細川頼之
細川清氏
慈子
今川貞世
持明院保世 三島三郎
紀良子
足利義詮
世阿弥(解説担当)
子犬 細川家家臣団のみなさん
京都市民のみなさん 室町幕府職員のみなさん
ロケ地提供:石清水八幡宮
室町幕府直轄軍第13師団
協力:朝鮮王朝観光局・朝鮮王朝北方守備軍
李子春
李成桂
◆本編内容◆
文和五年(1356)3月、京都朝廷は年号を「延元」と改めた。連年の京都争奪戦も終わり、畿内の南朝勢力の活動も終息しつつあり、地方では戦いが続いていたが少なくとも京周辺は平和な空気が流れ、人々の心も落ち着きをみせるようになっていた。
そんなころ、細川頼之は妻の慈子
とその父・持明院保世らともに石清水八幡宮に参詣した。三人はここしばらくの平和なひとときを有り難いことだと語らいつつ、その長からんこと、そして世継ぎが早く授けていただきたいと神に祈願する。八幡宮の中を歩きながら頼之は近く自分に何か幕府から大きな仕事が与えられそうだと慈子らに話す。
参詣を終えて京に戻る途中、頼之一行は一台の女ものの牛車とすれ違う。その牛車から一匹の子犬が飛び出し、頼之たちのほうへ駆け寄ってきた。
「とらえておくれ!」と牛車の中から女の声がして、牛車に付き従っていた付き人たちが大慌てで子犬を追いまわすが、なかなか捕まらない。頼之も馬上から目で追うが、動きが素早くて追いきれない。すると、輿の中にいた慈子が飛び出し、走り回る子犬を見るとポンポンと手をたたいて招きよせた。すると子犬はあっさりと慈子のもとへ飛び込んでくる。
慈子は子犬を抱いて牛車に歩み寄った。牛車の中の女も出てきて丁寧に礼を言って子犬を受け取る。「お名を」
と言うので慈子が細川頼之の妻、と名乗ると「わたくしは善法寺通清の娘で良子と申します」とその女も名乗った。
「この犬は他の方にはなかなか馴染みませんのに…奥方様はわたくしと似たところがあるのかもしれませぬね」と良子は笑い、また牛車に乗って立ち去っていった。それを見送りながら保世が
「噂じゃが…」と前置きして「公家や武家の間で義詮さまに側室を、という話がある…それもあの良子どのを、というのじゃ」
と頼之たちに教えた。
数日後、頼之の屋敷で頼之と細川清氏、そして 今川貞世の三人組は久しぶりに顔をあわせて酒を酌み交わしていた。貞世は昨今の清氏の武勇に対する世間の注目ぶりを話題にし、ちょうど一年前の東寺での戦いの思い出話に花を咲かせる。清氏の勇猛ぶりを褒め称える貞世に、清氏は 「いや、貞世のいくさぶりも見事であった」と応じ、貞世のために恩賞に二つの荘園がいただけるよう将軍父子にはたらきかけておこうと約束する。 「武士は恩賞のため、土地のために命をかけて戦うものじゃ。わしも守護職の一つ二つもいただけるはず」と清氏は言い、頼之に近々大きな仕事が将軍から命じられそうだという話をする。 「大きな仕事とは?」と聞く頼之に、清氏は四国、あるいは中国の平定のために軍を率いていけという話ではあるまいかと予測を語る。現に頼之の弟・頼有はつい先日その中国地方の備後の守護に任じられていた。
果たして4月に入ると頼之は将軍・足利尊氏とその子・
義詮に呼び出され、まず非公式に中国平定のための大軍を率いて出陣するよう打診された。「昨年京から落ちた山名勢や直冬だが、その勢いは山陽・山陰において依然根強い。山名などはかえって以前より勢いがあるぐらいじゃ。周防の大内も南朝を奉じて周囲に手を伸ばしておる」
と義詮が頼之に状況を説明する。「本当は将軍たるわしが出陣すべきであるが、このところ体調がおもわしくなくてな。そちの父・頼春には挙兵以来大いに世話になった…その忠節に報いるためにそちに任せようとの思いもある」
と尊氏が言い、「だがやはり中国平定は並大抵のことではない。以前にも義詮を大将につかわしたが果たせなんだ。そちは阿波にあって国内統一に腕を振るったと聞いておるし、その際に熊野の水軍とも関わりを深く持ったとか。中国平定のために水軍の協力は欠かせぬ。それもあって頼之が適任との意見が柳営(幕府)でも多かった。そう、道誉入道も薦めておったな」
と続ける。
頼之は「ありがたき仰せ」とかしこまるが、先代以来細川一族が根をはっている阿波や四国とくらべて山陽・山陰とは縁が薄くこれを平定するのは並大抵ではない、現地の武士たちとの結びつきが大切、と訴える。
「それがしは阿波で国人たちとじかに触れ合って彼らが何のために戦うのかをよく存じております。彼らは将軍の命や守護の命などは手ぶらでは受けませぬ。確実に恩賞を受けることができるかどうか、これによって彼らは敵にもなり味方にもなりまする」
と言う頼之の言葉に、ウムウムとうなずく尊氏と義詮だったが、「中国平定の大将となるにあたりましては、ぜひ山陰・山陽の闕所(けっしょ)の処分一切をそれがしに一任させていただきたい」
との頼之の言葉を聞いて顔色を変える。「闕所」とは罪人や敵の武将から幕府がとりあげた所有者未定の土地のことで、その処分権、つまり参戦した武士に恩賞として敵から奪った土地を与える権限を「中国大将」となる頼之に一任させて欲しいと言い出したわけである。
「頼之、全国の武士に対する恩賞の裁量は全て武士の棟梁たる将軍の意によるものぞ」と義詮が厳しい顔で言う。
「分かっております。それゆえその将軍から恩賞を武士たちに分け与える権限を一時お預かりいたしたいのでございます」と頼之は表情を変えずにさらりと言う。
「それは下剋上じゃ…!」と義詮が憤然とするが、頼之は「この戦は長く続きましょう。それがしも長く戦陣にあらねばなりませぬ。いちいち都の将軍のご意向をうかがっているわけにも参りますまい。かの建武の御親政がそれで滅び去った例もござる」
と反論する。「将軍はよくお分かりのはず。将軍は恩賞を武士たちに存分にふるまうことで武士の棟梁におなりあそばした」
と頼之は義詮を置いて尊氏に向かって直接訴えかける。黙って聞いていた尊氏はしばしの沈黙ののち静かに言う。
「…いかにもその通りじゃ…それによってわしは武士の棟梁となった…では頼之はどうなのじゃ?そのことによって自らも武士の棟梁になろうというのか…?」
言葉は静かだが、視線は鋭い。頼之はサッと顔を青ざめさせて「御免!」と慌てて退出していった。
急ぎ帰宅した頼之は側近の三島三郎に大急ぎで出立の用意をするよう命じだ。
「わしとそなただけでよい。阿波に帰るのじゃ」と頼之が命じているところへ慈子がやって来て何事かと問う。
「将軍の御勘気をこうむった。一時都を離れて阿波に帰る。そなたたちはこの都に残ってほとぼりが冷めるのを待て」との頼之の答えに慈子は愕然とする。
「なれば、慈子も家臣たちもご一緒に」と慈子が言うが、「これはわし一人の問題じゃ。そなたらまで動いてはことは細川家全体の問題となる。じっとしておれ」
と頼之は答える。「わたくしたちを人質に置いていかれるおつもりか?」と慈子がたまらず声を上げる。頼之は慌てて
「何をばかなことを。これは将軍とわしのすれ違いとでもいうべきことじゃ。将軍が世間の評判どおりのお方ならば、この頼之の思うたとおりのお方ならば、決してそなたたちに災いが及ぶようなことはなさるまい」
と言い聞かせ、とにかく騒ぎがおさまるまでじっとしていろと命じる。
4月28日、頼之は三郎一人を連れて京を出奔し、一路阿波を目指した。極秘の出立であったが、その翌日には幕府内にもその噂が広がり、清氏や貞世も情報確認に走り回る。幕府内では頼之が阿波に下り、南朝勢に与して反乱を起こすのではないかとの憶測さえとびかっていた。
4月29日午後、清氏は将軍尊氏に呼び出された。尊氏は清氏に「そなたと頼之は幼なじみの従兄弟であり、無二の親友じゃそうだのう…」
と言った上で、「頼之を連れ戻して参れ。首に縄をつけてでもな」と命じる。清氏は命令をかしこまって受けつつ、
「右馬頭が謀反などと、とんでもないこと。この清氏の首をかけてもようござる」と頼之の無実を訴える。これに尊氏は
「わかっておる…これはわしと頼之の思いのすれ違いじゃ。頼之も思うところがあろう。それを聞きたいから連れて参れと命じておる」
と静かに言った。
清氏はその夜のうちにわずかな家臣だけを引き連れ、頼之のあとを追って京を発った。夜の闇のなか馬を駆けさせながら、
「弥九郎め…!いくつになっても手のかかるやつだ…!」と一人つぶやく。
翌4月30日、清氏は山崎の宿で頼之に追いついた。頼之はあくまで「阿波に帰る」と言い張るが、清氏は 「将軍はそなたの言い分を聞くとおっしゃっている」と説得、「将軍の命を受けた上は、この清氏、幼なじみの従兄弟とはいえ容赦はせぬ。ふんづかまえて縄を打ってでもつれて帰るぞ」 とすごむ。これを聞いて三郎が刀に手をかけて頼之を守ろうとするが、頼之は「天下の猛将、清氏どのに逆らっても仕方あるまい…」 と苦笑いして京へ帰ることに同意する。
京に戻った頼之はその足で尊氏のもとに直行した。清氏に連れてこられた頼之の顔を見ると、尊氏は笑って
「そこへ直れ」と座らせ、清氏をさがらせて頼之と二人きりで向かい合う。「頼之…そのほう、この尊氏の心を試したな」
と尊氏が言えば、「将軍こそこの頼之の心をお試しになられたはず」と頼之が澄ました顔で応じる。尊氏は頼之が一軍の大将をつとめられる器かどうか試し、頼之は尊氏がどこまでこの自分を評価しているのかみてみようと試していたのであるが、二人ともそのことに直接は触れずに黙ってお互いの目を見つめる。
「そのほう、いくつになる」と尊氏。「二十八になりまする」
と頼之が答えると、「若いな…まだまだ。わしが鎌倉に反旗を翻したのがそのほうぐらいの年頃であった…だが、わしはその方ほどの無茶はせなんだ。臆病とも思えるほどに腰が重かった。むしろ…」
と尊氏は遠い目つきをして一瞬黙り「いや、昔そちと似た者がおったと考えていた…」
とかすかに微笑んだ。「いえ、それがしも臆病でござる。こたびのこともその臆病より出たこと。それがしのような若輩者に中国平定の大将などがつとまりましょうや…自分でも迷うております。ただ、存分の働きをするためには恩賞の件は絶対に必要であるとは阿波で苦労したことで身に染みております。
あくまで野心ではござりませぬ。臆病より出でたこと」と頼之は尊氏に説明していく。それを聞いて尊氏は
「野心か…若いうちは野心の一つも持て。それでなくては武将としてよい働きはできぬ」と言い、何か大望はあるかと頼之に訊ねる。頼之が
「この国を一つにまとめあげ、泰平を築くこと」と型どおり答えると、尊氏は中国平定の先には九州の平定があること、そして九州の平定は外国(とつくに)への窓口を得ることに他ならない、と語っていく。
「外国、でございますか?」と頼之が問うと、尊氏は九州に独立勢力を築きつつある懐良親王が倭寇の背後にあって高麗や元の沿岸を襲っていること、高麗や元でも混乱が起きており新しい時代への胎動が始まっていることなどを教えていく。
「海の外でもこちらと同じようなものじゃ。その中からどのような新しい世が生まれてくるのか、わしはこの目で見てみたいのじゃ…その新しい世に、この国も加わっていく…そのためにも西を平定せねばならぬのじゃ」
尊氏の大きな夢を聞かされた頼之は素直に感動する。「お前たちのような若い者たちがこれからの幕府を支えてゆかねばならぬ。清氏の勇猛、頼之の知慮、互いに力を合わせれば、大きな仕事を成し遂げることができよう…」
と尊氏は優しい目つきで頼之に語った。
結局、この一件は何事もなかったかのように処理され、間もなく当初の予定通り頼之が中国討手の大軍の大将として派遣されることが公式に発表された。頼之の要求した「闕所」の処分権については表向きは認めない形にされたものの、事実上頼之に多くの権限が認められる形となった。
延元元年7月のはじめ、頼之は幕府の派遣する中国平定の大将として軍勢を率いて京から出陣していった。慈子や家臣たちが見送る中、頼之は馬上の人となり
「出陣じゃ!えいえいおう!」と兵士たちに声を上げさせて都をあとにする。細川頼之は弱冠28歳にして重大な任務を背負うことになったのである。
そのころ。海の向こうの高麗では、それまで服属していた元帝国が弱体化したのに伴いこれから離脱しようとする動きが表れ始めていた。それまで奉じていた元の年号「至元」を停止し、元に奪われた北方の領土を奪回するための軍事行動も開始していた。そんな元支配下の高麗旧領の一つ、双城には元のハ管府が置かれていたが、高麗の軍勢はここを攻撃する。この戦いには双城ハ管府に仕えていた高麗人・
李子春が高麗側に内応し、女真族も含めた配下を駆使して高麗の双城奪還を成功に導いた。高麗の双城奪還は実に99年ぶりのことであった。
この戦いで人並みはずれた弓の腕をふるって活躍した若者があった。李子春の息子で、その名を李成桂
という。