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むいつこくごん〜むらかみのぶさだ

無逸克勤むいつ・こくごん生没年不詳
生 涯
―明の使僧から有能官僚へ―

 明から日本への使者に立てられた僧。浙江の紹興・蕭山の出身という。若くして儒教にも通じ、金陵(南京)の瓦官教寺(天台宗)の住持をつとめていた。ただしこの瓦官教寺はかつて名刹であったがこの時期すでに廃寺となっていたものを僧たちの運動で天界寺の一隅にささやかに復興されたばかりで、当時まだ若かった無逸克勤がその住持となっていたのは日本へ派遣するにあたっての「拍付け」であった可能性も指摘されている。
 1371年(洪武4、、応安4/建徳2)10月、懐良親王と思われる「良懐」が使僧・
祖来
を明へと派遣し、貢物を納め倭寇による被虜者を送還した。洪武帝(朱元璋)はこれを喜んで「良懐」を「日本国王」に冊封し、高僧を求める詔に応じて上京した僧たちの中から天寧禅寺の住持・仲猷祖闡無逸克勤を抜擢(くじによる選抜とされるが形だけであろう)、「良懐」への冊封使として派遣することにした。彼らは明の大統暦と文綺・紗羅等の物品をたずさえ、日本の留学僧・椿庭海寿と杭州天竺寺の蔵主・権中中巽の二人を通事(通訳)および案内役として、翌1372年(洪武5、応安5/文中元)5月21日に寧波から出航した。5月25日に五島に到着、5月30日には博多に入った。

 しかし博多に着いてみると、その地は「良懐」こと懐良親王の支配下にはなく、幕府から九州平定に派遣された探題・今川了俊が制圧した直後だった。明使一行は了俊によって拘束され、博多の聖福寺におよそ一年とどめられた。この一年のうちに日本の南北朝動乱の複雑な事情を知った彼らは、日本禅宗界の大物である春屋妙葩や、天台座主の尊道入道親王に書状を送って北朝および幕府への仲介を求めた。特に天台座主に書状を贈ったのは無逸克勤が天台宗の僧であったためその縁を頼ったとみられる。その甲斐あって翌1373年(洪武6、応安6/文中2)6月29日に京都・嵯峨の向陽庵に入った。そしてその二カ月後の8月29日に将軍・足利義満と対面を果たした。義満は帰国する彼らに、返礼使として聞渓円宣子建浄業喜春らを同行させた。

 一行はこの年10月までに九州にくだり、彼らより先に来日していた明使・趙秩と博多で合流した。春屋妙葩とのやりとりから翌年の4月11日までは日本にいたことが分かる。1374年(洪武7、応安7/文中3)5月28日に一行は南京に入って洪武帝に謁見し帰国を報告、洪武帝はその労をねぎらって白金百両に文綺などを下賜した。
 無逸克勤はまだ若かったとみられ、帰国後に洪武帝に才能を見込まれて還俗し「華克勤」と改名、官僚として活躍した。日本から留学していた絶海中津から頼まれて、夢窓疎石の碑の銘文の執筆を宋濂に依頼する仲介役も務めている(もともと宋濂と旧知であった可能性が高い)。その後、山西布政使に任じられて山西統治にあたり、その仕事ぶりを洪武帝から称賛されている。その一方で僧侶出身ということで科挙出身の官僚からは憎まれ、攻撃を受けることもあったが洪武帝の信頼は厚かった。

参考文献
宋希m著・村井章介校注『老松堂日本行録・朝鮮使節の見た中世日本』(岩波文庫)
蔭木原洋「(研究ノート)洪武帝期・日中関係研究の動向と課題」
      「洪武帝の仏教政策―宋濂と季潭宗泐に焦点を当てて―」ほか
漫画作品では石ノ森章太郎の『萬画日本の歴史』の義満を扱った一冊の冒頭部分、日明交渉の始まりを描く部分で登場している(ただし明使二人まとめての登場でどちらがどちらなのか分からない)。博多に上陸して「日本国王・懐良さまに会いに来た」と話したとたんに拘束されている。

無涯仁浩むがい・にんこう1294(永仁2)-1359(延文4/正平14)
生 涯
―元に二十年滞在した禅僧―

 出羽国出身の臨済宗の僧。建仁寺の住持・鉄菴道生に学び、元亨元年(1321)に元へと留学した。元に滞在すること二十年以上に及び、貞和元年(興国6、1345)に帰国し、貞和4年(正平3、1348)から肥前の浄土寺の住持となった。文和元年(正平7、1352)ごろには京都の東・清水坂に永源庵(のちの永源院)を構えており、戦場に向かう細川頼有(細川頼之の弟)が門前で無涯に会って馬上から問答し、それ以後深く帰依することとなった(これが縁で永源院と細川家は深い関係を持つようになった)。文和2年(正平8、1353)に鎌倉の東勝寺に移り、延文3年(正平13、1358)に京都に戻って建仁寺の第三十九世住持となった。
 翌延文4年(正平14、1359)正月5日に66歳で死去。著作に『無涯禅師語録』がある。永源院には中巌円月の賛のついた無涯の肖像画(重要文化財)が伝わっており、その面影を今日に伝えている。

武者小路教光
むしゃのこうじ・のりみつ1325(正中2)-1378(永和4/天授4)
親族父:柳原資明
兄弟:柳原忠光・柳原宗光・土御門保光・光済・土御門通房室
子:武者小路資俊・武者小路資能
官職左兵衛督・参議・権中納言
位階従二位
生 涯
―武者小路家の祖―

 権大納言・柳原資明の子。柳原家は日野家の分家で、教光はそこか
らさらに「武者小路家」として分家した。このため「日野教光」と表記されることもある。文和5年(正平11、1356)に参議。のちに権中納言までのぼった。
 北朝宮廷では崇光上皇の側近となり、崇光の皇子・栄仁親王の乳父となった。応安3年(建徳元、1370)、後光厳天皇が子の緒仁親王(のちの後円融天皇)への譲位に動き出した際、崇光が自身の子・栄仁こそが皇位を継承するべきと幕府に運動したが、このとき使者役をつとめたのが教光であった。崇光一派は幕政に大きな影響力をもつ渋川幸子にも働きかけたが、管領の細川頼之が後光厳側で策動したため栄仁即位は夢と終わった。
 永和4年(天授4、1378)7月24日に54歳で死去した。

夢窓疎石むそう・そせき1275(健治元)-1351(観応2/正平6)
親族父:佐々木朝綱? 母:北条政村の娘? 甥:春屋妙把
生 涯
 鎌倉末期から南北朝時代にかけて活躍、立場を超えて当時の権力者たちほとんどから尊崇を受け、絶大な影響力をほこって臨済宗の黄金時代を築いた名僧。この時代の宗教界の主役といっていい。

 ―秀才タイプの名僧―
 
 生まれは伊勢国。父は佐々木朝綱とされ、同時代の佐々木道誉と同族の可能性がある。母は「平政村の娘」とされるが、これが第7代執権の北条政村の娘ということなのかは確定できない。ただその後の夢窓が北条氏から絶大な支援を受ける背景に血縁があったからという推測をすることは可能かもしれない。
 弘安元年(1278)に母方の一族に内紛があり、それを避けて甲斐国に移り住んだが、その年の八月に母が死去した。9歳の時に甲斐・平塩山寺に入って空阿大徳のもとで修業を始める。その後叔父の明真を頼って奈良に行き、正応5年(1292)に18歳で東大寺で受戒した。それから甲斐に戻って師・空阿の死を見届けることになるが、厳しい修行を積み博学でもあった空阿が死に臨んで苦悶するのを見て天台宗に疑問を感じ、夢の中で達磨に出会ったことをきっかけに禅宗に改宗したと伝えられる。

 永仁2年(1294)に上洛して建仁寺に学び、ここで夢に「疎山・石頭山」を見たことから「夢窓疎石」と名乗り始める。翌年には鎌倉に赴き、東勝寺・建長寺・円覚寺で学び、また京・建仁寺に戻ったところに、正安元年(1299)に元皇帝からの使者として一山一寧が来日した。一山一寧は「蒙古の使者」として始めは鎌倉幕府の執権・北条貞時にスパイと疑われ幽閉されたが、当時貞時も帰依していた臨済宗の高僧ということもあって建長寺に招かれている。一山一寧の人柄にひかれた疎石は彼を追って鎌倉・建長寺に入り、その直弟子となった。当時一寧のもとには数多くの門弟が集まり、詩作の試験で上・中・下の三クラスに分けたところ、疎石はたった二人しかいない上クラスに食い込んだという。
 なお、当時の臨在宗の世界では一寧のような中国僧が多数渡来して中核を担っており、中国語(江南方言)の習得が必須だった。こうした渡来禅僧たちは朱子学など当時の最新の中国思想、文芸を同時に持ち込み、当時の禅宗がかなり先端的かつ異国風味に満ちたものであったことを理解しておく必要がある。この時代の禅宗界では元への留学も盛んで、帰国して名をなした僧も多く(いつの時代にもあるように「箔づけ」のためだけに海外留学する連中もいたようであるが)疎石はその中で全く留学経験のない珍しい例とも言える。

 だが疎石はなかなか満足が得られなかった。苦悩の余りそれまで書きとめていた法話や問答の冊子を全て焼き捨てたという話もある。一寧に直接疑問をぶつけてみたが、一寧は「我が宗派は語句で教えられるものではない。また人に教えられるものではない」と学問・語句にこだわりすぎる疎石に遠まわしに諭すだけだった。
 正安2年(1300)に疎石は知人を頼って陸奥・松島に旅立つがその知人が亡くなっていたため帰路に就き、その途中で下野にいた高峰顕日(後嵯峨天皇の皇子)を訪ねようとしたが行き違いとなり、結局一寧のもとに戻ってきた。しかし疎石は一寧のもとには落ち着けず、嘉元元年(1303)に改めて高峰顕日のもとに学びに行った。ここでもその才能を発揮して名声を高め、しばらく陸奥・常陸で隠居生活を行った。そして嘉元3年(1305)5月のある日、坐禅を組み続けて眠気を催したので庵に入って眠ろうとした時に、壁があると思いこんで何もない所によりかかり、その勢いのまま地上に転げ落ちた。その瞬間に禅の境地に達し、大笑いして悟りを開いたという。

 疎石は禅の奥義を極めたことを顕日から認められ、その印可を受けた。しかし彼の名声をねたむ兄弟弟子も多かったようで、それをきらって故郷の甲斐国に帰り、それから美濃国へと移り、俗世を離れて隠棲生活を行うようになる。この時期に疎石が歌った和歌に「世のうさに かへたる山の さびしさを とはぬぞ人の 情なりける」「かくせただ 道をば松の 落葉にて わが住家と 人に知らすな」の二首が知られる。いずれも俗世を離れて山奥で静かに暮らしたいという気持ちを詠んだものだが、その後の疎石が権力者と密接にかかわっていくこと、「隠棲」先が二階堂氏や土岐氏など一定の実力者の領地でその庇護を受けていたと推測されることから、実は将来の出世に向けての布石を打っている時期だったとの見方もある。

 ―あちこち呼ばれて東へ西へ―

 文保元年(1317)に夢窓疎石は京に上り、北山に住み着く。のちのち関わりが深くなる後醍醐天皇が翌年に即位するのだが、これが偶然なのかどうか。
 しかし疎石に熱烈なアピールをかけてきたのは鎌倉の方だった。執権・北条高時の生母である覚海円成が疎石に使者を送り、鎌倉に招いたのだ。疎石はこれを固辞し、逃げるように四国・土佐の吸江庵に隠棲した。覚海は再び使者を土佐に派遣し、「夢窓どのが来るというまでは帰ってくるな」と厳命、「夢窓を隠す者は厳罰に処す」との命令まで出して執拗に鎌倉に呼び寄せた。根負けした疎石は元応元年(1319)四月に鎌倉・勝栄寺に入ったが、幕府との直接的な関わりは避けたかったらしく、間もなく少し離れた三浦の泊船庵(現・横須賀市)に移住した。ここで歌人の冷泉為相をはじめとする鎌倉在住の文化人たちとも交流している。
 元亨3年(1323)には上総国千町荘(現・いすみ市)退耕庵に移り住んだ。ここの岩山にある金毛窟という洞窟にこもって座禅したと伝えられ、その入り口に彫られた「金毛窟」の三文字は夢窓疎石自らの書であるという。

 正中2年(1325)に疎石のもとに「京・南禅寺の住職に」との要請が来た。招いたのはほかならぬ後醍醐天皇その人である。前年に「正中の変」を起こしたばかりの後醍醐は文観など真言・律宗への造詣が深かったとされるが、当時京においても新興勢力であった禅宗にも深い関心を寄せていて、当時すでに絶大な名声をとどろかせていた疎石を京に呼ぼうとしていた(冷泉為相の推薦ではないかとの推測がある)。疎石は渋ったが、後醍醐は執権・高時を仲介に再度要請してきた。天皇と執権の二大権力者のダブル要請では断ることもできず、疎石はこの年の夏に京に入り、南禅寺の住職となった。
 10月2日に夢窓は内裏で後醍醐に説法を行っている。その様子を見ていたのが同じ禅宗の名僧で持明院統の花園上皇の側近であった宗峰妙超(赤松円心の甥との説あり)で、妙超はただちに花園にその模様を報告し「教義そのままで大したものではない」と激しく批判している。花園は「夢窓は関東(幕府)が帰依している僧だからそのような批判は隠せ」と指示し、自らの日記には「夢窓が宗門の長老になったら禅宗は滅びしまうだろう」とまで記した。当時台頭しつつあった京都の禅宗界では宗峰妙超が事実上のトップに立っており、疎石の入京は彼にとっては目障りなライバルの出現だった。そして後醍醐が疎石を招いたのも持明院統に禅宗界においても対抗するためだったのではないかと推測されている。10月10日に花園は宗峰の弟子・了源を疎石のもとにつかわして問答対決をさせているが、日記ではその結果について「詳細は記すことができない」と書いているので、どうやらかんばしくない結果に終わったようだ。
 
 疎石の京滞在もわずか一年だった。翌嘉暦元年(1327)にまたまた北条高時の強い要請を受けて鎌倉に戻ることになる。鎌倉では瑞泉院(のちの瑞泉寺)を開き、浄智寺や円覚寺の住職をつとめた。円覚寺の住職をつとめていた元徳2年(1330)2月25日に高時が疎石の二階堂の庵を突然訪れ、円覚寺にいた疎石がそれを聞いて大慌てで庵に駆けつけ、高時に茶を進めたという逸話が金沢貞顕の書状に記されている。
 夢窓は以前から二階堂道蘊とも親しく、道蘊の領地がある甲斐に恵林寺(現・山梨県甲州市)を開山した。このころ、足利一門の細川顕氏が恵林寺に立ち寄って夢窓に会って帰依しており(「梅松論」)、後に深い関係をもつ足利氏とのつながりが始まっている。激動の足音が西方から聞こえてくる元徳3年(元弘元、1331)2月には瑞泉院に戻るが、ここも道蘊が創建した寺だった。
 この寺に夢窓疎石は裏手の岩盤を大胆に掘りこんだ独特の庭園を設計、完成させている。これは今日でも再現されたものが見られ、夢窓の設計した庭園の実例が見られる貴重なものである。夢窓は奇石珍木を集めた華美な庭園を嫌い、自然をありのままに庭園に表現する禅宗庭園芸術の先駆けでもあった。なお、この寺には南北朝時代に製作された夢窓木像も残されている。

―権力者を渡り歩き―

 元弘3年(正慶2、1333)5月22日、鎌倉は新田義貞率いる倒幕軍の突入を受け、北条一門は東勝寺において集団自決した。疎石はさして離れていない瑞泉院からその修羅場を眺めていたものと思われる。
 早くもその翌月に後醍醐は瑞泉院に使者を派遣、夢窓疎石に上洛を求めた。7月に疎石は京にのぼって後醍醐に再会、10月には南禅寺の住職に復帰した。後醍醐の早世した皇子・世良親王を弔う臨川寺に入ってここに三会院を建立、後醍醐から「夢窓国師」号を贈られている。北条氏との結びつきが強かった疎石だが、後醍醐からも絶大な信頼を受けて建武政権においても影響力を保持することになった。幕府首脳であった二階堂道蘊が建武政権において助命され一時とはいえ政権に参画したのも、疎石のおかげではないかと考えられている。

 しかし建武政権の崩壊は早かった。建武元年(1334)の末には各地の反乱が相次ぐ中で道蘊が処刑され、翌年には中先代の乱が勃発、そのまま足利尊氏の反旗へとつながっていく。建武3年(延元元、1336)五月に湊川の戦いに勝利し京に入って完全に建武政権を打倒した尊氏は、ただちに夢窓疎石に帰依し、弟子の礼をとった。以後疎石は尊氏と濃厚な関係を持つことになるが、恐らく細川顕氏の件があったように、ずっと以前から尊氏とのつながりがあったのだろう。
 暦応2年(延元4、1339)正月には尊氏の招きにより京・西山の西方寺に入り、ここにあった庭園を改修して禅寺「西芳寺」として再興する。この前年には南朝側の有力な軍事勢力であった北畠顕家新田義貞も戦死し、尊氏は北朝から征夷大将軍に任命されて名実ともに幕府政治を発足させ、「南北朝動乱」は事実上けりがついたと見なされていた。それもあってであろう、疎石はこの数年の全国的戦乱の犠牲者を慰霊し、太平を祈るために全国に「安国寺利生塔」を建てることを尊氏・直義に提案して採用されている。

 その年の8月、後醍醐天皇が吉野で死去した。疎石は尊氏に後醍醐を慰霊する寺院の建立を提案、後醍醐に対して敬意を抱くと同時にその怨霊を恐れてもいた尊氏はすぐにこの話に乗り、10月に後醍醐ゆかりの亀山行宮跡に新寺院の建立に取り掛かった。当初年号をとって「暦応資聖禅寺」となる予定だったこの寺は「年号を寺の名につけることが認められるのは延暦寺のみ」とする比叡山の猛抗議にあって「天竜資聖禅寺(天竜寺)」と改称することになるが、それは京における禅宗(臨済宗)の本格的な台頭を象徴するものだった。夢窓疎石が開山となって創建したこの寺の建設費を捻出するために元への貿易船「天竜寺船」が派遣されたこともよく知られる。後醍醐天皇七回忌の貞和元年(興国6、1345)8月16日に疎石によって法会が行われ、29日の盛大な落慶法要により天竜寺は落成する。

 康永元年(興国3、1342)9月、土岐頼遠が道で行き合った光厳上皇の牛車に「院というか、犬というか」と矢を射かける事件が起こる。幕府にとって光厳の存在は幕府存立の根源であり、実質「最高君主」であったから、幕府の失政を預かる直義はこれを酒の上での冗談ではすまさず、極刑をもって臨んだ。慌てた頼遠はいったんは拠点の美濃に帰って挙兵しようともしたが、直義の対応があまりに早かったので、やむなくひそかに上京して臨川寺にいた夢窓に助命の斡旋を頼んでいる。夢窓はかつて美濃に滞在していたことがあり、そのときに土岐氏との関係があったからだと言われている。しかし夢窓もさすがに頼遠個人の命を助けることはできず、直義は頼遠は斬首にしたが、「夢窓国師のお口添えだから」と土岐氏そのものは罰さず、死罪になるところだった頼遠の弟・土岐周済は助命し、甥の頼康に相続させた。
 ただ世間は疎石が頼遠を助けてやらなかったことに批判もあったようで、「いしかりし ときは夢窓にくらはれて 周済ばかりぞ 皿に残れる」(おいしいものはみんな夢窓に食べられてしまい、皿に残っているのは周済(蕺草=どくだみと音が通じる)だけ、という意味。食事を意味する斎(とき)と「土岐」もかけられている)という狂歌が天竜寺の壁に描かれたという。もっともこの話は「太平記」にだけ載る話で、天台宗系の人間が書いたらしい「太平記」は疎石ら禅僧についてはもともと批判的であることに注意する必要がある。

 尊氏・直義兄弟は深く夢窓疎石に帰依し、とくに直義は疎石との禅問答集『夢中問答』を編纂し、刊行している(康永3=1344)。これは疎石が語る法話に直義が質問をぶつけてゆき、それに疎石が答えていくという内容で、夢窓および直義、さらにはこの時代の臨済宗の宗教思想のあり方を知る上で欠かせぬ史料となっている。
 尊氏との関係では「梅松論」に載る疎石の尊氏評が有名だ。「心が強く戦場でも恐怖の色を見せない」「天性の慈悲を持ち人を憎むことがない」「心が広く物惜しみをしない」という尊氏の美点三点を挙げたとされている。尊氏が時の権力者であり、それと密着した関係をもつ人間の発言だけに多少お世辞のきらいもあるが、北条高時、後醍醐天皇、そして尊氏と、立場を変えた「最高権力者」たちとかかわりを持ち続けた高僧の発言だけに一定の重みがある。

―仏教界最高の地位へ―

 貞和2年(正平元、1346)3月に疎石は天竜寺住持を無極志玄に譲り、天竜寺内の雲居庵に隠居した。この年11月に光明天皇から「正覚国師」の号を贈られている。
 貞和4年(正平3、1348)正月に高師直が四条畷の合戦楠木正行らの南朝軍を撃破、そのまま南朝の本拠・吉野へ突入し、これを焼き払っているが、このとき師直が夢窓疎石を仲介者として南朝と和睦交渉をしていることが洞院公賢の日記で確認できる。神も仏も恐れぬ師直であったが、さすがに疎石には一定の敬意を払い、帰依を示していたらしい。
 その翌年、足利幕府内における直義派と師直派の対立が激化、8月には高師直の軍がクーデターを起こして尊氏・直義を将軍邸に囲むという事件が起こる。この時も疎石が調停者として登場し、直義が義詮に政権を移譲させることで包囲を解かせている。ただこの事件は当時から尊氏と師直が仕組んだ芝居だったとの説があり、それが事実とすれば疎石もそれを承知で調停にあたったとみるべきかもしれない。

 その後の「観応の擾乱」の展開を疎石がどのように見ていたか、定かではない。ただ観応2年(正平6、1351)2月に師直が殺されて一時的に直義と尊氏が和解、南北両朝の和平交渉が進められるが、その仲介にも疎石が関わっていたことが分かっている。だがこの交渉も不調に終わり、この年の7月に尊氏・直義の和解は決裂、8月には直義が京を離れて北陸へ向かい、兄弟の戦いが再開されることになる。
 この混乱のなか8月15日に疎石は光厳上皇から「心宗国師」号を贈られている。すでに病を得て先が長くないと見られていたのかも知れない。翌16日に後醍醐天皇の十三回忌法要を病身をおして無事にやり遂げるが、その翌日から疎石は一切の薬を絶って死の時を待った。疎石の臨終に間に合おうと多くの人が疎石のもとへ押し掛け、8月24日に特別に受戒を行ったところ、なんと2500余名もの人が集ったという。9月1日から数日間は弟子たちに「疑問のある者は質問に来なさい」と呼び掛けて、その応対をしている。
 9月30日に三会院でついに死去した。享年77。その前日に遺偈(遺言の漢詩)を書き、「わしは手足が不自由になった。明日行かん」と予告していたという。遺言により三会院に埋葬され、遺髪や遺爪は雲居庵に葬られている。
 疎石の死は尊氏・直義を和解させうる人物がいなくなったことも意味していたかもしれない。その直後に尊氏は南朝と手を結んで直義を討つべく東国へ出陣していくのである。

 足利兄弟に関して心残りはあっただろうが、疎石は当時の仏教界ではもっとも成功をおさめ、満足な気分で生涯を閉じたのではなかろうか。その門下には甥の春屋妙葩義堂周信絶海中津といった名僧がずらりと揃い、幕府とも密着してこの時代の文化・政治・外交など各方面で活躍して行くことになる。疎石は直義との「夢中問答」をはじめ多くの書籍を著わしており、また文章や和歌、そして庭園芸術など文化活動でも多大な影響を残した。生前に三天皇から国師号を贈られただけでなく、死後も「普済国師」「玄猷国師」「仏統国師」「大円国師」と歴代天皇から国師号を追贈され、「七朝国師」として後々まで崇めたてまつられることになった。

 単に権力と密着したからだけではなかったのだろう。立場を超えて多くの人から尊崇を集めたことは疎石に高い教養と人間的魅力があったためだと思われる。後年、室町幕府の名管領となった細川頼之は若き日に父・頼春に連れられて晩年の疎石の法話を聞いた記憶をふりかえって、「国師の法話を聞いて、死も生も一つであると悟り、何事にあたっても恐れることがなくなった。父・頼春が忠義に死し、私も我が身を捨てて主君に仕えているのは、みな国師のお導きのおかげだ」とコメントしている。いつも死と隣り合わせのこの時代の武士たちにとってとくにマッチした名僧だったのかもしれない。

 20世紀には作曲家・武満徹が禅寺庭園の完成者のイメ無逸克勤ージからオーケストラ曲「夢窓」を作曲、日本の庭園文化をとりあげた「夢窓 庭との語らい」(1992)というアメリカのドキュメンタリー映画もある。

参考文献
錦昭江「動乱の時代を生きた文化人たち」(新人物往来社「北条高時のすべて」所収)
新井信子「夢窓疎石」(新人物往来社「足利尊氏のすべて」所収)
紀野一義「名僧列伝(一)」(講談社学術文庫)
渡辺良次郎「夢窓疎石」(「歴史と旅」臨時増刊「太平記の100人」所収)
稲生晃「土岐頼遠―出自と事跡」(新人物往来社「ばさら大名のすべて」所収)
林屋辰三郎「内乱のなかの貴族・南北朝と『園太暦』の世界」(角川選書)
小川信「細川頼之」(吉川弘文館・人物叢書)ほか
NHK大河ドラマ「太平記」第46回のみ「夢窓国師」として登場(演:田武謙三)。師直のクーデターにより失脚し、出家した直義のところに訪ねて来て、「悟りの妨げになると思うが」とひそかに預かってきた直冬からの手紙を直義に手渡す。「国師」と呼ばれる割にニコニコと親しみやすそうな普通のオジサン風の坊さんである(現存する夢窓の肖像画・木像もそんなかんじだが)
歴史小説では吉川英治「私本太平記」にちらりと登場するが、尊氏の若いころからの師となっていて、史実うんぬんよりも同じ作者の「宮本武蔵」における沢庵の役割を与えようとしているフシがある。
漫画作品では学習漫画系では尊氏が天竜寺を創建するくだりで皆勤状態。印象に残るものでは石ノ森章太郎の「萬画日本の歴史」があり、やはり天竜寺のくだりで登場するのだが後醍醐の怨霊を夢に見たと尊氏らに話して寺の創建を勧め、ちゃっかり「あのォ…ただし禅宗の寺に」と付け加える。

宗良親王
むねよし・しんのう1311(応長元)-1385(至徳2/元中2)?
親族父:後醍醐天皇 母:二条為子 同腹兄姉:尊良親王・瓊子内親王
官職中務卿・征夷大将軍
生 涯
 後醍醐天皇の皇子で南朝を代表する歌人として知られる。父の執念によって苦難の人生を歩み、南朝の「征夷大将軍」として各地を流浪した波乱の皇子である。

―温和な歌人皇子―


 『増鏡』によれば後醍醐の第三皇子、『太平記』は第二皇子とするが、生まれた順番からすると尊良・世良・護良の次の第四皇子となると考えられる。生母は二条為子で、後醍醐の長男・尊良親王を産んだ女性でもあり、歌人・二条為世の娘として彼女自身も優れた歌人でもあった。為子は宗良を産んだ直後に亡くなったと推測されるが、宗良は二条家の薫陶をよく受けたようで、南北朝時代を代表する歌人に成長していくことになる。
 初めから僧門に入ることが規定コースだったようで、幼いうちから妙法院に入って仏道に励み、尊澄法親王と呼ばれた(「宗良」となるのは還俗後のことだが、混乱しやすいので以下「宗良」で統一する)。正中2年(1325)2月に妙法院の門跡を十五歳の若さで継承している。同時期に異母兄弟の尊雲法親王(護良)も梶井門跡に入り、さらに比叡山のトップである「天台座主」となるのだが、これらは比叡山をはじめとする寺社勢力を自らの影響下に置こうとする後醍醐の画策だったと考えられている。
 元徳2年(1330)12月14日に宗良は護良から引き継ぐ形で比叡山の頂点「天台座主」となった。これももちろん後醍醐がひそかに進めていた倒幕計画の一環であり、翌元弘元年(1331)8月24日に後醍醐はついに討幕の挙兵行動を起こす。もっとも宗良はその直前の8月15日に「古今和歌集」の書写をしていることが確認されていて、彼自身はマイペースに和歌の道にいそしんでいた可能性もある。

 後醍醐が二人の皇子を連続して天台座主に据えたのは、比叡山延暦寺が単に天台宗の総本山(現在の総合大学に近い)であるだけでなく、比叡山という天然の要塞に多くの僧兵を抱える巨大な軍事組織であることに目を付けたものだった。幕府の打倒には必然的に軍事力が必要であり、それを比叡山に期待していたのだった。実際、後醍醐の挙兵が知られると比叡山は反幕府の勢いに沸き立って六波羅探題の軍勢と一戦を交えている。しかし当初比叡山に入ったと思われた後醍醐は奈良から笠置山に入っており、天皇の身代わりとして花山院師賢が比叡山に入っていた。これが暴露されると僧兵たちはたちまち戦意を喪失し敵にまわりそうな空気すら出てきたため、護良・宗良・師賢らは比叡山を脱出して笠置山の後醍醐一行に合流した。

 幕府軍との激戦の末、9月28日に笠置山は陥落した。後醍醐らは山を脱出して楠木正成のいる赤坂城へ向かおうとしたが、道に迷って山中をさまよっているところを幕府軍に捕らえられた。このとき宗良も父・後醍醐に同行しており、『増鏡』では宗良が後醍醐の手を引いていたことが語られている。
 10月8日に宗良は六波羅探題の長井高広のもとに預けられた。本人と確認するために延暦寺の執行・兼運僧都が宗良の様子を見に行って、その模様を人に語っている。それによると後醍醐や兄・尊良が堂々と開き直って言い逃れをするのに対して、宗良は同様の弁解をしつつも「しきりに涕泣」つまり激しく涙を流していたという。これを伝え聞いた持明院統の花園上皇は後醍醐の面の皮の厚さに呆れかえる一方で宗良に対しては「まことに気の毒なことだ。もともとこの人はそんなに出しゃばるような性格ではないと聞いている。今の様子もその噂と符合している」と日記に記して同情を寄せている。
 翌年3月に関係者の処分が決定され、後醍醐は隠岐へ、兄・尊良は土佐へ、そして宗良は讃岐へ配流となった。この間に宗良も兄と同様に数多くの和歌を残している。

―流浪の皇子―

 それから1年が過ぎ、元弘3年(正慶2、1333)5月に鎌倉幕府は滅亡した。翌月には宗良も京に帰還し、再び天台座主として比叡山に入った。建武政権期には宗良は天台座主として活発に活動し、自分が留守の間に作られた延暦寺中堂の十二神将像を改めて建て直してもいる(建武政権崩壊後にまた建て直される)
 建武政権の崩壊は早かった。延元元年(建武3、1336)正月には足利尊氏の反乱軍が京に突入、後醍醐らは宗良のいる比叡山に逃れて抵抗した。いったんは足利軍を九州まで敗走させたが、尊氏は半年後には京に舞い戻り、後醍醐は再び比叡山に立てこもっておよそ4ヶ月間足利軍と激しい戦いを繰り広げた。しかし10月に尊氏側から和議の提案があり、後醍醐は兵糧攻めにあっていたこともあってひとまずこれに応じて比叡山を降りた。しかし彼自身も巻き返しを企図していたのだろう。山を下りるにあたって恒良尊良新田義貞につけて北陸へ、懐良を九州へ、そして宗良には北畠親房と共に伊勢に向かわせ、各地の皇子たちによる京攻略の布陣を整えている。そして後醍醐自身もこの年12月に京を脱出して吉野に入り、「南朝」を開くことになるのである。

 延元2年(建武4、1337)春、伊勢に滞在していた宗良は還俗し(ここで初めて「宗良」と名乗る)、長い僧侶生活と縁を切った。それから時期は不明だが遠江の井伊谷(現・静岡県浜松市北区)の南朝方豪族・井伊氏を頼って、この地方に南朝勢力を育てようとしている。翌延元3年(建武5、1338)正月に奥州から義良親王を擁して京を目指す北畠顕家の大軍が東海道を通過すると、宗良はこれに合流して畿内に入った。伊勢から伊賀を抜けて奈良に入り、ここから京を目指したが、2月に高師直らの軍勢に般若坂で阻止された。さらに天王寺でも敗れたため宗良・義良両皇子は吉野に入り、後醍醐と再会した。このときのことらしい、母方のいとこの二条為定から「かへるさを はやいそがなむ 名にしおふ 山の桜は 心とむとも」(お帰りになるなら、急ぎなさい。有名な吉野山の桜は名残惜しいでしょうが)と「早く京に帰ってこい」という趣旨の和歌が届いたが、「故郷(ふるさと)は 恋しくとても みよしのの 花の盛りを いかがみすてむ」(故郷の都は恋しいが、花の盛りの吉野をどうして見捨てられようか)という返歌を送って断っている(「新葉和歌集」の詞書には「延元四年春」とあるが「三年」としたほうがつじつまが合う)

 この年の5月には顕家は和泉・石津で戦死してしまう。この年の閏7月には新田義貞も北陸で戦死してしまい、南朝方は相次いで有力な武将を失った。態勢の立て直しを迫られた南朝は、北畠親房・顕信・義良・宗良らを東国に送り、東海・関東・奥州に南朝勢力を扶養する戦略を立てた。9月に伊勢から彼らを乗せた船団が出発したが、天竜灘で嵐に遭い船団は散り散りとなり、義良は伊勢に戻され、親房は常陸へ、そして宗良だけはどうにか当初の予定地に近い遠江・白羽湊に流れ着いた。すぐに足利一門の遠江守護・今川範国の軍勢に攻められ、宗良親王みずから太刀をふるって奮戦しなければならなかったという。どうにか援軍にかけつけた井伊高顕に助けられて井伊谷に入っている。

 翌延元4年(暦応2、1339)8月16日、吉野で父・後醍醐が死去した。この悲報を井伊谷で知った宗良は「おくれじと 思ひし道も かひなきは この世の外の みよしのの山」(あとを追おうにも、父君はもはや吉野の山でこの世ならぬところへ行ってしまわれた)と悲しみを歌った。吉野では異母弟の義良が父の後を継いで即位する(後村上天皇)。この異変のなか宗良は「井伊城で忙しく吉野に参じることもできないので」と四条隆資あてに井伊谷の紅葉を一枚添えて「思ふには なお色あさき 紅葉かな そなたの山は いかがしぐくる」(思い出せば鮮明に紅葉が目に浮かぶ。そちらの山はどのような様子ですか)と送った。隆資の返歌は「この秋の 泪をそへて 時雨にし 山はいかなる 紅葉とかしる」(この秋は涙で目がかすんで山の紅葉がどのようであるかもわかりません)だった(以上、いずれも「新葉和歌集」)

 井伊城にも長くはいられなかった。仁木義長によって井伊城は攻め落とされ、宗良は駿河の南朝方・狩野貞長を頼った。ここには護良の子・興良親王が滞在していて、ここで叔父・甥の初対面を果たしている。その後「いささかはばかることがあって」ここを離れて信濃へ行くことになり、夜もすがら名残を惜しんで貞長と語り合った後、出発間際に住んでいた部屋の柱に「身をいかに するがの海の おきつ浪 よるべなしとて 立ちはなれなば」(この身をいかにしたものか、海に寄せ来る波のように私は身を寄せるところもなく立ち去らねばならない。「いかにするか=駿河」「おきつ=興津」が掛けられている)と歌を書き残した(新葉和歌集)

 自身でも歌ったように、宗良はその後漂泊を続ける。明確なことは分からないが、「北になし 南になして 今日いくか 富士の麓を めぐり来るらむ」という歌からすると駿河から富士山の脇を抜けて甲斐に、さらに信濃に入ったらしい。そこから興国2年(暦応4、1341)には越後国寺泊(現・新潟県長岡市)に行き、翌年三月には越中国名古の浦(現・富山県射水市)に入り、ここで二年を過ごしている。京に上る人に頼んでいとこの二条為定に和歌をここから送ってもいる。

―南朝の「征夷大将軍」―

 興国5年(康永3、1344)、宗良親王は信濃国大川原(現・長野県大鹿村)に入り、この地の南朝方・香坂高宗に保護されて、しばらくの間ここを拠点として南朝の勢力拡大につとめた。宗良は自身の歌集「李花集」のなかでこの地での暮らしを「信濃国大川原と申し侍りける深山の中に、心うつくしう庵一つ二つばかりしてすみ侍りける」とつづっており、それなりに心静かに風流に暮らしていたフシがある。もともと彼には山奥の静かな暮らしが性に合っていたのだろう。
 二条為定など京の歌仲間との連絡もマメにとっていたようで、このころ北朝で勅撰和歌集「風雅集」の編纂が進んでいることを耳にし、さらに二条為定が撰者になれなかったこと、そしてほかならぬ自分自身の歌が選考対象外だと知ってかなり憤慨し(北朝にとっては南朝や宗良は「反政府勢力」なんだから当然といえば当然なのだが)、その恨みを込めた歌「いかなれば 身はしもならぬ ことの葉の 埋もれてのみ 聞こえざるらむ」「此のたびは かきもらすとも もしほ草 中々わかの うらみとはせじ」(李花集)を詠んで為定に送っている。やはり彼としては二条流の歌人として強い自負があったのだろう。

 正平3年(貞和4、1348)正月、南朝の拠点・吉野は高師直の攻撃により炎上した。後村上天皇と南朝朝廷はさらに山奥の賀名生に逃れて抵抗を続けたが、これを聞きつけた宗良は大いに嘆き、後村上のもとに「たらちねの 守りをそふる み吉野の 山をばいづち 立ちはなるらむ」(父君の魂が守る吉野の山を捨ててどこへ行ってしまうのだ)と非難するような歌を送りつけている。これに対する後村上の返歌は「ふる郷と なりにし山は 出でぬれど 親の守りは猶もあるらむ」(故郷となった山は出てきたが、父君の魂はなおも私を守ってくれよう)」というものだった。

 ところがこの翌年、ジリ貧だった南朝に思わぬチャンスが転がり込んでくる。足利幕府における内戦「観応の擾乱」の勃発だった。まず足利直義が、続いて足利尊氏が相次いで南朝と手を組んで第三者を倒そうとし、これによって南朝は大いに息を吹き返してしまうのである。この混乱のなか、正平6年(観応2、1351)正月に京では「宗良親王が比叡山に入った」との不思議な噂が流れている(「観応二年日次記」)。真偽のほどは定かではないが、このときは直義が南朝と手を組んで京を制圧した時期でもあり、もしかすると南朝の戦略の一環で宗良が動いたのかも知れない。
 この年の10月、尊氏は関東にくだった直義一派を打倒するために北朝を見捨てて南朝を正統と認め、ここに「正平の一統」が成立する。尊氏はこの年末に駿河で直義と戦って勝利し、翌正平7年(観応3、1352)正月に投降した直義と共に鎌倉に入った。直義は2月に鎌倉で急死し、「観応の擾乱」はひとまずここに終結することになるが、このチャンスに南朝側は「正平の一統」を一方的に破棄、畿内と関東で同時の大攻勢をかける。

 閏2月6日、宗良は後村上から「征夷大将軍」に任命された。武家政治復活につながる「征夷大将軍」ポストは護良親王以来南朝ではタブーとされてきたが、関東制圧のために武士を糾合するにはこの称号がふさわしいと考えたのかも知れない。これには宗良当人も驚いたようで、「李花集」の詞書に「長い歳月地方に住んで、今となっては都での雅な生活も忘れてしまっただけでなく、ひたすら弓馬の道(合戦)ばかりしているありさま。征夷大将軍の任命を受けるとは我ながら不思議なものだ」と書いて「思ひきや 手もふれざりし 梓弓 おきふし我が身 なれぬものとは」(昔は手も触れなかった弓をいつも身につけるような立ち場になるとは思いもよらなかった)と歌を詠んでいる。
 閏2月15日、南朝の征夷大将軍・宗良の指示を受けて新田義宗新田義興脇屋義治北条時行といった南朝勢力は鎌倉を目指した。尊氏側は意表をつかれたのかあっさりと敗北・撤収し、18日に南朝軍は鎌倉を占拠した。同じころ、畿内では後村上が男山八幡まで進出して20日に楠木正儀らの南朝軍が京を占領した。宗良は後村上とも緊密に連絡をとっており、この南朝の東西同時作戦は京・鎌倉同時占領という最高の成功をおさめたかに見えた。

 武蔵・狩野川城に逃れた尊氏を始末するべく、鎌倉から新田軍が、信濃からは宗良が諏訪氏らを率いて碓氷峠まで進出、同時に奥州からは北畠顕信の軍が白河を越えて常陸まで迫っていた。しかし閏2月20日に行われた合戦は足利軍の勝利に終わり、さらに28日に宗良も参加した小手指原の戦い(現・埼玉県所沢市)も足利軍が勝利した。この戦いのとき、宗良は将兵の士気を上げるため「君のため 世のためなにか をしからむ すててかひある 命なりせば」(帝のため、世のために命を惜しまず戦うのだ!)という歌を詠んでいる(余談ながらこの歌は後年坂本龍馬が好んで口にした)。なお、この戦いは「北朝の征夷大将軍VS南朝の征夷大将軍」の一大決戦だったりするのだが、日本戦史上なぜかほとんど注目されていない。
 3月12日に尊氏は鎌倉を奪回。3月15日には京も足利義詮によって奪回された。南朝の起死回生というか一か八かの東西同時大作戦はいったん成功を収めたかに見えたが、東西同時にひと月ももたずに敗北してしまったのである。

―漂泊の中に消えゆく―

 関東制圧の夢に破れた宗良は信濃に戻り、さらに越後に二年ほど滞在し、その後はしばらく信濃の各地を転々としている。その間に宗良にとっては形式的には対等の宿敵であった北朝の征夷大将軍・足利尊氏が正平13年(延文3、1358)に波乱の生涯を閉じている。
 正平15年(延文5、1360)から、住吉の行宮にいた後村上から「信濃から攻めのぼれ」との催促が何度も来て、宗良が「いろいろと大変でして」と応じるやりとりが正平17年まで繰り返されている。このころは足利幕府内の権力闘争に敗れた守護大名が南朝に投じ、中には細川清氏のように一時とはいえ京を占領する展開もあったので、後村上としてはチャンスと思うところがあったのかもしれない。だがその後村上もついに京奪回の宿願を果たせぬまま、正平23年(応安元年、1368)にこの世を去る。

 建徳2年(応安4、1371)9月には当時九州に南朝王国を築いて後醍醐皇子の中で唯一気を吐いていた異母弟の懐良親王が宗良に和歌を送ってきている。この時期にはさしもの懐良も足利幕府の攻勢にさらされており、懐良の「しるやいかに よを秋風の吹くからに 露もとまらぬ わが心かな」(寂しく秋風が吹いてはかない立場にある私の心をおわかりでしょうか)という落ち込み気味な歌に対して、宗良は「草も木も なびくとぞ聞く このごろの よを秋風と 嘆かざらなむ」(草木もなびく勢いのあなたが、この世が秋風などと嘆いてはいけない)と叱咤するような返歌を送っている。だが懐良の予感は的中したようで、間もなく今川了俊の九州攻略により懐良の九州南朝王国も一気に衰退していくことになる。

 文中3年(応安7、1374)冬に、宗良は長く住みなれた信濃を離れ、実に36年ぶりに吉野の南朝皇居を訪れている。宗良もすでに64歳の老人だった。南朝は甥にあたる長慶天皇の時代になっており、かつて吉野にいた時に見知った顔もほとんど残っていなかった。「おなじくは 共にみし世の 人がみな 恋しさをだに かたりあわせむ」(同じ時代を生きた人々がみないなくなってしまい、彼らをしのんで昔話をするばかりだ)と宗良は嘆じる歌を詠んでいる。
 宗良の吉野滞在は本人の予想を超えて三年に及んだ。この時期の南朝は長慶天皇自身は強硬派ではあったが、そのために軍事の主力だった楠木正儀が北朝に離反し、もはや地方軍閥とすらいえない力しか持たなかった。それもあってか宗良は「文化の担い手」としての意義を南朝に求め、南朝歌壇を大いに盛り上げた。北朝に対抗する南朝の和歌集「新葉集」の編纂作業が宗良により始まるのもこのころで、また宗良自身の個人歌集「李花集」が編まれるのもこの時期だ。無逸克勤
 天授3年(永和2、1377)に宗良は吉野を去り、再び信濃へと向かった(いったん途中で引き返し、また行ったとの見解あり)。すでに67歳の高齢であるが、南朝の勢力挽回の執念はいささかも衰えていなかったのか。あるいはすでに信濃の庵で心静かに余生を送ろうと考えたのか。筆者としては後者を取りたい。信濃に向かう前に大和・長谷寺にたちより生涯二度目の出家をしているのがその根拠だ。信濃に下った宗良に長慶が「郭公(ほととぎす) そなたの空に かよふならば やよやまてとて ことづてましを」(ほととぎすよ、そちらの空まで飛べるのなら、思いとどまれと伝言してくれ)との歌を送ったのに対し、宗良が「今更に なきてもつぐな 時鳥(ほととぎす) われ世の中に そむく身なれば」(今さら伝言をしなくてもいいぞ、ほととぎすよ。私はこの世を捨てた身なのだから)という歌を返している(いずれも「新葉集」)というやりとりにもそれがうかがえる。主戦派の長慶とは気が合わなかった可能性もある。

 また「新葉集」には時期は不明ながら、宗良が吉野滞在中に信濃に残した息子が若くして(幼くして?)病死したことをうかがわせる歌が載る。「読み人知らず」とされている宗良の子が死の間際に「いかになほ 泪にそへて わけわびむ 親にさきだつ 道芝の露」(親に先立ってしまう私はさらにどれほど涙しながら露に濡れるあの世への道の草をかきわけていけばよいのでしょう。「先立つ不孝をわびる」の意をかける)と歌い、それを受けて宗良が「我こそは あらき風をも ふせぎしに 独りや苔の露 はらまはし」(これまでは私がお前を世間の風から守ってやったがあの世への道はお前ひとりで露をはらいながら進んでおくれ)と悲しみに満ちた歌で返した。この宗良の子はこの歌を見た翌朝に亡くなったという。宗良は「関白左大臣」(二条教頼と推定)から息子の死を悼む歌を贈られ、それへの返歌として「時雨より なほ定めなく ふるものは おくるる親の 泪なりけり」(秋のしぐれよりいつまでも流れ落ちるのは息子に先立たれた親の涙だ)という歌も残している。この息子の死が宗良の出家、信濃への帰還の動機になった可能性も高い。

 宗良は残りの人生を「新葉集」の編纂作業に集中したのではなかろうか。弘和元年(永徳元、1381)に完成、長慶天皇はこれを勅撰和歌集に準じるとの綸旨を出し、宗良はその序文の中で「思いがけず勅撰に準じるとの詔を受けて、老齢になってこのような幸運にめぐまれたことに、喜びの涙があふれて袂を濡らします」とその感激をつづっている。南朝とその関係者の和歌ばかりを集め、実質地方政権の私撰和歌集なのであるが、北朝の勅撰和歌集に対象外とされた恨みもあって、宗良にとってはかなりの感激だったのだろう。
 宗良、このとき数えで67歳。宗良の消息はこれ以後絶える。

 宗良はおそらく長らく根拠地にしていた信濃・大川原で亡くなったのだろうと推測されている。没年は不明だが、元中6年(康応元、1389)以前に亡くなったことが史料により確認できる。九州の懐良親王も弘和3年(1383)に亡くなっており、宗良は後醍醐の皇子のうち最後の生き残りとして70歳を超える長寿を保ったことになる。足利義満による南北朝合体(1392)はもう目前に迫っていた。

参考文献
森茂暁『皇子たちの南北朝』中公文庫
奥富敬之「宗良親王」(歴史と旅・臨時増刊「太平記の100人」所収)ほか
大河ドラマ「太平記」第10回、第12回に登場(演:八神徳幸)。後醍醐に退位を迫る幕府軍の動きを知って比叡山で護良と話し合っている場面で初登場、血が騒ぐ兄・護良に対して気弱そうな性格が史実どおり再現されていた(ただしどちらもわかりやすくするため俗体だった)。第12回では笠置山に尊良・護良や公家たちと並んで顔を見せているが、セリフはない。最終回では登場こそしないものの、一色右馬介のセリフで「信濃の宗良親王の兵が碓氷峠を越えた」と言及されている。
PCエンジンHu版
シナリオ2「南北朝の大乱」に南朝方武将として信濃・飯田城に登場する。能力は「長刀2」

村上信貞むらかみ・のぶさだ生没年不詳
親族父:村上信泰 兄弟:村上義光・村上国信 子:村上師貞・村上師国
官職河内守
生 涯
―足利に味方した信州惣大将軍―

 村上氏は平安時代以来信濃・更科地方に拠点をおいた豪族で、信濃では小笠原氏と並ぶ有力勢力だった。鎌倉末期には反北条の意識を強めていたようで、この村上信貞の兄・村上義光(日)護良親王の側近として忠節を尽くし、倒幕戦争で命を落としている。
 建武2年(1334)7月に北条時行が諏訪氏らに担ぎ出されて信濃で反乱を起こすと(中先代の乱)、信貞は小笠原貞宗と共に信濃国内の北条勢の鎮圧にあたって各地で転戦した。このころ新田義貞も一族の堀口貞政に信濃での北条残党討伐を行わせており、これが新田・足利対立の火種ともなった。信貞は一貫して足利方について新田方と戦っており、翌建武3年(1335)以降、足利尊氏から「信州惣大将軍」と称されていたことがわかる。「信州惣大将」はあくまで守護に任じない代わりの「形式的称号」か、あるいは小笠原氏と信濃を二分した分割守護体制をとったのかもしれない。
 尊氏が建武政権を打倒し、各地で後醍醐天皇方(南朝方)と戦うようになると、村上信貞も小笠原貞宗と共に足利軍の武将として各地を転戦した。とくに建武4年(延元2、1334)1月から義貞らが立てこもる越前・金ヶ崎城の攻略を高師泰らと共に指揮し、参戦した信濃の武士たちに戦功の確認をしていることが知られる。
大河ドラマ「太平記」ドラマ中に登場はしないが、第33回の中で信濃方面における足利・新田の紛争が語られる中で村上氏の名前が出てくる。
PCエンジンCD版なぜか美濃飛騨の土岐氏の家臣として登場している。初登場時のデータは統率34・戦闘35・忠誠61・婆沙羅58

村上義弘むらかみ・よしひろ生没年不詳
親族養子:村上師清?
位階
贈正五位(大正9年)
生 涯
―伝説で色付けされた村上水軍の将

 いわゆる「村上水軍」を率いて南北朝時代に活躍したとされる人物。瀬戸内海の村上水軍(海賊)の名はすでに平安時代から知られ、伊予の名族・河野氏を支えて活動していた。ただしその実態についてはその性格上不明な部分も多く、村上義弘も実在した可能性はあるものの限りなく「伝説的存在」となっている。
 伝承では義弘は伊予大島(能島)の生まれとされる。元弘3年(正慶2、1333)2月に長門探題の金沢時直が六波羅救援のために東上しようとした際に村上義弘が鞆の浦でこれを阻止、時直を伊予にまわらせて河野支族の土居・得能勢が「星ヶ岡の戦い」で時直を打ち破る展開につながったとする記事が関連書籍でしばしばみられるが、時直は初めから伊予平定のために出陣しており、「村上義弘」がそこに関与したという記録は後世の書物ばかりで同時代史料では全く確認されていない。
 またこの年の5月8日付の護良親王から「因島本主治部法橋幸賀館」にあてて出された令旨に、この人物が4月中に子息や郎党を戦死させながら奮戦した功績が記されており、その戦闘の日付から六波羅探題攻撃に参加したものと考えられているが、かつてこの人物が村上義弘と同一人物と断定され、義弘が早くから「宮方」で忠節を尽くした証拠とされ大正時代に贈位される大きな根拠ともされた。しかし当時から両者を同一人とみなすのは無理との批判もあり、今日ではほぼ完全否定されている。そもそもこの時点で河野氏は六波羅探題側で戦っていたので河野氏と結びつきが強い村上水軍が倒幕側で動くとは考えにくい。この令旨と村上義弘の関係が否定されると、実は現存する一次史料で「村上義弘」の実在を証明するものは一つも存在しないのである。

 正平20年(貞治4、1365)5月に河野一族は細川頼之の攻勢にさらされて滅亡寸前の瀬戸際にあった。河野氏の記録『予章記』によれば当主の河野通堯は僧を送って能島の今岡通任および「村上三郎左衛門義弘」に救援を求め、今岡と村上は相談して船団を派遣し、通堯を救出して能美島へと連れて行った。その後、通堯は九州に渡って南朝の懐良親王を頼り、その支援を受けて正平23年(応安元、1368)6月に伊予奪還のため渡海したが、この時も村上義弘と今岡通任が船団を提供して協力している。
 『予章記』もその内容の信憑性には注意が必要だが、比較的信頼できそうな史料で「村上義弘」の名が確認できるのはこの箇所だけである。しかも今岡より後回しにされる程度の扱いで、後年言われるような「海賊大将」というほどの活躍を見せてはいない。通堯の息子の河野通之の時代に「能島衆」として能島村上氏と思われる一団が史料中に確認できるが、あくまで河野氏の家臣筋の水軍という程度の扱いである。
 能島の高龍寺は村上義弘の菩提寺とされ墓と伝わるものも存在するが、その没年は全く不明である。また後世作成の系図類では義弘は北畠顕家の子・師清を養子(婿養子?)に迎えて跡を継がせたともされるが、これも後年の村上水軍が自身もの出自に箔をつけるために作り上げた伝説とみるべきであろう。

 総じて、「村上義弘」を瀬戸内海賊の総大将のように祭り上げるのは、戦国時代の村上水軍の存在感を過去に反映させた後世の創作、虚像とみなしたほうがよい。水泳法「能島流」の創始者とされてもいるのも同様であろう。
歴史小説では「村上水軍」が有名なこともあって、義弘を主役にした小説が複数存在する。村上睦郎「疾風と凪と―海賊大将・村上義弘」や森本繁「征西府秘帖―村上義弘と南海水軍王国」など。


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