第一回
「乱世の子」
 

◆アヴァン・タイトル◆

 貞治6年(1367)11月25日。征夷大将軍・ 足利義詮はおりからの病が悪化し重体に陥っていた。重苦しい空気の幕府に、一人の細身の中年男が緊張した面もちで駆けつけてくる。四国の大名・ 細川頼之(39歳)である。
 頼之が義詮の寝所にやってくると、その部屋の外に一人の少年が控えて待ち受けていた。頼之はその少年の前にひれ伏し、挨拶をする。この少年こそ義詮の一子・ 春王(10歳)。のちの足利義満 である。
 部屋の中から医師の呼び出しがかかり、頼之は寝所へと入り、息も荒い義詮のそばに控える。 「頼之…分かっておろうが…わしは、もう…いかぬ…」と義詮。 「将軍…」沈痛な顔で瀕死の主君を見つめる頼之。「父・尊氏から幕府を引き継いで、わずかに10年…世が一向に治まらぬまま、わしは逝かねばならぬ。案じられるは春王よ…」 やや自嘲するかのようにつぶやく義詮。「頼之。今日より、そなたを執事に任じる。春王を、幕府を頼む」 義詮は右手で頼之の手をとった。「頼之、命を賭して若殿をお守り申し上げまする!」 頼之は力強く答えた。
 やがて、春王も義詮のそばへ呼び寄せられた。「父上…」 目に涙を浮かべつつ声をかける春王。義詮は春王の手を左手で握った。「頼之…汝に一子を与える…春王は、今日よりそなたの子じゃ…」 頼之は義詮の手を握りしめて体を震わせる。「春王…汝に一父を与える。今日より、頼之がそなたの父じゃ。その教えに違うてはならぬ」 春王も父の言葉に涙してうなづく。「そなたたち二人で力を合わせ、天下を太平ならしめよ…。わしの見ることの出来なんだ太平の世を築くのじゃ…これが、わしの遺言ぞ」 義詮は二人の手を取りながら命じるのだった。

 -----------鎌倉幕府が滅び、建武の新政が倒れてからすでに30年。日本全土に繰り広げられた動乱の火は今なお燃えさかっていた。この国を統一し、太平の時代をもたらすことが、二人の男に託されていた。
 室町幕府の三代将軍・足利義満。そして、それを助け、後世名宰相と呼ばれることになる細川頼之の二人である------------



◎出 演◎

細川頼之

細川清氏

今川貞世

楠木正儀

慈子

細川頼有

三島三郎 阿波の船頭
京極為基 吉田兼好
今川範国 夢窓疎石
頼春の側室たち

速波

勇魚

朱元璋(特別出演)

李成桂(特別出演・子役)

世阿弥(解説担当)

春王(子役)  細川頼元(子役)  小波(子役) 命松丸(子役)
細川家家臣団のみなさん 熊野水軍のみなさん 京都市民のみなさん
室町幕府職員のみなさん 阿波国のみなさん 紀伊国のみなさん 

足利義詮

足利尊氏

利子

細川頼春

佐々木道誉


◆本編内容◆

 貞和4年(1348)正月。河内・四条畷(しじょうなわて)の戦場に青年武将・ 細川清氏の姿がある。戦いを前にして馬上で手綱を握る手を震わせる清氏に家臣たちが声をかけるが、 「武者震いよ」と清氏は不敵な笑みを見せて舌なめずりをする。あちこちで鬨(とき)の声が上がり、血なまぐさい戦いの空気が満ちてくる。
 清氏が戦場を眺めていると、山の中腹に陣を張る一隊が目に入る。家臣から旗印を聞いた清氏は 「あの婆沙羅入道か」とつぶやく。山に陣をはり、戦場を見下ろしているのは近江の大名・ 佐々木道誉である。
 ついに楠木軍が突撃を開始した。正成の遺児・正行率いる楠木勢は一丸となって敵将・高師直のいる本陣めがけて突進する。 「細川左近将監清氏、一番に相手つかまつる!」清氏は雄叫びを上げ、手勢を率いて楠木軍めがけて突っ込んでいく。馬を駆け、太刀を振るい奮戦する清氏。それを山上から眺める道誉は 「若いのう…」とほくそ笑む。やがて勢いにまさる楠木軍に押しまくられた清氏勢は引き退く。悔しがりながら家臣に引きずられるように撤退していく清氏。
 楠木軍は足利一門の軍勢を次々と蹴散らして大将・高師直の本陣に迫る。そのとき山の上にとどまって楠木軍の突進をやり過ごしていた佐々木勢が一斉に山を下り、楠木軍の背後に襲いかかった。奮戦する楠木軍だったが、間もなく戦塵の中に潰え去っていく。
 返り血にまみれ息を切らしながら、戦いのあっけない結末を呆然と眺める清氏…。

 (清氏の伏し目がちな目のアップから、眠たげな頼之の目にオーバーラップしていく)

 「こら、弥九郎!」 居眠りしていた頼之を清氏が木の枝でこづいた。
 阿波国・秋月。時は貞和5年(1349)7月である。この国の守護である細川一族の若武者たちが野駆けの途中、木陰に集まって一休みしていた。一同を引っ張っているのは清氏(22歳)で、昨年彼が参加した四条畷合戦の模様を若者たちに聞かせていたのだった。その最中に居眠りしていてたたき起こされたのは、清氏の従兄弟でこの国の守護・ 細川頼春の長男・弥九郎こと細川頼之 (21歳)である。
 清氏は戦場のすさまじさ、楠木軍の頑強さ、師直の勇猛さ、道誉のしたたかさなどを物語る。頼之の異母弟・ 頼有(18歳)なども興味津々でいくさ話に聞き入る。清氏は楠木勢や師直の勇猛ぶりを「武士の鑑(かがみ)」と絶賛する一方で、道誉の戦いぶりを 「他人に戦わせ、自分は楽をして戦功をあげる武士らしくない卑怯者」と呼ばわるが、それまでつまらなそうに聞いていた頼之が反応し、道誉の戦術を 「自らの犠牲を極力おさえて功績をあげるのは戦をするものの手本」とたたえる。清氏はいよいよ面白くない。
 清氏は頼之を早駆けの勝負に引きずり出す。「ここから館まで、どちらが先につけるか、競おうぞ」 と清氏が言い、頼之はしぶしぶこれに応じる。若武者たちの見守る中、勝負が始まる。勝負は一貫して清氏のリードで、頼之は途中で落馬までして清氏にからかわれる始末。結局館には清氏が余裕で到着し、門前で馬に乗ったまま若武者たちの歓声を受け、頼之を待ち受ける。しばらくして頼之がトボトボと到着。清氏が声をかけるが無言で馬を下りて館の門へと歩いていく。ところが門を抜けたところで 「細川弥九郎頼之、秋月館に一番乗りじゃ!」と頼之が叫んだ。ニコッと振り返る頼之を見て呆気にとられる清氏たち。やがて清氏がかみ殺すように笑い始めた。 「これよ!わっぱの時からの屁理屈武者…これはかなわぬわ!」清氏は高らかに笑う。頼之もいささか照れたように笑うのだった。

 秋月の守護館では頼春の妻(計4人)や子たち(計8人)が集まりわいわいと賑やかである。従兄弟である清氏を迎え、一同は話に花を咲かせる。頼春の母・ 利子(としこ)は清氏と頼之の早駆け勝負を聞いて大いに笑い、子供時代以来続く二人の勝負ごとの思い出話で一座は大いに盛り上がる。 「喧嘩をするほどの友、というではないか。お二人ともそのようなものかの」と利子は言う。清氏の父・和氏は頼春の兄であるが早く政界から引退し早世したので、清氏は子供の時からなにかとこの頼春一家の厄介になっていたのである。
 一家の長である頼春は京にあり、大切な用事があるからと頼之に上京するよう伝えてきていた。その迎え役として清氏が阿波にやって来ていたのである。明日にも京へ向けて旅立つ頼之と清氏は家族や若武者たちとしばしの別れを惜しんで宴を楽しむ。

 頼之と清氏は吉野川沿いに海へ向かい、港から船に乗って摂津を目指す。久々の船の上で頼之は船酔い気味。清氏と船頭はこれをからかいつつ、最近の海上事情などを語り合う。船頭が言うには楠木正行の戦死、つづく吉野焼き討ちにより吉野方(南朝)の勢力は見た目にはかなり衰えているが、海の上ではまだまだ吉野方に味方する熊野水軍の勢いが強いとのこと。先年も後醍醐天皇の一子・懐良親王のいる九州へ向けて熊野や瀬戸内の水軍が大規模な活動を行っていたことを船頭は語る。人が住むのは陸、海の上の勢力など問題にしないと笑う清氏に船頭は言う。 「海を押さえる者たちの力をみくびってはなりませぬ。海はこの日本など越えた彼方までつながっておりますからな」 この言葉に、清氏と頼之は顔を見合わせる。
 船が和泉沖にさしかかったとき、突然数多くの船が姿を現し、あっと言う間に頼之たちの乗る船を取り囲んだ。それは熊野の海賊衆の船団だった。頼之たちの乗る船に海賊たちが乗り込んできた。その中の頭とおぼしき大男 (勇魚=いさな)が頼之たちの前に進み出た。「阿波の守護、細川殿の御一族とお見受けする…」 この言葉に清氏は太刀に手をかけるが、頼之がこれを制した。
 
 清氏と頼之の二人が海上で海賊衆に拉致されたとの情報は、ただちに京にももたらされた。頼之の父・頼春は対応に追われ、幕府に出かけて将軍・ 足利尊氏にも事態の報告と打開への後押しを頼む。情報を総合すると頼之らを拉致した水軍は吉野方(南朝)に気脈を通じる者たちで、最近畿内で追いつめられている吉野方が幕府側から何らかの譲歩を引き出すために足利一門である細川氏の子息たちをさらったものと思われた。しかしこのとき京都の政界は高師直派と足利直義派の対立が激化し、師直の暗殺未遂騒動まで起こるほど不穏な情勢。将軍尊氏とても政務の実権はほとんど無に等しく、とても南朝側と交渉できる余裕はなかった。頼春は頭を抱えて帰宅する。
 公家の京極為基邸では歌会が催されていた。為基門下の青年歌人としてメキメキと頭角を現していた足利一門・今川家の御曹司 貞世が一座の注目を浴びていた。この歌会には吉田兼好も供の 命松丸とともに姿を見せ、貞世と談笑する。
 そこへ貞世の父・範国から呼び出しが来る。貞世が今川邸に帰宅すると細川頼春が来訪していて、頼之・清氏拉致の情報をもたらした。頼之らとは同じ三河生まれの一門で幼なじみでもある貞世は気を揉み、自分が南朝側との交渉にあたってみたいと申し出る。南朝側からこの件で密かに接触をはかってきたのは河内の南朝勢力・楠木一族であると頼春が貞世に明かす。

 拉致された頼之・清氏そして頼之の同年齢の守り役である三島三郎の三人は紀州沿岸のある漁村に連れてこられた。しかしほとんど自由に村の中を動き回ることを許された。だが常に村人の監視の目が光っていることにも三人は気づき、無理に脱出を図ることは控えて成り行きに任せることに腹をくくる。
 この漁村の住人たちは漁獲と同時に海上の武装勢力=海賊衆として生計を立てていた。聞いてみると別に宮方、武家方のどちらに味方するというわけでもなく、状況に応じてどちらにでもついて働くという姿勢である。頼之たちを拉致したのも吉野方のある勢力から頼まれたというものであった。そしてこの村にある社には海上の守り神がまつられ、それに仕える神女・ 速波(はやなみ)が村人たちの精神的指導者となっていた。村の中を徘徊するうち、頼之は3、4歳ぐらいの少女に出会う。少女は何も言わず頼之の顔をじっとみるだけであったが、その瞳は頼之に強烈な印象を残す。
 十日ほどしたある夜、頼之と清氏は速波のもとへ呼び出された。そこには速波と、例の3、4歳ぐらいの少女、そして20歳前後と思われる若い武士が待ち受けていた。速波は少女の名を 「小波(こなみ)」と紹介し、いずれ自分の跡を継いで船の安全を祈るためこの社に籠もって神女として一生を終える宿命なのだと頼之たちに教える。それが自分たちに与えられたこの世での役目なのだと。若い武士も言う。 「自分にもこの世に生を受けた、おのれだけの役目がござる…それは御辺たちも同じこと」若い武士はそう言って、頼之たちを拉致したのはその「役目」のためであったとだけ語る。そして間もなく頼之たちが解放されることを告げ、 「悪く思われるな」と言い置いて立ち去っていった。 

 翌日、頼之たち三人は馬を与えられ村から立ち去ることを許された。村のはずれで小波が見送る。小波をじっと見つめていた頼之はふと気になって自分の懐刀を小波にくれてやる。清氏がいぶかしむと、頼之は 「あの娘はあの年でもはや一生が決まっておる…それは哀れなのか、それとも幸せなのか分からぬ…だが、なんとのう、わしの気持ちを渡したくなった」 と答える。「わしにも何か、この世に生を受けただけの役目というものがあるのだろうか…?」 とつぶやく頼之に、清氏は「少なくともわしにはある。わしには分かっておる」と言う。頼之がそれは何かと訪ねると、清氏は笑ってはぐらかす。
 三人が馬を進めていくと、前方から今川貞世の率いる一隊が駆けつけてきた。貞世は河内を攻略して楠木一党を追いつめていた高師直の兄・師泰に京の一触即発の情勢を吹き込み、軍勢を率いて京へ向かうよう勧めたのだった。 「それが御辺たちを返す条件だったのよ」と言う貞世。これを聞いて頼之と清氏は、速波のところにいた若い武士が楠木一族の棟梁・ 正儀(まさのり)であったことを悟るのだった。
 一方、頼之たちが立ち去った村では正儀が速波に「…これで楠木一党は救われ申した…!」 と深々と頭を下げていた。父・正成そして兄・正行が戦死し、一族を守り抜くという辛い役目を一身に背負った若武者は、速波の前では素直に弱音を吐き、危機が去ったことに心から安堵していた。 「細川のお二人には悪いことをいたしました…太平の世であれば同じ年頃どうし、良き友にもなれましょうに…無念なことでござりますな」 と正儀は笑顔で言う。社の外では小波が頼之からもらった懐刀を胸に抱いて、海の方をみつめている。 

 頼之たちは京に入った。息子たちの無事に安堵し陽気にはしゃぐ頼春。ただちに将軍尊氏をはじめ諸方面への挨拶に頼之は忙殺される。
 頼之は頼春に連れられて「国師」と崇められる名僧・夢窓疎石のもとを訪問する。夢窓は今回の一件での頼之の苦労をねぎらい、連れ去られて命の危険を感じたときどう感じたか、と頼之に尋ねる。頼之が初めはやはり恐ろしかったがその後は腹をくくってどうという事は無くなった、と答えると、夢窓は 「それはようござった」と微笑む。「人間、この世に生まれたるはそれぞれ何らかの宿命(さだめ)があってのこと。頼之どのにも何か定まったお役目があるのでございましょう。だからこそ危難に出会うとも道がおのずと開ける」 との夢窓の言葉に速波に言われた言葉と通じるものを感じた頼之は「では、わたくしの役目とはなんなのでございましょう?」 と問う。夢窓は笑って「それを見つけるのも、また人生」とだけ答える。

 夢窓の法話が終わると、頼春は頼之を寺内の別室に招き入れる。妙にそわそわする父の態度を頼之が不思議がっていると、間もなく侍女たちを従えた公家の娘が部屋に入ってきた。 「持明院保世どののご息女じゃ」と頼春が頼之に紹介し、娘は「慈子(やすこ)と申します」 と名乗った。ポカンとしている頼之に頼春があわてて「こ、これが倅の弥九郎頼之で…」 と代わりに名乗る。その様子に慈子は可笑しそうに微笑む。慈子は夢窓の法話を聞きにたびたびこの寺を訪れており、その熱心ぶりに夢窓から「玉淵」の道号も授けられていた。 「お若いのにご信心深いことで」と頼之が言うと、「周りからも抹香臭いとか言われてもおりますけど、禅問答の理屈が好きなだけなのです」 と慈子は笑って答える。ほう、と頼之は感心したように応じる。
 慈子が退出して、しばらく父子の間に沈黙が流れる。「どうじゃ。気に入ったか?」「は?」「今の姫君じゃ。家柄も申し分なし。いささか癖のあるところもあるが才色兼備と言ってよいであろう」 頼春はニヤニヤと息子の顔を覗きながら言う。「あの…もしや…」 と頼之が言うと「鈍いのう。ボヤボヤしてるとわしがもらってしまうぞ」と頼春。実際そのぐらいの年の側室を持っている頼春のこと、冗談にもなっていない。頼之は困ったように頭をかいた。

 「公家の娘を嫁にか。良い話ではないか。おぬしには他に女がいるわけでなし」と清氏がからかう。頼之・清氏・貞世の三人は夜の細川邸で酒を酌み交わしていた。 「思えばこうして三人でわいわいとやるのも、三河での子どもの時分以来か」と清氏が言う。「あれから、世の中はずいぶん動いた」 と貞世が言い、成長期に眺めてきた乱世を振り返る。「頼之は嫁をもらって叔父上の跡を継ぎ、貞世は歌の道で名をあげ、さてさて俺はどうしたものか。頼れるはおのれの武勇のみだが…それには大きな戦が起こらねばならぬ」 と清氏。「それもあまりいいことではないな」と頼之がつぶやくが、貞世は 「いや、どうも近頃不穏だ。好むと好まざるとに関わらず、大きな戦がまもなく起こるだろう」と冷静に言う。
 清氏が頼之と貞世の二人の杯に酒をを注ぐ。「世の中なにが起こるか分からぬが、我ら三人の絆は変わるまいぞ。さあ、友よ、飲み干そうぞ!」 清氏が高らかに言い、「おう!」と頼之と貞世が応じ、三人の若武者たちは杯を上げた。
 空は満天の星空である。

 その同じ星空を、元・濠州の寺の中から頼之たちと同じ年頃の青年僧が見上げていた。後に明帝国を興す 朱元璋その人である。
 同じ星空を高麗では後に朝鮮王朝を興す15歳の少年・李成桂が眺めている。
 東アジアの全域で新しい時代の息吹が、静かに聞こえ始めていた…。

第一回「乱世の子」終(2002年1月6日)


★解説★

世阿弥解説員  はーい、視聴者のみなさん、こんにちは。解説担当の世阿弥(ぜあみ)でございます!
 このたびMHK(室町放送協会)が永享十年度に「室町幕府創設百周年記念大河ドラマ」として「室町太平記」を放映するっていうもんですから、室町最大の芸能人として解説役を買って出たわけでございますよ。だいたい私自身も出てくる予定なんですよねぇ。関係者が直接出てる大河ドラマってのも滅多にないですしね、面白い企画じゃないかと(笑)。 まぁジェームズ三木氏脚本の大河でもその手の設定は多かったですしねぇ、ってなんで私がそんなのことを知ってるんだ!?
 念のため私が何者か紹介させていただきますと、私は「能」の大成者なんでございますよ。能。英語で言うと「NO」となってしまってまさに「NOと言える日本!」ってわけで。しょうがないから「NO PLAY」って訳すらしいですけど、それも「何にもしてない」みたいで困ったモンです、ハイ。あ、すいません、語り出すと暴走するたちなもんで時々脱線に歯止めがかからなくなります。こんな性格ですから能でもやるしかなかったと。能をやめたらただの「能無し」ってね…すいません、落語家に転向を検討中です。
 こんな私ですけど、現時点では将軍義教さまににらまれて佐渡に島流しの状態なんですよ。サドなんてまぁ加虐趣味の義教さんらしいことで…あ、すいません、またやっちまった。死罪にしないでくだせぇ、将軍さまぁ。
 と、ともかくこのドラマの解説をすることで京への復帰をたくらんでいる私です。このドラマの視聴率が私の命運を決めるんです!みなさん!見てやってください!

 …あ?個人的な話はやめて早く解説しろ?しょうがないなぁ…ブツブツ。

 えー、第一回は例によって1時間15分のスペシャルバージョンでございます。いや、正確な時間が出るわきゃありませんが、作者もだいたいそんなもんだろうと思って書いておるそうで。
 アヴァン・タイトルに頼之さんが2代将軍義詮さまから後事を託されるシーンを持ってきております。ドラマとしてはだいぶ先の部分にあたるのですが、ドラマ全体の構想にかかってくることなので第一回の最初に持ってきております。こうでもしないと後半の主役・義満さまの出番がとうぶん無いということもございまして…この手の「先行公開型」のオープニングは大河ドラマ「春日局」や「八代将軍吉宗」とか「北条時宗」なんかを参考にしていたりするんですよ、ってだから何で私がそんなの知ってるんだ!? 

 冒頭いきなり合戦シーンからってのは「客引き」の常套手段でございますな。細川頼之さんが主役だというのにワキのはずの清氏さんを連れ出して無理矢理合戦シーンを頭に持ってきました。しかもよく見ると回想シーンなんですがね、これ。
 高師直vs楠木正行の決戦、「四条畷の戦い」に細川清氏さん、佐々木道誉さんが参加していたというのは『太平記』に書かれていることでございます。だいたいドラマと同様の展開でして、清氏と道誉という対照的なキャラクターを描き出すのにちょうどいいわいと作者が持ち込んだんですな (ついでに楠木一族も絡められますし)。むろんその後の二人の因縁を予感させる効果も考えております。それにしても道誉さん、この回はこのシーンでちょこっとしか出ないくせに「格」で出演ロールのトリに配置されております。 

 回想シーンが終わっていよいよ主役・細川頼之さんの登場であります。なんかボソーッとしていてちっともカッコ良くありません。清氏と一緒にいるとどっちが主役だか分かりません。配役を想像される方は決して二枚目を想像されませぬよう。肖像画や木像も残ってますが、いずれも割と地味な丸っこい顔をしておられます。清氏さんのほうは全然資料がありませんので、カッコいいアイドルの顔でも想像してくださいませ。わたくし世阿弥だって若い頃は絶世の美少年ともてはやされたもんで…あ、すいません。また個人的なつぶやきを(汗)。
 頼之さんが理屈っぽい子だったって話は実際に伝わっております。江戸時代に書かれた小話集によりますと、大名たちが大勢集まっている場で 「主人の使いとして出かける途中、親の仇に出会ったらどうすべきか」という質問が出て一同考え込んでいたところ、わずか十歳の頼之さんが 「そのような事情のある者はもともと主人に仕えるべきではありませぬ」と言ったため、一同大いに感嘆したとか。まぁ小憎たらしいガキですこと(笑)。
 頼之さんと清氏さんの乗馬競争シーンは映像的な受けを狙ってつくったフィクションですが、少年時代に清氏さんと頼之さん(11歳)が阿波で武芸の腕比べをしたという話が『細川三将略伝』という本に載っております。それによれば頼之さんが清氏さんに完勝したとあるのですが、作者は「ウソくさい」として清氏優勢に書き換えております。頼之さんの小狡い勝ち方については一時手品級のトリックも考えたがさすがにやめにしたと作者は申しております。
 細川館に帰ると一家が総出で登場するのですが、文章化しにくいのでほとんど割愛。なお、頼之さんの母上を「利子」としておりますが、これは作者の勝手な創作。だってこの時代の女性って将軍の妻クラスでもないと名前が分からないんだもん。適当に字をひろって命名したりしております。出家して「里沢禅尼」という名だけが伝わっております。頼之さんにはかなりの数の兄弟がありましたが、そのほとんどが異母兄弟。頼之さんを終生助けた弟の頼有さん、後に頼之さんの養子となる頼元さんもみんな母親違いの兄弟でございます。

 頼之・清氏および三島三郎(この方については現時点では詳細は申し上げられません)の三人が海賊に拉致される展開はもちろん全くのフィクション、大ウソでございます。なんでこんな大ウソを展開したのかと申しますれば、今後のドラマ設定全体に関わってくる「海の民」、そして楠木正儀さんを早めに頼之・清氏・貞世トリオに絡めておこうという作戦なのであります。
 …と、考えて拉致しちゃったところで作者は頭を抱えたようで。こっからどーすんだ、と(笑)。結局河内攻略中の高師泰がこの時期に京都へ移動したのに目を付けてこんな形で強引に解決することにいたしました。師泰の移動はもちろん京の緊迫した情勢のせいだったのでありますが、結果的にそのことで楠木一党が一息ついたのも事実。まぁどうせ頼之たちの拉致じたいが大ウソなんだから多めに見てくださいよ、と申しておりました。
 ところが後で気がついたんですが、高師直さんが頼春さんにこの年の八月に送った書状の中に「御子息上洛のこと、悦び入り候」という文がありまして、この「御子息」が頼之なんじゃないかって話があるんですよね (タネ本にしている人物叢書『細川頼之』の著者小川信氏は否定的ですが)。勝手な創作しておいて後からこの書状を見たら何やらホントっぽくなってくるな、などと作者が喜んでおりました。
 速波、小波、勇魚といったフィクションキャラ群についてはコメントいたしません。まぁ作者もいろいろ考えているようですが、とりあえず登場させただけで今後の展開については全然固まっていないという話もあります(笑)。ま、ともかく女性キャラがあまりに少ないと客が寄り付かないってことを考慮して(笑) フィクション部分で増やしておこうという腹もあるようでございます。

 準主役級であり、たぶんドラマ全編にわたって登場する数少ない長寿キャラ・今川貞世(了俊)さんが早くも颯爽と登場しております。当時の貞世さんが若手歌人として頭角を現しつつあったのは事実でして、師匠の京極為基さんの斡旋で21歳にして『風雅和歌集』に一首入選しております。この為基さんのところに『徒然草』の作者として名高い吉田兼好が出入りしておりまして、貞世さんとも深いご縁があったようです。ま、この辺につきましては今後語られることになりましょう。
 頼之・清氏・貞世のお三方はいずれも生まれは三河国でございます。三河は足利一門が鎌倉時代に根付いた地でございまして、細川・今川・仁木など室町時代を彩る名門の多くがこの地に由来を持っております。南北朝の動乱の中で細川氏は四国、今川氏は東海といったように本拠地が移っていきましたが、恐らくこのお三方も少年時代には三河で親戚同士顔を合わせる機会も多かったのではないかと思う次第です。このドラマ開始時点で20代初めのお三方、物心ついたころに鎌倉幕府の滅亡、建武の新政の崩壊、室町幕府の成立を見てきた世代でございます。このドラマでもその辺を念頭に入れておいて頂きたいですね。

 夢窓疎石さまのところに頼之さんがいつ訪ねられたかは不明です。しかし後年(27年後)夢窓さまを称える碑文の中で頼之さんが「若いときに父に連れられて国師の法話を聞き、大変な感銘を受けた。死も生も一つだとして事に臨んで恐れることが無くなった」ということをコメントしてるんですな。夢窓国師は観応2年(1351)に亡くなっておりますし、頼之さんはその前年末から阿波に帰っていることは確実なので、それ以前に会っていたことになります。
 後に頼之さんの奥様となられる慈子さん(例によって名前は作者の勝手な命名です)がこの場面で登場。この方も夢窓国師のところに出入りしていたというのは事実でして、「玉淵」という道号もいただいております。うまい具合に結びつくのでここで会わせちゃえと作者は飛びついたのでありました。まぁ歴史物の創作活動というのは捏造作業の連続なのでありますな(笑)。

 第一回のラストに朱元璋すなわち明の洪武帝さんと李成桂すなわち朝鮮王朝の太祖さんがチラッと出て参ります。ま、本格的に登場するのは当分先なので今のうちに「先行顔見せ」というわけでございますな。こうした「国際的スケール」ってのもこのドラマの売りだったりしますもんで。

 さて第一回が終わりました。次はいよいよ第二回…って当たり前ですがな。ではでは。

制作・著作:MHK・徹夜城