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ていむしゅう〜てんじくひじり

鄭夢周てい・むしゅう(チョン・モンジュ)1337(建武4/延元2)-1392(明徳3)
親族父:鄭雲瑾 子:鄭宗誠・鄭宗本・鄭宗和
生 涯
―日本にも明にも赴いた悲劇の儒者―

 高麗末期の儒者。1337年に生まれ、下級武官の家の出身ながら学問で身を立てようと朱子学を学び、恭愍王9年(1360)に科挙に首席で合格、官僚としての道を歩む。
 1364年には従軍して北方の女真族の平定にあたり、ここで軍人の李成桂(のちの朝鮮太祖)と知り合い、交流を結んでいる。同年に母が死去すると、当時はあまり厳格には行われていなかった服喪期間を守り三年墓を守ったので王から表彰もされた。成均館博士となって儒教の講義を担当、「朱子集注」を使って当時高麗に入って来たばかりの性理学の解説を行い、後年朝鮮時代の朱子学に大きな影響を残すことになる。
 1368年に中国で洪武帝(朱元璋)により明が建国されると、それまで元に服属していた高麗は対応をめぐって意見が分かれたが、鄭夢周は早くから一貫して明に接近することを主張している。1372年に高麗から明へ使節が派遣された際に鄭夢周もその一員として明に赴いたが、帰国時に船が遭・漂流し、九死に一生を得る体験もしている。このとき洪武帝からの勅書をふところにしまって水に濡らさなかったことに洪武帝が感嘆し、船を仕立てて鄭夢周を帰国させたという逸話もある。
 1374年に恭愍王が殺され、李仁任禑王を立てた。さらに李仁任は明の使者を殺害、元との接近を図る姿勢を見せたため、鄭夢周は親明派としてこれに反対した。このため鄭夢周は1376年に蔚山彦陽へと流刑になったが、儒学仲間の鄭道伝の口添えで許され、朝廷に復帰した。

 1377年、折からの倭寇の襲撃が高麗を揺るがす問題となっており、その解決を求めるために日本に使者を派遣することとなり、鄭夢周がその使者に選ばれた。鄭夢周の儒者・文人としての名声はすでに日本にも聞こえていたらしく、彼が博多に到着すると多くの人が面会を求めて訪れ、中でも九州探題・今川了俊は肥後での南朝方との戦闘中にも関わらず博多へと駆けつけて面会している。鄭夢周は了俊の歓待に「人情なおたのむべし」と感激し、お互いの国の酒を贈り合って歓談したが、このとき鄭夢周が持ち込んだ高麗の蒸留酒(今日でいう焼酎)について、了俊はその味と製法を詳細に記録している。確認される限り、これが日本で最初の蒸留酒、焼酎を飲む体験ということになる。
 鄭夢周の要請に応じて了俊は倭寇に連れ去られた高麗人を送還したほか、倭寇討伐のために信弘に兵を率いて高麗へ向かわせている。そして1378年7月の鄭夢周の帰国の際には、明人と思われる周孟仁という人物を日本からの使者として同行させた。1380年には鄭夢周自身も李成桂と共に雲峰で倭寇討伐戦に参加、大勝を挙げている。

 禑王9年(1383)には明の大軍が高麗国境に迫り、元との二重外交を続けようとする高麗を威嚇した。翌年に鄭夢周が使者として明に赴き、南京で洪武帝(朱元璋)に謁見して交渉の末にひとまず和解に持ち込んでいる。その後も明に使者として赴いて朝貢負担の減免などを勝ち取っており、外交官としてもかなり優秀な人物だったといっていい。
 禑王14年(1388)、親元派の政権により明への出兵が決定し、倭寇との戦いで活躍した将軍・李成桂が派遣された。だが李成桂は「威化島回軍」を行い、兵を率いて都に戻ってクーデターを起こし禑王を廃した。李成桂は昌王、さらには恭譲王と次々と王を取り換えて実権を握ってゆくが、鄭夢周はこの時点までは李成桂の行動を国政改革のためとして積極的に支持している。

 しかし鄭夢周は李成桂を新たな国王としようとする「易姓革命」の動きにはあくまで反対した。かねてから鄭夢周の才能と徳望を買っていた李成桂はあの手この手で彼を自派に抱き込もうとするが鄭夢周は拒絶した。李成桂の第五子・李芳遠(後の太宗)は鄭夢周を危険視し、1392年4月26日に鄭夢周を李成桂の屋敷へ病気見舞いに招いておいて、その帰り道の善竹橋で部下の趙英珪に殺させてしまった。鄭夢周の首は「逆賊」として市にさらされたが、李成桂は鄭夢周の人物を惜しんで李芳遠の行動を叱責したとの逸話も伝えられている。間もなく李成桂は恭譲王から王位を奪い、「朝鮮」王朝を開始することになる。
 李芳遠(太宗)は王位を継ぐと、自らが暗殺させた鄭夢周についてその忠義を称えて名誉回復を行い、「文忠」の謚号を贈っている。続く世宗も鄭夢周の弟子の教えを受けてその聖人化を進めた。朝鮮王朝の仏教排斥と朱子学国教化の流れの中で鄭夢周はその元祖として評価され、「朝鮮性理学の祖」と称えられることとなった。
映像作品など高麗末期を描いたTVドラマならほぼ確実に登場している。1983年の「開国」ではソン=ジェホ、1996年の「龍の涙」ではチョン=スンヒョンなどが鄭夢周を演じている。来日して了俊と会うくだりが映像化されてるかどうかは未確認だが、意外に主役になったことはどうもまだないらしいので実現はしていないと思われる。

廷用文珪ていよう・もんけい生没年不詳
生 涯
―義満?から送られた使僧―

 臨済宗の僧で、明への正使として派遣された人物。明側では「圭庭用」「圭廷用」「帰廷用」などと表現されている。
 遠江国高園の出身で、大林善育に師事し、貞治3年(正平19、1364)に京都の宝福寺に入って寺の復興に努めた。応安3年(建徳元、1370)に後光厳天皇から土地と寺の額を与えられて「転法輪蔵寺」の創建に取り掛かり、自ら指揮して完成にこぎつけている。そしてこの寺に大蔵経を納めるために高麗との交渉も行っている。

 永和2年(天授2、1376)=洪武9年2月、廷用文珪は明へと派遣された。明の「太祖実録」では彼を「沙門・圭庭用」と記し、派遣した主体を「日本国王良懐」とする。「良懐」は懐良親王のことだがこの時期の懐良は九州で敗退を重ねて明への使者派遣どころではなかったとみられ、実際には二年前に遣明使を送ったものの「表(皇帝への正式な国書)がない」という理由で退けられた足利義満が派遣したものとみられている(廷用が皇室と関わることから後円融天皇が送ったとする説もあるが、派遣するだけの実力は義満にあったはず)。「良懐」の名前を使ったのはそうしないと明側に受け入れられなかったため偽称した、あるいは明側で事務的にそう処理したものと見られ、実際このあとも懐良が関与したとは思えない「良懐」からの使者が何度か来明している。

 4月に南京に到着した廷用らの使節は表を提出し、馬などの貢物を差し出した。洪武帝はその表の文言が誠意に欠けるとなじったが基本的には遠来をねぎらってもてなし、文綺などを与えた。明滞在中に廷用は人を通して、すでに文人として名高かった宋濂に転法輪蔵寺の「寺記」を書いてくれるよう依頼している。宋濂がそれに応じて作成したのが『日本瑞竜山重建転法輪蔵禅寺記』である。

 なお、洪武13年(1380)に明では丞相の胡惟庸らが粛清された(胡惟庸の獄)。さらに洪武19年(1986)に洪武帝は胡惟庸が日本に援軍を求めて送った共謀者として林賢を逮捕、処刑したが、その時「林賢は日本使節の圭廷用の船を襲撃して倭寇の仕業に見せかけた」との罪状を挙げている(林賢事件)。しかし廷用らの船が襲われたとの事実はなく、日本と絡ませて林賢を罪に陥れるための捏造であったのは確実である。洪武帝はその後半生に功臣の大量粛清を行っており、これもその一環だったと見られる。ともあれ、この林賢事件を受けて洪武帝は日本との国交を断絶する。その復活は洪武帝死後のことであった。

天竺聖てんじくひじり生没年不詳
親族子:楠葉西忍・民部卿入道
生 涯
―貿易・金融で富豪となった謎の外国人―

 足利義満に仕えたことが分かっている謎の外国人。「天竺」は本来インドのことだが、当時の日本人にとっては日本と中国以外の南方・西方は漠然と「天竺」と認識されるため(後年のザビエルすら「天竺人」扱いされた)、インド人とは限らない。息子の楠葉西忍が幼名を「ムスル」といったとする話が残っており、その響きからアラビア商人、もしくは東南アジアのイスラム教徒といった説も挙げられてきているが、決定打になるものはない。一方で「ヒジリ」と呼ばれて寺院に住んでいた時期もあることから仏教徒の可能性も考えられる。

 『大乗院日記目録』応安7年(文中3、1374)12月17日条に「天竺人が相国寺に来た。名を聖という。将軍(義満)が常に呼び出してそばに置いていた」とあり、「楠葉西忍の父なり」との注がつく。『大乗院寺社雑事記』ではずっと後の時期に書かれた記事だがさらに詳しい情報があり、天竺聖が北山大将軍(義満)の時に相国寺にやって来て、ここで初めて義満に会い、後に義満の北山第に招かれてそばに置かれたことや、絶海中津の推薦を受けて毎月「御恩」(給料)をうけとっていたことなどが知られる。
 義満の周囲には魏天陳外郎(宗寿)といった外国人が多く、義満の海外への関心の高さを示している。「天竺聖」も恐らく同様の事情で海外情報を知るために義満がブレーンとして招いた可能性がある。

 また「天竺聖」は三条坊門烏丸に在住し、「有徳の者(財産家)」であった、との記事もある。明人の魏天についても財産家だったとの記録があるので、同じように交易業に関わっていたのでは、との見解もある。さらに「天竺聖」が「唐人倉」とも呼ばれていた事実から、「倉」とは「土倉」のことで、金融業を営んでいた可能性も指摘されている。
 天竺聖は河内国・楠葉の女性を妻に迎え、応永2年(1395)に息子のムスル(俗名を天次、のちの西忍)をもうけている。西忍の名字が「楠葉」なのは母の出身地にちなむということだが、初めのうちは父を継いで「天竺」を名字としていたという。天竺聖と西忍は共に義満の側近として仕えたが、大和の大乗院の記録にこの二人が「親子そろって門跡(大乗院)の奉公衆」と書かれているので大乗院と深く関わりを持っていた形跡がある。天竺聖にはもう一人「民部卿入道」と伝えられる息子がおり、こちらも後年、大乗院の越前の荘園の管理を任されていたことが分かっている。

 義満が死ぬと、後継者の足利義持は父の側近であった天竺聖父子を好まなかったらしく、少なくとも西忍は一色氏に預けられ軟禁状態に置かれたことが分かっている。あるいは父の天竺聖も同じ目にあったかもしれない。義持時代のいずれかの時期に天竺聖は死去し、その後に西忍は軟禁を解かれている(「天竺」から「楠葉」に名字を変えたのもそうした事情のためだろう)。楠葉西忍はその後、永享4年(1432)と享徳2年(1453)の二度、遣明船で明に渡るなど、貿易家として活動している。

参考文献
田中健夫「遣明船貿易家楠葉西忍とその一族」(東京大学出版会「中世海外交渉史の研究」所収)


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