第十六回
「覇者の道」
 

◆アヴァン・タイトル◆

 幕府の創設者・足利尊氏が死んで一年。幕府は尊氏の子・義詮や細川清氏など創業二代目の若い世代が中核となって動き始めた。彼らの当面の課題は将軍と幕府の権威の強化、そして全国にいる反幕府勢力の平定であった。


◎出 演◎

細川頼之

細川清氏

慈子

楠木正儀

今川貞世

細川頼有 新開真行

三島三郎 安宅頼藤

足利基氏 畠山国清 

後村上天皇 和田正武 陸良親王

懐良親王 菊地武光 細川家氏 細川繁氏

赤松貞範 赤松範実 土岐頼康 今川範氏

速波

仁木義長

紀良子

勇魚

小波

小笠原頼清

世阿弥(解説担当)

春王 
細川家家臣団のみなさん
室町幕府職員のみなさん
室町幕府直轄軍第14師団・第15師団
ロケ協力:東寺

赤松則祐

足利義詮

佐々木道誉


◆本編内容◆

 延文四年(正平14、1359年)、足利幕府は前年に正式に征夷大将軍となった足利義詮 と、執事となった細川清氏のもとで若返った新しい体制を構築しつつあった。そんな中、生まれたばかりの一子を失った悲しみの癒えぬまま 細川頼之は再び中国平定の事業を進めるべく備後へと旅立っていく。京に残された妻の慈子 は義詮と紀良子の子・春王の乳母となり、自らの子を失った悲しみを忘れようとするかのように春王の養育にいそしむのだった。

 尊氏の一周忌が過ぎ、義詮と清氏は本格的に政事・軍事の体制強化に務め始める。義詮は父・尊氏がその死の直前まで心にかけていた九州の懐良親王の勢力の平定を企図し、清氏はこれまで宥和政策をとってきた南畿方面の南朝勢力に対し軍事的な強攻策をとるべきと進言する。これらの南朝に対する軍事行動はそれによって将軍の権威強化を図り、ともすれば勝手にふるまいがちな諸大名の統制を図るという狙いもあった。
 九州平定の任には四国に拠点を持つ細川一族の者をあてるべきとの清氏の進言により、細川顕氏の子・繁氏 が抜擢された。命を受けた繁氏はさっそく自らが守護をつとめる四国・讃岐に向かう。ところがこの年の6月、繁氏は讃岐で謎の急死をとげてしまった。この情報は熊野水軍の 勇魚によって頼之のもとにもたらされたが、勇魚は確証はないとしながらも繁氏の急死は南朝側に通じる者による暗殺ではないかとほのめかす。四国、九州、そして畿内や海上でも最近南朝方の動きが活発化していると勇魚は告げた。頼之は勇魚に南朝方の水軍などの動向をさぐって報告して欲しいと頼む。

 勇魚は久々に紀州の自分の村に戻った。小波が待ちかまえていて話をせがむが、勇魚はまっすぐに社に行き神女の 速波に面会する。速波はちかごろこの村の主筋になっている安宅一族と南朝の間になにか連絡がかわされているようだと勇魚に打ち明け、それが 楠木正儀から漏らされた情報であることも明かした。尊氏の死を機に河内・天野の金剛寺にいる後村上天皇 ら南朝首脳が形勢挽回を狙って動きを活発化させており、もともと和平派の正儀はその中で孤立しがちとなっていたのである。速波は勇魚に 安宅頼藤に会って様子をうかがってくるよう勧め、それに小波を同行するよう言いつける。
 安宅頼藤はこのとき紀州・熊野にあった。勇魚と小波が頼藤に面会すると、頼藤は小波の顔を見て「速波に似て、いい目をしておる」 と微笑み、「その目で、わしが何を考えているか、読み取れるか?」と問う。小波は 「殿のお心は、細川様を裏切ることにお決まりでしょう」とズバリ言う。「裏切るとはきつい物言いじゃな。もともとわしは頼之の家臣になった覚えは無いぞ」 と頼藤は笑い、頼之が長いこと阿波を留守にしているうちに小笠原氏をはじめとする阿波国内の反細川勢力が台頭してきていること、その小笠原氏と安宅氏は縁続きであり、頼藤がもともと南朝側についていた過去もあることで小笠原氏から南朝との連絡を頼まれていること、そして南朝の側も尊氏死去で幕府が弱体化しているこのときに頼藤ら熊野水軍を味方につけて勢力挽回をはかろうとしていること、などを説明する。 「もともとわしらは海に生きる者。どちらの帝であろうが幕府であろうが守護であろうが、決まった相手に忠義を尽くす言われは無い。そのときそのとき利がある方につく」 と頼藤は言い、今は南朝側についている方が利があると語る。すでに頼藤を備後守に任じるとの南朝の綸旨が送られてきており、阿波南部方面を攻略するよう要請が来ており、頼藤はこれを受けるつもりであった。 「勇魚、お前の村の者たちはすでに頼之とは深く関わっておる。気がとがめるなら無理にわしについてくる必要は無い。勝手にすればよい…望むなら、一戦交えても構わんぞ」 と頼藤は言う。勇魚は黙って引き下がった。
 村へ帰る船の上で、小波は勇魚にこのまま備後の頼之のもとへ向かおうともちかける。「安宅の殿様と戦うことは出来ぬが…その動きを抑えることは出来る。頼之様はたいしたお方だから…」 と小波は言い、いつも懐に入れて持ち歩いている、頼之からもらった短刀を勇魚に見せ、「それに頼之様のお顔も久しぶりに見てみたいし」 と言って笑って見せた。

 小波と勇魚は備後に赴き、頼之に面会した。頼之はかつて短刀を与えた幼女がこれほどに育つものかと大いに驚き、年月の経つのは速いものだと呆れる。彼らから安宅頼藤が南朝方に寝返るとの情報を受けた頼之は 「阿波を放って置きすぎたようじゃな」とつぶやき、三島三郎にただちに阿波に渡り、守護代の 新開真行らと対応に当れと命じる。そして安宅一族に与えられていた阿波南部の牛牧庄を新開に与えて安宅氏の動きを封じるよう策をとる。
 この年8月、ついに安宅頼藤が南朝側に寝返り、紀州水道から淡路近辺で活発に活動を開始した。しかし阿波に関しては頼之の命を受けた新開真行らが早急に措置をとったために安宅側も目立った動きがとれず、また阿波山間部で活動する 小笠原頼清もやはり形勢挽回とまではいかない情勢だった。

 安宅氏の南朝への帰順と時を同じくして、九州でも戦雲が巻き起こっていた。8月6日、南朝の征西将軍・ 懐良親王菊地武光の軍勢が幕府側についた少弐・大友らの軍勢と大保原で激突、激戦の末これを打ち破った。この一戦により懐良の征西将軍府の九州支配はますます確固たるものとなっていく。
 こうした情勢の中、京の義詮のもとから使者が鎌倉で関東を治める弟の足利基氏に送られた。書状を受け取った基氏は鎌倉府の執事を務める 畠山国清を呼び出し、その内容について協議する。兄弟の父である尊氏の死から一年が経ち、南朝側の動きが活発となりつつあるこの機に、畿内周辺と関東から大軍を催して一挙に南朝勢力を覆滅してしまおう、と義詮は提案してきていた。 「兄上は父上に負けまいと焦っておられるのではないか」と基氏は関東から大軍を派遣することに難色を示すが、内心中央政界への復帰も考えていた国清は 「昨年新田義興を討ち取り、すでに関東は静謐」と述べて大軍の派遣を強く勧める。「世間では不愉快な噂も流れておるようで…将軍ご兄弟の間に不和があるとか…」 とも国清は言い、義詮と幕府から不信を抱かれないためにもここは積極的に協力した方が良いと意見した。これに基氏もうなづくほかなかった。
 10月、畠山国清は大軍を率いて関東から出陣、11月初めに京に到着した。義詮は近江の佐々木道誉 ら京周辺の大名にも号令をかけ、畿内は一気に開戦前夜の様相を呈してきた。

 幕府のこの動きに、河内・天野の南朝朝廷は色めきたった。そこへ楠木正儀が一族の和田正武 をともなって参内してくる。正儀は後村上天皇に対策を問われて「主上には金剛山の奥、観心寺にお移り召されませ。我らは河内の各所の要害にたてこもり、敵の大軍を引き寄せ、持久戦に持ち込みまする。畠山らは大軍とはいえ、遠路を来た寄せ集めの兵。かつて父・正成が赤坂・千早で見せた戦いを思い起こされませ」 と力強く答えて後村上や公家たちを安堵させる。ただちに後村上らは観心寺に皇居を移す。それを見送りながら正儀は 「我らは負けぬ戦をすればよい…それが楠木の戦ぞ」と正武に言うのだった。

 12月19日。義詮は南方討伐軍の出陣を宣し、自ら鎧に身を固めて東寺に入った。これに執事の清氏、その弟・ 家氏今川貞世とその兄範氏仁木義長土岐頼康らが付き従う。東寺に入った清氏は友の貞世や弟の家氏に 「この東寺に一番乗りをして以来、久しぶりの戦じゃのう…血が騒ぐわ」と言って笑う。清氏はこの戦いで南朝勢力を一掃し、義詮と幕府の権威を確固たるものとするのだと言い、 「それが将軍家の執事であり武家の管領であるこの清氏のつとめ」と気概を語る。「その執事ともあろうものが、いつものようなムチャはなされるなよ」 と貞世が笑ってたしなめるが、「武士たるもの、いかなる位階にあろうとも、頼みとするのはおのれの太刀と弓矢よ。それを忘れては武家の管領などとは申せまい」 と清氏はこの戦いでも先陣に立って戦うと言い放つ。
 12月23日、義詮は本陣を尼崎に移した。播磨・摂津からは赤松貞範 赤松則祐ら赤松一族の軍勢が加わり、畠山国清らは八幡から河内へと侵入する。これに対し南朝軍の主力である楠木軍はこれを正面から迎え撃つことなく、赤坂、龍泉の要害に城を構えて山岳持久戦の体勢をとった。いつもながらの楠木流の戦い方であったが、実際幕府軍は不案内な土地での小競り合い程度に苦戦するほどで、本格的な攻撃にはかかれず数ヶ月間にらみ合いを続けることになる。この間に年が明けて延文5年となる。

 3月、状況の打開を図って畠山国清は一時南朝の皇居となっていた金剛寺を攻撃してこれを焼き払う一方、4月には紀州に軍勢を送り、南朝の公家で紀州で挙兵していた四条隆俊の軍を攻略させた。しかしこの攻撃は失敗に終わり、義詮のいる尼崎の本営内では仁木義長ら反畠山の武将が国清批判をおおっぴらに繰り広げ、武将たちの間に険悪な空気が広がる。そんなおり赤松則祐が、以前かついでいたこともある護良親王の皇子・ 陸良親王(赤松宮)に連絡をとって彼に南朝内で反乱を起こさせたりもしたが、これもほぼ失敗に終わった。紀州の攻略は再度行われ、今川貞世もこれに参加してどうにか勝利を収める。
 閏4月、楠木軍のたてこもる城の一つ・龍泉城に対して幕府軍は総攻撃を開始した。だがすでに楠木軍はわずかな手勢だけを残してひそかに兵力を移動させており、龍泉城はあっけなく落城する。この龍泉城攻撃では執事・細川清氏が自ら 赤松範実と先陣争いを演じる大立ち回りを見せていた。

 この龍泉城陥落に続き平石城も落ち、楠木・和田の軍勢が立て篭もるのは赤坂城のみとなった。この赤坂城にも幕府軍が殺到し、正儀はただちに赤坂城を捨ててさらに金剛山に立て篭もることを決断する。しかし和田正武は 「まともに一戦も交えずに引き上げるのも癪だ」と独断で幕府軍の陣への夜襲を実行する。夜襲を受けた幕府軍は一時混乱するが、敵襲に気づいた清氏がただちに兵を率いて和田軍の背後に回り、 「清氏これにあり!者ども逃げるな!」と呼ばわって士気を鼓舞、結局正武は退却する。正儀はただちに赤坂の城に火を放ち、正武と共に金剛山へと軍勢を引き上げていった。
 河内全域をほぼ制圧し、意気上がる幕府軍であったが、さすがに金剛山まで一気に攻め込むことは出来ず、長引く戦いに遠路やって来た兵士たちも疲れ果てて、このままでは鎌倉幕府の二の舞になりかねないとして、いったん軍事作戦を終了することが会議のすえ義詮により決定された。 「しかしこのままでは楠木軍は全くの温存ですぞ」と徹底殲滅を主張する清氏だったが、仁木義長らもともとこの作戦に反対だった大名たちの意見も幕府の執事としては無視できず、しぶしぶ撤兵に同意する。

 5月28日、義詮は「南方退治は終わった」として京に凱旋した。その華やかな隊列の中にあって清氏はあまり面白くない顔を見せている。清氏は家氏に言う。 「この戦、詰めを欠いておる…御先代もそうだったが、将軍は甘い。それがいつも後に禍根を残しておる。武家の棟梁ならば、ときには非情に、覇者の道を歩まねばならぬはずではないか…わしがもし将軍ならば…」 この最後の言葉に、家氏は一瞬ギョッとした表情を見せた。

第十六回「覇者の道」終(2002年4月28日)


★解説★

 ああ、懸念していたらやっぱりついに連載が落ちましたね。一週間遅れての更新であります。作者がスケジュール的に4月後半やたら忙しかったということもあるようでございますが、もう一つの理由としてフィクションキャラクターの動向をそろそろ確定しておかないと、というところで悩んだ部分もあったようでございます。実際の歴史ドラマ・映画でもそうなんですけど、この手の狂言回し的架空キャラの扱いって難しいんですよね。なら出さなきゃいいだろ、とのご意見もありましょうが、やっぱり必要なんですよ、いろいろと。
 それにしても今回は出演者がやたらに多くなってますねぇ。やはり戦雲巻き起こると登場人物も増えてくるということでございましょうか。今回は「義詮新体制」がいよいよ本格的に動き出す状況が描かれ、「二代目の時代」に突入したことが実感できますね。

 最初の方で、以前チラッと登場したこともある細川繁氏さんが九州遠征の途上で頓死しております。これは「太平記」にしか書かれていないことで詳しいことは全く分からないのですが、このころから繁氏さんの消息がまったく途絶えてしまうのは事実。「太平記」は讃岐まで来たら崇徳上皇の (保元の乱で敗れて流刑になった人)の怨霊がとりついて繁氏さんを狂い死にさせたと記しているのですが…まぁドラマ的には「暗殺」で片付けたいところですね。このあと讃岐には頼之さんの支配が及ぶようになるのですが、まさか頼之さんが殺したってわけにもねぇ…。
 以前南朝につかえていたのに頼之さんに鞍替えした経緯が描かれた熊野水軍の安宅頼藤さんが、また南朝側に鞍替えします。この動きの背景などは不明のところも多いのですが、安宅氏の文書などからこの年の7月に頼藤が南朝から備後守に任じられ、8月3日付けで阿波小豆坂以南の攻略を命じられたことが分かっております。もともと水軍である彼らは幕府だろうが南朝だろうがどっちでも良かったんでしょうね。ま、それは水軍に限ったことではありませんが。この安宅氏の寝返りと前後して以前安宅氏に与えられた牛牧庄が新開真行さんに与えられていた形跡があり、頼之さんがお留守番役の新開さんに安宅封じをさせたことをうかがわせます。

 チラッと九州の動きが出てきますね。この年の8月6日に懐良親王と菊地氏の軍勢が、大保原(おおほばる)で少弐頼尚さんを打ち破って征西将軍府による九州支配の黄金時代をひらくことになります。この合戦にいたる経緯はそれこそ複雑怪奇で説明に困るのですが、少弐頼尚さんって以前直冬さんを婿に迎えて九州支配をもくろんだこともあったし、直冬さんが没落すると懐良親王と組んで幕府の九州探題・一色氏を追い払ったりしたこともあり、とにかく熱烈に九州支配の野望に燃えていたお方なんですよね。もともと大宰府の長官的立場の家柄なので九州支配者の自負があったのでしょうけど、およそ節操と言うものがありません (まぁこの時代どこでもこういう現象が見られますが)。このときも懐良・菊地軍の裏をかいて一発逆転を狙ったのですが、結局負けてしまってるんですね。この九州の情勢はいずれ今川貞世(了俊)さんが深く関わることになるので頭の片隅にでもとどめておいてくださりませ。
 で、目を転じると鎌倉府の動きが初めて描かれております。以前の武士の都であった鎌倉に幕府の「支店」を置いて関東支配を任せるというシステムは尊氏・直義お二人が二頭体制をとっていた頃に義詮さんが鎌倉に置かれていたことにルーツをみることができ、観応の擾乱の過程で義詮さんが京に呼び出されますと代わりに同母弟である基氏さんが鎌倉に配置されたわけです。以後、基氏さんの子孫が鎌倉府を経営していくわけなんですけど、どうも京の幕府と鎌倉府の関係って早い段階からギクシャクしていたみたい。「太平記」によればこの時期にも「兄弟不和」という噂が飛び交ったとあり (セリフ中にチラッと出しておいたでしょ)、その後も何度となく鎌倉府が幕府とトラブるケースが出てきます。その終局がこのドラマ放映年(永享10年)に起こった「永享の乱」であるわけですが…あ、まだ起きてないんですけどね。現時点では緊張状態が続いている、ってところですかな(笑)。
 前年に新田義興が亡くなったという話が出てきますが、これは「太平記」に詳しく、畠山国清の計略で義貞の子・義興が矢口の渡しで暗殺されたことを指しています。この義興の怨霊が人々を悩ませたという話になっていて、はるか後にマルチタレント平賀源内がお芝居にしたりしているんですが、まぁそれは脱線ですね。とにかくこれで関東がだいたい静まったので国清が大軍を率いて南朝討伐に乗り出せた次第です。

 義詮さん自身も出陣した大規模な南朝掃討作戦ですが、「太平記」を見る限りおおむねこのドラマと同じ展開(っていうか、このドラマが「太平記」の記述をベースにしてるんですけど) 。はっきり言ってまともに戦えるわけのない南朝軍は山奥にこもってゲリラ戦で抵抗します。その中で清氏さんがまるで水を得た魚のように(笑)大活躍している模様が「太平記」に描かれています。龍泉城攻撃では赤松範実さんと一番乗り争いをして、部下の旗指物を引っこ抜いて城の門前に突き立て、「先懸けは清氏にあり!」と叫んだそうで。すると赤松さんが「先懸けは範実でござるぞ。あとで証人に立ってくだされ」と塀を越えて城の中へ乗り込んでいったとか。範実さんはともかく、清氏さん、あんた一国の首相(官房長官?)と言ってもいい立場なんだけどな…少しは身を慎みなさい。
 とか言っていると和田正武が夜襲をしかけてくるとやっぱり「清氏ここにあり」と飛び出してきてしまう。「太平記」のいたるところでこういうシーンを見かけるので、たぶん実際にそういう性格だったんじゃないですかね、この人は。

制作・著作:MHK・徹夜城