細川頼之
細川清氏
慈子
今川貞世
細川頼有 仁木義長
足利直冬 山名師氏
桃井直常 正子
懐良親王 細川繁氏
二宮兵庫助 三宝院賢俊 千寿王(子役)
渋川幸子
足利義詮
世阿弥(解説担当)
細川家家臣団のみなさん 東寺の僧侶のみなさん
京都市民のみなさん 室町幕府職員のみなさん
ロケ地提供:京都・東寺
室町幕府直轄軍第12師団・第14師団
山名時氏
里沢尼(利子)
足利尊氏◆本編内容◆
文和四年2月8日。京へ突入した足利尊氏の軍勢の先頭を切って、
細川清氏の部隊が京の町を疾駆していく。清氏らは四条大宮付近で直冬方の
桃井直常軍と激突し、日が暮れるまで激闘を続ける。細川勢優勢のまま日も暮れかかった頃、桃井軍から一人の武将が進み出て
「そこで勇ましく戦っておられるお方は細川相模守殿とお見受けした!我こそは桃井播磨守直常ぞ!じかに一騎打ちで戦うて雌雄を決せん!」と清氏に呼びかけた。清氏は
「おおっ!!お相手つかまつる!」と応じてこれと一騎打ちを始める。しばし激闘ののち、清氏は敵将を自分の馬上にひきずりこむようにして首を打った。
「細川相模守清氏!敵の大将、桃井播磨守を討ち取ったりーっ!」と清氏は雄たけびを上げ、周囲の味方もこれに合わせて勝どきをあげる。清氏は討ち取った首を将軍・
足利尊氏のもとへ届けさせるが、これは桃井直常の家臣の二宮兵庫助という者が直常を逃がすために身代わりになったものであった。それを聞かされて清氏は大いに悔しがる。
その後約一ヶ月にわたって京の市街で激闘が続いた。清氏は常に前線にあって傷を多く負いながらも奮闘し、敵の総大将・
足利直冬の本陣である東寺の目前にまで何度か迫る。その清氏の側には親友の今川貞世
の姿もあり、清氏とともに大いに奮戦していた。そしてついに3月13日、支えきれなくなった直冬は東寺を放棄して八幡に撤退、入れ替わりに尊氏の軍勢が東寺に入りこれを占拠した。一番乗りはやはり細川清氏である。
間もなく尊氏・義詮父子が東寺に乗り込んできた。尊氏は諸将の前で清氏の働きを随一のものと称え、清氏は
「身に余る栄誉」と誇らしげに胸を張った。尊氏は戦勝の記念として、戦功第一の清氏に東寺にある仏舎利
(ぶっしゃり=釈迦の遺骨)を一粒奉請(ぶじょう=請うて分けてもらう)してくるよう命じる。
命を受けて清氏は東寺の宝蔵に赴き僧侶から説明を受ける。それによれば東寺の仏舎利は弘法大師空海が唐から80粒を持ち帰ったのが始まりで、その後国の安危と共に粒の数が増減するという不思議があり、4000粒以上にまで増えたこともあると言う。清氏は「ほほう」と聞きながら、どこかバカにしたような表情を見せる。いよいよ宝蔵を開けようというとき、宝蔵の鍵が見つからないとの報告が入り、僧侶たちは大慌て。直冬軍が長いこと本陣を置き、撤退にいたるまでの混乱の間に鍵が紛失してしまったものらしい。
「申し訳ござりませぬが、ひとまずお引取りを…」という僧たちに、清氏は大笑い。
「何を言う。わしは将軍の命を受けて仏舎利をいただきに参ったのじゃ。鍵の一つが無いくらいで手ぶらで戻れるものか。鍵がなくても扉は開くわい」
と言うと扉をドンドンと叩いた上で、家来たちに「おい、槌でこの扉を打ち破れ」と命じた。
「なんたることを…正気でおられるのか!?」と僧侶たちが泡を吹いて大騒ぎするなか、清氏は家来たちとともに宝蔵の扉をぶち破ってしまう。中に入って仏舎利の入った箱を取り出した清氏はその中から仏舎利を一粒取り出し、まじまじと見つめる。
「これがのう…釈迦の骨か。一粒頂戴していくわい」と言い捨てて唖然とする僧侶たちをしりめに清氏はのっしのっしと立ち去っていった。
京から撤退した直冬はすでに戦意を失っていた。その様子を見て山名時氏は息子の
師氏に「伯耆へ戻るときがきたようじゃな」と言う。
「やはり実の父は実の父…子は子であったということじゃ。直冬殿は心のどこかで将軍に甘えておられたな。思えば気の毒な運命のお方よ」
と時氏は同情気味に語り、直冬ともども山陰に引き返す指示を出した。
撤退の道々、「京はいかがなされます?」との師氏が問うと、時氏は
「またいつか来る日があろう…だがしばらく山陰で地固めじゃな」と答えるのだった。
三ヶ月余りの戦闘が一段落し、京はようやく落ち着きを取り戻した。あちこちで槌音が再建の調べを奏でる中、
細川頼之は弟の頼有と共に清氏の館を訪れた。今回の合戦で一躍武名をあげ、将軍父子の覚えもめでたい清氏のもとには顔つなぎをしておこうという来客も多く、清氏は忙しく応対していたが、頼之が来たと聞くと他の客は帰らせて頼之兄弟と酒を酌み交わし始める。清氏の妻・
正子も清氏の幼児を抱いて同席し、久々に親戚どうしの和気あいあいの席となる。
頼之は清氏が数々の戦功で出世していくことを素直に喜び、清氏も頼之の阿波統治の成功をほめたたえる。「阿波はいいよなぁ…一度、妻子を連れて阿波に帰ってみたいものじゃ…故郷に錦を飾るというやつだな」
と清氏は阿波の風景を懐かしむ。頼之は逆に「そろそろ慈子を連れて来てこの京で暮らしてみようという気もあるのだが…水も変われば子も出来るという話もあるしな」
などと語る。
頼之が先日の東寺仏舎利の一件が公家や僧の間で大変な非難の声があがっているとの噂を語るが、清氏は「公家や僧どもがこのいくさで何のはたらきをした?」
と笑い飛ばす。「突然なりあがってきた者にはいろいろとやっかむ者も出てくる。そういうことよ。公家だけではない、武士にもある」
と清氏は言い出し、やはり清氏と同じく勇士として名を馳せている仁木義長が自分についてあることないこと噂を流していると怒りの色を見せた。義長は清氏と伊賀守護職をめぐって争っていた経緯があり、双方の憎悪はかなりのものがあった。そんな清氏の様子に頼之は不安を覚える。
頼之の不安は間もなく現実のものとなった。四月、仁木義長が清氏の持っていた三条西洞院の土地に邸宅を建てようとしたことから両者の対立が激化、双方で軍勢を集める騒ぎとなった。 「ようやく都を再建しようという時に何をしておるのか!」と尊氏は怒るが、二人とも今の幕府を支える有力な勇将であることから自ら直接説得に赴くことで衝突回避を図った。尊氏が清氏邸へ、義詮が義長邸へ赴いてそれぞれ説得を行い、どうにか開戦は回避された。
頼之は阿波の統治は頼有や守護代の新開らに任せることにしてしばらく京に滞在することを決めた。清氏の出世もあいまって幕府は若い世代を組み入れた人事を進めており、頼之にも幕府での働きが求められそうな状況になってきたからである。5月に頼之に呼び寄せられた妻の 慈子が京に入る。母の里沢尼も呼び寄せようとしたのだが、他の子供たちと共に秋月で暮らしたいとの本人の希望もあったので慈子のみが京入りすることになったのである。京生まれの慈子は久しぶりの京入りに大いに喜びつつ、長年の戦乱に荒れ果てた様子にも心を痛める。
6月4日、頼之は清氏と又従兄弟の繁氏に誘われて醍醐寺三宝院を訪問した。ここには尊氏の尊崇を受け政界でも大きな影響力をもち「将軍門跡」とあだ名される僧・
賢俊がいた。頼之たちは言ってみれば任官運動のために賢俊のもとを訪れたのである。最近めきめきと頭角を現している清氏がいるためか、賢俊は細川三名を大いに歓待する。三人は風呂を使わせてもらい、一日中賢俊と歓談する。
この訪問が功を奏したのか、8月10日に頼之は右馬助から右馬頭に昇進した。ときに頼之、27歳である。
この年を境にひとまず世は一時的な安定を見せ始める。南朝もその軍事行動の鳴りをひそめ、直冬方についた武将たちも各地で勢力を温存はしていたが目立った動きは見せなくなっていた。一方で九州では南朝の征西将軍宮・
懐良親王の勢力の伸張が著しく、この年の10月についに博多に入った。
そして、この年。足利将軍家には深刻な事態が起こっていた。義詮の妻・渋川幸子の産んだ嫡男・
千寿王が病のためにわずか六歳で夭折してしまったのである。「千寿王どの!千寿王どの!お目をお開けなされ!そなたは将軍になるお子なのじゃぞ!」
と千寿王を抱きながら泣き叫ぶ幸子。後継ぎと期待していた息子の死に、義詮も涙する。ひとまず安定の様子を見せていた幕府だが、将軍家の将来には暗い影がさしていたのである。