細川頼之
細川清氏
慈子
渋川幸子
細川頼有 小波
新開真行 三島三郎
伊勢貞継 正子
椿 乳母
紀良子
小笠原頼清
勇魚
足利義詮
世阿弥(解説担当)
柏王 春王 弥九郎
熊野水軍のみなさん 忽那水軍のみなさん
細川家家臣団のみなさん 室町幕府職員のみなさん
阿波国住民のみなさん
里沢尼
◆本編内容◆
三島三郎と勇魚が乗る船を直冬方についている忽那水軍の船団が襲った。多勢に無勢と三郎達は逃げの一手を打つが、逃げ切れずに包囲されかかる。しかしそこへ勇魚と同じ熊野水軍の船団が駆けつけ、少々の戦闘ののち忽那水軍は撤退していく。駆けつけてきた熊野水軍には12歳ぐらいの少女が乗り込んでいた。勇魚がその少女を 小波と紹介すると久しぶりに会った三郎は小波の見違えた成長ぶりに驚く。小波が言うには神女の 速波が勇魚たちの危機を察知して船団を送り出したとのことで、小波は自分も大きくなったのだから船に乗ってよその土地を見てきたいとねだって便乗してきたものだった。 「細川の殿はお元気か」と小波は昔頼之からもらった短刀を三郎に見せ、かすかに頼之の面影を覚えていると語るのだった。
一方、阿波では都から出奔してきた細川清氏が退屈しのぎに鷹狩りなどしながら各地を走り回っていた。その途中、清氏に猟師姿の男たちが近づいてきて、「ぜひ会ってもらいたい者がいる」と清氏を古い社に招いた。そこで清氏を待っていたのはこの数年来頼之に押しまくられて阿波の山奥に逼塞していたはずの
小笠原頼清であった。驚く清氏に頼清はいまなお阿波の山地では頼之の支配に抵抗する勢力が健在であること、またいったんは頼之に服従している形の阿波の武士たちの中にも依然として細川の支配に不満を持っている者もいることなどを説明する。
「まして頼之どのは阿波を留守にして山陽に兵を進めている。このままでは阿波は再び混乱に陥りましょうぞ」と頼清は言い、
「そのとき阿波をまとめる器量をお持ちの方は、相模守さま(清氏)しかおられますまい」と清氏に媚びを売る。
「わしに頼之に代わってこの阿波の主となれ、というのか…?」と清氏は一瞬考えるようなそぶりを見せる
。「阿波と言わず、相模守様ならば四国全てを平らげることも夢ではありますまい」と頼清。これを聞くと清氏は「四国だと?小さい、小さい。わしの夢はそのような小さなものではないわ」と大笑し、
「小笠原どの、これは聞かなかったことにしておいてやろう。少なくともわしは頼之の留守にその家を乗っ取るような真似はせぬ」と言い置いて社を出て行った。
清氏が秋月の館に戻ってくると、三島三郎が頼之の命を受けてやって来ていた。清氏は三郎の言上を聞きもせずに
「ただちに都へ帰る」と言い出し、逆に三郎や新開真行を唖然とさせる。
里沢尼は清氏の慌しい動きに不審を感じて「なんぞありましたか」と清氏に探りを入れるが、清氏は笑ってごまかすばかり。
九月。頼之は幕府からの命令でいったん京に戻った。
尊氏と義詮に挨拶をしにいくと清氏も姿を見せている。頼之が久しぶりに見た尊氏はすっかり老い、繰り返し襲った病魔のために外見は衰えきっているように見えた。尊氏は清氏の出奔のことは不問にすることを伝え、今後清氏は義詮の片腕として政務にあたって欲しいと告げる。そして頼之には近く尊氏自らが中国・九州平定の大軍を起こす予定であるからその際には先陣を務めよと命じた。だが頼之は内心、尊氏にもはやそのような大仕事が出来るだけの力が残っていないのではないかと思うのだった。
将軍父子の前から退出したあと、清氏も尊氏の体調について同様の印象を受けたことを頼之に語る。そして清氏は阿波で見聞きしたことを頼之に話し、頼之が留守の間に阿波で反頼之の勢力が再び勢いを増していると忠告するのだった。
頼之は久しぶりに京屋敷に帰宅し、妻の慈子と夫婦水入らずで過ごした。慈子は最近義詮の側室・
良子のもとに通い、よき話相手であると同時に良子の子・柏王の養育の手伝いもしていた。赤ん坊がいかに可愛いかを慈子は頼之に楽しそうに語り続ける。
一ヶ月ほどの滞在の後、頼之は再び備後へと旅立っていった。
年が明けて延文三年正月。備後にいる頼之のもとに京から吉報が届いた。ついに慈子が懐妊したというのである。しかもほぼ同じ頃に良子がまた義詮の子を宿していることが判明し、二人で喜び合っているとの知らせであった。長いこと子の無かった頼之夫妻にとって待望の知らせに弟の
頼有や三郎達も大いに喜ぶ。
しかし良子が二人目の子を宿したことに心穏やかでない者もいる。義詮の正室・幸子である。幸子は侍女の
椿を呼びつけて「なぜ良子どのにばかり子ができる…わたくしとてまだ子を産めように…」
と愚痴る。すでに生まれた一人目の男子については寺に預けることが決まっていたが、二人目も男子であった場合、ますます良子の子が後継ぎと決められそうだと幸子は焦る。尊氏の病状がすでにかなり重くなっていたことも幸子の不安に拍車をかけていた。
良子に二人目の子が出来たことを義詮から聞かされた尊氏は「子は多いほうが良い」と素直に喜ぶ。しかしその子が男子にせよ女子にせよやはり寺に預けよと尊氏は義詮に忠告する。そして春三月にもかねて予定の九州親征を実施すると尊氏は言い、
「その孫が生まれるのは留守中のことになるかのう…」とつぶやく。
しかし当初三月上旬と発表されていた九州遠征の実施は、尊氏の病状悪化で下旬に延期された。そしていつしか遠征の話そのものが立ち消えになっていく。備後の頼之は都から入ってくる情報に尊氏の病がやはり深刻であるらしいと思うのだった。
果たして五月に入って間もなく、「尊氏逝去」の知らせが頼之のもとにもたらされた。延文三年四月三十日のことで、尊氏は享年五十四歳であった。頼之は尊氏とのいくつかの思い出を振り返り、その波乱の生涯に思いを馳せるのだった。
この世を去る者があればこの世に生まれてくる者もある。七月になってついに慈子が頼之の長男を出産した。この知らせに頼之は大いに喜び、さっそく自らと同じく「弥九郎」と名づけるよう書状で命じる。
そしてそれから一月ほど後の延文三年八月二十二日、伊勢貞継の屋敷で紀良子も男子を出産した。知らせを聞いた義詮は大いに喜び、
「春王」と命名する。この赤子が室町幕府三代将軍・足利義満その人である。