夢窓疎石 | むそう・そせき | 1275(健治元)-1351(観応2/正平6)
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親族 | 父:佐々木朝綱? 母:北条政村の娘? 甥:春屋妙把 |
生 涯 |
鎌倉末期から南北朝時代にかけて活躍、立場を超えて当時の権力者たちほとんどから尊崇を受け、絶大な影響力をほこって臨済宗の黄金時代を築いた名僧。この時代の宗教界の主役といっていい。
―秀才タイプの名僧―
生まれは伊勢国。父は佐々木朝綱とされ、同時代の佐々木道誉と同族の可能性がある。母は「平政村の娘」とされるが、これが第7代執権の北条政村の娘ということなのかは確定できない。ただその後の夢窓が北条氏から絶大な支援を受ける背景に血縁があったからという推測をすることは可能かもしれない。
弘安元年(1278)に母方の一族に内紛があり、それを避けて甲斐国に移り住んだが、その年の八月に母が死去した。9歳の時に甲斐・平塩山寺に入って空阿大徳のもとで修業を始める。その後叔父の明真を頼って奈良に行き、正応5年(1292)に18歳で東大寺で受戒した。それから甲斐に戻って師・空阿の死を見届けることになるが、厳しい修行を積み博学でもあった空阿が死に臨んで苦悶するのを見て天台宗に疑問を感じ、夢の中で達磨に出会ったことをきっかけに禅宗に改宗したと伝えられる。
永仁2年(1294)に上洛して建仁寺に学び、ここで夢に「疎山・石頭山」を見たことから「夢窓疎石」と名乗り始める。翌年には鎌倉に赴き、東勝寺・建長寺・円覚寺で学び、また京・建仁寺に戻ったところに、正安元年(1299)に元皇帝からの使者として一山一寧が来日した。一山一寧は「蒙古の使者」として始めは鎌倉幕府の執権・北条貞時にスパイと疑われ幽閉されたが、当時貞時も帰依していた臨済宗の高僧ということもあって建長寺に招かれている。一山一寧の人柄にひかれた疎石は彼を追って鎌倉・建長寺に入り、その直弟子となった。当時一寧のもとには数多くの門弟が集まり、詩作の試験で上・中・下の三クラスに分けたところ、疎石はたった二人しかいない上クラスに食い込んだという。
なお、当時の臨在宗の世界では一寧のような中国僧が多数渡来して中核を担っており、中国語(江南方言)の習得が必須だった。こうした渡来禅僧たちは朱子学など当時の最新の中国思想、文芸を同時に持ち込み、当時の禅宗がかなり先端的かつ異国風味に満ちたものであったことを理解しておく必要がある。この時代の禅宗界では元への留学も盛んで、帰国して名をなした僧も多く(いつの時代にもあるように「箔づけ」のためだけに海外留学する連中もいたようであるが)疎石はその中で全く留学経験のない珍しい例とも言える。
だが疎石はなかなか満足が得られなかった。苦悩の余りそれまで書きとめていた法話や問答の冊子を全て焼き捨てたという話もある。一寧に直接疑問をぶつけてみたが、一寧は「我が宗派は語句で教えられるものではない。また人に教えられるものではない」と学問・語句にこだわりすぎる疎石に遠まわしに諭すだけだった。
正安2年(1300)に疎石は知人を頼って陸奥・松島に旅立つがその知人が亡くなっていたため帰路に就き、その途中で下野にいた高峰顕日(後嵯峨天皇の皇子)を訪ねようとしたが行き違いとなり、結局一寧のもとに戻ってきた。しかし疎石は一寧のもとには落ち着けず、嘉元元年(1303)に改めて高峰顕日のもとに学びに行った。ここでもその才能を発揮して名声を高め、しばらく陸奥・常陸で隠居生活を行った。そして嘉元3年(1305)5月のある日、坐禅を組み続けて眠気を催したので庵に入って眠ろうとした時に、壁があると思いこんで何もない所によりかかり、その勢いのまま地上に転げ落ちた。その瞬間に禅の境地に達し、大笑いして悟りを開いたという。
疎石は禅の奥義を極めたことを顕日から認められ、その印可を受けた。しかし彼の名声をねたむ兄弟弟子も多かったようで、それをきらって故郷の甲斐国に帰り、それから美濃国へと移り、俗世を離れて隠棲生活を行うようになる。この時期に疎石が歌った和歌に「世のうさに かへたる山の さびしさを とはぬぞ人の 情なりける」「かくせただ 道をば松の 落葉にて わが住家と 人に知らすな」の二首が知られる。いずれも俗世を離れて山奥で静かに暮らしたいという気持ちを詠んだものだが、その後の疎石が権力者と密接にかかわっていくこと、「隠棲」先が二階堂氏や土岐氏など一定の実力者の領地でその庇護を受けていたと推測されることから、実は将来の出世に向けての布石を打っている時期だったとの見方もある。
―あちこち呼ばれて東へ西へ―
文保元年(1317)に夢窓疎石は京に上り、北山に住み着く。のちのち関わりが深くなる後醍醐天皇が翌年に即位するのだが、これが偶然なのかどうか。
しかし疎石に熱烈なアピールをかけてきたのは鎌倉の方だった。執権・北条高時の生母である覚海円成が疎石に使者を送り、鎌倉に招いたのだ。疎石はこれを固辞し、逃げるように四国・土佐の吸江庵に隠棲した。覚海は再び使者を土佐に派遣し、「夢窓どのが来るというまでは帰ってくるな」と厳命、「夢窓を隠す者は厳罰に処す」との命令まで出して執拗に鎌倉に呼び寄せた。根負けした疎石は元応元年(1319)四月に鎌倉・勝栄寺に入ったが、幕府との直接的な関わりは避けたかったらしく、間もなく少し離れた三浦の泊船庵(現・横須賀市)に移住した。ここで歌人の冷泉為相をはじめとする鎌倉在住の文化人たちとも交流している。
元亨3年(1323)には上総国千町荘(現・いすみ市)の退耕庵に移り住んだ。ここの岩山にある金毛窟という洞窟にこもって座禅したと伝えられ、その入り口に彫られた「金毛窟」の三文字は夢窓疎石自らの書であるという。
正中2年(1325)に疎石のもとに「京・南禅寺の住職に」との要請が来た。招いたのはほかならぬ後醍醐天皇その人である。前年に「正中の変」を起こしたばかりの後醍醐は文観など真言・律宗への造詣が深かったとされるが、当時京においても新興勢力であった禅宗にも深い関心を寄せていて、当時すでに絶大な名声をとどろかせていた疎石を京に呼ぼうとしていた(冷泉為相の推薦ではないかとの推測がある)。疎石は渋ったが、後醍醐は執権・高時を仲介に再度要請してきた。天皇と執権の二大権力者のダブル要請では断ることもできず、疎石はこの年の夏に京に入り、南禅寺の住職となった。
10月2日に夢窓は内裏で後醍醐に説法を行っている。その様子を見ていたのが同じ禅宗の名僧で持明院統の花園上皇の側近であった宗峰妙超(赤松円心の甥との説あり)で、妙超はただちに花園にその模様を報告し「教義そのままで大したものではない」と激しく批判している。花園は「夢窓は関東(幕府)が帰依している僧だからそのような批判は隠せ」と指示し、自らの日記には「夢窓が宗門の長老になったら禅宗は滅びしまうだろう」とまで記した。当時台頭しつつあった京都の禅宗界では宗峰妙超が事実上のトップに立っており、疎石の入京は彼にとっては目障りなライバルの出現だった。そして後醍醐が疎石を招いたのも持明院統に禅宗界においても対抗するためだったのではないかと推測されている。10月10日に花園は宗峰の弟子・了源を疎石のもとにつかわして問答対決をさせているが、日記ではその結果について「詳細は記すことができない」と書いているので、どうやらかんばしくない結果に終わったようだ。
疎石の京滞在もわずか一年だった。翌嘉暦元年(1327)にまたまた北条高時の強い要請を受けて鎌倉に戻ることになる。鎌倉では瑞泉院(のちの瑞泉寺)を開き、浄智寺や円覚寺の住職をつとめた。円覚寺の住職をつとめていた元徳2年(1330)2月25日に高時が疎石の二階堂の庵を突然訪れ、円覚寺にいた疎石がそれを聞いて大慌てで庵に駆けつけ、高時に茶を進めたという逸話が金沢貞顕の書状に記されている。
夢窓は以前から二階堂道蘊とも親しく、道蘊の領地がある甲斐に恵林寺(現・山梨県甲州市)を開山した。このころ、足利一門の細川顕氏が恵林寺に立ち寄って夢窓に会って帰依しており(「梅松論」)、後に深い関係をもつ足利氏とのつながりが始まっている。激動の足音が西方から聞こえてくる元徳3年(元弘元、1331)2月には瑞泉院に戻るが、ここも道蘊が創建した寺だった。
この寺に夢窓疎石は裏手の岩盤を大胆に掘りこんだ独特の庭園を設計、完成させている。これは今日でも再現されたものが見られ、夢窓の設計した庭園の実例が見られる貴重なものである。夢窓は奇石珍木を集めた華美な庭園を嫌い、自然をありのままに庭園に表現する禅宗庭園芸術の先駆けでもあった。なお、この寺には南北朝時代に製作された夢窓木像も残されている。
―権力者を渡り歩き―
元弘3年(正慶2、1333)5月22日、鎌倉は新田義貞率いる倒幕軍の突入を受け、北条一門は東勝寺において集団自決した。疎石はさして離れていない瑞泉院からその修羅場を眺めていたものと思われる。
早くもその翌月に後醍醐は瑞泉院に使者を派遣、夢窓疎石に上洛を求めた。7月に疎石は京にのぼって後醍醐に再会、10月には南禅寺の住職に復帰した。後醍醐の早世した皇子・世良親王を弔う臨川寺に入ってここに三会院を建立、後醍醐から「夢窓国師」号を贈られている。北条氏との結びつきが強かった疎石だが、後醍醐からも絶大な信頼を受けて建武政権においても影響力を保持することになった。幕府首脳であった二階堂道蘊が建武政権において助命され一時とはいえ政権に参画したのも、疎石のおかげではないかと考えられている。
しかし建武政権の崩壊は早かった。建武元年(1334)の末には各地の反乱が相次ぐ中で道蘊が処刑され、翌年には中先代の乱が勃発、そのまま足利尊氏の反旗へとつながっていく。建武3年(延元元、1336)五月に湊川の戦いに勝利し京に入って完全に建武政権を打倒した尊氏は、ただちに夢窓疎石に帰依し、弟子の礼をとった。以後疎石は尊氏と濃厚な関係を持つことになるが、恐らく細川顕氏の件があったように、ずっと以前から尊氏とのつながりがあったのだろう。
暦応2年(延元4、1339)正月には尊氏の招きにより京・西山の西方寺に入り、ここにあった庭園を改修して禅寺「西芳寺」として再興する。この前年には南朝側の有力な軍事勢力であった北畠顕家・新田義貞も戦死し、尊氏は北朝から征夷大将軍に任命されて名実ともに幕府政治を発足させ、「南北朝動乱」は事実上けりがついたと見なされていた。それもあってであろう、疎石はこの数年の全国的戦乱の犠牲者を慰霊し、太平を祈るために全国に「安国寺利生塔」を建てることを尊氏・直義に提案して採用されている。
その年の8月、後醍醐天皇が吉野で死去した。疎石は尊氏に後醍醐を慰霊する寺院の建立を提案、後醍醐に対して敬意を抱くと同時にその怨霊を恐れてもいた尊氏はすぐにこの話に乗り、10月に後醍醐ゆかりの亀山行宮跡に新寺院の建立に取り掛かった。当初年号をとって「暦応資聖禅寺」となる予定だったこの寺は「年号を寺の名につけることが認められるのは延暦寺のみ」とする比叡山の猛抗議にあって「天竜資聖禅寺(天竜寺)」と改称することになるが、それは京における禅宗(臨済宗)の本格的な台頭を象徴するものだった。夢窓疎石が開山となって創建したこの寺の建設費を捻出するために元への貿易船「天竜寺船」が派遣されたこともよく知られる。後醍醐天皇七回忌の貞和元年(興国6、1345)8月16日に疎石によって法会が行われ、29日の盛大な落慶法要により天竜寺は落成する。
康永元年(興国3、1342)9月、土岐頼遠が道で行き合った光厳上皇の牛車に「院というか、犬というか」と矢を射かける事件が起こる。幕府にとって光厳の存在は幕府存立の根源であり、実質「最高君主」であったから、幕府の失政を預かる直義はこれを酒の上での冗談ではすまさず、極刑をもって臨んだ。慌てた頼遠はいったんは拠点の美濃に帰って挙兵しようともしたが、直義の対応があまりに早かったので、やむなくひそかに上京して臨川寺にいた夢窓に助命の斡旋を頼んでいる。夢窓はかつて美濃に滞在していたことがあり、そのときに土岐氏との関係があったからだと言われている。しかし夢窓もさすがに頼遠個人の命を助けることはできず、直義は頼遠は斬首にしたが、「夢窓国師のお口添えだから」と土岐氏そのものは罰さず、死罪になるところだった頼遠の弟・土岐周済は助命し、甥の頼康に相続させた。
ただ世間は疎石が頼遠を助けてやらなかったことに批判もあったようで、「いしかりし ときは夢窓にくらはれて 周済ばかりぞ 皿に残れる」(おいしいものはみんな夢窓に食べられてしまい、皿に残っているのは周済(蕺草=どくだみと音が通じる)だけ、という意味。食事を意味する斎(とき)と「土岐」もかけられている)という狂歌が天竜寺の壁に描かれたという。もっともこの話は「太平記」にだけ載る話で、天台宗系の人間が書いたらしい「太平記」は疎石ら禅僧についてはもともと批判的であることに注意する必要がある。
尊氏・直義兄弟は深く夢窓疎石に帰依し、とくに直義は疎石との禅問答集『夢中問答』を編纂し、刊行している(康永3=1344)。これは疎石が語る法話に直義が質問をぶつけてゆき、それに疎石が答えていくという内容で、夢窓および直義、さらにはこの時代の臨済宗の宗教思想のあり方を知る上で欠かせぬ史料となっている。
尊氏との関係では「梅松論」に載る疎石の尊氏評が有名だ。「心が強く戦場でも恐怖の色を見せない」「天性の慈悲を持ち人を憎むことがない」「心が広く物惜しみをしない」という尊氏の美点三点を挙げたとされている。尊氏が時の権力者であり、それと密着した関係をもつ人間の発言だけに多少お世辞のきらいもあるが、北条高時、後醍醐天皇、そして尊氏と、立場を変えた「最高権力者」たちとかかわりを持ち続けた高僧の発言だけに一定の重みがある。
―仏教界最高の地位へ―
貞和2年(正平元、1346)3月に疎石は天竜寺住持を無極志玄に譲り、天竜寺内の雲居庵に隠居した。この年11月に光明天皇から「正覚国師」の号を贈られている。
貞和4年(正平3、1348)正月に高師直が四条畷の合戦で楠木正行らの南朝軍を撃破、そのまま南朝の本拠・吉野へ突入し、これを焼き払っているが、このとき師直が夢窓疎石を仲介者として南朝と和睦交渉をしていることが洞院公賢の日記で確認できる。神も仏も恐れぬ師直であったが、さすがに疎石には一定の敬意を払い、帰依を示していたらしい。
その翌年、足利幕府内における直義派と師直派の対立が激化、8月には高師直の軍がクーデターを起こして尊氏・直義を将軍邸に囲むという事件が起こる。この時も疎石が調停者として登場し、直義が義詮に政権を移譲させることで包囲を解かせている。ただこの事件は当時から尊氏と師直が仕組んだ芝居だったとの説があり、それが事実とすれば疎石もそれを承知で調停にあたったとみるべきかもしれない。
その後の「観応の擾乱」の展開を疎石がどのように見ていたか、定かではない。ただ観応2年(正平6、1351)2月に師直が殺されて一時的に直義と尊氏が和解、南北両朝の和平交渉が進められるが、その仲介にも疎石が関わっていたことが分かっている。だがこの交渉も不調に終わり、この年の7月に尊氏・直義の和解は決裂、8月には直義が京を離れて北陸へ向かい、兄弟の戦いが再開されることになる。
この混乱のなか8月15日に疎石は光厳上皇から「心宗国師」号を贈られている。すでに病を得て先が長くないと見られていたのかも知れない。翌16日に後醍醐天皇の十三回忌法要を病身をおして無事にやり遂げるが、その翌日から疎石は一切の薬を絶って死の時を待った。疎石の臨終に間に合おうと多くの人が疎石のもとへ押し掛け、8月24日に特別に受戒を行ったところ、なんと2500余名もの人が集ったという。9月1日から数日間は弟子たちに「疑問のある者は質問に来なさい」と呼び掛けて、その応対をしている。
9月30日に三会院でついに死去した。享年77。その前日に遺偈(遺言の漢詩)を書き、「わしは手足が不自由になった。明日行かん」と予告していたという。遺言により三会院に埋葬され、遺髪や遺爪は雲居庵に葬られている。
疎石の死は尊氏・直義を和解させうる人物がいなくなったことも意味していたかもしれない。その直後に尊氏は南朝と手を結んで直義を討つべく東国へ出陣していくのである。
足利兄弟に関して心残りはあっただろうが、疎石は当時の仏教界ではもっとも成功をおさめ、満足な気分で生涯を閉じたのではなかろうか。その門下には甥の春屋妙葩、義堂周信、絶海中津といった名僧がずらりと揃い、幕府とも密着してこの時代の文化・政治・外交など各方面で活躍して行くことになる。疎石は直義との「夢中問答」をはじめ多くの書籍を著わしており、また文章や和歌、そして庭園芸術など文化活動でも多大な影響を残した。生前に三天皇から国師号を贈られただけでなく、死後も「普済国師」「玄猷国師」「仏統国師」「大円国師」と歴代天皇から国師号を追贈され、「七朝国師」として後々まで崇めたてまつられることになった。
単に権力と密着したからだけではなかったのだろう。立場を超えて多くの人から尊崇を集めたことは疎石に高い教養と人間的魅力があったためだと思われる。後年、室町幕府の名管領となった細川頼之は若き日に父・頼春に連れられて晩年の疎石の法話を聞いた記憶をふりかえって、「国師の法話を聞いて、死も生も一つであると悟り、何事にあたっても恐れることがなくなった。父・頼春が忠義に死し、私も我が身を捨てて主君に仕えているのは、みな国師のお導きのおかげだ」とコメントしている。いつも死と隣り合わせのこの時代の武士たちにとってとくにマッチした名僧だったのかもしれない。
20世紀には作曲家・武満徹が禅寺庭園の完成者のイメ無逸克勤ージからオーケストラ曲「夢窓」を作曲、日本の庭園文化をとりあげた「夢窓 庭との語らい」(1992)というアメリカのドキュメンタリー映画もある。
参考文献
錦昭江「動乱の時代を生きた文化人たち」(新人物往来社「北条高時のすべて」所収)
新井信子「夢窓疎石」(新人物往来社「足利尊氏のすべて」所収)
紀野一義「名僧列伝(一)」(講談社学術文庫)
渡辺良次郎「夢窓疎石」(「歴史と旅」臨時増刊「太平記の100人」所収)
稲生晃「土岐頼遠―出自と事跡」(新人物往来社「ばさら大名のすべて」所収)
林屋辰三郎「内乱のなかの貴族・南北朝と『園太暦』の世界」(角川選書)
小川信「細川頼之」(吉川弘文館・人物叢書)ほか
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NHK大河ドラマ「太平記」 | 第46回のみ「夢窓国師」として登場(演:田武謙三)。師直のクーデターにより失脚し、出家した直義のところに訪ねて来て、「悟りの妨げになると思うが」とひそかに預かってきた直冬からの手紙を直義に手渡す。「国師」と呼ばれる割にニコニコと親しみやすそうな普通のオジサン風の坊さんである(現存する夢窓の肖像画・木像もそんなかんじだが)。 |
歴史小説では | 吉川英治「私本太平記」にちらりと登場するが、尊氏の若いころからの師となっていて、史実うんぬんよりも同じ作者の「宮本武蔵」における沢庵の役割を与えようとしているフシがある。 |
漫画作品では | 学習漫画系では尊氏が天竜寺を創建するくだりで皆勤状態。印象に残るものでは石ノ森章太郎の「萬画日本の歴史」があり、やはり天竜寺のくだりで登場するのだが後醍醐の怨霊を夢に見たと尊氏らに話して寺の創建を勧め、ちゃっかり「あのォ…ただし禅宗の寺に」と付け加える。 |