第二十四回
「胎動の時」
 

◆アヴァン・タイトル◆

 康安二年(1362)7月。細川頼之は従兄弟・細川清氏との宿命の決戦をおこない、これを倒した。これにより四国における頼之の優位はゆるがぬものとなり、いくつかの不安定要素を抱えながらも幕府は安定の兆しを見せ始める。そして海の向こうでも新しい時代の主役たちがその頭角を現しつつあった。


◎出 演◎

細川頼之

楠木正儀

朱元璋

李成桂

新開真行 三島三郎

後村上天皇 寛成親王 

春屋妙葩 足利直冬

細川氏春 斯波氏頼 光厳上皇

懐良親王 菊池武光 斯波氏経

勇魚

小波

魏天

大内弘世

斯波高経

哈出 陳友諒 張士誠 

世阿弥(解説担当)

斯波義将(子役) 松浦海賊衆のみなさん
細川家家臣団のみなさん 阿波国住民のみなさん  
ロケ協力:阿波秋月光勝院、赤間関商工会、住吉神社
室町幕府直轄軍第5師団・第6師団
大明国人民解放軍電影部
朝鮮王朝東北方面軍

山名時氏

佐々木道誉

里沢尼


◆本編内容◆

 讃岐平野で細川頼之と細川清氏の決戦が行われていたまさに同じころ、遠く朝鮮半島北部の原野でも重大な決戦が行われていた。元帝国に対し独立の姿勢を示し始めた高麗王朝に対し、元は女真族の納哈出(ナハチュ)に高麗北辺への攻撃を指示、納哈出は至正22年(1362)2月に数万の大軍で高麗の北辺に侵攻、高麗軍を次々と撃破する。
 この危機に対し、高麗王朝は当時めきめきと頭角を現しつつあった弱冠27歳の将軍・李成桂を東北面兵馬使に抜擢し、納哈出に立ち向かわせた。夏7月、李成桂は夜陰に乗じて納哈出軍を奇襲しこれを大いに打ち破る。この戦いにより、李成桂の名は高麗屈指の名将として大いに知られることとなる。

 一方、元帝国はその内部から崩壊しつつあった。南部では紅巾の乱の混乱の中から、明玉珍、陳友諒、張士誠、方国珍といった群雄が現れ、それぞれ独立国を築いて割拠し、次の天下を狙いつつあった。その群雄の中に、応天(南京)を本拠地に置く朱元璋 の名もある。朱元璋は主君と仰いだ郭士興が死んだあと、紅巾党の残存勢力を集めて自立し、経済力のある江南地域に拠点を構え、「不殺」「養民」をスローガンに知識人層も取り込んで次代を狙える本格政権を形作りつつあった。朱元璋の当面の敵は、江州に本拠に長江中流域を支配する陳友諒と、蘇州を中心に経済力豊かな江南デルタを押さえる張士誠の勢力であった。

 日本では依然として各地で合戦が続いていた。清氏が讃岐で敗死したことは南朝首脳に大きなショックを与えたが、後村上天皇寛成親王「まだ淡路の氏春の勢力が残っておる」と自らを励ましていた。しかし清氏の戦死は淡路の武士たちの間にも南朝離れの動きを引き起こし、細川氏春らは自らの守護国・淡路を保つことができずに和泉へ逃げ込まねばならぬ始末であった。こうした南朝勢力の敗退の中でひとり気を吐いていたのは楠木正儀で、8月に摂津の守護・佐々木道誉の家臣である箕浦定俊の軍を撃破して摂津北部まで南朝の支配地域を広げていた。
 九州では幕府から鎮西探題として派遣された斯波氏経が大友・少弐氏と連合して、懐良親王の征西将軍府による九州支配をくつがえそうとはかっていたが、9月に懐良を奉じる菊池武光の軍に長者原の戦いで敗れ、九州における南朝方の優位は依然として揺るがない。
 この9月に、住吉の南朝皇居を一人の僧侶が訪ねていた。見かけこそ旅の僧の姿にしか見えないが、この僧の正体は北朝の光厳上皇 その人であった。一時南朝軍の手により拉致され賀名生に幽閉され解放されて京に戻ったものの、世をはかなんで出家し、粗末な寺で世間を離れて暮らしていたのであった。このたび思い立ってわずかな供を連れて南畿を旅し、その足でこの住吉にも足を運んだのである。かつての仇敵に他ならぬ人物であったが後村上天皇は光厳を昔馴染みの一人の僧侶として迎え入れ、一別以来のことを語らう。「思えば私の一生は激しい時の流れに弄ばれて来たような…世を捨てた今、ようやく心の平安を得ております」と言う光厳に後村上は「うらやましい事でござりますな。わたくしはまだ煩悩を断ち切れませぬ…父の煩悩がわたくしにつきまとっているとも申せますが」と苦笑する。「どうあらがってみても、時の流れというものは人間にはどうにもならぬものと思われます。その時の流れに乗れるか乗れぬかということでござりましょうな…世を捨てるとまたいろいろと見えてくるのでござりますよ」と光厳は言い、「時の流れは、もはや打ち続く戦乱を治めて太平を招こうとしているかと感じられます。新しき世が、間もなく来るのではないでしょうか」と付け加えた。後村上はその言葉を感慨深く受け止めながらも何も言おうとはしなかった。

 幕府では去る7月に執事職に斯波義将が任じられることが決定されていた。義将はまだ13歳の少年であり、執事の職務は実際にはその父であり後見役の斯波高経の手に握られることになった。当初は斯波高経自身が清氏失脚後の執事職就任を将軍義詮から要請されていたが、高経はこれを断り、妥協案として息子の義将を形だけの執事に任じ、実質的に高経が執事の任務を行うという決着を見たのである。これに対し佐々木道誉は高経の子であり自らの婿である斯波氏頼を執事職に就けようと工作していたが、結局失敗に終わり氏頼は出家してしまう。このため幕府内には高経派と道誉派の間で根深い対立が残ることとなってしまった。

 9月23日、北朝は相次ぐ戦乱を忌んで年号を「貞治」と改めた。この年の秋から冬にかけて、山陰の山名時氏が再び動きを活発化させていた。山名軍は丹波方面へ進出して京をうかがう一方で石見の足利直冬と連携をとり、中国管領である細川頼之が讃岐に渡っている隙をついて山陽方面での巻き返しを図っていた。十一月には山名時氏自身が軍を率いて備後へ侵攻し、直冬と合流して備後の府中に入った。直冬と時氏は忽那水軍にはたらきかけて瀬戸内の制海権を得て頼之に対する圧迫をかけようとしていた。
 頼之は従兄弟の清氏を討った後、讃岐および土佐の守護職も義詮から任されて四国全土をその支配下に収める事となった。讃岐の国人達は清氏の戦死と氏春の没落を受けてこぞって頼之の軍門に下り、一時阿波で行動を起こした小笠原一族もこの情勢にやむなく山間に戻っておとなしくするほかは無く、頼之はしばらく讃岐にとどまってその経営に努めることが出来た。
 しかし山名時氏と足利直冬が合流して備後に入ったとなると事態は深刻であり、義詮からも頼之に時機を見て備前に戻るよう指示が送られてきていた。頼之はいま進めている讃岐経営を放り出すわけにもいかず、また伊予の河野氏が相変わらず頼之に対して敵対的態度をとっていたので簡単に備前に渡るわけにはいかぬと悩んでいた。
 頼之は三島三郎だけを連れて清氏の墓をひそかに訪れた。頼之は墓に向かって語りかける。「わしはお前との戦でほとほと戦というものに疲れた…戦ではない他の手でこの天下をしずめる手はないものかのう…」無論、墓は何も答えず、頼之の独り言が聞こえてくるばかりである。そのうち、何か考えがまとまったのか、「そうだな」とつぶやいて頼之は立ち上がった。

 頼之は新開真行ら重臣を呼び寄せて「山名時氏に利をもって語らい、幕府に投降させる」という一計を打ち明ける。新開らは「まさか、そのようなことを本気で」と驚くが、頼之は山名時氏という男が下剋上の典型であり利を第一に動く武将であると説く。このまま直冬をかついでいても先が見えないことは彼自身が承知のはず、と頼之は読んでいた。「山名にその広大な所領を安堵すると約束すれば、時氏は投降を選ぶだろう…むろん、危険きわまりない男だが、強い敵は戦うのではなく味方に引き込むのが一番じゃ」と頼之は言う。すると末席に控えていた勇魚が、いま勢いのある山名が言う事を聞くとは思えぬ、山名軍の背後を突ける有力者を味方につけるのが先だ、との声を上がる。「それは誰のことだ」と頼之が問うと、「周防・長門に威勢を振るう大内介どのでござりますよ」と勇魚。大内介、とは周防の豪族・大内弘世 のことで、もっぱら南朝方について戦いその勢力を広げていた武将である。彼は長門にも進出し港町・赤間関を支配下に収めて高麗との交易に力を入れており、それも彼の力の源となっていた。勇魚はその点からも特に大内氏に投降を呼びかけることを勧めた。頼之は言い出した当人である勇魚および三郎に、頼之の書状を持ち非公式の使者として大内弘世のもとへ向かうよう命じた。この一行には小波も同行する。

 中国管領である頼之の内密の使者を、大内弘世は丁重に迎え入れた。彼もまた内心南朝側について勢力を広げることの限界を感じ、自らの勢力を守るためにも幕府との和睦を考え始めていたのである。「細川右馬頭殿を通して将軍にお伝えいただきたい。この大内、周防と長門の守護職および高麗との交易をお認め下さるならば、幕府のためにお力になりましょう、と」と弘世は条件を申し出た。交易、の一件が入っていたことに三郎が意外という顔をしたのを見て、「頼之殿は外国(とつくに)との交易にはご興味はあられぬかな。富は海の向こうからやってくるものですぞ」と弘世は笑う。懐良親王の九州南朝勢力も博多を握って海外交易の利益を得る一方で、高麗や元沿岸の町村を襲って略奪とも言える荒稼ぎをする海賊集団ともつながっているようだと弘世は語り、「我が大内家の祖先は多々羅(たたら)と申し、はるかいにしえにかの百済国から製鉄の技術を持ってこの国に渡ってきた者。我らは祖先の地に対して荒っぽい真似をする気は起こりませんな」とも付け加えた。
 交易の話に興味を持った三郎、勇魚、小波たちは赤間関へも立ち寄ってみた。多くの船が集い、見たことも無い異国の物産が運ばれ、理解不能の言語がたまに聞こえるその賑わいぶりに彼らは目を見張る。彼らが見物を終えて自分たちの船に戻ったところ、大勢の男たちが船を取り囲んで大騒ぎしている。彼らは松浦の海賊たちで、何事かと聞けば、彼らの運んできた「積み荷」である「唐人」が一人逃げ出し、勇魚たちの船に逃げ込んだのだと言う。勇魚と小波は海賊衆たちをとどめて自分たちだけで船に入り、その「唐人」を船底の方で探し出した。それは小刀を振り回して抵抗するその「唐人」は小波とさして年の変わらぬ15、6歳の少年だった。言葉は通じないが、小波はなんとか彼を説得し、身の安全を保証して投降させる。海賊衆たちの話ではさきごろ元の沿岸に攻め込んだ松浦の海賊たちがさらってきた少年で、読み書きなどもできるらしいことからどこぞの大名などに売り込もうと運んできたのだと言う。「蒙古襲来の時のお返しよ」と笑う海賊たちだったが、小波はその少年の身の上を不憫に感じ、三郎に「なんとか救ってやれぬか」と頼む。三郎はあまり乗り気ではなかったが、小波が懇願する上、勇魚が「大内殿にお預けするというのはどうか」と言い出したので、結局三郎が仲介して大内氏がこの少年を買い取ることとなった。
 別れ際に、少年は小波に自分につけられていた荷札を手渡す。言葉は通じないが、「そこに我が名が書かれている」と言っているらしかった。その荷札の文字を小波も読めず三郎に読んでもらう。そこには「魏天」の二文字が書かれていた。

 翌貞治二年(1363)2月、頼之は久々に阿波・秋月に戻っていた。父・頼春の十一回忌を期してその菩提を弔うために秋月に「光勝院」という寺を創建し、都から夢窓疎石の甥である高僧・春屋妙を招いて落慶供養を行ったのである。当時阿波は昨年来の飢饉もあったため、頼之は春屋とともに貧民への施しなどの事業も行う。
 供養の儀式も終わり、桜の花が散り行くなか春の日差しが降り注ぐ光勝院の中を歩きながら、頼之は母・里沢尼と二人きりで語り合う。「大殿が亡くなられてはや十年を過ぎたか…さきには清氏どのも亡くなり…この世とは、まこと無常なものよのう」と里沢尼は感慨深そうに言う。「母上が昔おっしゃっておられた…生きていくというのは辛いことだが、生きていくしかないのだと…今さらながら胸に突き刺さります」と頼之。「父上も、清氏も、なぜ無残に死なねばならなかったのか、わたくしはそれをずっと考えております。そのようなことがもはや起こらぬようにすること、この天下を穏やかにすることこそ、生き残った者のつとめではないかと、そう近頃思うのです…」と頼之は桜の花を見ながら母に語るのだった。
 この翌月、大内弘世は長門・周防の支配権を幕府が完全に認めることを条件に幕府に投降した。これを聞いた頼之は京へ使者を送り、将軍・義詮に山名氏にも同様の投降工作を呼びかけるよう建策した。
 

 この年の七月、中国大陸でも歴史を決する一戦が行われていた。朱元璋と陳友諒の両雄が長江中流域にあるハ陽湖(「ハ」は「番」+「おおざと」) で激突したのである。陳友諒は数百艘の巨艦に六十万の兵士を乗せた大艦隊を湖上に繰り出し、朱元璋軍を苦しめる。これに対し朱元璋は漁船を集めてそこに枯れ草と火薬を積み、風を見計らってこれらの「火船」を陳友諒の艦隊に突入させた。たちまち火の海になる陳友諒艦隊。これにより形勢は逆転し、数日後の戦闘で陳友諒自身が流れ矢に当たって即死したため、陳軍は一気に崩壊してしまう。この勝利により、朱元璋は群雄の中でもひときわ抜きん出た存在となるのである。
 

第二十四回「胎動の時」終(2002年7月1日)


★解説★

世阿弥第三弾 さてさて、毎度おなじみ解説担当の世阿弥でございます。実は今回になってようやく私が実際に生きた時代に入ってくるのでございますね。わたしの生年は一応貞治二年ってことになっておりまして、ハイ。
 この「ムロタイ」も今回から後半戦。前回で清氏さんが亡くなり、出演リストも上の方がかなーり寂しくなってしまっておりますね。それを埋め合わせようと、今回はいろいろと新しい動きが出てまいります。それも日本だけでなく東アジア全体のスケールで。

 歴史の本をひもといてバラバラにしますと(古典落語で聞いたギャグ…昔の本はひも綴じでしたので) 、いわゆる歴史に名を残す英雄たちがまるで示し合わせたように相次いで出現してくるときがあります。このあたりの時代を見ていると、それが国際的スケールで展開されていて楽しくなっちゃうんですよね。もちろんただの偶然…というよりは後世の人が歴史を見るときに勝手に結びつけて考えちゃうってことなのでしょうけど(このドラマの作者も含めて) 。と分かった上でもこうして並べてみると朱元璋さん、李成桂さん、頼之さん義満さんらがホントに示し合わせているように見えてくるから面白い。うーん、この面子の中では頼之さんはちょいと知名度負けしてますな。「日本史用語集」みたら頼之さんを載せている日本史教科書は1冊しかないとか!貞世さんは11冊に載ってるのに…あらら、変な話になっちゃいましたね(笑)。ちなみにわたくし世阿弥は義満さまとタイで19冊の教科書に載ってますよ〜(←しつこい)。

 李成桂さんと朱元璋さんの話はもうよくある解説書のダイジェストそのまんまなんで、これ以上解説することはありません。ただ一言、今回のラストに出てきた「ハ陽湖の戦い」については補足しておきましょうかね。これは中国史マニアも間では割と有名な一戦でして、有名な理由はほかならぬ「三国志演義の赤壁の戦いにソックリ!」という点なのです。じゃあ朱元璋さんは「三国志演義」の周瑜のマネをしたんかいな、というとそうでもないようで。むしろ話は逆で、「三国志演義」の完成は明初期、つまりこの後のことでございまして、この「ハ陽湖の戦い」が小説「三国志演義」における赤壁大戦のヒントになったのでは、との見解もあるんです。
 「こんな大掛かりな戦闘シーン挿入したら予算が大変じゃないか!」とお思いの方もおられましょうが、ご心配なく。中国中央電子台で作った大河ドラマ「三国演義」の赤壁大戦の映像を使いまわせばいいんです。どうせあの時代考証は適当ですし(笑)。
 「室町太平記」なのに中国史趣味から唐突にこんなの引っ張ってくるなよな〜とお思いの方もいらっしゃいましょうが、ふっふっふ、ちゃーんとこの戦いがつながってくるんですよ、日本のドラマに。それは朱元璋さんの方ではなく陳友諒側につながりがあったりします。まぁ今は分かる人だけ分かってください。

 さて今回は海外も国内もパノラマ的に各方面の動向を描いております。
 まず南朝関係から。実は後村上天皇直筆の書簡ってのがありまして、この中で後村上天皇は清氏の死を「無念」と記す一方で「しかしその子息兄弟、淡路守護氏春は無事であるから、大勢に変化はあるまい」との内容が書かれているそうです。子息、というのは阿波にいる正氏さんのことなんでしょうね。しかしこの希望的観測はすぐに氏春さんが淡路から和泉へ追い落とされたこと(『太平記』はそう記している)ではかない夢と消えます。しかもこのあと氏春さん、すぐに幕府に投降して淡路守護に復帰してるんですよね。
 8月に楠木正儀さんが摂津で佐々木軍相手に勝利した一戦は『太平記』が記していまして、本来は清氏さんと連動して再び京を奪取する作戦だった…ということになっています。もっともこのドラマでもそうしてますが、作者はあまりその見解を信用していません。正儀さんの戦いって基本的に自分の勢力圏を守るに重点が置かれてますし、どうもこの時点で佐々木道誉さんと和平へ向けて接触していた可能性があるからです。
 九州では相変わらず懐良親王と菊池氏が圧倒的優勢を保っています。今回いきなり登場した斯波氏経さんってのは斯波高経さんのご子息の一人でして、九州鎮圧のために鎮西(九州)探題として派遣された人物。しかしこの役職って前任者の一色範氏さんもそうでしたが懐良親王の征西府の勢いにかなわず代々辛酸を舐めるんですよね。この状態を打開するのが…そう、今川貞世(了俊)さんになるのでありますね。ま、それはもうちょっと先の話。
 出家した光厳上皇が南朝皇居を訪ねて後村上天皇と語り合うエピソードは『太平記』がその終幕近くに挿入している名場面。この光厳上皇の旅行脚を通してこれまでの争乱の展開を総まとめするという役割も持っています。『太平記』は後村上天皇が吉野にいたことにしてるんですが、どうもこのときは住吉にいたらしいのでドラマでは変更しております。二人の会話も『太平記』を参考にしつつ大幅に創作したものです。この翌々年、光厳上皇は丹波の寺でひっそりと亡くなっております。ご本人が何かしたってわけでもないけど、波乱に富んだ天皇人生ではありました。後醍醐天皇と同時代に生まれたのが運の尽きだったでしょうか(笑)。

 一方、幕府では細川清氏政権の崩壊を受けて、斯波義将少年を首班とする組閣人事が行われております。本文中にもありますが本来は斯波高経さんがなるべきなんですけど、高経自身は執事職に就かずに後見人として陰の実力者となる形になります。これについてはいろいろと解釈があるようですが、一つには斯波氏というのが鎌倉期までは「足利」姓を名乗る足利庶流の中でも最高ランクの家柄であったことが背景にあるようです。このときやはり候補に上がった高経さんのご子息・氏頼さん(道誉の婿で義将の異母兄)などは「執事職は足利の家来筋である高・上杉などがなるべきで、足利一門の当家から出しては家名に傷がつく」 と言ったとか伝えられております。また高経さんは新田義貞を偶然とはいえ討ち取ったしまった人なんですが、その際義貞が持っていた「鬼切・鬼丸」という源氏累代の名刀を手に入れて、その引渡しを要求する尊氏さまに「火事で焼けた」といって渡さなかったという話が伝えられたりしています。とにかくともすれば将軍家とタメを張るぐらいプライドの高い家柄であったわけです。
 裏返せば、頼みにしていた清氏さんを自らの手で反逆・滅亡に追いやった形の義詮さまとしては、一門中でも最高ランクの斯波家から執事を出してもらうことで幕府の安定を図ったとみる見解もあります。そのへんのせめぎ合いの結果が、この少年執事+後見人体制の斯波政権成立ということであったようですね。なお、ここで登場した義将さんはこの後の室町幕府政界における最重要人物の一人となり、細川頼之さんとも深い因縁を持つことになります。

 山名軍と直冬さんの動きに応じる形で、頼之さんが大内弘世さんに投降を呼びかける展開が出てきますが、ほとんどフィクションです。実際には大内さんに投降を持ちかけたのは斯波氏経さんだったんじゃないかとの話なんですが、「頼之が工作した」という説も無いわけではないので、ここではそっちを採らせていただいています。大内氏が百済人の子孫を称していたのは有名な話ですが、これはいずれ弘世さんの息子・義弘さんの時に大きなキーワードとして再浮上することになると思います。
 さてその大内氏の支配する赤間関で「魏天」という少年が登場いたしました。大半の方はご存じないと思いますが、知ってる方には「そう来たか〜!」ってなところなんでございますよ(意味深笑)。ちゃーんと実在した人なんだな、これが。1420年の段階で「七十を過ぎていた」とありますんで、ここでこの年頃の少年として登場していただきました。この人の今後の波乱万丈の人生につきましては現時点ではネタばらしはいたしますまい。

 貞治二年の2月20日、頼春さんの十回忌に秋月に頼之さんが光勝院という寺を建てたのはもちろん史実(現在この寺は秋月ではなく鳴門市萩原に移転しているとか)。落慶供養に春屋妙さんを呼んで、貧民救済事業を行ったというのも記録に残る話です。この春屋妙さんってのは頼之さんも尊敬したあの夢窓疎石さん(第一回に出てましたねぇ)の甥御さんでして、当時を代表する実力者禅僧として日本史教科書5冊がその名を載せています(←またそれか)。掲載教科書数では頼之さんを大きく上回ったこの人ですが、後に頼之さんと激しく対立することになっちゃったりするんだよなぁ…。
 寺の境内の桜の中で母子が語り合うシーン、絵になるのは確かだけど旧暦2月20日はちときついのでは?との意見もござりましょうが、この年は閏一月がございまして、まぁちょうどいいころだったんじゃないかと思ったわけでして。

制作・著作:MHK・徹夜城