第十七回
「暗闘」
 

◆アヴァン・タイトル◆

 延文五年(1360)5月、二代将軍・足利義詮と執事・細川清氏および関東から来た畠山国清らによって実行された南朝に対する大攻勢は半年がかりでひとまず終結し、義詮以下の諸将は京へと引き上げた。しかし諸将間の軋轢から南朝討滅は不徹底に終わり、間もなく南朝勢力は息を吹き返すこととなる。そして幕府内は守護大名間の激しい権力闘争の兆しが見え始めていた。


◎出 演◎

細川頼之

細川清氏

慈子

楠木正儀

今川貞世

渋川幸子

細川頼有 三島三郎

伊勢貞継

畠山国清 仁木頼夏 佐々木氏頼

細川家氏 細川将氏 赤松貞範 

紀良子

勇魚

小波

仁木義長

世阿弥(解説担当)

春王 
細川家家臣団のみなさん
室町幕府職員のみなさん 河内国ゲリラ集団のみなさん
室町幕府直轄軍第13師団・第16師団

赤松則祐

足利義詮

山名時氏

佐々木道誉


◆本編内容◆

 延文5年5月28日、将軍足利義詮は南朝に対する軍事行動を終えて京都へと凱旋した。しかし南朝勢力に対して完全にとどめをささないままでの帰還には、幕府内でも批判の声が上がっていた。実際、幕府軍主力が引き上げた直後に 楠木正儀らの軍が河内国内に展開し、一気に勢いを巻き返してしまっていた。
 批判の急先鋒は戦場にあっても露骨に不満をもらしていた伊勢・三河などの守護・仁木義長であった。義長の批判は将軍である義詮にではなく、執事であり以前からの怨恨もある 細川清氏にもっぱら向けられていた。清氏の弟・将氏 家氏は清氏に義長の動きを警戒するよう進言し、清氏もまた「わしにも考えはある」 と言うのだった。

 7月に入って間もなく、清氏は関東からやって来た畠山国清、親友の 今川貞世、さらに佐々木氏頼佐々木道誉 らを招いて酒宴を催した。この席で清氏は一同に「幕府にあって君側の奸となっている仁木義長を討つべし」 と提案する。もともと義長と対立関係にある武将ばかりを清氏は選んで招いていたから、一同はあっさり乗り気になって賛意を示した。ただ今川貞世は 「今の京で大軍を動かしての合戦は無用」として京の外に大軍を集結させて威嚇し、義長が自ら京を捨てるよう仕向けるべきと意見する。清氏もこれにうなずき、河内方面で跳梁する楠木勢を討つためと称して京郊外に大軍を集結させることに決する。そんな中、佐々木道誉だけは賛意を示しつつも 「わしは京に残って様子を見ることにいたそう…万一のためにな」と言い残して席を立った。そんな道誉の様子に清氏は 「もしや寝返りを打つつもりではあるまいな…なにせ数々の寝返りを重ねてきた御仁じゃ」と疑念を持つが、貞世にたしなめられる。
 清氏は翌日に義詮に面会し、国清・貞世らと楠木退治のために河内へ出陣したいと申し出る。義詮は何も知らず素直に喜んで出陣を快諾した。

 7月6日、細川清氏・畠山国清・今川貞世らに率いられた軍勢が河内目指して出陣した。この動きを知った楠木正儀はただちに展開していた軍勢を千早・赤坂方面へ退却させる。正儀のもとにも京の不穏な情勢が伝えられており、この清氏らの出陣がどうやら本気のものではないようだと正儀は察していた。果たして清氏らの軍勢は河内にいったんは入ったもののまともな合戦もせずにピタリと動きを止めてしまった。そして逆に京へ向けて進撃を始めたのである。
 この状況に仁木義長は自らに危険が迫っていることを本能的に感じとった。義長はただちに義詮邸に出向いて義詮に面会し、 「このたびの細川相模守(清氏)の河内への出陣は、この義長を討たんとする謀略にござりまする!清氏は将軍をたばかったのでござりますぞ。これを反逆とよばずして何と申しましょうか」 と訴えた。あまりのことに義詮は「そのようなこと、まさか…」と動揺し、義長の無実を認めてあくまで義長をかばってやると明言する。その上で清氏らの真意を探らせるべく、使者として佐々木道誉を清氏らの陣営に赴かせることにした。

 7月13日、道誉は義詮の命を受けて京を出発、京に進みつつある清氏らの陣営に向かった。清氏は道誉の姿を見てひとまず安堵し、京の情勢を聞く。道誉が義長が慌てて義詮に泣きついていると告げると清氏らは 「もはや事は成れり」と大笑いするが、道誉は「気を緩めなさるな」とニヤリと言い置いて、そのまま京へと帰ってしまう。その行動にも清氏は疑念を新たにするのだった。
 同じ頃。仁木義長は清氏らの軍の接近に焦りの色を濃くしていた。「かくなる上は」と義長は立ち上がり、甥の 仁木頼夏を呼び出し、「将軍の館を囲むぞ。玉を取られてはこちらの負けだ」と命じる。義長・頼夏に率いられた仁木軍はただちに義詮邸にかけつけ、これを完全に包囲、他人の面会も許さず、義詮を事実上の軟禁状態に置いてしまう。突然の事態に義詮は呆然とするばかりである。しかし正室の 幸子「こうなっては我らにはどうにもなりませぬ。将軍らしく泰然と構えているより他にありますまい」 と平然としている。
 事態の急変は伊勢貞継の屋敷にも伝わり、貞継は義詮の側室・ 良子春王、そして乳母をつとめる頼之の妻・ 慈子「万一に備えて京から脱出を」と勧める。ひとまず彼女たちは良子の実家である石清水八幡のふもと・善法寺に避難する。
 義長が将軍邸を包囲、義詮を軟禁してしまったことは清氏らのもとにも伝わった。将軍を人質にとられた形で、清氏らは 「いかがしたもの」と困惑、将軍の身柄を確保しておかなかった己の不明を悔しがる。

 三日後、将軍邸から出入りできるのは必要な品を仕入れに北側の小門から出て行く正室・幸子の侍女ばかりとなっていたのだが、彼女らにより運び込まれた荷物の中に佐々木道誉からの密書が紛れ込んでいた。幸子から渡されて義詮がそれを読んで見ると、脱出のための計略が書かれている。幸子が大いに成功を保証したので義詮はこの策に乗ってみる事にする。
 翌日の朝、義詮は体の不調を訴えて寝所にふとんをかぶって引きこもってしまった。これには警戒にあたっていた仁木頼夏も遠慮して義詮の寝所を遠い位置に移動した。そして午後になり、佐々木道誉が百ばかりの兵を率いて 「陣中見舞いじゃ」と将軍邸に入っている仁木義長のもとを訪ねてきた。道誉は義長に「わしも清氏とは以前からそりが合わんでのう」 と語って「わしは仁木殿の味方じゃ。清氏ごとき我が兵で蹴散らしてくれよう」と義長を励ます。義長は大いに感激し、道誉が持ち込んだ振舞い酒を兵たちに与えて数時間にわたり夜に入るまで道誉と語らいあう。
 夜に入って宴がたけなわになったころ、女房姿に身をやつした義詮がひそかに行動を開始した。義詮は供の者を二人だけ連れて北門からひそかに脱出、門の外に用意されていた馬に乗って脱兎のごとく駆け出していってしまう。ころあいを見計らって道誉が 「では、そろそろおいとまを…」と義長に別れを告げて将軍邸から引き上げていく。何も知らない義長はほろ酔い気分でそれを見送るのだった。
 翌朝。義長は「お体のご様子はいかがか」と言いながら義詮の寝所近くへとやって来た。しかし何の反応もないのでいぶかりつつ奥へと踏み込んでいくと、将軍の座に幸子が座って待ち受けていた。ぽかんとする義長の顔を見て幸子が大笑い、ここで義長は義詮に逃げられたことを悟った。 「いっぱい食った…将軍め…しまった!道誉入道じゃ!あやつ!」道誉の計略に嵌められたことに気づいた義長は激怒してあたりの屏風や壁に刀を振り回す。それを見てさらに笑う幸子。やがて義長はガックリと座り込んでしまった。

 将軍・義詮に逃げられてしまったことを知った仁木軍の兵たちは「敗北必至」とみてたちまち蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってしまった。一戦交えることすら出来なくなった義長は7月18日、自邸に火を放って京から脱出、根拠地である伊勢へと落ち延びていった。
 翌7月19日、義長と入れ替わりに清氏らの軍勢が京へと入った。一戦も交えず義長を追い落とすという当初の思惑通りになったわけだが、馬を進める清氏の表情は冴えなかった。清氏は自らの失策を自覚しつつも、裏で暗躍し全てを演出していた道誉という男に対する畏怖と嫌悪を感じていたのだった。

 この仁木義長没落事件は義詮の率いる幕府が依然として弱体であり不安定なものであることを世間に露呈した。畿内の南朝勢力の巻き返しも著しく、南方遠征と義長追い落としの中心人物の一人だった畠山国清はたちまち失脚し、8月初めに勝手に関東へと下向してしまった。しかし途中の義長が守護をつとめる三河で仁木側の武士に行く手をはばまれ、やがて鎌倉府からも討伐を受け没落する運命をたどってしまう。
 京の政変は山陰・伯耆の山名時氏の耳にも届いた。しばらく鳴りをひそめていた時氏だったが、幕府の動揺につけこむ形で領土拡大を狙い、すでに押さえた山陰から山陽方面へと兵を進め始めた。山名軍の侵略を受けたのは播磨・美作などの赤松氏の領地で、 赤松貞範則祐らは必死にその侵攻を食い止めようとする。
 
 こうした状況の変化は備後にあって中国平定を進める細川頼之にも影響を及ぼしつつあった。幕府の動揺をみて備後など山陽の武士たちが頼之の指示に従わない動きを見せ始め、石見にいる足利直冬や山陰の山名氏と結んで逆に頼之への攻勢に出る者もあった。頼之は京の清氏のやり方を危なっかしく思いながら、自らの事業の先行きにも不安を覚え始めていた。
 「やはり我らが腰をすえるべきは四国でございましょう」と弟の 頼有が言う。このまま京の幕府が不安定のままだと中国平定の事業に行き詰まるばかりか自らの領国である阿波すらも南朝勢力の台頭によって失われる恐れがあった。頼有は中国平定事業を一時中断してでも四国に確固とした足がかりを築いておくべき、と兄に進言する。 「讃岐か」と頼之は弟の意図を察する。頼之たちは讃岐を自らの支配下に置き、阿波と山陽を結び瀬戸内海を押さえる重要拠点とすべきだとの戦略を練った。ただし、讃岐の守護はさきごろ急死した細川繁氏のあと淡路守護である細川氏春(頼之の従兄弟)が引き継いでおり、これとどう話をつけるかが課題であった。
 頼之は三島三郎勇魚そして 小波を呼び出し、讃岐方面の情勢と瀬戸内海賊の動向を探るよう指示し、間もなく自らも讃岐に赴くつもりであることを告げた。これは幕府から与えられた重任から外れるものではあったが 「これはあくまで中国平定のためにせねばならぬことだ。将軍も清氏も分かってくれよう…」と頼之は言うのだった。

第十七回「暗闘」終(2002年5月12日)


★解説★

 毎度おなじみ、流浪の能役者、世阿弥でございます。こんなことやってると能楽協会から除名処分になったりしないかと気が気ではありません(爆)。
 またまた一週遅れの更新。とうとう隔週放送になってしまったかとお思いの方も多いでしょうが、これは作者本人が海外旅行に出かけていたため。しかも旅先で作業するために創作ノートを持っていこうと思ったところ、勘違いして弟のK・E・Nの高校野球取材ノートを持って行ってしまい、「ムロタイ」だけでなく高校野球観戦記の更新にまで支障をきたしてしまうという大ドジをやらかしておりました(笑)。まぁ次回からはちゃんと週刊放送になると思います。これからいよいよ「ムロタイ」最大の山場にさしかかるわけですから。

 さて、今回は前回の内容を引き継いで、幕府による南方遠征の直後に発生した「仁木義長失脚事件」を中心にしております。古今東西を問わず政権の成立当初にはこうした複雑な政治抗争がおこりがちなんですが、室町幕府 (まだ室町には無いですけど)の初期はとにかくこうしたややこしく奇々怪々な抗争劇が繰り返されております。
 本仮想ドラマではこの事件についてはストーリー的には『太平記』を、補助資料として日記『愚管記』を参考にまとめておりますが、清氏さんを仁木義長打倒の中心人物にすえているのは一応ドラマ上の創作です。もちろん清氏さんが義長さん打倒に積極的に関わったであろうことは疑いないのですが、『太平記』ではその発案者・中心人物を畠山国清さんに設定しております。ですが清氏さんを中心にした方が話が分かりやすいし、案外真相に近いかもと思ってこうさせていただいたわけです。

 まぁ早い話が将軍を無視したクーデターですね、これは。軍事力で脅して政敵を失脚させるってパターンはこの前にもありましたし後にもよく出てきますが、将軍の権威もへったくれもあったもんじゃありません。また困ったことに義詮さまという人がいまいち主体性のないお方でして、義長の訴えを受け入れて味方につくと言ったり、監禁されると道誉に脱出させてもらったりと状況に振り回されてフラフラしている様子が『太平記』の描写なんかからもうかがい知れます。ま、こうしたドタバタを何度も巻き込まれながらも自らは常に超越した安全地帯にいるという印象があるのはお父さんの尊氏さま譲りのところがあるようでございます。
 ちなみにチラッと登場した仁木義長さんの甥の頼夏さんですが、どうやら実は細川和氏さんの実子で仁木家に養子に入ったお方らしく、清氏さんとは血の繋がった実のご兄弟であったらしいのですね。『太平記』では義詮さんに逃げられたことを知った頼夏さんが 「日本一の甲斐性なしを頼みにしたのが口惜しいわ!我らが戦に勝ったらまた将軍は我らの方に手をすり合わせておいでになるのであろうな」と散々な悪態をついたと記されているのですが、案外義詮さま脱出のトリックの鍵は見張り役だった頼夏さんの内通にあったりしないだろうか…と作者はチラと考えたりはしたそうでございます。ややこしいんでやめたそうですけど。

 この事件でひときわ鮮やかな役どころをつとめるのがバサラ入道・佐々木道誉さんであります。これまで出演表示でトメが定位置だったり大きな扱いを受けていたこの人ですが、ようやく独壇場的場面が登場したわけで。この事件における道誉さんの活躍は『太平記』が詳しく記しているところで、それによれば軟禁された義詮様のもとへ北門からこっそり忍び込んできた道誉さん本人が現れ (どうやってもぐりこんだのか説明はない)、「義長と私が話しているうちに女房姿になって北門からお逃げなさい」と策略を授けたことになっています。その通り計略はまんまとうまくいったわけですが、作者はドラマ化するにあたってちょいといじっています。まず策略を授けに道誉さんが事前に直接義詮さまのもとへ現れるのはいくらなんでも不自然、と密書を送り込むことに変更しています。この変更にともない幸子さんをこの計略にからめてみる創作も加えています。
 将軍軟禁の直前に道誉さんが清氏さんの陣営へ使者として派遣されるくだりがありますが、これは『愚管記』に記されていることで確実に史実です。それやこれや考えるとこの事件の陰の立役者は道誉入道、と言っちゃってもいいのではないでしょうか。このあとも道誉入道の暗躍は続きます。乞うご期待(?)。

 この事件の結果、仁木義長さんは没落し、結局南朝に降伏するハメに。その義長さんを追放することに成功したはずの畠山国清さんも自らが企画した南方遠征が結局水泡に帰してしまったことで世間の悪評を買い (「太平記」によれば銭湯の湯女たちまでが畠山をさんざんからかったとある)、留守にしていた関東の様子も気になったのか義詮に断り無く急遽関東へ下向します。その途中の三河で仁木派に足止めをくわされた上に、関東に戻ったら関東武士たちの総スカンを食って結局基氏さんから追討を受けるという悲惨な展開になっていきます。
 こうした状況に便乗して山名時氏さんが久々に活動開始。山陰をほぼ押さえて赤松氏など山陽方面にジワジワと勢力を伸ばしていきます。ホントに戦国武将のさきがけみたいな人ですな、時氏さんは。
 
 で、この回ではドラマの主役のはずの頼之さんがようやく最後に出番が回ってきます。時氏さんと同様に頼之さんも自らの領国拡大を目指さねばならなくなるわけですな。この時期の讃岐がどういう情勢だったのか詳細は分からず、頼之さんが讃岐入りしたのは延文二年(1357)だったという話もあります (あまり信憑性は無いんですが)。とにかく讃岐守護であった繁氏さんが急死した後から讃岐への進出が本格的に始まったのではないかと思ってここではこんな感じにしてみました。ところがここで淡路守護の従兄弟の氏春さんというライバルが登場するんですねぇ。 これについては次回以降で。

制作・著作:MHK・徹夜城