―日本にも明にも赴いた悲劇の儒者―
高麗末期の儒者。1337年に生まれ、下級武官の家の出身ながら学問で身を立てようと朱子学を学び、恭愍王9年(1360)に科挙に首席で合格、官僚としての道を歩む。
1364年には従軍して北方の女真族の平定にあたり、ここで軍人の李成桂(のちの朝鮮太祖)と知り合い、交流を結んでいる。同年に母が死去すると、当時はあまり厳格には行われていなかった服喪期間を守り三年墓を守ったので王から表彰もされた。成均館博士となって儒教の講義を担当、「朱子集注」を使って当時高麗に入って来たばかりの性理学の解説を行い、後年朝鮮時代の朱子学に大きな影響を残すことになる。
1368年に中国で洪武帝(朱元璋)により明が建国されると、それまで元に服属していた高麗は対応をめぐって意見が分かれたが、鄭夢周は早くから一貫して明に接近することを主張している。1372年に高麗から明へ使節が派遣された際に鄭夢周もその一員として明に赴いたが、帰国時に船が遭・漂流し、九死に一生を得る体験もしている。このとき洪武帝からの勅書をふところにしまって水に濡らさなかったことに洪武帝が感嘆し、船を仕立てて鄭夢周を帰国させたという逸話もある。
1374年に恭愍王が殺され、李仁任が禑王を立てた。さらに李仁任は明の使者を殺害、元との接近を図る姿勢を見せたため、鄭夢周は親明派としてこれに反対した。このため鄭夢周は1376年に蔚山彦陽へと流刑になったが、儒学仲間の鄭道伝の口添えで許され、朝廷に復帰した。
1377年、折からの倭寇の襲撃が高麗を揺るがす問題となっており、その解決を求めるために日本に使者を派遣することとなり、鄭夢周がその使者に選ばれた。鄭夢周の儒者・文人としての名声はすでに日本にも聞こえていたらしく、彼が博多に到着すると多くの人が面会を求めて訪れ、中でも九州探題・今川了俊は肥後での南朝方との戦闘中にも関わらず博多へと駆けつけて面会している。鄭夢周は了俊の歓待に「人情なおたのむべし」と感激し、お互いの国の酒を贈り合って歓談したが、このとき鄭夢周が持ち込んだ高麗の蒸留酒(今日でいう焼酎)について、了俊はその味と製法を詳細に記録している。確認される限り、これが日本で最初の蒸留酒、焼酎を飲む体験ということになる。
鄭夢周の要請に応じて了俊は倭寇に連れ去られた高麗人を送還したほか、倭寇討伐のために信弘に兵を率いて高麗へ向かわせている。そして1378年7月の鄭夢周の帰国の際には、明人と思われる周孟仁という人物を日本からの使者として同行させた。1380年には鄭夢周自身も李成桂と共に雲峰で倭寇討伐戦に参加、大勝を挙げている。
禑王9年(1383)には明の大軍が高麗国境に迫り、元との二重外交を続けようとする高麗を威嚇した。翌年に鄭夢周が使者として明に赴き、南京で洪武帝(朱元璋)に謁見して交渉の末にひとまず和解に持ち込んでいる。その後も明に使者として赴いて朝貢負担の減免などを勝ち取っており、外交官としてもかなり優秀な人物だったといっていい。
禑王14年(1388)、親元派の政権により明への出兵が決定し、倭寇との戦いで活躍した将軍・李成桂が派遣された。だが李成桂は「威化島回軍」を行い、兵を率いて都に戻ってクーデターを起こし禑王を廃した。李成桂は昌王、さらには恭譲王と次々と王を取り換えて実権を握ってゆくが、鄭夢周はこの時点までは李成桂の行動を国政改革のためとして積極的に支持している。
しかし鄭夢周は李成桂を新たな国王としようとする「易姓革命」の動きにはあくまで反対した。かねてから鄭夢周の才能と徳望を買っていた李成桂はあの手この手で彼を自派に抱き込もうとするが鄭夢周は拒絶した。李成桂の第五子・李芳遠(後の太宗)は鄭夢周を危険視し、1392年4月26日に鄭夢周を李成桂の屋敷へ病気見舞いに招いておいて、その帰り道の善竹橋で部下の趙英珪に殺させてしまった。鄭夢周の首は「逆賊」として市にさらされたが、李成桂は鄭夢周の人物を惜しんで李芳遠の行動を叱責したとの逸話も伝えられている。間もなく李成桂は恭譲王から王位を奪い、「朝鮮」王朝を開始することになる。
李芳遠(太宗)は王位を継ぐと、自らが暗殺させた鄭夢周についてその忠義を称えて名誉回復を行い、「文忠」の謚号を贈っている。続く世宗も鄭夢周の弟子の教えを受けてその聖人化を進めた。朝鮮王朝の仏教排斥と朱子学国教化の流れの中で鄭夢周はその元祖として評価され、「朝鮮性理学の祖」と称えられることとなった。
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