細川頼之
細川清氏
慈子
渋川幸子
細川頼有 足利直冬
新開真行 三島三郎
伊勢貞継 正子
光厳上皇 光明上皇 崇光上皇
椿 乳母
紀良子
勇魚
赤松則祐
足利義詮
世阿弥(解説担当)
細川家家臣団のみなさん 忽那水軍のみなさん
京都市民のみなさん 室町幕府職員のみなさん
室町幕府直轄軍第13師団
山名時氏
里沢尼
◆本編内容◆
延文元年(1356)七月、細川頼之は中国地方の平定の大将を命じられて京から出陣した。頼之の主な攻撃対象は石見・安芸に影響力をもつ
足利直冬の勢力で、その先の九州までも視野に納めた戦略である。将軍・足利尊氏
は頼之の軍事活動を支援するため島津氏など九州各地の武士たちに書状を送って頼之出陣を大いにふれまわる。
情報は直冬のもとにもたらされ、直冬は「細川頼之」という名に「なにほどのことがあろう」と笑い飛ばし、安芸の国人たちや忽那の水軍勢力などに頼之の進出をくいとめるよう指示を出す。頼之出陣の情報は伯耆の
山名時氏のもとにも届き、「あの頼春の息子か」と時氏はつぶやく。さきの神内合戦の際にその陣を打ち破っていたので息子たちや家臣は頼之のことを大したことはあるまいとたかをくくっていたが、時氏は
「あの将軍が、自らのこの大任に抜擢されたとのことじゃ…何か見込まれるところがあるのじゃ」と一同をたしなめた。
京を発った頼之は備後守護に任じられた弟の頼有と合流し、摂津、播磨へとゆっくりと進む。その間にも頼之は安芸や備後の幕府方の武士たちに書状を次々と発し、自らの出陣を伝えて激励および恩賞の約束をひそかに行っていく。尊氏からは内々に闕所地の恩賞付与や各地の荘園での半済の実施権を認められた上での行動であった。
途中、頼之は播磨の大名・赤松則祐のもとを訪ねた。則祐は頼之らを歓待したうえで、山陽・山陰の昨今の情勢を説いてこれから頼之が苦労を強いられるであろうと忠告する。
「私も腰を据えてじっくりと仕事をしていこうと思うておりまする」と語る頼之に、則祐
は「お若いのに老練なことじゃ」と笑う。則祐自身も山陰から侵入してくる山名勢と対峙しており、則祐と頼之はお互いに辛苦を共にし、協力し合うことを誓い合うのだった。
やがて頼之は備後に入り、ここで腰を据えて安芸・石見方面の幕府方の武士を激励し指示を出して直冬との戦いをじっくりと進めていく。この中国地方攻略はこのあとおよそ7年にわたる大事業となる。
そのことろ、京では。
伊勢貞継という幕府の政所につとめる武士がいる。この伊勢の屋敷に夜ひそかに訪れる者があった。将軍尊氏の子・
義詮である。この屋敷には義詮がひそかに側室に迎えた紀良子がいる。義詮は尊氏はじめ周囲のすすめもあって側室を迎えることに同意したのであるが、正室の
渋川幸子の嫉妬を恐れて極秘のうちにことを運び、時折ひそかに伊勢邸の良子のもとを訪ねるようにしていたのであった。
この日、義詮は良子が懐妊したことを良子本人から聞かされた。「まことか!」と喜ぶ義詮だったが、次の瞬間ふと困ったように黙り込んだ。
「まだ幸子にはそちのことは知らせておらなんだ…幸子にもまだ子ができるかもしれんし…」とブツブツとつぶやく義詮。
「幸子様はそれほど恐ろしいお方なのですか?」と問う良子に、義詮は「いや、そのようなことは…」
と言いつつやや不安な表情を見せていた。
果たして翌日、日中に義詮が幸子のもとを訪れると、幸子がいきなり「ご懐妊とのこと、おめでとうござります」
と言って来て、義詮は肝を冷やす。「殿はこの幸子にはもはや子は出来ぬとお諦めのご様子」と幸子はチクチクと義詮に言葉の矢を浴びせる。義詮は
「あれは父上やまわりが進めたこと」と弁解するがしどろもどろになるばかり。義詮があたふたと逃げるように立ち去ると、幸子は侍女の
椿を呼びつけて今後も良子の周囲をさぐらせるよう命じるのだった。
やがて年が明け、延文二年二月。南朝の手により賀名生の地に幽閉されていた光厳・
光明・崇光の三上皇が、実に5年ぶりに京都に送還されてきた。前年の京都争奪戦が終わってから衰退著しい南朝に対し、尊氏が粘り強く交渉し和平の姿勢を示した成果であった。義詮などは「人質」である上皇たちが戻った今、一気に衰えた南朝を攻め滅ぼそうと父・尊氏に進言するが、尊氏は
「力によって滅ぼすことはいつでも出来た。だがそれでは真の解決にはならぬ。腰をすえ、じっくりとやらねばの」と言って、南朝に対してはあくまで話し合いでことを進めるよう息子に諭す。
尊氏は話題を変えて義詮の個人事情にもっていった。良子のみごもった子供は順調にいけば5月には生まれると義詮から聞かされた尊氏は
「男であればよいのう…」と目を細めるが、義詮は「はっ」と言いつつ複雑な表情。
「幸子どのに責めたてられておるのか」と呆れた尊氏は「気をつけよ。産ませた息子の扱いを誤って苦労した者がここにおるぞ」
と自嘲気味に言う。幸子の今後いかんでは世継ぎ争いになる可能性もあり、尊氏は男の子であった場合、ひとまず寺に預け僧侶にせよと義詮に忠告する。
五月五日、端午の節句のその日に良子は足利家にとって待望の男の子を産んだ。しかし義詮はこれを表沙汰にはせず、伊勢邸でその子を育てさせる。そしてその上でただちに寺に預けることにしたいと良子に申し出ると、良子は激しく落胆する。その様子を見て伊勢貞継が義詮に
「良子様にはよきご相談相手が必要」と進言した。良子の姉が後光厳天皇の后となっていたが、これはさすがにそうしばしば顔を合わすわけにも行かぬと貞継は言い、以前いささか関わりがあり今は夫の留守を守る立場となっている頼之の妻・
慈子の名を挙げた。義詮は頼之については父・尊氏も買っているようだとしてその話に乗る。
やがて義詮からの内密の要請に従って、慈子は良子のもとを訪れた。二人は初対面の時の犬の話から始まって昔馴染みの親友のように打ち解けあう。
「今は赤子を育てるのに忙しいゆえ、申し訳ありませんが犬の方の面倒を見るのも手伝っていただけませぬか」と良子は笑いながら言う。例の子犬もすっかり大きくなっていた。
「乳母も雇っているのですが、なかなか子を産み、育てると言うのは大変なものです…ましてそれが将軍のお血筋となると」と良子は言い、義詮の正室・幸子が何かとこの子を警戒しているよう様子と慈子にこぼす。
「これも戦でございますな…我が夫も戦場で戦うております。女子には女子の戦があるものと今日思い知りました」と慈子は言い、なんでも気安く相談して欲しいと良子を励ますのだった。
良子と慈子がしばしば会っているとの情報が、実は幸子の侍女・椿が送り込んでいた乳母から幸子のもとにもたらされていた。幸子は慈子が中国平定の大将となっている細川頼之の妻だと知り、頼之に対しても警戒心を抱いていく。
六月。幕府では尊氏と面会した細川清氏が吠えていた。清氏は尊氏に対し越前守護職を自分に与えてくれるよう強硬に要求していたのである。
「越前の守護はこれまでもたびたび幕府に逆らい、つい前年にも敵であった斯波高経でござりますぞ。その先の越中はやはり同じ類いの桃井直常。私が越前守護を求めるは単に私欲に走ってのことではありませぬ。北陸を平定するためにも越前をそれがしが押さえるのが肝要」
と強く主張する清氏に、尊氏は「彼らを力で封じ込めることはできぬ」と諭し、と同時に清氏が守護をつとめる越前の隣国・若狭で清氏が東大寺などの所領への半済や強奪を推し進めていることで寺社勢力の幕府への不信が増していることを口にする。
「そなたは今や幕府を支える大きな存在なのじゃ。少しは利口になれ」と言う尊氏に、清氏は「利口になってはそれがしはそれがしでなくなります」
と大笑いし、その場を立ち去っていってしまう。清氏はそのまま帰宅すると、妻の正子に
「わしの育った国を見せてやろう」と告げ、家族や家臣たちも引き連れて京を出奔し、阿波へと旅立ってしまう。
前年の頼之に続く出奔騒動に幕府内にはまたしても不穏な噂が飛び交う。中には「清氏は南朝に降伏して阿波で挙兵するのではないか」
というものまであったが、尊氏も義詮もこれには否定的であった。ただ尊氏は「清氏め、それで頼之を真似たつもりか…」
とだけ一人つぶやいていた。
阿波に上陸した清氏一行はそのまま秋月に入った。秋月には頼之の母であり少年時代の清氏の面倒を見たこともある 里沢尼がいた。里沢尼は詳しい事情は聞かず、ただ清氏との再会を懐かしがり、正子や清氏の子たちとの対面を楽しみ昔話に花を咲かせる。清氏も久々の秋月に心の安堵を得る思いだった。 「やはり阿波はいいですなぁ…都は面白くもあるが、人と人とが互いに心を許せず、心の治まる暇のないところじゃ。このままここに居付きたい気分じゃ」 と清氏が言うと、正子が「冗談ではありませぬ!」と思わず声を上げる。 「戯れに言うたまでよ、案ずるな。都にはすぐに戻れる」と清氏は笑うが、里沢尼はチラと清氏の態度に不安を感じてもいた。
清氏が阿波に逐電してしまったとの情報は守護代の新開真行から備後にいる頼之のもとにもたらされた。相前後して京からも使者が来て、清氏を京へ呼び戻すよう頼之に仲介を求めるとの義詮の書状もあった。頼之は自ら阿波に赴いて説得すべきかと考えたが、側近の
三島三郎が「殿には重大なお務めがある」として自ら使者役を願い出たので彼に任せることにする。三郎はただちに安宅頼藤の配下として頼之の応援にきていた
勇魚の率いる水軍を利用して海路阿波へと向かう。ところが備後の鞆を出港して間もなく、直冬方の忽那水軍が彼らに襲いかかって来た。