼の兵たちは我さきに降参してしまったと批判的に書くのだが、僧正である文観自身が出撃していること、またその兵たちがどうやら「正規の武士」ではなさそうな描写が注目される。

 この年の12月に、後醍醐天皇は吉野へ脱出し、「南朝」を開くことになる。文観もこれに合流し、後醍醐をその法力によって守る「護持僧」の立場にあった。吉野に移ってからの文観の動静は詳しくは分からないが、常に後醍醐のそばにあって懸命に勝利の祈祷を行っていたことは疑いない。
 しかし延元4年(暦応2、1339)8月16日、後醍醐が吉野で無念の死去。文観は引き続き後村上天皇の護持僧を務めることになるが、同時に後醍醐の称揚と追悼の事業を進めたものと推測される。神奈川県藤沢市の清浄光寺に残る後醍醐天皇肖像画は、法衣をまとい、密教の法具を手にした異様な肖像画として有名だが、これは後醍醐の死の直後数年のうちに製作されたもので、後醍醐を真言密教の金剛薩タ、そして天照大神と重ね合わせて神格化する狙いをもったものと考えられ(以前にも「金剛聖主」と書かれていたことがある)、これを描けるのは文観その人しかいない、という黒田日出男氏の興味深い推理がある。実際に文観は25歳の時から見事な画才を発揮しており、「本朝画史」という史料では「僧正文観よく祖師像を画く」と記されているのだ。かなりの確率でこの推理は当たっているものと考えられる。

 後醍醐に同情的な割に文観が憎くてしょうがなかったらしい「太平記」は、「文観は法流を継ぐ門弟も一人もなく、孤独の身となって、吉野のあたりにさまよって死んだそうだ」と冷たく記すが、実は文観は一度だけ都に返り咲いている。
 足利幕府の深刻な内戦、いわゆる「観応の擾乱」が起こり、その終盤の正平6年(観応2、1351)11月に足利尊氏は弟の直義と対決するために南朝と手を組んだ。これを「正平の一統」というが、始めにこの和睦交渉に足利側から使者として賀名生に赴いたのは、かつて文観と共に関東呪詛容疑で捕縛された円観だった。ところが円観は門前払いをくらって追い返されており、その背景には円観を憎悪する文観の意図があった可能性が高い。
 この「正平の一統」により南朝は一時的に北朝を接収して「正統王朝」となり、文観だけ一足先に京に入った。正平7年(観応3=文和元、1352)に彼は東寺長者に返り咲いて、かつて足利軍侵攻のために中断を余儀なくされた正月の「後七日の修法」を京・真言院において執り行っているのである。この年の閏2月に南朝軍が一時京を奪回するが、あっという間に奪い返され、文観は後村上とともに南方へと逃れていった。

 その後確認できる事跡は正平12年(延文2、1357)8月に後村上の勅命を受けての「理趣経」の大綱釈の編纂がある。文観はその奥書に「東寺座主法務前僧正弘真」と署名し、自身を「東寺長者」と誇って見せた。その直後の10月9日に河内国・金剛寺で死去した。享年八十と伝えられることから彼の生年が特定できる。

 文観をむやみに「怪僧」「妖僧」とはやしたてることについては批判もある。ただ、その生涯はまさに南北朝の宗教界の「闇」の部分を象徴するものだったとは言えそうだ。

参考文献
岡見正雄「太平記(二)」解説(角川文庫)
網野善彦「異形の王権」(平凡社ライブラリー)
森茂暁「太平記の群像・軍記物語の虚構と真実」(角川選書)
藤巻一保「真言立川流・謎の邪教と鬼神ダキニ崇拝」(学研)
黒田日出男「王の身体 王の肖像」(ちくま学芸文庫)ほか
大河ドラマ「太平記」基本的に古典「太平記」が伝える「怪僧」イメージで描かれた。演じたのは暗黒舞踏の麿赤児で、決して登場回数は多くないのだが、あまりにもハマりすぎ、強烈な印象を残した。第3回の醍醐寺で高氏と後醍醐が初対面するシーンで初登場、元弘の変では関東調伏の呪詛をして六波羅兵に逮捕されている。建武政権部分でチラチラと登場、そのまましばらく出てこないと思ったら、第46回で吉野で直義降伏の知らせに大騒ぎするコミカルな場面もあった。立川流ウンヌンの描写は全くなかったが、硫黄島から都に帰った宴の席で勾当内侍にセクハラする場面はあった。
その他の映像・舞台平井摩利の漫画を原作にしたOVA「火宵の月」では塩沢兼人が文観の声を演じた。
歴史小説では黒須紀一郎「婆沙羅太平記」は文観を主人公にした異例の長編小説。文観の少年時代から南朝に至るまでの生涯をかなりの枚数で描き、まさに文観を南北朝動乱の影の立役者としている。しばしば「怪僧」「妖僧」のイメージで語られる文観を肯定的にとらえたことでも異色だ。やはり文観と正成を「真言立川流」で結びつけ、海外からの影響も描きこんだ金重明「悪党の戦」もある。松本利昭「虚器南北朝」は文観の弟子の立川流僧侶・仁観が主人公で、文観もちょっとだけ登場する。
漫画作品では南北朝というより「太平記」の漫画版で登場しやすい。おおむね「怪僧」イメージで登場するのが定番。学習漫画系では学研のうめだふじお「楠木正成」でチラリと顔を見せている。桜井和生・原作/たかださだお・画の「劇画・足利尊氏」は文観が倒幕運動の指導者として割とかっこよく出てくる珍しい例。石ノ森章太郎「萬画・日本の歴史」では「立川流」の淫靡なイメージからなのか、「無礼講」の密談パーティーで直接女と絡んでいる。
鎌倉幕府打倒の展開を少年漫画王道の展開で描く沢田ひろふみ「山賊王」では冒頭に登場。やはり「怪僧」イメージだが、主人公たち「五行の星」の存在を予言する役割をもつ。
鎌倉末期の陰陽師を描く平井摩利の漫画「火宵の月」でも重要キャラクターとして登場する。
飴あられ「君がために・楠木正成絵巻」では正成を討幕計画に誘いに来る場面のみ登場、意外にイケメンの若い僧に描かれている。
天王洲一八作・宝城ゆうき画「大楠公」では序盤に後醍醐と幕府調伏の祈祷をしている場面のみ、やはり怪僧イメージで登場している。

聞渓円宣もんけい・えんせん生没年不詳
生 涯
―義満初の遣明使の一人―

 足利義満が最初に明に派遣した使節の代表者。明側の記録には「宣聞渓」として登場するが江戸時代に編纂された外交史「異国使僧小録」に「聞渓円宣」とあり、これが実名と思われる。詳細な経歴はまったく不明だが、代表者にされるだけに詩文にたけ外交知識のある禅僧であったと思われる。建仁寺住持となった「聞渓良聡」という高僧がおり、応安5年(文中元年、1372)に死去しているが、あるいは建仁寺の関係者か(明使となった子建浄業も建仁寺の蔵主)

 応安6年(文中2、1373)に足利義満は明の使者・仲猷祖闡無逸克勤に対面、彼らを帰国させる際に返礼使として聞渓円宣・子建浄業喜春らを明に派遣した(「明太祖実録」)。これが義満、ひいては室町幕府にとって最初の対明外交使節となり、当時の日明間の最大の問題である倭寇に拉致された明の被虜人たち150人の返還も同時に行われている。
 翌応安7年(文中3、1374)6月に聞渓ら一行は明の首都南京に入ったが、正式な日本の主権者から明皇帝に差し出す「表文」がなかったこと、当時の明では南朝の懐良親王と思われる「良懐」を日本国王に冊封していたためにそれ以外の「政権」を認めることはできなかったことなどで彼らを正式に迎え入れることは拒否した。ただし遠方よりの来訪をねぎらって一定の下賜品などは与えているので完全に門前払いにしたわけでもない。
 ところで1325年から1332年に元に留学した有名な日本の禅僧に中巌円月がいるが、明にいるその弟弟子・契中玄理が中巌の詩に唱和した詩を「渓上人」という日本僧の帰国に託して中巌に届けさせた、という話が中巌の文集にある。「渓上人」が帰国したのは「洪武乙卯」(=永和元年/1375)とあり、これはこの義満使節の帰国時期と符合するため、「渓上人」とは聞渓円宣のことと見て間違いない。
 その詩が届いているということは聞渓は無事帰国したのだろうが、その後の消息は不明である。
漫画作品では石ノ森章太郎『萬画・日本の歴史』の義満の章で、「宣聞渓」として登場。僧侶姿に描かれ、南京で待ちぼうけを食わされたあげく、明側から「表がない」と言われ「ひょお?」と驚いた反応している。


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