第二十回
「一時(いっとき)の夢」
 

◆アヴァン・タイトル◆

 康安元年(1361)九月、執事・細川清氏と佐々木道誉の対立は頂点に達し、清氏はついに道誉打倒の計画を実行に移した。しかし道誉は先手を打って謀略をめぐらせ、逆に清氏を足利家に対する反逆者の立場に追い込んでしまう。やむなく清氏は守護国である若狭へ逃亡。義詮の追討命令を受けて攻め込んでくる軍勢を迎え撃つことになった。


◎出 演◎

細川頼之

細川清氏

慈子

楠木正儀

今川貞世

三島三郎 後村上天皇

伊勢貞継 安宅頼藤

後光厳天皇 頓宮四郎左衛門

仁木頼夏 細川頼和 細川氏春 

今川範氏 赤松範実 石塔頼房

四条隆俊 斯波氏頼 朝倉氏景

紀良子

今川範国

赤松則祐

世阿弥(解説担当)

春王 遁世者たち
細川家家臣団のみなさん 京都市民のみなさん
室町幕府職員のみなさん ロケ協力:住吉神社
室町幕府直轄軍第10師団・第12師団・第14師団

足利義詮

佐々木道誉


◆本編内容◆

 康安元年十月。逆臣の汚名を受け若狭へ逃れた細川清氏に対し、将軍足利義詮は追討の命を発した。これを受けて越前の守護・斯波氏頼は先発として朝倉氏景の軍勢を若狭へ差し向けた。しかし朝倉らは清氏の勇猛さに恐れをなして初めから腰が引けていた。そして清氏が送った少数の兵を「清氏出陣」と勘違いしてあっさりと敗北、撤退してしまう。
 10月15日。清氏は弟の頼和や守護代の頓宮四郎左衛門らを率いて大嶋八幡宮に参拝、合戦の勝利を祈願する。そこへ細川頼之の使者として送り込まれた三島三郎が駆け込んでくる。三郎は清氏に面会し、頼之がいたく清氏の身の上を案じていることを伝え、「今からでも遅くはない。抵抗をやめて将軍に申し開きをせよ」との頼之の忠告を伝えた。清氏は寂しく笑って「もはや戦は始まっておるわ…矢は弓を離れた。もう遅い」と答える。「かくあいなった上は、わしはとことんまで戦うぞ。この若狭一国で何年でも戦うてみせよう。そして隙あらば都へ攻め上り、まっとうな幕府を開くまでじゃ」と豪語する清氏に、三郎は「相模守さまの武勇はよく承知しておりまする。されど、逆臣の汚名を受けて長く持ちこたえることは叶いますまい」と言うが、清氏は「逆臣…裏切り者ということか…この清氏、一度として何者をも裏切った覚えは無い…裏切ったのは将軍ではないか」と言い放つ。「帰れ。そして弥九郎に伝えよ。この清氏が都に攻め上る日には、これに応ぜよ。そして共に新たな幕府を作ろうぞ、とな」清氏はそう言って三郎を送り出した。

 京の幕府では義詮が佐々木道誉今川範国ら重臣を集めて協議を行っていた。先の仁木義長同様に清氏が南朝に降伏するのではとの憶測も流れる一方で、道誉は自らの婿である斯波氏頼が清氏を若狭から追い出してくれようと楽観視していた。「清氏は確かに猛将…だがそれだけの猪武者よ」と道誉は冷たく言い放つ。
 今川館では近づく合戦に備えての準備に家臣たちが慌しく駆け回っている。そんな中、今川貞世は一室に閉じこもって悶々としている。

 10月25日。越前から斯波氏頼みずからが大軍を率いて若狭へと侵攻した。「あの道誉入道の婿か」と清氏は舌打ちし、弟の頼和と共に自ら軍勢を率いてこれを迎え撃つことにする。小浜の城の留守は頓宮四郎左衛門に任せて、清氏らは出陣する。
 斯波軍は小浜の城近くまで迫りながら要所に陣を構えて動こうとしない。清氏がこちらから仕掛けるか、相手の動きを見て迎え撃つかと考え込んでいると、小浜城に異変が起こったとの急報が入った。なんと留守を任せた頓宮が突然寝返って斯波軍の別働隊を城に招き入れている、というのである。驚いた清氏が小浜城近くに駆けつけ様子をうかがうと、頓宮らは旗を変え、ときの声を上げ斯波軍と呼応して気勢を上げている。愕然とした清氏は「おのれ頓宮!これまでかけてきた恩を忘れたか!」と絶叫し歯ぎしりするが、「…無念じゃ…この清氏、人を見る目が無かった…」 と頼和にだけ聞こえるようにそっとつぶやく。頼和に言われて急遽別の城に移って態勢を立て直そうとする清氏だったが、守護代である頓宮の寝返りに若狭の武士たちは動揺し、あっさりと清氏を見捨てて逃げ出していってしまう。気がつけば清氏のもとに残っていたのは直属の家臣たち50騎ばかりであった。「わしもこの乱世に生き、人の心がいかに信じ難きものとは知っておったつもりだが…今日ほど人の心の頼り難さを身に染みて感じたことは無い。そして、このような時にもわしと共にあってくれるそちたちのことを、これほど有り難いと思ったことは無かった…礼を言うぞ」清氏の言葉に、一同は涙する。「そちたちのためにも、わしは負けぬぞ。負けてなるものか」と清氏は馬上の人となり、「行くぞ、目指すは京じゃ!」と叫んで走り出した。

 清氏が若狭で敗北し、わずか50騎で逃走したとの情報は間もなく京にも届いた。そして清氏らが南朝と手を組むべく、京付近を突破している最中らしいとの噂が貞世の耳にも入ってくる。聞きつけた貞世は「わしが清氏をつかまえて説得する!」と言って、兄の範氏が止めるのも聞かずに馬に乗って館を飛び出していく。しかし清氏は弟の頼和と二隊に分かれて京の東西を駆け抜けており、貞世は清氏にめぐり合うことが出来なかった。

 11月初め。住吉神社にある南朝の皇居に石塔頼房が参内してきた。彼はもともと直義派の武将で、そのまま南朝に仕えることになった人物である。頼房は後村上天皇に拝謁し、先に若狭で敗れた細川清氏が天王寺にあり、頼房を通して南朝に降参を申し入れていることを奏上する。幕府の執事をつとめ、なおかつ歴戦の勇士として知られる清氏の降伏の申し出に、後村上らは驚きつつ、大いに喜ぶ。「これは足利滅亡の兆し、主上が京に還御される前触れぞ。天の助けじゃ」と喜ぶ公家たち。後村上はただちに清氏に勅免を与えることを命じた。
 後村上の勅免を持って石塔は天王寺に向かった。これに楠木正儀が同行する。正儀の姿を見て、清氏は「一別以来じゃな…あの村で会うてから、もう十何年かになるか…」と嬉しそうに手をとる。正儀は「いや、戦場では何度かお姿を拝見した」とだけ答える。「お互い、何やらご縁があるようじゃな。敵として戦い、いまこうして味方として共に戦う。まこと不思議な縁じゃ」と清氏は笑う。「戦う」という言葉に不安げな顔を見せた正儀に、清氏は「まぁごろうじろ。この清氏が味方に参ったならば、京を落とすのはたやすいこと」と笑って言う。 「いま山陰には山名時氏があって赤松と頼之はこれと対するために動けぬ。関東も畠山国清が乱を起こしており京へ兵は送れぬ。一方で淡路に逃れた従兄弟の氏春、丹波に実弟の頼夏、そして伊勢の仁木義長などが我らに呼応する。我らがひとたび京を落とせば各地の武士が我らに同心しよう。必勝、間違いなしよ」と清氏は語る。

 そのころ、備後にあった頼之は播磨に向かい赤松則祐に面会していた。美作方面での山名軍との攻防は山名方優勢は動かず、頼之も則祐も苦戦していた。そこへ清氏の南朝降参である。赤松一族の中でも清氏と親しかった赤松範実 が摂津で清氏に呼応する動きを見せており、京が危険な状態にあることを頼之も則祐も認識していた。しかし身動きがとれないのも事実。則祐は義詮はかなわぬと見れば京を捨てて逃れるはず、それから全力で反撃に出ればよいと頼之に語り、そのために動かずに力を蓄えようとの考えを述べた。
 そこへ三島三郎が帰ってきた。三郎は「この清氏が都へ攻め上るに日は、これに応ぜよ」との清氏の言葉を頼之に伝える。頼之は黙然とし、天を仰ぐ。

 清氏が立てた京攻略の作戦案は頼房、正儀らによって南朝朝廷に提出された。公家たちは感心したように聞いていたが、後村上が「楠木の意見はどうか」と下問する。正儀はかしこまり、意見を述べ始めた。 「かの建武の乱の折、足利尊氏が関東より攻め上り京を落としてより今日まで、京を陥れた例は何度もござります。そしてそのいずれもが短時日のうちに京を保てず奪い返されております。不遜ながら、京を陥れること自体はこの正儀一人にてもたやすいことでござります。ただ、それを幾日保てるものか。恐れながら清氏の加わったこたびの戦でも同じことになるのではと愚考いたします」この正儀の率直な意見に対し、公家たちの間にもいささか動揺が走る。
 「楠木…京を落とすことは一日とはいえ、出来ることなのか?」と後村上が問う。「はっ…わずかに幾日か、ならば」と正儀が答えると、後村上は嘆息して 「以前は何度か京を陥れるほどの勢いを我らも見せたことがあった…しかし朕自身が都に入ることは無いまま奪い返された。そして近頃はまったくその勢いも消え、自らの拠点を守るので精一杯じゃ。近頃では朕ですらも父・後醍醐帝のご遺志を果たせぬのではと気弱になることもある」と語り始めた。「…もはや数日でも、一夜でも良い。一時の夢であってもよい。京の地を踏んでおきたいのじゃ。この機を逃しては、永遠に京の土を踏めぬのではないか、そのように思えるのじゃ。楠木、分かるか?」と、後村上は何かにすがりつくような口調で正儀に語る。これを聞いて周囲の公家たちも嗚咽し始める。正儀は目を閉じ嘆息した後、「主上のお心がそのようであれば…わたくしはもはや何も申し上げますまい。清氏と共に戦い、京を奪回し、主上を京へお迎え奉りまする」と言って深々と頭を下げた。
 
 南朝が清氏以下に京奪回の作戦開始を指示したのは11月半ばのことである。公家の四条隆俊を総大将に、楠木正儀、石塔頼房、細川清氏らを主力とした軍勢が南畿の武士たちを中心に仕立てられ、これに淡路から清氏の従兄弟・細川氏春が船団を率いて加わる。氏春の淡路水軍を率いているのはもともと南朝側にたっていた安宅頼藤である。この船団の上陸を摂津の赤松範実が助け、南朝軍は天王寺へと集結した。
 事態の急変に、京の幕府も慌しく対応した。12月2日に義詮が自ら東寺に出陣してここに本陣を構え、摂津の守護・佐々木高秀を南朝軍迎撃に向かわせた。この軍に今川範国たっての希望で今川貞世も加えられた。
 12月3日、南朝軍は天王寺を出発した。総大将は四条隆俊ではあったが、実質的な指揮権は清氏が握る形となっていた。その清氏のもとへ、佐々木高秀・今川貞世の二将が迎え撃つべく出陣してきたことが知らされる。清氏は高秀については大した武将ではないから恐らくまともに戦うまいと言い、貞世については「貞世はわしの無二の友じゃ。わしと戦おうとは決してしまい。むしろわしに味方についてくれるかもしれぬ」と正儀らに語る。
 果たして清氏の読みどおりで高秀は清氏・正儀の名を恐れて戦いもせずに撤退してしまい、貞世もまた戦意を見せず引き上げてしまった。ただ、貞世は苦悩の表情を見せつつも清氏に呼応することなく、京方面へと急いで退却していった。

 ここにいたって京の陥落は確実のものとなったとみた義詮は、ただちに後光厳天皇らを奉じて京から逃亡することを決意した。そして慌しい中をぬって伊勢貞継を呼びつけ、「我が子・春王に万一のことがあってはならぬ。なんとしても京から無事に逃がせよ」とだけ言いつける。
 貞継は大急ぎで帰宅し、紀良子慈子に逃亡を進める。良子は実家の善法寺に向かうことになったが、春王については「他ならぬ将軍の跡取りともなられようお方。より確実にお逃げいただくためにも、良子様とは別れていただいたほうが良い。我が家臣数名をつけてお守りし、ひとまず建仁寺へお隠し申し上げる」と貞継は言う。「春王様はまだ四つ。お心細いはず。わたくしがお供申し上げます」と慈子が必死に訴え、貞継も「男ばかりよりは良いこともあるかもしれぬ」と慈子だけの同行を認めた。
 ただちにそれぞれに出発の準備が整えられ、慈子と春王は同じ牛車に乗り込んで建仁寺へと向かった。春王は「大きな戦が始まるのか?」と慈子に問う。慈子は四歳の子供にどう説明したものかと迷って適当にはぐらかそうとするが、春王は聞かない。「われは将軍の子ぞ。何が起ころうとしているのか、知らねばならぬ。教えよ」と春王がハッキリと言うので慈子は驚く。牛車の中で慈子は現在の状況をなんとか説明していく。春王はそれにじっと聞き入っていた。

 12月8日。ついに義詮は京を放棄し、諸大名はそれぞれに自らの館に火を放って都を出て行った。しかし佐々木道誉だけは館を焼こうとしなかった。「我が館には、定めし名のある武将が宿りに来るであろう。それに対して何のもてなしもせんでは、婆沙羅の道誉の名折れじゃ」と道誉は笑って言い、館内を飾り立てて宴の用意までさせ、遁世者二人を残して「客人に一献差し上げておもてなしせよ」と命じて立ち去っていった。
 慌しく義詮以下が京を立ち去ると、入れ替わりに清氏ら南朝軍が京へ突入、その日のうちに京を完全占領してしまった。清氏は「どうじゃ!わしは京へ戻ってきたぞ!」と鼻息も荒く勝どきを上げる。ただちに京での文書の年号は南朝の「正平」に改められ、南朝政権の京復帰が宣言された。
 そのような騒がしさを避けるかのように、正儀は久々の京市中を見て回っていた。そして大名たちの屋敷が軒並み焼き払われている中で、まったく焼かれていない屋敷が一つ残っていることに気づく。正儀が馬を下りてその屋敷に入っていくと、遁世者二人が彼を出迎えた。誰の屋敷かと正儀が問うと、「佐々木佐渡判官道誉の館でござります…我が主はこの館にお入りになる方は定めし名のある武将であろうと申し、その方を手厚くおもてなしせよと我らを残してまいりました」と遁世者は語る。館の中に入ってみれば、すでに祝宴の準備まで整えてある。正儀は大いに喜び、「さすがは、世に名高い婆沙羅入道どのじゃ…!感じ入った!我が宿所はここに決めたぞ!」と笑う。そして遁世者たちのすすめるままに家臣たちと酒を飲み始めるのであった。

第二十回「一時の夢」終(2002年6月2日)


★解説★

 とうとうこの「室町太平記」も回を重ねて20回。ときどき休載したりするもんだから本物の大河と回数がズレてきちゃってますが、まぁなんとか中盤のクライマックスにまでこぎつけてまいりました。あ、申し遅れましたが私が当番組の解説者・世阿弥でございます。
 今回はなんだか量が多いようにも見えましょうが、これはセリフが多く載ってるからなんですねぇ。やはりここは見せ所、ということで登場人物たちのセリフをバシバシ採録しております。これでもなんとか45分に収まるだろうと算段しているのでございますが。

 前回でとうとう幕府に対する反逆者にされてしまい若狭へ逃れた清氏さん。このあたりはやはり『太平記』に詳しく書かれています。今川了俊(貞世)さんにも言われているように南朝びいきの姿勢が目立つ『太平記』は成り行きとはいえ南朝側に立った清氏さんに対してかなり同情的であり、この間の経緯もかなり詳しく物語っています。
 越前の斯波軍の先発として朝倉氏景さんという人が唐突に登場しておりますが、『太平記』では単に「朝倉」と名字だけを記しています。南北朝編年史なんかが「氏景」としているのでここでもそうさせていただきました。後の戦国大名・朝倉氏のご先祖なんでしょうね。『太平記』によれば清氏さんが小勢を送り出し民家に火を放って擬勢したのを大軍と勘違いして引き上げちゃった、などとかなり情けない話になっております。
 清氏さんが出陣している間に留守を守っていた守護代の頓宮さんが寝返りを打ってしまったというのも『太平記』が記していること。『太平記』によれば清氏さんは彼に全幅の信頼を置いていたというのですが(清氏さんが彼に備後の領地を与え、これをめぐって道誉さんとトラブルになっていたという話も書いてある) 、あっさり見捨てられてしまいました。このあたり、後の頼之さんのケースを見ていると分かるのですが、清氏さんは若狭の守護とはいえ、そこの武士たちを家臣化し、確固とした基盤を作ることはできなかったということのようですね。そもそも若狭を当てにして逃げたのが失敗だったと。敗れて落ち延びていく清氏さんがこうつぶやいたそうでございます。
「認めたくないものだな。自分自身の若狭ゆえの過ちというものを…」

 冗談はさておき、『太平記』は若狭で敗れた清氏さんが弟の頼和さんとたった二騎で落ち延び、京の周辺で二手に分かれてここを突破し、宇治方面へ逃れたことが書かれています。たった二騎というのはさすがに誇張のようですが、貴族の日記『後愚昧記』の10月25日付の記事に清氏さんが五十騎ばかりで逃げていたらしいという伝聞が記されています。『後愚昧記』の作者は「幕府の執事をつとめたほどの者がなんと哀れな」と清氏への同情をつづっています。
 そして清氏さんが南朝に降伏を申し入れたのはどうやら11月8日ごろだったらしいと『大日本史』なんかはしてますね。行き場を失うと南朝に降伏するというのは過去にも直義さん、尊氏さん(この人の場合はちょっと違うけど) 、直冬さん、山名時氏さん、仁木義長さんと枚挙にいとまがありませんが、清氏さんもこの系統に連なるわけです。執事をつとめたほどの者が、と思いもしますがなんてったって将軍尊氏様ご本人が「降伏」した前例がありますからねぇ。しかしここらへんは清氏さんの性格のためなのか、南朝への降伏、即京都攻撃という、えらくスピーディーな展開になります。

 この時の清氏さんの作戦案、そして楠木正儀さんの冷静なご意見はやはり『太平記』が記しているもの。清氏さんの発言に「頼之と赤松は山名と対峙しているから動けない」という部分がありますが、これも『太平記』の原文に書いてあるもの。実際、頼之さんと赤松則祐さんは美作方面で山名軍との死闘の真っ最中でした。もっともそれは山名軍も事情は同じで、このために彼らも南朝軍に呼応して京都へ攻め上る動きを見せられなかったという側面もあります。
 淡路方面から清氏さん頼之さん双方にとっての従兄弟である細川氏春さんが兵を率いて摂津に上陸しておりますが、これは史実として確認できること。安宅頼藤さんをそこにからめたのは作者の創作ですが、こののち安宅一族は淡路に勢力を張っているので状況的には十分考えられることかと思われます。それと赤松範実さんという人が唐突に清氏さんに味方していますが、この方、第十六回でチラッと出演してたんですよ〜、清氏さんと龍泉城攻撃で先陣争いをしておりました。体育会系どうしで気があったんでしょうかねぇ。赤松一族って時折こんな調子で南朝側につく人が出るんだよな。まぁ則祐さんだって元はと言えば護良親王の親衛隊やってた人だし。
 ところで清氏さんの軍を迎え撃つべく今川貞世さんが出陣し、結局戦わずに引き上げるエピソードが出てまいりましたが、一見ドラマのためのフィクションと思えるこの話、実は事実らしいんですね。少なくとも『太平記』は貞世さんが全く戦わずに引き上げたと書いていますし(しかも清氏さんが「今川伊予守(貞世)は戦うまい」と予言までしている)、『太平記』にイチャモンをつけている貞世さん本人の著作『難太平記』も、貞世さんがみっともなく撤退するこの話に一切文句をつけておりません。実際いろいろ葛藤があったんじゃないかなぁと作者も考える次第でして。

 それにしても正儀さんに対して辛い記述をよくしている『太平記』ですが、この清氏作戦への意見を述べる場面は強く印象に残ります。「京を取るだけなら正儀一人でもできます」と言い、「だけど保つことは困難ですよ」と前例を挙げて冷静に釘を刺している。お父さんの正成さんの湊川出陣直前の建策を彷彿とさせる場面です。でもこの場面ではもう後村上天皇以下南朝の公家さんたちはすっかり感傷的になっちゃってまして、「一日でもいい、都に入れれば」と作戦を敢行してしまいます。そんな人たちに呆れながらも、「そうおっしゃるのでしたら」と素直に出陣していく正儀さん。ホント、「いい人だなぁ」と思わされてしまうことしきりです。決して「お人よし」ではありません。なんというか、彼流の美学を感じたりもするんですよね。
 そんな彼の美学を強く感じさせるのが、やはり『太平記』の伝える佐々木道誉さんとの名エピソード。これについては次回にも話が続くので解説は次回に回しますが、留守宅に敵将の歓迎の用意をしていく道誉さんもバサラなら、そのセンスに感じ入って快くそれを受け入れる正儀さんも相当のバサラです。

 さてこの大混乱の情勢の中で、後の義満さま、春王おぼっちゃまも活躍(?)の時が参ります。このとき春王様は家臣たちに連れられて建仁寺など寺を転々としてかくまわれ、最終的に赤松則祐さんのところに脱出するのですが、将軍のお子様だというのに割と危ない橋を渡っている印象もあります。作者などはこの時点ではまだ春王さんが「未来の三代将軍」つまり義詮様の跡継ぎとしては正式には認知されていなかったからじゃないか(実際、跡継ぎに正式確定するのはもう少しあと)と考えたりもしています。あの正室の幸子さんに子供が生まれる可能性だってあるわけですしね。
 春王様の乳母であり、頼之さんの妻である慈子さんが春王さんに同行しているのは作者による完全なフィクション。だってこんな美味しい筆頭女優の出番を見逃せるわけが無い(笑)。それにしても夫で主人公のはずの頼之さん、このところ出番が無いですねぇ。

 さて次回。義詮さまは京の奪回を狙い、清氏さんは復讐に燃え、正儀さんは冷静に立ち回り、春王ぼっちゃんは苦難の脱出行、頼之さんは出番を求めて待機中(笑)といった具合。多くの登場人物たちがまさに歴史の渦に翻弄されていくのであります。
次回「室町太平記」第21回、「国王たるべし」
 …君は、生き延びることが、できるか…
 

制作・著作:MHK・徹夜城