第二十三回
「対決(後編)」
 

◆アヴァン・タイトル◆

 康安二年(1362年)春。一時占領した京都をまたたく間に奪い返された細川清氏は、再起を図るべく四国へと渡った。この動きを阻止するべく細川頼之は備前から讃岐へと渡り、従兄弟同士であり幼馴染の親友である二人は、わずか二里の距離を隔てて対陣する。双方ともに衝突をためらい、その対陣は数ヶ月に及ぼうとしていたが、その陰では頼之を窮地に追い込む策謀が着々と進められつつあった。


◎出 演◎

細川頼之

細川清氏

今川貞世

新開真行 三島三郎

飽浦信胤 河野通盛

細川氏春 細川頼和 細川信氏

中院具通 久枝掃部助 細川正氏 

真壁孫四郎 伊賀掃部助 斯波氏頼

勇魚

小波

小笠原頼清

斯波高経

世阿弥(解説担当)

斯波義将(子役)
細川家家臣団のみなさん 阿波国住民のみなさん
熊野水軍のみなさん 瀬戸内水軍のみなさん  
ロケ協力:讃岐国宇多津町・坂出市・本四連絡橋公団
室町幕府直轄軍第9師団・第13師団・第15師団・第16師団

山名時氏

佐々木道誉

里沢尼


◆本編内容◆

 「なにっ、里沢禅尼が来られたというのか?」報告を聞いた細川清氏は驚き立ち上がった。慌てて砦の門まで出向いてみれば、確かに頼之の母・里沢尼の姿がある。「これはお懐かしや…このようなところでお目にかかるとは」と清氏が挨拶すると、里沢尼は「そなたたちの従兄弟喧嘩をみかねて母として止めに参った」と言う。清氏は里沢尼を奥へ通し、周囲の者をさがらせて二人きりで向かい合う。「頼之の差し金でござりますか…母親をこのような戦場で連れ出してくるとは、親不孝者め…」と舌打ちする清氏に、里沢尼は「いや。これは全くわたくし一人の思い立ったことじゃ。わたしは自らが兄弟のごとく育てたそなたたちが、血で血を洗う殺し合いをするのを見とうは無い…その一心で駆けつけてまいったのじゃ」と思いつめたように言い、「わたしはすでに夫・頼春を戦で失っておる…武士の常とは申せ、肉親を無残に失うことは耐えがたきものじゃ。このうえ息子同士が戦をしてどちらかが討たれるのを見よというのか」と清氏に詰め寄る。
 清氏が「わしは何も弥九郎と殺し合いをしたいわけではありませぬ。幕府の政(まつりごと)がおかしなことになっておるゆえ、わしは幕府への反逆を余儀なくされた。かくなる上は戦って戦い抜いて、おのれの手で正しき幕府を作り上げるまで。その戦いに弥九郎が立ちはだかっておる…味方に来いと誘いましたがすげなく断られました」と言うと、里沢尼はうなずいて 「そなたのお気持ちはよく分かる。頼之もそれを分かっていてそなたとは戦いたくないと言っておる。じゃが、おのれの力をたのみに天下をひっくり返そうとするのは間違っておると…。力は力を招き、乱は乱を呼ぶしかない…と。天下の人心はそこには集まってこぬ、とそう言うのじゃ」と語る。言われた清氏は自らに味方が集まってこず、むしろ次々と裏切られたことを思い合わせて胸を突かれる。黙り込んだ清氏を見て、里沢尼は頼之と和睦して、幕府に対して恭順の姿勢を示せと懇願する。あとは頼之がよろしくはからってくれよう、と訴えるが、清氏は「もはや遅い…遅すぎまする…またわしにも武将としての意地も野心もありまする。おのれの力で、どこまでこの天下を動かせるのか…それを試みてみたいのでござりますよ…愚か者よとお笑いくだされ」と自嘲するように言い、里沢尼を頼之のもとへ送り返す。
 交渉不首尾に終わったことを母親から聞かされて、「やはり、ダメでござりますか…」と頼之は目を閉じる。「そなたも清氏どのもどちらも戦いたくないと思っておるのは確かなのじゃ。なんとかならぬか」と懇願する里沢尼に、頼之は幕府と北朝朝廷にはたらきかけて清氏勅免を認めてもらい清氏に降伏を呼びかけるか、あるいは清氏が南朝内で孤立するよう工作をするといった策をこ講じてみると約束する。そして三島三郎に命じて里沢尼を秋月へと送り返すのだった。

 阿波の山間部、小笠原頼清の本拠地には紀伊から潜入した中院具通の一団が到着していた。具通は寛成親王の令旨を頼清、そして清氏の子・正氏 に示して、頼之を滅ぼす戦略を説明する。それは河野、忽那、安宅といった水軍を使って瀬戸内の海上を封鎖し頼之を追い詰め、同時に山名軍に備前を攻めさせ頼之軍の主力である備前の武士たちを動揺させるというものであった。そして小笠原一族も讃岐に進出して頼之にとどめを刺すべし、と具通は言う。「頼之を倒せば阿波守護職はそなたのもの」と具通から内密に言われた頼清は喜んで命を受け、正氏を阿波にとどめて自ら具通と共に兵を率いて讃岐へと向かった。
 小笠原軍の動きは秋月にいる守護代の新開真行がいち早くつかんでいた。「このままでは右馬頭様(頼之)が危うい。阿波を留守にしてでも援軍に赴く!」と真行は決断し、ただちに軍を調えて小笠原軍のあとを追うように讃岐へと向かった。
 中院具通と小笠原頼清の軍は阿波の西部から峠を越えて讃岐へと侵攻、頼之が陣を構える宇多津の南、西長尾の城に入って対峙する頼之・清氏の間に割り込む形勢を見せ、一時南朝方は頼之の兵力を圧倒的に上回った。しかしそこへ新開真行率いる阿波勢も讃岐へと侵攻し、まっすぐに宇多津の砦へ合流したため、頼之軍はひとまずの危機を脱してそのまま睨み合いを続けることとなる。

 五月。頼之からの度重なる応援要請にも関わらず、伊予の河野通盛は動こうとしていなかった。彼のもとには中院具通を通した寛成親王の密書が届けられており、頼之を自滅させるために他の水軍と共に海上の封鎖をしてくれれば伊予の守護職を認めるとの話がもちかけられていた。もともと細川氏と伊予支配権をめぐって争ってきた河野氏にしてみれば頼之には恨みこそあれ助ける義理などなく、頼之が滅んでくれるにこしたことは無かったのである。通盛はひそかに水軍を海上に展開させる一方、頼之方についている備前の水軍・飽浦信胤に対しても寝返りの工作を仕掛ける。
 この間も頼之と清氏は睨み合うばかりで一向に動きを見せない。清氏軍の補給は地元讃岐の武士たちの協力と従兄弟の氏春が守護を務める淡路からの物資でまかなわれ、頼之の方はもともと守護所である宇多津の蓄えと飽浦水軍による備前からの補給で持ちこたえていた。
 このとき幕府は畿内および北陸方面での南朝方の活動、および清氏失脚後の政務の混乱で頼之に応援を送る余裕はない状態であった。特に清氏の代わりに入る執事職を誰が務めるかをめぐる駆け引きが展開され、佐々木道誉が婿の斯波氏頼を推せば、その氏頼の父である斯波高経が三男の愛児・義将を推し、水面下で各勢力の熾烈な争いが行われていたのである。

 この状況の中で、山陰の山名時氏のもとに寛成親王からの令旨が届いた。「これを機にせいぜい暴れてやるか」 と時氏はこれに応じて6月初めに自ら美作に出陣するとともに、丹波、備前、備中、備後の各方面へ軍勢を派遣、石見にいる足利直冬と連携して一気に山陽方面を制圧する勢いを見せた。丹波へ山名軍が侵攻してきたことに幕府は恐怖し、軍勢を派遣して丹波で山名軍と激戦を繰り広げる。その軍勢の中には、今川貞世の姿もあった。貞世は頼之と清氏の二人が讃岐で対峙していることに苦悩していたが、それを忘れようとするかのように戦場を疾駆する。
 山名軍の動きは宇多津の頼之軍の主力である備前の武士たちの間にも伝わり、動揺を引き起こしていた。自分の所領を気にして勝手に備前へ帰る脱落者もぼつぼつと出始め、頼之もこれにはなすすべが無い。

 そして7月、ついに飽浦信胤が頼之を見限って南朝方に寝返ってしまった。備前と宇多津を結ぶ海上は飽浦軍に完全に封鎖されてしまい、頼之をはじめ宇多津の将兵たちは補給路と退路を断たれてしまったことを知り、動揺する。「わしが甘かった…敵は清氏だけでは無かったのだ…」と頼之は己の見通しの甘さを悔しがる。勇魚が海上の様子を見て、これが飽浦水軍だけの動きではなく安宅頼藤の水軍、忽那水軍そして恐らく河野の水軍も加わった作戦であろうと頼之に告げ「これでは戦にもなりませぬ」と言う。頼之は河野通盛はまだ説得できると見て、伊予守護職および旧領安堵の上、新たに領地を与えることを約束する書状をしたため、それを久枝掃部助に託し、勇魚の操る船で封鎖を突破させて河野通盛のもとへ届けさせる。しかし相変わらず通盛は頼之の呼びかけに応じる気配すら見せなかった。
 伊予から宇多津に戻ってきた勇魚の船を、飽浦の水軍が阻んだ。必死の突破を図る勇魚たちが多勢に無勢で諦めかけたとき、十数艘の新手の船団が現れ、彼らを救い出した。勇魚が驚いてよくみれば、それは小波に率いられた速波の村の村人たちであった。
 宇多津の城に入った小波は頼之に面会してこの間の一部始終を語った。正儀を通してもたらされた、寛成親王が仕掛けた大掛かりな頼之つぶしの作戦に頼之は戦慄する。「もはや我らは帰る家を失いました。かくなりました上は、頼之さまにお味方して速波様の仇を討つまでにござります」と小波は言い、宇多津の周囲の水軍は自分たちが引き受けると請合う。頼之は小波に礼を言いつつ、「わしももはや己が引き返せないところに来ていることを悟った…戦わねばならぬのだな…わしはここで潰え去るわけにはいかぬのだ」と立ち上がった。「ここで、わしが潰え去っては四国はおろか中国・九州・畿内はさらに乱れるばかりじゃ。清氏を討たねば、わし自身だけでなくこの天下にも光明は無い…清氏とわしの間のことは私情、私情のために天下を乱すわけにはいかぬ」頼之はおのれに言い聞かせるようにつぶやき続ける。「との!」と思わず呼びかける三郎や新開たち。「数日のうちに決着を着けよう。この頼之が勝つか、清氏が勝つか、天に問うてみようではないか」と頼之は一同に呼びかけた。

 7月23日、早朝。白峰の清氏のもとに急報が届いた。宇多津の砦からついに軍勢が出陣したというのだ。しかもその軍勢は清氏のいる白峰ではなく、中院具通らの籠もる西長尾城に向かっているという。「頼之め、ついに追い詰められて阿波への突破を図る気じゃな」と見た清氏は、「我らにお任せを」と名乗り出た頼和・氏春・信氏らに軍勢を割いて西長尾方面へと向かわせた。
 長尾方面に向かった頼之方の軍を率いていたのは新開真行だった。新開は西長尾城の付近の民家を焼き払って向かい陣をとり、腰をすえた攻城戦の構えをみせる。城内には中院具通、小笠原頼清の兵がおり応援に来た頼和らも加えて新開らの兵を数では圧倒しており、むやみに戦うより新開らの出方を見ようと城の中にこもり続けた。そのまま戦闘も無いまま一日が暮れ、新開らの陣はかがり火が輝いているのが見えるばかり。
 翌7月24日の夜が明けたとき、西長尾城の兵たちは驚愕する。いつの間にか新開軍の姿がどこにも無い。新開らはかがり火だけをたいて敵の目を欺き、深夜のうちに移動してしまっていたのである。「しまった!敵の狙いは白峰じゃ!いっぱい食わされた!」と頼和は慌て、ただちに軍勢を率いて白峰へと引き返す。
 白峰の麓、清氏の陣の背後には頼之率いる数百の部隊が深夜のうちにひそかに潜伏していた。西長尾から戻ってきた新開の軍が清氏の陣の正面から攻撃をかけると、からめ手の頼之軍もときの声を上げてこれに呼応する。清氏は頼之の陽動策にひっかかったことを悟り、「相変わらず小細工を弄するか、弥九郎!」と叫んで慌しく鎧を身に着けて馬に飛び乗り、砦から出撃した。家臣たちもろくに鎧も着けずにこれに続く。
 白峰山麓では激闘が始まっていた。清氏はただ一騎で戦場を駆け抜け、次々と向かってくる武者を斬り倒していく。「唐土・天竺はいざ知らず、この秋津島に生まれた者でこの清氏に勝る武勇の者がおろうか!同じ細川の武士、物笑いとなるような戦ををするでないぞ!」と清氏は敵をあざ笑いながら頼之軍を翻弄していく。その鬼気迫る姿を、頼之は遠くから無表情に眺めていた。清氏とその家臣らの一隊が戦場を切り回し、頼之軍を翻弄していくなか、頼之は西長尾から頼和らの軍が戻ってくる時間を計算していた。「それまでに、清氏を討たねばならぬ。清氏一人を討てば、この戦は終わりじゃ」と頼之は言い、新開真行に西長尾からの軍を足止めして時間を少しでも稼ぐよう伝えさせる。それを受けて、新開軍は兵を割いて頼和・氏春らの軍にも立ち向かわせる。

 激闘が続き、清氏は馬を休ませるため田のあぜ道で一時馬を止めた。その一瞬を突いて、田の溝に潜んでいた頼之方の雑兵が馬の腹下にもぐりこみ清氏の乗る馬の胸を刀で突いた。清氏は馬を乗り捨ててその雑兵を斬り捨てると、敵の馬を奪おうと太刀を地面に突き立てて辺りを見回す。その様子を見た備中の武士・真壁孫四郎が馬を馳せて襲い掛かって来たが。清氏はこれに逆に走りかかって真壁を馬から引きずり下ろし、羽交い絞めにして真壁の馬に乗りあがろうとする。と、「そこにいる剛の者、細川相模守殿とお見受けした!」と備前の武士・伊賀掃部助が清氏に向かって突進してきた。清氏は「おうっ!」とこれに応じ、真壁の体を投げ捨てて伊賀に立ち向かう。馬が馳せかい、二人の体が組んだ瞬間、清氏は脇差を抜こうとしたが伊賀の動きがわずかに素早く、清氏の腰の部分に短刀を突き立てていた。カッと目を見開く清氏。
 一陣の風が体を吹き抜ける感触と共に、戦場の一角に不思議な沈黙が訪れたことを頼之は感じとった。間もなく「備前の住人・伊賀掃部助、細川相模守を討ち取ったり〜!」と大きな叫び声が上がった。頼之は目を閉じて一瞬天を仰いだ後、周囲の武士に「触れて回れ!細川清氏、討ち死にと!大声で触れ回るのじゃ!」と命じる。清氏の戦死を知った頼之軍はの兵は勢いづき、清氏軍は一気に崩壊してゆく。
 そのころ、西長尾から駆け戻ってきた頼和・氏春らの軍勢は、ようやく新開軍を突破して白峰の戦場へたどりついていた。ところが敗走してくる清氏方の兵から「清氏討死」の報を聞いて愕然とする。さらに進めば、すでに白峰の砦そのものが頼之軍に奪い取られており、頼之軍の旗がたなびいているのが見えた。これを見て讃岐の武士で清氏方についていた者は次々と脱落してしまい、やむなく頼和・氏春たちは淡路へと敗走していった。
 「清氏戦死」の報は西長尾城にもただちに伝わった。小笠原頼清は「これまでですな」と中院具通に言い捨てて阿波へと引き返してしまう。中院具通もこのままここにいては危険と感じて海路で伊予か備後に逃れようとしたが、そこへ小波と勇魚の率いる船団が襲い掛かる。具通は矢を浴び、海に身を投げてしまった。

 白峰の陣では清氏の首実検が行われていた。頼之は変わり果てた姿となった清氏と対面する。頼之の脳裏に、幼い時からの清氏の思い出が駆け抜けてゆく。青春の日の秋月館への早駆け、父・頼春が戦死したときの涙ながらの励まし、頼之が逐電騒動を起こしたときに説得に来たこと、戦場での凄まじいまでの戦いぶり…
 (世の中なにが起こるか分からぬが、我ら三人の絆は変わるまいぞ。さあ、友よ、飲み干そうぞ!)頼之と清氏と貞世が若き日に酒を酌み交わした夜の、清氏の言葉が頼之の脳裏に響いたとき、頼之はついに堰を切ったように泣き崩れた。「これが…宿命なのか…わしたちの…清氏…」頼之は嗚咽しながら清氏の首に語りかけた。

第二十三回「対決(後編)」終(2002年6月29日)


★解説★

世阿弥第三弾世阿弥(以下、「世」)「はい、『対決』後編でございます。前編同様に対談形式をとらせていただきます」
徹夜城(以下、「徹」)「560年の時を越えた対談ですかぁ…一時そういう歴史人物を毎回ゲストに呼ぶ冗談トーク企画「徹夜の部屋」っての考えたこともあるんですけどね。『ムロタイ』のせいで没になってますけど」
世「ここでそれを暴露しないでください(汗)。さて、では今回の内容に入りましょう。冒頭、前回の引きを受けて頼之のお母さんが清氏さんを説得に行きます。前回でも触れてましたが、これって『太平記』に出てくる話なんですね?」
徹「形勢不利の頼之が仕掛けた時間稼ぎの謀略としてね。それによれば頼之は清氏の無実を認めて戦う意思の無いことを示し、幕府に守護職や旧領を安堵させてやるから…と言って和睦をもちかけるんですね。これにほだされた清氏が油断して何度か使者を行き交わせているうちに頼之が宇多津の城を固めちゃってその後は音信不通になっちゃうんです…。面白いけどあまり説得力のある話ではありませんよね。僕はドラマはドラマと割り切ってますけど、案外真相から遠くないんじゃないかとこの件については思ってます」
世「小笠原頼清が讃岐に侵攻してくる、という展開は事実なんでしょうか?」
徹「まず小笠原頼清と思しき“小笠原宮内大輔”という人物が阿波から清氏に味方して駆けつけてきた、という一文が『太平記』にあります。また小笠原美濃守という武将も清氏方で登場し渡海の路を塞いだとあるので、長年頼之に抵抗してきた阿波の小笠原一族がこの機会に頼之打倒のために讃岐に侵攻したというのは事実なんでしょうね。しかしそれってかなり大掛かりな戦略構想が背景にあったんじゃなかろうかと思ったんで、そこに南朝の公家さんを絡めることにしたわけです」
世「中院具通がフィクションキャラだというのは前回でも触れましたが、元ネタはあるとか」
徹「『太平記』はこの戦いの中で西長尾城(香川県満濃町)に籠もる“中院源少将”という人物を登場させています。この人物が何者なのか全く分からないんですが、その名前からも、また文中の頼之と清氏のセリフがこの人物に対して敬語を使っていることからも南朝に仕えた公家・中院氏の一人であることは間違いないと思います。中院氏といえば中院具忠という公家が後村上天皇の妃と駆け落ちしたという事件がありましたし、義詮と清氏が南朝に大攻勢をかけた時に中院氏の何人かが南朝を見限って降伏したといわれています。僕はそんな中で寛成親王の側近として南朝に残った、いささか性格がひねくれた人物としてこの具通を創作したわけでして…彼を登場させることで寛成が立てた大戦略を現実に運ぶことができたわけですね。ああいう最期になっちゃったのは根無し草的フィクションキャラならではの悲劇と言えましょう(笑)」
世「一方で河野氏、飽浦氏といった一族の水軍の動きが頼之さんを追い詰める展開が出てきます。これについては?」
徹「河野通盛が頼之の度重なる援軍要請を無視し続けたのは頼之本人の書状から確認できる史実です。過去の河野氏と細川氏のいきさつを考えれば当たり前の対応なんですが、頼之さん、懲りずに何度も出しているところをみると、かなり切羽詰っていたんだなぁと感じます。飽浦信胤が南朝方に鞍替えして備前との間の海上を封鎖したというのは『太平記』が書いてますね。これは備前人を主力としていた頼之さんにはかなり痛かったようで、頼之の兵が日々減じたと『太平記』は書いてます」
世「備前と言えば山名時氏さんがまた暴れてますねぇ。忘れたころに動くこの人ですが、気がついたら山陰全土を支配する大勢力になっちゃってるんですね」
徹「これも『太平記』の記述ですが、この6月に一斉に各地で大攻勢をかけたようです。備前の武士たちは頼之が讃岐から戻ってくるのをアテにしていたとか書いてありますから、この意味でも頼之は追い詰められていたと言って良いでしょう。なお、チラッと今川貞世が出てきましたが、これも『太平記』が丹波方面の戦いに彼が出陣していたのをチラッと書いていたんで使わせてもらったんです」
世「と、まぁドラマでは『太平記』を信用して頼之さんがかなり追い詰められた状況を描き出しているわけですが、さんざんタネ本にしている人物叢書『細川頼之』の小川氏は頼之さんが敗残の身である清氏さんに対して圧倒的に不利だったとは信じ難いと指摘してますね。もっと有利に戦いを進めたはずだと。『太平記』は話を面白くするためにこの対戦を脚色してるんだという見解なんですが」
徹「まぁ確かに『太平記』のこの対戦の部分は妙に講談調で、全面的には信用できないのは確か。『太平記』以外では日記『愚管記』の「裏書」に「去んぬる七月二十四日、相模守清氏朝臣、讃岐国に於て誅罰 せらると云々…(中略)…同じき一族源頼之の為に誅罰せられ了んぬ」と簡潔にある文ぐらいしか記録が無いんですよね。ま、その辺はドラマ的盛り上げを意図して『太平記』をベースにしつつ、それ以上に複雑な背景を持つ展開にさせていただきました。ちょいとやりすぎた気もするけど(笑)」
世「7月23日、24日の決戦の模様はだいたい『太平記』の展開をなぞってますね」
徹「ええ。これ実際に面白いですからね、ほぼそのまんま使わせていただきました。智将・頼之の陽動作戦にまんまと清氏たちがひっかかる、なおかつ清氏がおなじみのハチャメチャな猛将ぶりを披露する。ドラマでの清氏の奮戦ぶりはまだおとなしいほうでして、『太平記』では清氏は向かってくる敵兵の首を切るんじゃなくて素手でねじ切ったりしてますからね(汗)。『太平記』の作者が明らかに清氏びいきなのはこれまでにも触れてますが、その最期の大奮戦を死にゆく清氏に対するはなむけとばかりに華々しくつづっています。その一方で、『このとき出撃しないで篭城戦をすれば勝つことも出来たろうに、まったくこの武勇バカのおっちょこちょいは』と冷静な批判というよりは愛するが故の嘆き節も見せてますね(笑)」
世「ところで希望していた現地取材はとうとうされなかったので?」
徹「連載開始時にはこの決戦前に行くつもりだったんですけどねぇ…瀬戸内海に行く機会はあったけど香川によってる暇が無くって。現地在住の視聴者の方の報告など欲しいところですね。ちなみに人物叢書『細川頼之』によりますと、清氏戦死の地は坂出市林田町の水田地帯。「三十六」という地名が残っているところがあるそうで、そこには清氏と共に戦死した三十六人の家臣たちが葬られているそうです。ここに「細川将軍戦跡碑」なんてのも建っているそうですから、興味のある方は訪ねてみてね」
世「さて、この『室町太平記』もここでひとまずの区切りですね。事実上の主役ともいえた清氏さんが亡くなり、頼之さんがついに一人立ちということになりますか。結局ここまで来るのにだいたい半分使っちゃいましたねぇ。ほんとに一年50回で終わるんですか?」
徹「その点は僕も不安を感じてます(^^;)。それと清氏がいなくなって一気に顔ぶれが寂しくなりますが、僕としては義満君の成長が楽しみです。彼が後半を引っ張ってくれるでしょ」
世「…頼之さんってどこまでも影の薄い主役ですねぇ…(汗)」
徹「では、後半戦もよろしく!」

制作・著作:MHK・徹夜城