第十八回
「野望の将」
 

◆アヴァン・タイトル◆

 二代将軍義詮のもと新体制を発足させた幕府だったが、南朝への軍事作戦は失敗に終わり、幕府内部でも仁木義長失脚事件など不穏な動きが後を絶たない。このような情勢のなか執事・細川清氏は幕府の権威向上を図って強硬な方策を進めるが、それは幕府政治をさらに混乱に陥れる結果となっていく。


◎出 演◎

細川頼之

細川清氏

慈子

楠木正儀

今川貞世

渋川幸子

細川頼有 三島三郎

正子 伊勢貞継

赤松貞範 後村上天皇 

飽浦信胤 細川氏春

紀良子

勇魚

小波

仁木義長

世阿弥(解説担当)

春王 細川正氏 清氏の次男 
細川家家臣団のみなさん 瀬戸内海賊衆のみなさん
室町幕府職員のみなさん 讃岐国国人のみなさん
室町幕府直轄軍第13師団・第16師団

赤松則祐

足利義詮

山名時氏

佐々木道誉


◆本編内容◆

 延文5年(正平15、1360)9月、楠木正儀らを主力とする南朝軍が幕府軍を破って河内を完全に奪回し、さらに摂津方面にまで進出した。勢いに乗った後村上天皇は避難していた観心寺を出て一挙に摂津まで出張り、住吉神社に仮皇居を定めた。幕府は仁木義長失脚事件の混乱が尾を引き、この南朝の勢いに対して有効な手を打てないままである。執事である細川清氏に対する幕府内での批判は増すばかりであった。しかし清氏の強硬なやり方は相変わらずで、特に自らが守護をつとめる若狭などの寺社領で半済の徴収を強行し、北朝朝廷の公家や寺社からの強い反発を受けてもいた。

 「このごろ、おぬし人相が悪くなっておるな」と清氏のもとを訪ねて来た今川貞世が言う。貞世も最近の清氏に対する反発が高まっていることを気にしており、友人として清氏に忠告していた。「おぬしのことは昔から見ているからそのやり方はよく分かっておるつもりだが…武家の管領たる者としてもう少し大名たちや公家・寺社ともうまく折り合え」という貞世に、清氏は「わかっておる。だが今は乱世」と答え、この乱世を切り抜けるためにも将軍と幕府の権威を高めねばならぬ、そのために自ら率先して強硬な方針を進めているのだと言う。「それは本来将軍がなされるべきことではあるが…将軍はあの通りのお人じゃからのう」と清氏がつぶやくように言うのを、「めったなことを申すな」と貞世がたしなめる。「ともあれ、わしは常におぬしの味方だ。陰ながらおぬしを支えておる」と貞世は言い置いて立ち去っていった。

 幕府内ではさきに仁木義長の手から義詮を逃れさせた功績により、佐々木道誉の発言力がますます増していた。道誉は各地の守護職人事にも介入し、摂津の守護職を赤松光範から奪って自らの孫・秀詮に与えてしまい、光範側から清氏のもとに返還を求める嘆願が出されるという懸案も起きた。これをきっかけに道誉と清氏は各所の守護職や所領をめぐって紛争を続発させることになる。

 一方そのころ。細川頼之は自らの本拠地である四国・阿波と中国平定事業の拠点である備後とを結び、なおかつ瀬戸内水路の通過点である讃岐を、自らのものにせねばならぬと考え始めていた。讃岐国は以前守護であった細川繁氏が急死した後、同族で頼之の従兄弟である淡路守護の細川氏春が守護を務めていたが、頼之の父・頼春が観応擾乱の際に讃岐に勢力を扶植しており、頼之の弟・頼有と近しい讃岐武士も多かった。頼之は自らの軍事力を維持するためにも讃岐を支配下に置くのが先決と考えていたのである。
 頼之に命じられて三島三郎が先に讃岐に渡り、香西氏、牟礼氏、羽床氏といった頼春以来関係の深い武士たちと接触、頼之の讃岐進出の足がかりを作ることになった。頼之自身は勇魚小波らを伴って備後の豪族で水軍を支配下に置いている飽浦(あくら)信胤と会い、備後と讃岐を結ぶ海路を確保しようと努めていた。備後の飽浦水軍は熊野・淡路の安宅水軍、そして伊予の河野水軍、安芸の忽那水軍らと瀬戸内海の支配をめぐって複雑に争っていた。頼之はその情勢を把握した上で飽浦水軍を支配下にとりこもうとしていたのである。

 年が明けて延文6年(正平16、1361)。3月に北朝が改元を行って康安元年となった。飽浦水軍を配下に収めた頼之はついに自ら讃岐に渡り宇多津に拠点を構えて、直接讃岐の支配に乗り出すことになった。しかし頼之のこの行動は、幕府内では頼之が中国地方平定という本来の任務から外れて自らの勢力拡大を図ったものだとして非難の声も上がっていた。中でも本来讃岐の守護である細川氏春は清氏に「頼之の行いは幕府に対する反逆とも言えようぞ」と詰め寄るが、清氏は「頼之には頼之の考えがあろう。いつも腹の底を見せぬ奴だが道に外れたことはせぬ男だ」 と擁護する。実のところ清氏自身も越中や加賀で自らの兄弟を守護にして勢力拡大を画策するなど、頼之とさして変わらぬことをしており、強くは言えないところもあったのである。また伊勢に追い詰められた仁木義長が正式に南朝に降伏したため南朝の勢いがさらに増し、幕府としては当面はこれに対応せねばならぬという事情もあった。
 讃岐に入った頼之は阿波や備後でそうしていたように、武力だけに頼らず国人たちの人心掌握に努めていた。だがこれに抵抗する国人たちも少なくなく、頼之はしばらく讃岐にとどまらねばならなかった。

 7月、清氏は七夕の夜に義詮を招いて盛大な歌会を開くことを企画した。歌人でもある今川貞世の提案で、このところすきま風が吹いている感のある義詮と関係修復を図るという狙いである。「七夕の夜ゆえ、七百番の歌合せをいたそうかと」との清氏の誘いに、義詮は「それは風流」と喜んで訪問を約束する。清氏は大いに張り切って帰宅し、妻の正子はじめ家人に盛大な宴の用意を命じた。
 ところが当日。道誉が義詮のもとを訪れ、「今宵、我が館にて闘茶の宴を催しまする。七夕にちなみ、七所に茶器を飾り、七番の菜膳を調え、七百種の賭け物を積んで、七十服の茶をたてようかと」と義詮を誘った。「それはまた豪勢な…さすがは婆沙羅入道どのよ」と義詮は喜び、「歌合せは後日でもできよう」と清氏との約束をほったらかしにして道誉の館へと出かけてしまった。
 いつまでたっても義詮が来ないことに不審を覚えていた清氏のもとへこの知らせが届くと、清氏は「またあの入道か!」と激昂して用意された膳に刀で切りつけて暴れる。貞世が必死になだめたのでどうにか気を静めた清氏だったが、「将軍も将軍じゃ…」と恨めしそうにつぶやく。

 来客も帰り、静まり返った館の中で、清氏は物思いに沈んでいた。そこへ九歳と六歳になる清氏の二人の息子をつれて、正子がそばへ寄ってきた。「幕府のお勤めとはご苦労の多いことでござりますな…やはり殿は甲冑をつけて戦場を駆け回る方がお似合いじゃ」と正子。黙然とする清氏。「何ゆえに執事の職をお引き受けになりましたか?」と正子が問う。清氏が「幕府を切り回し、天下を動かす、まさに武家たるものの職と思うたからだ」と答えると、「いま、その思いがかのうておいでか?」と正子。このところの清氏は幕府内で有力大名との政治的駆け引きや将軍のご機嫌伺いばかりしていて、かつてのような輝きが無いと正子は言う。ギクリとする清氏に、「むかし殿はこの私を家から盗み出して妻となされた。欲しいものは力づくでも手にお入れなさるのが殿の信条ではなかったでしょうか。天下を切り回すには執事の職では無く…」と正子は続ける。「滅多なことを申すな!」と清氏は叱り付けるが、正子は平然とにらみ返す。
 清氏は話題を変えた。「息子たちを元服させようと思う」という清氏に、正子が「では烏帽子親は将軍に…?」と聞く。「いや…他ならぬわしの息子だ。将軍では烏帽子親はつとまらぬよ…烏帽子親についてはわしに考えがある」と清氏は少し寂しげな表情で笑った。

 間もなく清氏の息子たちの元服の儀が石清水八幡宮で執り行われた。なんと清氏は八幡宮に祭られている八幡大菩薩そのものを「烏帽子親」とし、息子たちに「八幡六郎」「八幡八郎」の名を与えたのである。清氏らしい突飛な行動だと笑ってみる者もいる一方で、その名づけ方に不穏なものを感じる者も少なくなかった。
 道誉が義詮のもとへやって来ると、義詮はこの清氏の息子の元服の件について「八幡の名がつくは、清和源氏の累祖・八幡太郎義家公のみぞ…いくら清氏でも不遜の行いではないか」と切り出した。道誉は笑って「確かにその通りでござりますな。思えば細川の家も足利家と同じく八幡太郎義家公の血をひく清和源氏でござりました」と答える。義詮が不愉快な顔をして「笑い事ではないぞ。清氏にはもしや足利家に代わって天下を狙う野心があるのではとささやく声もある。むろん、わしは疑っておるわけではないが…」と言うと、道誉は「ならばそれでよいではありませぬか。確たる証拠も無しに執事たる者を疑うものではありませぬ」と言い残して立ち去っていった。
 今川貞世も清氏の行動に不穏なものを感じた一人であった。貞世は父・範国の命で今川氏の本拠地である遠江に赴かねばならなくなり、清氏のもとへ一時の別れを告げにやって来て、ついでに世間で元服の一件がどう噂されているかを告げて清氏に「身を慎め」と忠告する。「わしの留守中、何か妙なことが起こらねば良いのだが…讃岐にいる頼之の方の動きも気になるところだ」と心配そうに言う貞世に、清氏は「心配するな。頼之に何かあればわしがただちに兵を率いて駆けつける」と笑って送り出すのだった。

 この年の七月ごろから山陰の山名時氏の軍勢が美作国へと攻め込み、赤松貞範則祐 兄弟をはじめとする赤松一族が総力を挙げて山名軍の侵攻を必死に食い止めようとしていた。二ヶ月ほどの攻防の末、勢いに勝る山名軍が赤松側の城を次々と落とし、劣勢に追い込まれた赤松則祐は中国平定の大将である頼之に救援を求めた。讃岐の経営にいそしんでいた頼之だったが、「中国の管領として山名の侵攻を食い止めねばならぬ。また赤松殿に頼まれては放っておけぬ」と九月十日に備後へと渡った。しかし召集をかけられた讃岐・備後・備中・備前の武士たちはそれぞれ地元の勢力争いに忙しく、頼之の呼びかけになかなか応じず兵は一向に集まらない有様であった。やむなく頼之は備後で数ヶ月の間釘付けにされてしまうことになる。

 そのころ京の伊勢貞継の屋敷では義詮と紀良子の子・春王がすでに数えで四歳(満三歳)、すくすくと天真爛漫に育っていた。庭で竹馬などしながらやんちゃにはしゃぎまわる春王の姿を、乳母である慈子と産みの母である良子とが目を細めて見つめている。やがて春王は竹馬に飽きて「このような庭、狭くてかないませぬ。外へ行かせてくだされ」と慈子たちに駄々をこねる。
 そんなところへ、伊勢貞継とともに佐々木道誉が姿を見せた。「春王さまもすでに四つになられたか」と道誉はニッコリと笑って貞継とともに奥へと入っていく。
 一室に入って貞継と向かい合った道誉は、懐から一枚の紙を取り出した。「伊勢殿。容易ならぬことじゃ。細川相模守(清氏)の心に天下を狙う野望があることが明らかとなった」と道誉は切り出した。「なんと…」と貞継は驚愕して道誉の顔を見つめた。

第十八回「野望の将」終(2002年5月21日)


★解説★

 知るは楽しみなりと申しまして、知識をたくさん得ることは人生を楽しくしてくれるものでございます。わたくしは当仮想大河の解説者・世阿弥でございます。
 えー、前回毎週更新とは申しましたけど、かえってヤマ場に来たら作者も悩ましいところがいろいろあるようでございまして、これから数回分をウンウンうなりながら構想中のようでございます。なまじ材料がいっぱいあるとどんな調理をしたものか苦悩するみたいなもんらしいです。ひょっとすると「清氏延命策」を図っているのかもしれませんねぇ(笑)。

 さて、いよいよこの回からこのドラマ中盤のヤマ場、細川清氏さん「反逆」の過程が物語られることになります。ついこの前に仁木義長さん失脚騒動があったばかりだというのに、状況はめまぐるしく変化していくのでありますね。
 前回で南朝側の反撃の模様が描かれておりましたが、今回ではなんと摂津・住吉神社まで南朝の皇居が進出しております。南朝を正統と絶対的にみなした時代には南北朝時代のことを「吉野時代」などと称しておりましたが、実はちっとも吉野にいないんですよね、南朝朝廷って。この1360年から1369年まで、意外に長く南朝朝廷は住吉に置かれることになります。

 清氏さんが強硬なやり方をして公家・寺社などの反発を買ったという話が出てきますが、これは当時の守護大名たるもの清氏さんに限ったことではなかったようですが、清氏さんがかなり乱暴なやり方で寺社領などから半済米を分捕っていたのは事実のようですね。この延文4年(1360)の11月に北朝朝廷から分捕った米を返却するよう命じられていたりします。また自らが若狭(福井県西部)の守護をつとめていたこともあって北陸方面に自らの勢力を広げようとしたことも事実でして、延文5年に清氏さんの弟の頼和さんという人を越中守護に任じたり、斯波氏頼さんが狙っていた加賀守護職を富樫氏に安堵して牽制したりしています。この斯波氏頼さんというのが実は佐々木道誉さんのお婿さんでして、この辺も道誉さんとの対立の一因になっていたようです。
 一方で道誉さんのほうも摂津守護職を赤松光範さんから分捕って孫の秀詮さんにあげちゃって、これがまた清氏さんとの確執を招いたりしております。しかしややこしいもんで同じ赤松一族でも則祐さんはこれまた道誉さんのお婿さんだったりして、清氏さんの家臣が持っていた所領を則祐さんが横領してしまうということもあったようです。これら守護職をめぐるトラブルは「太平記」だけが記すところですが、おおむね事実であろうと考えられています。
 途中で出てくる七夕の夜の一件も「太平記」の記すところ。道誉さんってあとでもこういう「パーティー争い」をやるんですね。そこは元祖バサラ大名の道誉さんにイベント開催で勝とうというのは無理と言うものかも。それにしても義詮さまって人もいい加減と言えばいい加減。

 清氏さんが石清水八幡宮で息子さんの元服を行い、「八幡」の名をつけちゃった話も「太平記」に載っているんですが、この件については今川貞世さん当人が著書「難太平記」でも触れています。そこでは息子さん複数ではなくて、ただ「八幡八郎と名づけた」と書いてあるだけです。貞世さんは「難太平記」でこの清氏さん反逆の件については当事者ならではの重大な証言を記しているのですが、これについては次回以降触れていきたいと思います。それにしてもドラマの登場人物自身の証言でドラマを構成するってのは難しいもんですねぇ(笑)。
 この八幡六郎・八郎の件が事実だとして、それが清氏さんが足利家に取って代わる野心を持っていた証拠であるかというとそうでもないでしょうね。だいたい本気でそう思っていたらこんなミエミエのことはしないでしょ。単に仏舎利の一件でも見られるような清氏さんの伝統・権威をものともしない行動原則に基づいている気もしますね。ドラマでは描かなかったのですが、延文4年に「千載和歌集」が朝廷で撰進された時に、朝廷では歌集を収める蒔絵の箱を恒例に従って住吉神社の神主に調進させようとしたのですが、清氏さんが「住吉は今は敵陣にあるから良ろしくない」と言い張って、自分自身で箱を調進するという行動に出て公家たちの反感を買った、なんてエピソードもあるそうです。

 ところでこの京の動きの間にちまちまと頼之さんの動きを入れてますが、実はこのあたりはほとんど不明のことばかりだとお断りしておきます。この時期に頼之さんが讃岐に進出していたのは間違いないのですが、実は当時の讃岐守護が誰だったかもよく分からなかったりします。このドラマでは従兄弟で淡路守護の氏春さんに設定していますが、これはあくまで作者の推測です。
 この間のことについてはまた例によって「太平記」に記述があります。山名時氏の軍勢が美作に侵攻し、赤松軍がこれを全力で阻止しようとするのですが、勢いに押されて頼之さんに応援を頼みます。そのとき頼之さんは「讃岐の守護を相論(争う)して四国にあった」と書かれているんですね。誰と讃岐守護を争っていたのか全く言及が無く、中国平定の仕事をほったらかして何をやっていたのか、かなり唐突な印象を受けます。まぁそこで作者も少々苦しいなと思いつつこんな風に描いているのですが…なお飽浦信胤さんってのは実在の人です。あとで清氏vs頼之の戦いに絡んできます。
 そして赤松氏の応援要請を受けた頼之さんは9月10日に渡海して備後におもむき、後続の軍勢を待つことになるのですが、「太平記」によれば備前・備後・備中・讃岐四カ国の武士たちが「おのれが国々の私戦を捨てかねて」頼之のもとへ集まらなかったとか。讃岐の武士は来たみたいですけど備三国の武士たちは「みな野心を含む者どもなれば頼むべきにあらず」と頼之さんもあきらめて岡山の金川というところに陣を敷いて待機することになります。結局赤松軍は11月に敗れ去ってしまい、山名氏の勢いはますます増すことになるのであります。

 さて、今回のラストの手前ではとうとう春王さま、のちの足利義満さまが初台詞を口にされました。この幼さでこれから起こる大ドラマの演者の一人となってしまうわけですが…あ、それは次々回ぐらいかな。ともあれ後半はこの方が主役になる予定だったんですけどね、なんだか展開が押しちゃってますね。
 そしてラスト、佐々木道誉さんが伊勢貞継さんに何かを見せております。ここから登場人物たちをいっぺんに巻き込んでいく怒涛のドラマが展開されるわけですが…乞うご期待(ひっぱるなぁ)。

制作・著作:MHK・徹夜城