―義満遣明使節の正使―
足利義満が明に派遣した使節の正使となった人物だが、詳細はまったく不明。「祖阿」という名から、これは「祖阿弥」を短く言ったもので(例えば世阿弥が「世阿」と書かれることがある)、義満のそばに仕える僧侶「同朋衆」の一人とする見解が有力で、義満の第三回遣明使節には他にも「金阿弥」という、やはり同朋衆と思われる人物の名が見られる。明使の来日の様子を記した『宋朝僧返牒記』という史料では祖阿について「通事」という表現を使っているため、中国語に通じた人物であった可能性が高い。
一方で義満のそばにいて外交ブレーンであったと思われる外国人「天竺聖」その人であるとする説(林屋辰三郎)もある。
応永8年(1401)、博多商人の肥富が義満に明との貿易の利を説き、義満は祖阿を正使、肥富を副使として5月13日に明へと派遣した。使節は8月に明の首都・南京に入り、建文帝に「准三后源道義」からの表文を提出した。これに対し建文帝は「道義」を「日本国王」に冊封し、大統暦を持たせて禅僧・天倫道彛と一庵一如を日本への冊封使として派遣した。祖阿は彼らを連れて翌応永9年(1402)に帰国、8月3日に兵庫に入港し、9月5日に北山第で明使を迎え入れる儀式が行われた際には「通事」として参加している。ここに義満は明から「日本国王」と認定され、朝貢貿易が開始されることになる。祖阿は以後は遣明使に関わることがなく、消息は不明である。
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