細川頼之
細川清氏
今川貞世
慈子
渋川幸子
懐良親王 足利直冬
細川顕氏 今川範国
菊地武光 川尻幸俊 持明院保世
速波
勇魚
斯波高経
足利義詮
世阿弥(解説担当)
小波(子役) 細川家家臣団のみなさん
熊野水軍のみなさん 松浦水軍のみなさん
京都市民のみなさん 紀伊国のみなさん 肥後国のみなさん
朝鮮国南部住民のみなさん ロケ協力:朝鮮王朝政府観光局
山名時氏
足利尊氏
細川頼春
◆本編内容◆
貞和5年(1349)8月。幕府内の高師直派・足利直義派の対立は頂点に達していた。師直・直義の双方が味方の軍勢を京に呼び寄せ、都はまさに開戦前夜の様相である。
この状況において、幕府の有力武将たちはそれぞれの思惑で一方の側の味方につき、それぞれ師直の館、あるいは直義の館へと馳せ参じる。しかし
細川頼之の父・細川頼春は我が身をどう振ったものか悩んでいた。従兄弟で細川一門の有力者である
細川顕氏が直義の腹心となっており、これについていくのが自然ではあったが、頼春は内心では顕氏に対してライバル心も抱いていた。
頼春は息子の頼之、甥の清氏を呼んで相談する。清氏は先年の四条畷の戦いでの師直の武勇をたたえ、
「いまの天下を治めるには、ああでのうてはなりませぬ」と言ってこの争いが師直派の勝利で決まるだろうと意見する。頼春はそれを聞いてうなづくが、まだ判断をつけかねて
「頼之はどう思う」と尋ねる。頼之は「戦はやってみなければわかりますまい」と答え、
「わたくしならもう少し様子を見て勝ち馬に乗ります」とすました顔で言う。この言葉に清氏は露骨に嫌な顔をするが、頼春は息子の言葉に我が意を得たりという表情をする。結局、頼春は顕氏に従って直義邸へ、清氏は師直邸に向かい、頼之は屋敷で留守を守って様子をうかがうという手はずが決まる。
8月12日。手はず通り頼春はわずかながら兵を率いて三条坊門の直義邸に入った。直義の腹心である細川顕氏が出迎え、頼春の加勢を喜ぶ。直義の館には石塔、上杉といった直義の腹心たちのほか足利一門の重鎮・
斯波高経なども姿を見せている。しかしもともと武断派の師直側に比べると今ひとつ気勢が上がっていないのも事実で頼春は不安を覚える。
一方の高師直邸には、やはりわずかばかりの手勢を率いて清氏が到着していた。こちらには今川貞世
の父・今川範国が馳せ参じており、清氏と挨拶を交わす。
「貞世には留守を申しつけておいた」と語る範国、やはり頼春同様にいろいろ迷った末にひとまずこちらに来て様子を見ようと言う腹であった。清氏と範国が話していると、荒々しく髭をたくわえ、すさまじい殺気をみなぎらせた大男が
「山名伊豆守、着到いたしたぞ!」と怒鳴りながら歩いてきた。「あれは?」と清氏が聞くと、範国が
「山名伊豆守時氏…あの新田の流れの男よ。直義どのに近いと聞いていたのだが、様子をみてこっちについたようじゃの」とささやいた。山名時氏、足利のライバルである新田系の出ながら足利家のために戦った歴戦の勇士であり、その勇猛ぶりは幕府内でもつとに知られていた。
8月13日、事態は急変する。劣勢の直義に将軍・足利尊氏が「我が館に来い」と誘い、直義は兵を率いて逃げ込むように尊氏邸に入った。この移動の途中で直義側についていた武将の多くが直義を見限って離脱、その中には細川頼春の姿もあった。直義が逃げ込んだ尊氏邸を師直派の大軍が取り囲む。
翌8月14日、将軍尊氏と師直の交渉が妥結した。直義が政務を降り、師直が執事に復帰する。直義の腹心である上杉重能・畠山直宗の二人は流罪。そして尊氏の子・
義詮(よしあきら)を鎌倉から呼び寄せて直義の政務を引き継がせる、といったことが決まる。かくして事態は直義派の全面降伏で終わったのである。
数日後、頼之、清氏、貞世の三人は連れだって市の中を買い物などしながら歩いていた。数日前の開戦前夜の様子がウソのような平和な風景に清氏は
「拍子抜けするのう」とつぶやき、「しかし叔父上も貞世の父上も、道を誤らんでなによりだった。弥九郎の言うとおり、『様子を見る』のも生きる道か…まこと、一寸先は闇だな。恐ろしいものよ」
と他の二人に言う。「まこと、恐ろしいものよ…こたびの一件、初めから終いまで全て将軍が仕組んだものとしか思えぬ」
と頼之が唐突に言う。驚く二人に、頼之はこの事態で結果的に尊氏が弟の直義から息子の義詮に政務を執らせることに成功したのだと説明する。
政変により流刑と決まった直義の側近、上杉重能と畠山直宗の身柄は頼春が守護をつとめる越前国へと送られた。間もなく高師直から頼春に内々に両名暗殺の指示が送られてきた。
「高など、もともと足利宗家の執事に過ぎぬ家であろうに…」と頼春はブツブツと頼之に愚痴を言うが、結局言われたとおりに上杉・畠山の暗殺を越前の守護代に指令する。
政変の余波は各地に及ぶ。9月、長門探題として備後・鞆の津にあった尊氏の庶子で直義の養子・足利直冬
は高師直の指示を受けた武士たちの襲撃を受ける。家臣たちの奮戦によりかろうじて海上に脱出した直冬は肥後の武士・
川尻幸俊の仕立てた船に乗り込む。川尻は直冬に「ここから海の上は瀬戸内は河野・忽那水軍、北筑紫は松浦水軍、肥後は我らとつながる天草の水軍…と水軍が支配する道。陸の上の者には手は出せませぬ」
と語り、海路で肥後へ落ち延びるよう勧める。
十月、九州へ落ちた直冬と入れ替わるかのように、尊氏の嫡子・義詮が鎌倉から上洛してくる。叔父・直義に代わって政務を執る意欲に燃えて若い義詮は意気揚揚と都に乗り込んでくる。上洛の一行には夫人の
渋川幸子(18歳)も同行している。幸子は輿から初めて見る都の様子を眺め、その雅さ、賑やかさに目を見張る。その瞳の奥には、将来の将軍の妻として密かに燃やす女の野心の煌きが見え隠れする。
都の政変とその余波の知らせは紀州の漁村にも届いていた。村人を取り仕切る勇魚(いさな)
は速波の守る社にやって来て、主人筋で熊野水軍の大将である安宅(あたぎ)氏から肥後まで出向くよう指示されたことを伝えた。
「肥後…征西将軍宮のところですか」と速波。「はい。吉野の北畠卿からの密書をお届けせよ、とのことで」
と勇魚は答える。征西将軍宮とは、今は亡き後醍醐天皇の皇子で九州に派遣されている懐良(かねよし)親王
のことである。勇魚は先ごろの幕府内紛で吉野の南朝方が密かに息を吹き返し、総帥・北畠親房のもとで逆転の策謀をめぐらせていることを速波に語る。
「またぞろ騒がしくなってまいりましたな…毎度のことながら、もしやするとこれが今生のお別れやも、と…」と言う勇魚に、速波は
「私が祈るのです。無事にお帰りになれましょう」と優しく言う。勇魚は速波を一瞬見つめ、深々と頭を下げて社を出た。
社の外では懐刀を手にした小波が待っていた。
「筑紫へ行くのか?」と小波は勇魚に問い、連れて行け、とねだる。「我は筑紫から連れて来られたのであろ?筑紫に一度行ってみたい」
と駄々をこねる小波に、勇魚は「いずれ、小波がもっと大きくなったらな」と笑って答えるのだった。
勇魚たちの乗る船は南四国・南九州をまわって八代海に入り、そこから上陸して肥後国・隈府(わいふ)へと向かった。隈府は肥後宮方(南朝方)の有力豪族・菊地一族の本拠地で、ここに懐良親王が征西府を置いている。少年の日に父・後醍醐の命で征西将軍となって都を離れ、瀬戸内海の忽那島や薩摩などで十年以上を過ごし、2年前からこの肥後・隈府に入った懐良はすでに二十歳になっている。勇魚から北畠親房の密書を受け取った懐良、そして
菊地武光は密談を開始する。
使命を終えて帰路についた勇魚は港で松浦の海賊衆と接触、都の政変、直冬の九州入りと懐良・菊池勢の活動により九州の諸勢力が三つどもえの抗争を開始しようとしている情勢を知る。そしてそれに連動して各地の海賊たちもそれぞれの思惑で慌しく動き始めていることも。
「海が、荒れてきたな…」と勇魚はつぶやく。
明けて貞和6年。北朝は間もなく2月に年号を「観応」と改元する。
この2月、海を越えた高麗南岸に100艘を越える船団による大規模な海賊集団の侵攻が起こった。侵攻した海賊集団は、各地で米を輸送する漕船や倉庫を襲って略奪し、
中には内陸深くにまで侵入するものもあった。この大侵攻はこの年の6月まで断続的に荒れ狂い、高麗政府や人民を震撼させた。これまでにもこうした「倭寇」活動は時折発生していたが、これほど大規模なものはかつて無かった。以後、高麗南岸は毎年のように倭寇の侵攻にさらされることとなり、高麗の人々はこの年(庚寅の年)を「倭寇開始の年」として記憶することになる。
政変の後始末で慌しい中、頼之と慈子の結婚話は順調に進められていく。頼之と頼春は慈子の父である
持明院保世にも面会し、春のうちに婚礼の儀を行うことで話がまとまる。久しぶりに会った頼之と慈子は照れつつまるで禅問答のような会話をして双方の父親を困惑させる。
頼春・頼之は帰宅し、清氏も交えて酒宴を開く。「やれやれ、これで頼之のほうは片付いた。清氏、お前の方もちゃんと奥方を世話してやるからな」
と頼春が言うと、「叔父上のご親切はかたじけないが、それがしには無用のことでござる」と清氏は答え、ニヤッと頼之に向かって笑いかけるのだった。